human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

この書を持ちて、その町を捨てよ/「生活読書」

cheechoff.hatenadiary.jp


前↑の記事で寺山修司がひょっこり出てきたのは、橋本治の小論集『夏日』を同時に読んでいたからです。
下に引用した小論の初出は93年、『新・書を捨てよ、町へ出よう』のたぶん解説文です。
この本は文庫で持っていたんですが(たしかリボルバ拳銃の表紙だった)、読まずに古い方と一緒に前の家へ置いてきてしまいました。
惜しいことをした。

 しかしでも、本物の詩人は、その理性する頭脳もまた肉体の一部である、としか思わないものである。頭脳とは、言葉を発する”心”という田園に向けて苗を送り込む苗代でしかないからだ。
 心は肉体の中にあって、肉体は心によって動かされている。頭脳とは、所詮その一切を見守る、肉体の監視塔でしかないのだ。
 心という田園が豊かに栄えた時、人はそれに対応するものとして、己が肉体の充実を実感する。「生きる」というのはそのようなことで、それを愛でなければ、人間は意味の上で餓死してしまう

 美しいものに感応して、その感応というベクトルに乗ってしまえば人間は詩人で、詩人というものは、その瞬間から「美しい」と思われた対象よりも更に美しい詩を作ってしまう。(…)
 美しいものを美しく崇めた人間は、その瞬間、崇められるものよりも美しくなる。詩のパラドックスを成り立たせるものは、それを「パラドックスだ」と言う理性ではなく、そんなことに気がつかないでいる肉体だ。
 だから肉体は詩で、肉体がある限り詩は生まれ、詩がある限り、肉体は物語を生む。(…)
 寺山修司は、肉体を排斥する理性の産物である書を「捨てよ」と言った。そして、肉体が肉体のままで存在しうる場である筈の町へ「出よう」と言った。そう言った瞬間、そこには「それを言う書」があった。そして町は、「それを言わない書」に侵された人間達で一杯になっていた。だから今ここで言う──「この書を持ちて、その町を捨てよ」と

「この書を持ちて、その町を捨てよ──寺山修司論」(橋本治『夏日』)

「頭脳とは、…苗代でしかない」。
あの、トラクターに積み込む、密にふさふさしてるけど平たいやつですね、苗代って。
余ったやつが田んぼの端っこにぎゅうぎゅうに植えてあったりする。
この比喩はいいですね、しっくりきます。
今の僕だと、苗代はゴーヤの種の発芽を促す(元は「さばみりん」の)トレイです。
発芽だけが目的なら土よりトレイの方が可能性が高い。
水と熱だけで発芽まではもっていけて、でもたぶんそこから成長し続けることはできない。

土は、身体は、どこで必要になるか。

発想は生まれた瞬間は頭脳が完全に優位でも、それを豊かにしていく(自分のものにする、身につける)ためには身体が前に出てこないといけない。
教訓は生み出すだけなら、寝そべって本を読んでいてもできる。
けれど教訓が真に教訓としてその人の中で機能するためには、その人は本を脇にのけて身を起こさねばならない。

でも、本は手放すのではない。

「この書を持ちて」…これは本にかかりきりになることを言っているのではない。
脇に置く、机の手の届くところに並べる、車に乗せる鞄の中に入れる。
身体が賦活した状態を、田んぼが耕された状態を保ちながら、そばには常に本がある。

本とそういう風に関わっていきたいです。
…司書志望者として言うなら、そういう本との関わり方を身につけて、人に提示できればいい。
脳と身体をともに活性化するような本との関係。
それは読書生活ではなく、「生活読書」。

夏日―小論集

夏日―小論集