human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

夜半の闘争

 掛け布団だけでいけるかと寝入った朝に冷えてきて毛布に似た布団を重ねてかぶって二度寝したその日の昼に外で自転車をこいでいると暑くて上がスポーツ生地のタンクトップ1枚になるなんて寒暖の差が大きいにもほどがある。
 その日外から帰って来ると車のフロントガラスのワイパーに紙が挟まっていて、どうも駐車位置が違うことを知らせてくれているらしいが細かいことのような気がして分かったふりをしながらブスっとして家に入ってしばらくしたらチャイムが鳴って、出ると隣家のおじいさんだった。
おばあさんとは引っ越してきた次の日くらいから何度も顔を合わせていたけれどおじいさんとは初めてで、どうやら件の駐車の紙について教えにきてくれたようで二人で駐車場まで出て行くとさっさと本題は済んでいろいろと話を聞く。
 雪は当たり前に降るが豪雪というほどでもなく、昔に比べると量も減ってきているが(温暖化現象でねえ、とは言わなかったが言いたそうな、いやそう言ったような顔をしていた)15センチくらいで除雪車も来ないだろうねえ。じゃあ雪かきなんかも必要ないですか?
 ダンキンドーナツ村上春樹の初期の小説によく出てくるが、今読んでいる『未明の闘争』(保坂和志)の早速謎めいた出だしのところ(高橋源一郎がどこかの書評記事で取り上げていた「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」という出だしで、篠島は幽霊で自分が死んだことに気付かないほど粗忽な幽霊だと私はは言うがその私はも実は幽霊で自分でそのことに気付いてなくてひょっこり出てきたような唐突さがある。ちなみにこの私ははその後も忘れた頃にぴょこぴょこと現れる)にも出てきた気がして(ミスタードーナツでなかったのは確かだ)、今朝読んだアメリカのウェブ新聞(インサイダー何々という紙名が不穏だ)にドーナツ食べ比べの記事がありサムネイルにおいしそうなかじり跡のついたドーナツが4つ並んでいてついついクリックして読んでしまい、ドーナツ専門店3つとスタバの計4店でglazed donuts(シロップか何かで表面につやがあるのを慣用的にglazedと呼ぶらしいが原義に照らすと体に悪そうだが特に太ったアメリカ人は喜びそうだ)の食べ比べをした結果最下位がダンキンドーナツで「大きさ以外に何ら特筆すべき要素はない」「鮮度が早く落ちるので買った日より後に食べるのはどうもよくない」など酷い言われようだったが(鮮度の劣化にそう大きな違いがあるとも思えないが、敢えてダンキンドーナツに対してだけ言及した理由が何かあるのだろうか)、村上春樹の小説は初期に限らず料理や食事がとても魅力的に描写されているがダンキンドーナツを食べる場面がそれらと対比的に味気なく描かれたという記憶はなくて、むしろドーナツもサンドイッチやパスタといった他の手料理と同じ種類の魅力を持っていた気がするのだけれど、そうだとしたらそれは村上春樹の食事描写の魅力はその場面、登場人物がいる場所やその時の気持ちや誰と一緒にいるかといった場面にとても相性の良い料理にあるのではないかという仮説を支持してくれると思う。ダンキンドーナツそのものは他のドーナツより魅力がなくて味気なくて鮮度が落ちるかもしれないが、他のドーナツよりもダンキンドーナツを美味しく食べられる状況というものがある。ちなみにその状況に現在の日本のどこかが当てはまる可能性はゼロである、ということをダンキンドーナツが89年に日本から撤退したことをネットで調べて知ったから知っている。
 おじいさんはこの貸家(つまり僕の隣家の貸家)に30年以上住んでいて、今年この近くに土地を買ったから来年にはそっちに引っ越すかもしれない。ここから少し離れて息子夫婦が家族で住んでいて、孫が朝幼稚園か小学校かに行く前におじいさんの家に寄って行く。僕は引っ越してきた週の末の朝に隣で子どもの声を聞いたので親子で住んでいると認識したけれど、数日経って顔を合わせたおばあさんはお母さんというよりはおばあさんだし、夜の8時に帰宅した時に隣家は真っ暗で物音一つしないことも不思議だったけれど不思議が不思議のまま立ち消えたのは大して関心がなかったからで、でも実際住んでいるのはおじいさんとおばあさんの夫婦二人だけだと知ると不思議が戻ってきてそして納得と一緒に一瞬で消える。
 駐車の細かいこととは結局奥行きのある駐車スペースで手前に停めるか奥に停めるかという話で、他人と他人の契約のことなので実際の融通より決まりを守った方がよいという話で、それ以上でも以下でもないのでわかりましたと言う以外にない。