human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

0日目:駅と渦と梅 2017.02.28

足袋は靴ずれ、ヨハネスブルグ

 × × ×

 京都駅ビル大階段の途中の展望エリアから眺めるロータリは、人も車も動いてはいるが、ジオラマのようにその中が空っぽに見える。いや、ジオラマの一つひとつの要素にも中身はある。空っぽなのはぼくの頭の中か、それとも目の中か。

 海が見え、橋が見え、これから渡る島が見えてくる。海が目に飛び込んでくる瞬間はいつも新鮮で、それは海よりも山の方に親しみがあるからだと思う。静まりかえるバスの車内に、ぼくの心も静けさで満たされる。これから始まる旅の大きさを想像できない。躊躇も少し残っている。きっかけを待っていて、それはどちらに転んでもいいという思いが頭をかすめる。そんなはずはない、と否定してため息をつく。

 大橋の下で潮がぶつかってできる大小の渦を眺めつつ、うどんをすする。すぐ前に漆喰の柱があって、首を少し不自然に曲げないと見えないにもかかわらず、執拗に渦を見つめる。見つめすぎて海が煮え、渦のすきまから泡がぽこぽこと浮かんでくる。穴子の天ぷらはうまいが、あの渦はどうだ。ずっと回り続けてきりがない。潮の干満によって成長し衰退するというが、いくら見続けてもわかりゃしない。そんなことに意味があるのか。意味はない。もちろん。

「渦の道」は寒く、風がひっきりなしに真横から殴りかかってくる。不自然な巨大構造物の下に作られた不自然な展望回廊では不自然に強い風が吹き荒れ、足下は不自然に透けている。そりゃあ渦も不自然に見えるってもんだ。自然さという点でいえば、テレビで見た方がまだましだ。そのようにしてわずかに維持された自然さに、もはや何の意味もないにしても。

 バスと電車を乗り継いで1番の寺に到着し、門の外からちょっと覗くだけで通りすぎる。スタートは明日で、今日は前日入りなのだ。一本歯を履き始めるのは寺か旅館かと悩みつつ、神社へ向かう旅館までの道を歩く。広い梅園があって寄り道をする。枝がちょうど背の高さくらいに張り出していて、花に近づいて匂いをかぐ。鼻をぴとりと花にくっつける。桜の花みたいだと言ったら気を悪くするだろうか。梅は桜に比べて鷹揚ではなさそうだし。日が暮れてきたので先を急ぐ。

 夕食は広い食堂に客はぼく一人で、テレビニュースを見ながらゆっくりと食べる。刺身やらなんやら。天気予報には四国の島と、別枠で東京の明日の予報が表示される。いかにも欄外という感じで、特別にピックアップされた一地方のようだ。知りたい人もまあいないとも限らないしね、というような。テレビの音がよりいっそう際立たせるくらい静かなこの徳島の食堂から東京までは、じっさいの距離以上に遠いんだなと思った。四国とはそういうところらしい。

 一人と思ったら隣室にも客がいて、鼻と口のヂュオによるいびきが滞りなく奏でられている。静けさを期待していたのに、初日からこれだもの、やれやれ。でも当然ではあるが、宿は選べても隣の客は選べない。それは都会でも地方でも同じ。出発前は不眠症ぎみで、最初くらいはぐっすり寝たかったのにとぐずぐず考え、騒音の匿名性とその許容量の相関についてひととおり考察し、むりやり頭を納得させる。それでも身体は騒音に納得することなんてどうでもよいらしく、頭の切なる願いもむなしく、眠りは枕の上までやってこない。眠りの匿名的な到着を待ち続け、夜は更ける。

 × × ×

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1日目(前):形而上的重み、初お接待、正確な言葉 - human in book bouquet

ボルダリングとアフォーダンスと「必然的な動き」

長いですが最初に引用します。

武道的な考え方が西洋近代とうまく噛み合わないのは、武道では人間の身体は「力の通り道」だと考えるからです。巨大な自然のエネルギーが、調えられた身体を通って発動する。エネルギーは自分から出るわけではありません。源は外部にある。それが自分の中を通過する。水道管と同じです。巨大な水流を通そうとしたら、その水圧に耐えられるだけの、分厚い、抵抗の少ない水道管を用意しなければならない。薄手の管では、水圧に耐えられずに壊れてしまう。また管の表面が滑かでなければ、水流が滞留してしまう。ですから、野生の巨大なエネルギーを身体に通そうと思うなら、それを通しても傷つかないように身体を調えることが必要になります。武道修行の要諦はそこにあります。それは必ずしも自分の運動能力を高めるという表現では尽くせない。筋力を強めるとか、動体視力を高めるとか、反射速度を上げるとか、闘争心を持つとか、そういうことでは尽くせない。本来の武道修行とは、野生の巨大なエネルギーが通過しても傷つかないように心身を調えることにあります。人間の外部にある力を、人間の身体を通して発動し、それを制御する。その技術のことだと思います。
能楽と武道 (内田樹の研究室)
太字は引用者

内田樹氏のブログや著書から武道に興味を持って、実際にはやらないまでも、氏のいう武道的な思考をあちこちに応用できないかと考えてきたし、考えています。
歩き方の研究*1や一本歯を履き始めたこと、それで四国遍路に出たことも、氏の武道に関する論理的な文章に端を発しています。
四国遍路へ出る準備期間だけ通っていたプールでも、古式泳法を調べたりクロールや平泳ぎとそれを融合してみたりしましたが、水泳については手応えのあるところまでたどり着けませんでした*2

そのような志向が僕の中に通底していて、ウチダ氏の曰く「いつもの話」を読んでいると、ボルダリングのことが思い浮かびました。


筋肉の少ない女性や子どもでも90°以上の壁(オーバーハングといいます)ひょいひょいと登れるのはパワーに頼るのではなく、全身を使う、壁のホールドの状況に合わせて効率良く身体を使う方法を知っているからです(体の軽さもある程度の利にはなっていますが)。
筋肉があると身体の使い方を知らなくてもパワーだけで登れてしまって上達が頭打ちになる傾向は男性の方が多いのでしょう。
前の記事で「オーバーハングエリアは筋肉がついてから」と書きましたが、これをあまり言葉として頭に留めておくのもいけなくて、筋肉とは「身体の理にかなった登り方を邪魔しない(アシストする)筋肉」であるという注釈を忘れてはいけません。

理にかなった登り方とは、最近ボルダリングの本を読み始めた知識からいえば、壁の傾斜やホールドの配置に合わせて指や腕の力だけでなく肩や背中も使う、体幹(胴体)をねじる力や足を振る遠心力も利用する、等々。
そういう身体の使い方は日常生活で身につくものではなく、ボルダリングを行うにあたって技という形で身につけていく。
技は見よう見まねの他に、知識として頭で理解してから実際の動きに移して体得していく場合もあるが、実際に登っている時は手足の動きのいちいちを考えて繰り出すよりは、目先にあるホールドに対して自然に手が出て足がのびるのが理想だ*3
自然な動きとは、ホールドの配置に対して身体が覚えている効率のよい動きが思考を介さずに発揮されること、という意味で書きましたが、これは自分が登り方を選ぶのではなくホールドの配置という周囲環境が登り手(の身体)をして登り方を選ばせるアフォーダンス的現象*4として考えた方がしっくりきます。


と、以上が前段で、ここから引用した内容に繫げるべく書いてみます。

引用部を読んだ時にボルダリングを連想して、「武道的な登り方はできるだろうか、それより前に武道的な登り方とはなんだろうか」と思ったのでした。
筋肉を鍛えるのではなく、という部分がまず共通していて、「源は外部にある」という表現からアフォーダンスを連想して、そしてしかし、その源とは「人間の外部にある力」、「野生の巨大なエネルギー」である。
アフォーダンスとは力ではなく、という言い方も妙ですが、舟を浮かべて流れに乗る川のような物理的な力が働く場を想定しているのではなく、むしろそういう力が働くわけではないが「周囲環境が動作主体にある志向を生み出す」という話なのです。
だから力をここで持ち出せば比喩になってしまって、でも…

いや、こういう展開を望んでいたのではなかった。

地謡の地鳴りをするような謡が始まってくると、その波動がシテの身体にたしかに触れてくる。囃子方が囃子で激しく煽ってくると、そのリズムにこちらの身体が反応する。ワキ方が謡い出すと今度はワキ方に吸い寄せられる。そういう無数のシグナルが舞台上にひしめいています。三間四方の舞台であるにもかかわらず、立ち位置によって気圧が変わり、空気の密度が変わり、粘り気が変わり、風向きが変わる。
ですから、舞台上でシテがすることは、その無数シグナルが行き交う空間に立って、自分がいるべきところに、いるべき時に立ち、なすべきことをなすということに尽くされるわけです。自分の意思で動くのではありません。もちろん、決められた道順を歩んで、決められた位置で、決められた動作をするのですけれども、それは中立的な、何もない空間で決められた振り付け通りに動いているのではなく、その時、そこにいて、その動作をする以外に選択肢がありえないという必然的な動きでなければならない。刻一刻と変容していく能舞台の環境の中で、シテに要求されている動線、要求されている所作、要求されている謡の節が何であるかを適切に感知できれば、極端な話、シテは何も考えなくても能が成立する。そういうつくりになっているんじゃないかなということが始めて10年くらいの時にぼんやりわかってきました。
それまでは、どうしても近代演劇からの連想で、能も一種の「自己表現」だと思っていました。まず頭の中で道順を考える。角へ行って、角取りをして、左に回って、足かけて・・・・と頭の中で次の自分の動きの下絵を描きながら、それをトレースしていった。でも、そういうふうに動きを「先取り」するのを止めました。ある場所に行ったら、「決められた動作」ではなく、そこで「したい」動作をする。そこで「したい」動作が何であるかは、文脈によって決まっているはずなんです。この位置で、こちらを向いて、こう足をかけたら、これ以外の動作はないという必然性のある動作があるはずなんです。だから、それをする。謡にしても、これからこうなって・・・というふうにあらかじめ次の謡の詞章を頭の中に思い浮かべて、それを読み上げるような謡い方をしない。こう謡ったら,次はどうしてもこう続かないと謡にならない。そういう音の流れがあるはずなんです。
同上

また長い引用ですが*5、これは先の引用より前の、ウチダ氏が能の稽古を積む中で舞台上で何が起こっているかについて考察されている部分です。

下線部を読んで、これだと、まず思ったのでした。

壁を登る時に、「こう登る以外に選択肢がありえない」ような登り方があって、それは上に書いたようなアフォーダンスの要請があるにしろ、その「必然的な動き」は身体にとって快く、心地が良い。
(そうか、アフォーダンスは周囲環境が主体だから動作主体の内側への言及ができなくて、それで上では行き詰まったのか)
その心地良さは、身体のつくりに適ったものであり、樹上で生活していた頃の先祖の身体記憶を呼びさますものでもある。
(スケールが一気にとてつもなく広がりましたが…)

もちろん、技として、例えば腕をセーブするためとか胴体のひねりをうまく使うとか、一つの状況でも複数の選択肢はあり得ます。
数多くある技のどれが自然かとか、サル的かとか、そういうことはわからないし、たぶんそれは初級者だからわからないということでもない。
だから「必然」ということばは便宜的なものでもありますが、実際に登る場面ではそういう感覚は大事で、筋肉疲労やすり傷の痛さとは別のレンジで、感度を上げ耳をそば立て、身体の心地良さという一つの(かもしれない)必然に導かれるように登っていく


初級者の段階からたいそうな目標を掲げてしまいましたが(その道のりがものすごく遠いことはわかります)、そんな風に登れれば、さぞかし楽しかろうと思います。
外の岩(これをボルダーと呼び、このボルダーを登ることがボルダリングという名前の発祥らしいです)を登る楽しさを室内の人工壁と比べると「室内プールで泳ぐのと、外洋でイルカと戯れるくらいに違う」のだと本には書いてありましたが、そういうものだろうし、僕が上に書いた内容も実際のところはとてもありふれたことなのだと思います。
 

*1:西洋歩きからナンバ歩き的な歩行法へ自己流で変えました。その内容は本ブログ内で「和歩」と呼んでいくらか文章化しています。整理はしておらず、散漫に書き散らしていますが。

*2:岩手でも引き続き泳げればと思って探しましたが、市営プールは夏の間だけで、近くに通えそうなプール付きフィットネスクラブもないようです。水泳バッグはボルダリングバッグに転用しています。典型的な紐で吊るすサンドバッグタイプで、濡れた水着を分けて入れられるバッグ底の収納部にクライミングシューズとチョークバッグがギリギリ入りました。両者ともチョークで粉っぽくなるので、水泳バッグのセパレート収納が上手く活かせます。

*3:「スポーツとしての理想」とはまた違うのかもしれません。

*4:例えば、地上の歩道を歩いていて、地下鉄の入口に向かって下り階段に差しかかると、階段の一段目の手前で歩幅が自然とそれまでより小さくなる。この状況を、自分が歩幅を狭くしようと意識したのではなく、下り階段の始まりという環境が歩幅を狭くさせた、と考えるのがアフォーダンスで、前者の場合もあるにはあるが(考え事をしていて階段の直前でハッと気付くとか)、後者の場合が日常的であり「自然」である。

*5:引用元がウェブ媒体なのでつい調子に乗って長く引用してしまうのですが、本文は講演の書き起こしなのでむちゃくちゃ長いです。が、とても面白いので(僕なんか何度も似た文章を読みましたが毎回驚きがあります)ぜひ一度通読されることをお勧めします。

受講許可出ました

ジムへ行ってから外食し、帰宅すると、封筒が届いていました。

真っ暗な玄関前の郵便受けから出すと、封筒に切手がぺたぺた貼られているのがかすかに見え、なんとなく見覚えがあるようなと思いながら家の中に入って明かりの下で確認すると、自分で宛名を書いたものでした。
つまりは司書講習の申し込み書類に添付した返信用封筒が返ってきたということで、「なぜ今?」と訝りつつも気がはやって荷物そっちのけで開封すると、受講許可証が入っていました。

ということで、講習を受けることができるらしく、まずはよかった。
受講が決まる前から見切り発車で引っ越してきたので、「落っこちて目的喪失」という羽目には陥らずに済みました*1

しかし結果通知は応募締め切り(6月末)の2週間後だと思ってたんですが、今届いたということは、どうやら個人ごとに応募後2週間で選考がなされる仕組みのようです。
それは言い換えれば「最低限の基準を満たせば先着順」なのではと思うのですが、まあ大学受験とは違うし、複数の司書講習に申し込んでいくつも通れば第一志望以外は蹴るという人もいるようだし、そういうものなのでしょう。


許可証のほかにはテキスト購入申し込み用紙と、事前準備のある講義についての説明書きが入っていました。
要するに宿題だなと構えて読むと、それほど負担の大きい内容ではなく、それぞれの講義が始まる数日前に手を付ければ十分間に合う。
またテキストの購入は開講日のオリエンテーション後で、ということは前々から入手して読んでおけというわけではない。

というわけで、開講日までは引き続きマイペースに過ごせそうです。
と言いつつ、近所の花巻図書館(ほんとに近所で、徒歩1分以内)では毎週本とCDを借りていて、本は100%趣味チョイス*2ですが、そろそろ図書館関係の本も借りてみようと思います。

しかし朝から夕方まで同じ課目の講義ぶっ続けが週六日なんて、大丈夫でしょうか。
どういうテンションになるかが全く想像できませんが、今までの経験上とりあえずどこでも放り込まれればそれなりに適応できるはずなので余計な心配は無用です。
不安要素はモチベーションよりは身体の方にあって、首が固まらないように休憩時間ごとのケアを怠らないのがよいでしょう。
一日中家で読書する時も、首のリフレッシュのために逆立ちを一日に7,8回やるくらいなので。


そういえば左手首が治ってもまだ逆立ちは「拳立て」で、この一日10回近くという高頻度でやるのは花巻に来てからのことでちょうど1ヶ月になりますが、拳の床に当たる部分、手の甲側に出っ張る指の付け根の関節骨を覆う皮膚が固くなって割れ目ができて、その割れ目がおおきくなって中で露出していた皮膚にも新しく皮がついて水に染みなくなりました。
関節骨の皮膚が赤黒く変色していた(進行形ですが)ので大丈夫かなと思ってたんですが、まあ大丈夫のようです。
手の甲の皮膚は摩擦や圧力にさらされることが普段使いではないというだけのことです。
首にもよいし、体幹を鍛えることはボルダリングにもよいので、逆立ちの習慣は継続します。
 

*1:京都を出る前に会った人や会えなかった人に近況ハガキを出そうと思ってたんですが、これでやっと大手を振って「勉学に励んでいます」と書いて出せます。宮沢賢治記念館で買ったケンジ画の絵はがきの出番です。

*2:図書館には村上春樹の翻訳ものが良く揃っていて、困るというのは目移りするからですが、こればかりに偏るのもアレなので半々くらいにしようかな。今は『熊を放つ』(ジョン・アーヴィング)を読んでいます。…そういえば昨日外国文学の棚を見た時に川上弘美がエッセイに「バラード、だいすき」というタイトルでとても魅力的に書いていたJ.D.バラードの小説も数冊ありました(『結晶世界』はなかった。なんとなく『宝石の国』(市川春子)と相性良さそうなので最初に読みたかったんですが)。フィリップ・マーロウもので未読が数冊あったし、ああ大変。

身体が喜ぶ、身体に驚く

少し前からですが、ボルダリングを始めました。

2回北上のジムに行ってみて、日常的にやれそうだったので月フリーパスを購入しました。
週3で通うペースで、昨日で4回目です。

3回目の時にシューズを買いました。
ライミングシューズは履くと指が曲がるほど窮屈で、それでもきついほど足のホールド感覚が良くなるので履き心地はシビアで、店で試し履きしてから買いました。
服装はスポーツするなりでよく、手の滑り止め用のチョークはわりとなんでもいいので(外の岩を登るなら向き不向きがあるようですが)粉とバッグをネットで注文して今朝届き、これで道具が揃いました。

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写真手前の「魅せる、透け力」というのは100YenShopで購入したストッキングで、これでチョークボールを作ります。
専用のものもありますが、要は中に粉を入れて握れば粉がもふっと出てくるような網袋がチョークボールなので、「これでも十分いけます」というジムの主人のコメントにのっかりました。
さっき作ってみましたが、ストッキングのさきっちょを切って粉を入れて口を結んで、それっぽいものになりました。
握ってみてどういう「もふもふ感」かは、次にジムに行く時のお楽しみ。
…大事なのは感触より粉の出方ですが。

 × × ×

壁があったら登りたい」とは僕が小さい頃の素直な心持ちで、実家の前の坂を登ってすぐの溝がアミダ状に掘られた壁とか、小学校の運動場のフェンスとか、駐車場のフェンスとか、オートロック式玄関のマンションの敷地の壁とか(おっと)、登らざるを得ない壁から登る必要のない壁、登ることを求められていない壁まで、「大人*1」になるまでにいろんな所をよじ上ってきました。
そういうわけで僕にとってボルダリングの楽しさは改めて理由を問う必要はありませんが、純粋な、というより原始的な(「サル的な」でもいいですが)楽しさとは別に、スポーツとしての楽しみもあります。

後者をさらに勝手に区分けすると、そのうち競技的要素は(今のところは)あまり興味はなくて、もうひとつの「身体を使ったパズル」という要素がとても魅力的であることを、数回ジムに通って体感しました。
壁にホールドが並ぶコースを見てどう登るかをイメージすることはまだ全然できません(何度も登ったコースを、時間をおいて改めて見ると登り方を覚えていないくらい)。
自分が登ろうとしているコースを他の人が実際に登っているのを見ると「そう登ればよいのか」と納得したり、「何でそんな動きができるのか。シンジラレナイ」と驚いたりします。
他人の身体の動きを見るだけで自分も動いているように感じるのはミラーニューロンが活性化しているからだと言われますが、後者の、自分ができそうもない他人の壁面動作を見た場合は、シナプスがほとんど繫がっていないのではと思います。
でもそのシンジラレナイ動きを真似してみて、一度目で、あるいは何度か挑戦して失敗して他のコースに行ってしばらくして戻ってきて再トライすると、ひょっこりとできたりする。
その成功の瞬間「やった!」と思うのはクイズで正解を当てた時のうれしさと同じで頭の一部がそう思うのであって、頭の別の一部、身体との関わりが密な部分では、やっぱりまだ「シンジラレナイ」と思っている
こうして身体感覚が先行して拡張されていき、同じ動きを何度かするうちに頭がその拡張に納得するというのかフォローしていく。

北上のジムのコースは7級から始まり、7級(ピンク)は手がつかむホールドだけ指定で足はどれを使ってもよく、6級(白)からは足をのせるホールドも指定で、6級、5級(黄)、…とだんだん難しくなっていく。
また、ジムの壁はいくつかのエリアに分かれていて、エリア毎に傾斜が異なり、傾斜がきついエリアでは手だけでぶら下がるのも当然みたいなコースばかりとなる。
ただ傾斜がきつくても足使いは重要らしく、懸垂のような動作でホールドをつかみに行く時にもどこに足を掛けているか、あるいは足や胴体をどう振るかで腕へ負荷や動きが断然変わってくるらしい(伝聞)。
僕は腕も指もひ弱なので、最初は傾斜が緩いエリアのコースを中心にやっていき「力」が(これは文字通り筋力が)ついてくれば傾斜がきついコースにも手を出そうと考えています。
等級と壁の傾斜に相関はあまりなくて、腕より足を頼って登る僕は、緩傾斜エリアの5級コースができても急傾斜エリアの6級コースができなかったりします。

緩傾斜エリアで1つだけクリアできそうな4級(オレンジ)コースがあって、このコースはろくに手(というか指)に体重をかけられないまま大股で小さいホールドにのり移る箇所があって、ここが昨日できるようになったんですが、これがまさに上に書いたような「やった!」が「シンジラレナイ」状態なのです。
どういえばいいのか、頭では納得できんけれど身体は勝手にこなしちゃう、身体ってスゲエなと思い知らされ中、というのか。


もちろんこれ、これはこれで楽しいんですけど、一つ前の記事に書いた「生活読書」、頭と身体を共に活性化させる生活とも通じる気がします。

人は(もっと広く「生物は」ですが)変化して生きていくもので、意識しないでも身体は(成長なり老化なりバイオリズムなり)変わっていきますが、意識したくないのが頭で変わらないことを志向していく頭の見つめる先は身体と逆で(「昨日の私は今日の私は同じ」という、これはこれで意識の「自然」な傾向です)、そのために意識が不変に傾き過ぎると身体に不調をもたらすわけで、不変に拘る意識に時々は喝を入れるつまり意識の目を身体の変化に向けさせる必要があって、そういう場合に意識が喜ぶのは身体の変化に「驚きと興味」を発見できる時

 × × ×

昨日はちょっと限界を超えてやってしまったのか、今朝は起きる勢いが不足し続けて(一度宅急便が来た時に無理やり起きましたが…岩手の午前配達は大体が早朝なのです)トータルで半日近く寝てしまいました。
起きてしばらくは指がふわふわして手を握り込めない感じでしたが、しばらくすると炊事に支障ないくらいには戻りました(でも重い食器を洗ってると取り落としそう…)。
そういえば昨日は手足にすり傷がたくさんできたんですが、それらの多くがいつできたとも知れないもので、それだけ集中していたこともあり、こういう「傷は男の勲章」みたいな時間は少年時代以来だとも思ったり。

無理せずに、ボルダリングを生活の一部として続けていこうと思います。
ジムに行った翌朝もふつうに動けるようになって、講習*2が始まっても今と同じように通えればいいんですが…あでも予習復習とかいるんですかね。

大学生の頃よりはマジメに勉強するはずですが、さて。
 
 

*1:大学生はまあ、モラトリアムですから。院生然り。

*2:司書講習を受けられるかどうかは7月に入って2週間後に決まります。

この書を持ちて、その町を捨てよ/「生活読書」

cheechoff.hatenadiary.jp


前↑の記事で寺山修司がひょっこり出てきたのは、橋本治の小論集『夏日』を同時に読んでいたからです。
下に引用した小論の初出は93年、『新・書を捨てよ、町へ出よう』のたぶん解説文です。
この本は文庫で持っていたんですが(たしかリボルバ拳銃の表紙だった)、読まずに古い方と一緒に前の家へ置いてきてしまいました。
惜しいことをした。

 しかしでも、本物の詩人は、その理性する頭脳もまた肉体の一部である、としか思わないものである。頭脳とは、言葉を発する”心”という田園に向けて苗を送り込む苗代でしかないからだ。
 心は肉体の中にあって、肉体は心によって動かされている。頭脳とは、所詮その一切を見守る、肉体の監視塔でしかないのだ。
 心という田園が豊かに栄えた時、人はそれに対応するものとして、己が肉体の充実を実感する。「生きる」というのはそのようなことで、それを愛でなければ、人間は意味の上で餓死してしまう

 美しいものに感応して、その感応というベクトルに乗ってしまえば人間は詩人で、詩人というものは、その瞬間から「美しい」と思われた対象よりも更に美しい詩を作ってしまう。(…)
 美しいものを美しく崇めた人間は、その瞬間、崇められるものよりも美しくなる。詩のパラドックスを成り立たせるものは、それを「パラドックスだ」と言う理性ではなく、そんなことに気がつかないでいる肉体だ。
 だから肉体は詩で、肉体がある限り詩は生まれ、詩がある限り、肉体は物語を生む。(…)
 寺山修司は、肉体を排斥する理性の産物である書を「捨てよ」と言った。そして、肉体が肉体のままで存在しうる場である筈の町へ「出よう」と言った。そう言った瞬間、そこには「それを言う書」があった。そして町は、「それを言わない書」に侵された人間達で一杯になっていた。だから今ここで言う──「この書を持ちて、その町を捨てよ」と

「この書を持ちて、その町を捨てよ──寺山修司論」(橋本治『夏日』)

「頭脳とは、…苗代でしかない」。
あの、トラクターに積み込む、密にふさふさしてるけど平たいやつですね、苗代って。
余ったやつが田んぼの端っこにぎゅうぎゅうに植えてあったりする。
この比喩はいいですね、しっくりきます。
今の僕だと、苗代はゴーヤの種の発芽を促す(元は「さばみりん」の)トレイです。
発芽だけが目的なら土よりトレイの方が可能性が高い。
水と熱だけで発芽まではもっていけて、でもたぶんそこから成長し続けることはできない。

土は、身体は、どこで必要になるか。

発想は生まれた瞬間は頭脳が完全に優位でも、それを豊かにしていく(自分のものにする、身につける)ためには身体が前に出てこないといけない。
教訓は生み出すだけなら、寝そべって本を読んでいてもできる。
けれど教訓が真に教訓としてその人の中で機能するためには、その人は本を脇にのけて身を起こさねばならない。

でも、本は手放すのではない。

「この書を持ちて」…これは本にかかりきりになることを言っているのではない。
脇に置く、机の手の届くところに並べる、車に乗せる鞄の中に入れる。
身体が賦活した状態を、田んぼが耕された状態を保ちながら、そばには常に本がある。

本とそういう風に関わっていきたいです。
…司書志望者として言うなら、そういう本との関わり方を身につけて、人に提示できればいい。
脳と身体をともに活性化するような本との関係。
それは読書生活ではなく、「生活読書」。

夏日―小論集

夏日―小論集

トレイ出奔第一陣、働きダネの原理

プロジェクトの経過。
タグを作ったので前はタグから参照下さい。

6/11にトレイ栽培を始めて3,4日で、発根というのか、種から白い根が顔を出し始めました。
これは6/15時点で、生きがよさそうなのをトレイの右側に集めています。
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土に蒔いた方は表面から見る限り音沙汰なく、トレイ分より育ちが早いとも思えないのでとりあえず掘り返して回収しました。
1つだけ見つけられなかったので8つ。
やはり種たちはみんな固い沈黙に閉じこもっている。
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それから5日後の今日のトレイの様子。
1枚目と左右逆に撮ってしまったので写真を引っくり返していますが、トレイの右側だけでなく左側からも1つ発芽しています。
生育スピードは一つひとつがフェーズごとに違うのでしょうが、どうも「働きアリの原理」がはたらいているのではと思っています。
回りが怠けてばかりいると「よし、ここらでひと働きするか」と頑張るのが出てくる。
もしそういう気分の空気のようなものが種の間にもはたらくのなら、育ちに応じて並べ替える意味もありませんね。
そうか、並べ替えるのはもともと見やすいからというだけですね。
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発芽した右の1つと左の1つを土に植えることしました。
残った7つに、土から一度回収した8つを加えて引き続きトレイ栽培を続けます。
家の回りにこれら全部を植えるスペースはなさそうですが、発芽率というものがあるので多めに育てます。
右側に継続栽培のものを、育ちのいいものを右端に固めて並べました。
ちょっと密度が高い気がしますが。
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土の方は数日前から肥料やら何やらを混ぜて耕して水をやっていました。
化成肥料が2ミリくらいの粒状で、少しずつ土中に溶けていくものなので本当はもっと前からまいておくべきでしたが、種の成長が早かったので仕方がない。
発芽した種まきが早過ぎたとしたら、第二陣以降に頑張ってもらうとしましょう。
今日植えた2つは、玄関横のちょっとした菜園スペースとリビング奥の窓の下にこしらえたグリーンカーテン用土に1つずつとしました。
そういえば用土の方は数日前の肥料より1週間くらい前に油かすをすきこんだり腐葉土を混ぜたりしていて、その時にはいなかった小さいアリを見かけたりもしたので、土作りはまあまあ進んでいるようです。
とはいえもともとの菜園スペースである玄関の土の方がいろいろ豊富な感じがするので、2つの種の育ちには差が出てくるでしょう(2つのうちより元気な方は玄関横に植えました)。

暖かくなって日差しも勢いを増しています。
ゴーヤには育ち盛りの季節です。

『未明の闘争』(保坂和志)を読んだ

 ホッシーが言うように人は前世と同じ人生を生きるのだとして、それは一回きりでなく、何回も同じ人生を繰り返す。宿命とはそのことを言ったかどうかわからないが、宿命の一番正しい言葉の意味はそういうことに決まってる。
(…)
(…)アキちゃんは今度は難しい顔をして、ゆっくり右手を上げてまた降ろしている。
「言ってもわかんないだろうけど、全然言わなかったら絶対わかんないから言うんだけど、」と、アキちゃんは右手の上げ下げをしながらしゃべり出した。「人生っていうのは、完全に同じ人生が何回も何回も繰り返されてて、今が何回目かなんて全然わかんないけど、このあとも何回も何回も繰り返されるんだよ。」
(…)
俺がこうやって手を上げるってことは、いま上げてるだけじゃなくて、この人生の前の何十回分でもあるし、この人生のあとの何十回分でもあるんだけど、本当は何千回とか何億回かもしれないんだ。」アキちゃんは本当だと思った。

保坂和志『未明の闘争』

運命は予め決まっているが「決まっている」ことと「わかっている」ことは違う、ことになるほどと思い、引用下線部を読んで思わず自分の本を持ってない右手を見つめてしまったのだけど、この動き、動いてない動きも含めた動きがただ今だけあるのではなく、今以外のいつと具体的に考えると目眩はするがそれこそ「一万光年分」の途方もないだだっ広い時間軸それ自体の実感云々はおいてもある時間幅において「厚み」があると感じられて頼りなさやよるべなさが減じる思いがする。
一番初期のスーパーファミコンマリオカートでタイムトライアルをやる時に自分の過去ベストの走りを再現した半透明の自分と一緒に走るゴースト機能を連想して、過去ベストではなく今の走りそのものの半透明の自分が何人も一緒に走っているようなものかと今考えて、その意味はおいといてそれならとても実感しやすいと思う。テレビ画面の中のマリオをコントローラで指で動かした経験に基づく実感だ。

上の下線部の感覚で下の引用下線部を読んで想像するととても不思議な気分になる。今にいながら「今とは別の今」に首を突っ込んでいながら、その「別の今」は今とは無関係でなく今がより濃密になったように感じる。お互いが相手と相手でない何かを経由して会話していて、それによって(反応に時間差が起きて)距離が遠くなるようでいて(より相手の懐に入り込めるように思えて)距離が近くもなる。

というか、俺たちはこうして生きていていろいろ具体的なことを知るわけだけだが、本当にこれを知りたいと思って知ったわけじゃなくて、向こうが勝手に「これはこういうことだ」と俺たちに具体的な姿をあらわすから俺たちは知っただけだ。知るということはこっちからそこに迫っていって知るわけじゃなくて、向こうからこっちに転がり込んでくる。視覚とか聴覚なんてのはそんなもんだ。だから自分から何かを知りたいと思ったとき、もうそれは本来のこの生を外れ出ている。
「いやっ、ホントにそうなんだよ。」と、アキちゃんは小林ひかるの後ろに連綿とつづく小林ひかるを説得できなければ、ここにいる小林ひかるは説得できないと思っているようだった。「恐怖っていう感情っつうか、あれは感情じゃなくて、生の根源みたいなもんなんだけどよお、恐怖っていうのはそのことなんだよ。
 ひかるはよお、聞きたかったことが親父さんから聞きそびれるかもしれないってことを怖れてるんじゃなくて、親父さんがいなくなっても親父さんに向きつづける意志を自覚したことを今は怖いと思ってるんだ。今は、な。でも、人の意志っていうのの本質はそれなんだって、わかるよ。それは自分が死んでも閉じない。

同上

この本の中で一箇所だけ「たたかい」とひらがなで出てくる所でタイトルに関係あるのかと、そういう緊張でその箇所周辺を読んだ記憶だけあって場面の記憶は全くないが、「未明」とは「意識(言葉)以前」ということだと思う。そして「闘争」とは、「意識(言葉)以前が意識(言葉)になろうとすることに抗する『たたかい』」だと思う(この「たたかい」は上の「たたかい」とは関係ない、ことはわかる)。この闘争の結末は、寺山修司が見届けたかもしれない。


未明の闘争

未明の闘争

夜半の闘争

 掛け布団だけでいけるかと寝入った朝に冷えてきて毛布に似た布団を重ねてかぶって二度寝したその日の昼に外で自転車をこいでいると暑くて上がスポーツ生地のタンクトップ1枚になるなんて寒暖の差が大きいにもほどがある。
 その日外から帰って来ると車のフロントガラスのワイパーに紙が挟まっていて、どうも駐車位置が違うことを知らせてくれているらしいが細かいことのような気がして分かったふりをしながらブスっとして家に入ってしばらくしたらチャイムが鳴って、出ると隣家のおじいさんだった。
おばあさんとは引っ越してきた次の日くらいから何度も顔を合わせていたけれどおじいさんとは初めてで、どうやら件の駐車の紙について教えにきてくれたようで二人で駐車場まで出て行くとさっさと本題は済んでいろいろと話を聞く。
 雪は当たり前に降るが豪雪というほどでもなく、昔に比べると量も減ってきているが(温暖化現象でねえ、とは言わなかったが言いたそうな、いやそう言ったような顔をしていた)15センチくらいで除雪車も来ないだろうねえ。じゃあ雪かきなんかも必要ないですか?
 ダンキンドーナツ村上春樹の初期の小説によく出てくるが、今読んでいる『未明の闘争』(保坂和志)の早速謎めいた出だしのところ(高橋源一郎がどこかの書評記事で取り上げていた「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」という出だしで、篠島は幽霊で自分が死んだことに気付かないほど粗忽な幽霊だと私はは言うがその私はも実は幽霊で自分でそのことに気付いてなくてひょっこり出てきたような唐突さがある。ちなみにこの私ははその後も忘れた頃にぴょこぴょこと現れる)にも出てきた気がして(ミスタードーナツでなかったのは確かだ)、今朝読んだアメリカのウェブ新聞(インサイダー何々という紙名が不穏だ)にドーナツ食べ比べの記事がありサムネイルにおいしそうなかじり跡のついたドーナツが4つ並んでいてついついクリックして読んでしまい、ドーナツ専門店3つとスタバの計4店でglazed donuts(シロップか何かで表面につやがあるのを慣用的にglazedと呼ぶらしいが原義に照らすと体に悪そうだが特に太ったアメリカ人は喜びそうだ)の食べ比べをした結果最下位がダンキンドーナツで「大きさ以外に何ら特筆すべき要素はない」「鮮度が早く落ちるので買った日より後に食べるのはどうもよくない」など酷い言われようだったが(鮮度の劣化にそう大きな違いがあるとも思えないが、敢えてダンキンドーナツに対してだけ言及した理由が何かあるのだろうか)、村上春樹の小説は初期に限らず料理や食事がとても魅力的に描写されているがダンキンドーナツを食べる場面がそれらと対比的に味気なく描かれたという記憶はなくて、むしろドーナツもサンドイッチやパスタといった他の手料理と同じ種類の魅力を持っていた気がするのだけれど、そうだとしたらそれは村上春樹の食事描写の魅力はその場面、登場人物がいる場所やその時の気持ちや誰と一緒にいるかといった場面にとても相性の良い料理にあるのではないかという仮説を支持してくれると思う。ダンキンドーナツそのものは他のドーナツより魅力がなくて味気なくて鮮度が落ちるかもしれないが、他のドーナツよりもダンキンドーナツを美味しく食べられる状況というものがある。ちなみにその状況に現在の日本のどこかが当てはまる可能性はゼロである、ということをダンキンドーナツが89年に日本から撤退したことをネットで調べて知ったから知っている。
 おじいさんはこの貸家(つまり僕の隣家の貸家)に30年以上住んでいて、今年この近くに土地を買ったから来年にはそっちに引っ越すかもしれない。ここから少し離れて息子夫婦が家族で住んでいて、孫が朝幼稚園か小学校かに行く前におじいさんの家に寄って行く。僕は引っ越してきた週の末の朝に隣で子どもの声を聞いたので親子で住んでいると認識したけれど、数日経って顔を合わせたおばあさんはお母さんというよりはおばあさんだし、夜の8時に帰宅した時に隣家は真っ暗で物音一つしないことも不思議だったけれど不思議が不思議のまま立ち消えたのは大して関心がなかったからで、でも実際住んでいるのはおじいさんとおばあさんの夫婦二人だけだと知ると不思議が戻ってきてそして納得と一緒に一瞬で消える。
 駐車の細かいこととは結局奥行きのある駐車スペースで手前に停めるか奥に停めるかという話で、他人と他人の契約のことなので実際の融通より決まりを守った方がよいという話で、それ以上でも以下でもないのでわかりましたと言う以外にない。

手書きの感触/大学へ書類を出す

司書講習に必要な書類は昨日まとめて、今日大学へ提出しに行ってきました。

メモ帳に打ち込んでいた文章も昨日申請用の作文用紙に写したんですが、書き写すだけでも頭は別の回り方をするようで、意外なところで手が止まったり*1、途中で(これから写す部分に)納得いかなくなって段落の半分をごっそり書き換えたりしました。おかげで冗長な内容を省けました*2

大学へは自転車で行きました。
行きは寄り道していたので国道4号から大学へ向かいましたが、帰りは通学経路になる道を確認がてら走り、10分前後というところでした。
不動産屋で「この家から大学まで自転車で通えますよね」と聞いたら驚いた顔をされたんですが、全く無理のない道のりでした。
距離に関係なく、この辺りでは自転車で通学とか通勤という発想がないのだと思います。
今日も大学近くまで行ってやっと自転車に乗っている学生を見かけましたが、普段は自転車を滅多に見かけません。
主要道の歩道が自転車数台並列走行しても余裕のあるくらい幅広いのは別に自転車を慮っているわけではなく、それは「サイクリングロード」とわざわざ銘打たれた道の舗装状態がそれほど良好ではないことからもわかります。
もちろん道が広く人が少ないうえに空もすかっとしていて、自転車で走るにはとても気持ちいい。

申請書類を大学の窓口に出す時に、書類によって担当が異なるとかで教務課と総務課を行ったり来たりしたんですが、そのたびに窓口の人が一緒についてきてくれたのでちょっと話ができました。
それとなく応募人数のことを聞いてみたんですが、どうも今年はあまり多くないようで(「今年に限って」なのか「例年通り」なのかは判然としませんでした)、最終的に募集の定員に満たない見込みというニュアンスにも聞こえました。
前にネットで司書課程について情報収集をした時は「(就職口の少なさはもちろん)講座を受けるまでのハードルも高い」という印象を受けたんですが、都市部の大学と地方大学とでは状況が違うのかもしれません。
あるいは実学志向という昨今のトレンドから外れていて、全体的に応募が少ないとも考えられます。

いずれにせよ、選考漏れの可能性について、多少は楽観的に構えていてよさそうです。
「落ちたらボルダリングのプロでも目指すか」と冗談半分で考えていたんですが、残念ですね。
2020年のオリンピック種目に入ったとかで、「熱い」らしいですよ。
東京オリンピックにはけっこう興味がありませんが、ボルダリングの中継なら見てもいいかな、と今思いました。
 

*1:意識の「識」の字を書く時にぱたりと手が止まって、なんでだろう、漢字を忘れるはずはないのにと思いつついちおう字を確認すると、この字の中に「音」があることに違和感があったのでした。ブログを書いていて高頻度で使う字で違和感もなにもないはずなんですが、表意文字ならではの、手で一画ずつ書いて行く間に一字の中にいくつもある「まとまり」が書く人にある印象を与えるのだと思います。今書いた違和感というのは、たぶん「普段自分が意識してる"意識"に"音"ってあんまり関係してないような」というようなものです。音はむしろ無意識の方に作用するはずで、あそうか、無意識は意識を含んでいますね。

*2:冗長というか余計というか、「書店より図書館が好きです」なんて中学生みたいなことを書いていました。やはり文章の「塩抜き」は必須ですね。