human in book bouquet

司書資格を活かせる仕事を探していきます。

1日目(前):形而上的重み、初お接待、正確な言葉

「ねえ、ジギー」と僕は声をかけた。
「俺たちに欠けているものは細部(ディテイル)なんだ」と彼は言った。*1

 × × ×

門を入れば小さな橋で渡る池があり、鐘があり、宝物庫があり、堂が2つある。堂にはそれぞれ寺の本尊と弘法大師が祀られている。手と口と目を清め、鐘をつき、勤めをする。むにゃむにゃ真言などを唱える。恩在るは米露原発、またとなく間に合わずして、死んだまま腹這いにて進む。むにゃむにゃ。賽銭は今後のことを考えて、麻紐に通した五円の束を丸ごと放り込む。ごとごと、ごとりと重みのある音は賽銭箱がうめいているように聞こえる。市場主義社会の縁にはこのように物質的な重みがある。あるいはそれはもう時代遅れで、形而上的な重みが円の縁たるゆえんであるのかもしれない。次いでお札を納める。願い書きは「身体賦活」。願いが遍路を歩くことに直結していて単純明快である。行く手に点在する寺で、願った分だけ叶っていく、ように歩くべし。

門の内側に置かれたベンチで一本歯を履く。そして歩き始め、旅が始まる。気負いがあって始めはぎこちないが、だんだんと一歩が確かなものになっていく。下駄が愚直に伝えるアスファルトの硬さも、ゆっくりとした歩調も、歩みを積み重ねていくなかで必然性をまとっていく。

2番の寺に入る道が細い畦道になっている。「雨が降ると歩きにくくなります」という看板は水を吸い込むとどろどろになりそうな土の地肌のことを指しているようだ。それはそれで結構。今は晴れているし。だがそれとはべつに道が左に傾いている。畦道をはさむ田んぼに段差があるためで、下駄でまっすぐ歩くと力学的必然から体が横に倒れてしまう。仕方がないのでカニ歩きをする。歩みはさらに、そして一気に遅くなる。じれったくなってカニ歩きの改良を試みる。横向きに出す足の歩幅を大きくして足をクロスさせる。クロスステップ。バスケ部のウォーミングアップのようだ。だがクロスする足は前後を入れ替えない。「足長カニ歩き」といったところか。

懐かしい墨汁の匂いに全身をすっぽりと包まれる。しゅるり、しゅるりと有機的な勢いで紙の上をすべる筆先を、一心に見つめる。納経所の女性は筆をおき、帳面と寺の本尊が古風なイラストで描かれた紙を渡してくれる。
さらにもう一枚、紙をとり出す。
「今日の宿はもう決められましたか?」
「ええ、6番の宿坊に泊まろうかと」
「宣伝というわけではないんですが、ここの宿は送迎をやっていて、その日に歩き終えた場所まで車で来てくれて、翌日はまた同じ場所に送ってくれるんですよ」
送迎と聞けば手抜きのようだが、なるほどそれなら「歩き遍路」の理に悖っていない。こんな便利なものがあるのか。野宿するための準備をもたずに歩けるのも、こういう宿があるおかげだろうか。

昼食を買うために、地図にあるスーパーに寄る。店まで来ると、スーパーというより個人商店である。レジの横には石油ストーブとその周りに椅子が並び、おばあさん達がくつろぎながら喋っている。早口でいて力みのない声が、ストーブの上でやかんがふきだす湯気に吸い込まれていく。
「すみません、おにぎりみたいなもの、ありませんか」
「お寿司ならあるけどねえ、そこに。おいしいよ」
「はあ。歩きながら食べたいんですが」
「あらあら、お遍路さんね。あらまあ、下駄履いてるの。それで歩くの、歩きにくくないの。あらそう、まあちょっと休憩していきなさい。お茶かコーヒーか、どっちがいい?」
その場の流れでお茶を頂くことにする。お接待とはこのことか、しかしなんとも自然だ。見知らぬ他人に親切にすることが彼女らの日常生活に含まれていて、赤の他人であるぼくも、無理なくそこに溶け込んでいる。座布団がのった椅子に腰を下ろし、両手で湯呑みを受け取る。熱いので吹いて冷ましていると、商品の棚をすりぬけて猫がのそのそと歩み寄ってくる。体をこすりつけながら足もとをくるくる回り、下駄に前足をのせてきたので手で誘ったら、膝に飛び乗ってくる。なんの根拠もないが雌に違いない。背中の毛を空いた手でなでる。生き物の温かみに触れるのは久しぶりのような気がする。
「あら、お寿司ここで食べて行かないの。じゃあ袋もってくるわね」
ずっとここにいられそうな心地良さだったが、お茶を飲み終えて早々に立ち上がる。
「気をつけてね」
常套句に余りある響きを、その言葉に感じとる。

店を出てふたたび歩き始めると、うしろから声をかけられる。さっき僕が店の椅子に落ち着いてから入ってきたおばさんだった。
「私の家も遍路道と同じ方向にあるんです。この先少し行って曲がるところがあって、お遍路さんそれに気付かずによく通り過ぎちゃうんですよ」
二人で並んで歩きながら、世間話になる。もちろん「歩き遍路的世間話」だ。どこから来たのか、四国は始めてか、等々。ぼくの場合は下駄が珍しいから、おおかたの場合まずはその話になる。「なぜ下駄を履いているのか?」と。理由は、というかこうなったいきさつはあるにはあるが、初対面の人に手短かに伝える説明を用意しておらず、もごもごしてしまう。あるいは軽い調子で「趣味が高じて」などと言って、あとで後悔したりする。おばさんも京都にいたことがあって、昔ヤセに住んでいたらしい。八瀬遊園の八瀬だろうか。高1の夏休みに、なにかの課題をやんちゃにこなすべく大阪市から自転車で、東大寺などに寄りつつ八瀬遊園までクラスメイトと3人で行ったことがあった。帰りに大雨に降られ、タクシー会社の敷地内(洗車ができる車庫だったろうか)で雨宿りさせてもらったのを覚えている。「昔は京都も静かだったけれどねえ」。あの八瀬なら、今も静かであることにそれほど変わりはないだろうと思う。

自分のことについて人に伝える場合は、正確な言葉を使わねばならない。面倒だからと適当にごまかすと、そのごまかしの言葉は時に実際的な力をもつ。目の前にいる人の頭の中に「ごまかしの言葉からなるぼく」が生まれ、彼はぼくにゆさぶりをかけてくる。君は「ぼく」みたいなぼくじゃないのか、この人はそう思ってるぞ、と。だからぼくはその人の目を見て喋ることができない。その人の目に映る「ぼく」は、どうしたってぼくであるはずはないのだが、ぼくの言葉が軽いほど、その人の目はぼくを動揺させる。

とはいえ、後悔も動揺も、すぐに忘れてしまうのだけど。

(続く)

*1:『熊を放つ』(ジョン・アーヴィング