human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

身体が喜ぶ、身体に驚く

少し前からですが、ボルダリングを始めました。

2回北上のジムに行ってみて、日常的にやれそうだったので月フリーパスを購入しました。
週3で通うペースで、昨日で4回目です。

3回目の時にシューズを買いました。
ライミングシューズは履くと指が曲がるほど窮屈で、それでもきついほど足のホールド感覚が良くなるので履き心地はシビアで、店で試し履きしてから買いました。
服装はスポーツするなりでよく、手の滑り止め用のチョークはわりとなんでもいいので(外の岩を登るなら向き不向きがあるようですが)粉とバッグをネットで注文して今朝届き、これで道具が揃いました。

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写真手前の「魅せる、透け力」というのは100YenShopで購入したストッキングで、これでチョークボールを作ります。
専用のものもありますが、要は中に粉を入れて握れば粉がもふっと出てくるような網袋がチョークボールなので、「これでも十分いけます」というジムの主人のコメントにのっかりました。
さっき作ってみましたが、ストッキングのさきっちょを切って粉を入れて口を結んで、それっぽいものになりました。
握ってみてどういう「もふもふ感」かは、次にジムに行く時のお楽しみ。
…大事なのは感触より粉の出方ですが。

 × × ×

壁があったら登りたい」とは僕が小さい頃の素直な心持ちで、実家の前の坂を登ってすぐの溝がアミダ状に掘られた壁とか、小学校の運動場のフェンスとか、駐車場のフェンスとか、オートロック式玄関のマンションの敷地の壁とか(おっと)、登らざるを得ない壁から登る必要のない壁、登ることを求められていない壁まで、「大人*1」になるまでにいろんな所をよじ上ってきました。
そういうわけで僕にとってボルダリングの楽しさは改めて理由を問う必要はありませんが、純粋な、というより原始的な(「サル的な」でもいいですが)楽しさとは別に、スポーツとしての楽しみもあります。

後者をさらに勝手に区分けすると、そのうち競技的要素は(今のところは)あまり興味はなくて、もうひとつの「身体を使ったパズル」という要素がとても魅力的であることを、数回ジムに通って体感しました。
壁にホールドが並ぶコースを見てどう登るかをイメージすることはまだ全然できません(何度も登ったコースを、時間をおいて改めて見ると登り方を覚えていないくらい)。
自分が登ろうとしているコースを他の人が実際に登っているのを見ると「そう登ればよいのか」と納得したり、「何でそんな動きができるのか。シンジラレナイ」と驚いたりします。
他人の身体の動きを見るだけで自分も動いているように感じるのはミラーニューロンが活性化しているからだと言われますが、後者の、自分ができそうもない他人の壁面動作を見た場合は、シナプスがほとんど繫がっていないのではと思います。
でもそのシンジラレナイ動きを真似してみて、一度目で、あるいは何度か挑戦して失敗して他のコースに行ってしばらくして戻ってきて再トライすると、ひょっこりとできたりする。
その成功の瞬間「やった!」と思うのはクイズで正解を当てた時のうれしさと同じで頭の一部がそう思うのであって、頭の別の一部、身体との関わりが密な部分では、やっぱりまだ「シンジラレナイ」と思っている
こうして身体感覚が先行して拡張されていき、同じ動きを何度かするうちに頭がその拡張に納得するというのかフォローしていく。

北上のジムのコースは7級から始まり、7級(ピンク)は手がつかむホールドだけ指定で足はどれを使ってもよく、6級(白)からは足をのせるホールドも指定で、6級、5級(黄)、…とだんだん難しくなっていく。
また、ジムの壁はいくつかのエリアに分かれていて、エリア毎に傾斜が異なり、傾斜がきついエリアでは手だけでぶら下がるのも当然みたいなコースばかりとなる。
ただ傾斜がきつくても足使いは重要らしく、懸垂のような動作でホールドをつかみに行く時にもどこに足を掛けているか、あるいは足や胴体をどう振るかで腕へ負荷や動きが断然変わってくるらしい(伝聞)。
僕は腕も指もひ弱なので、最初は傾斜が緩いエリアのコースを中心にやっていき「力」が(これは文字通り筋力が)ついてくれば傾斜がきついコースにも手を出そうと考えています。
等級と壁の傾斜に相関はあまりなくて、腕より足を頼って登る僕は、緩傾斜エリアの5級コースができても急傾斜エリアの6級コースができなかったりします。

緩傾斜エリアで1つだけクリアできそうな4級(オレンジ)コースがあって、このコースはろくに手(というか指)に体重をかけられないまま大股で小さいホールドにのり移る箇所があって、ここが昨日できるようになったんですが、これがまさに上に書いたような「やった!」が「シンジラレナイ」状態なのです。
どういえばいいのか、頭では納得できんけれど身体は勝手にこなしちゃう、身体ってスゲエなと思い知らされ中、というのか。


もちろんこれ、これはこれで楽しいんですけど、一つ前の記事に書いた「生活読書」、頭と身体を共に活性化させる生活とも通じる気がします。

人は(もっと広く「生物は」ですが)変化して生きていくもので、意識しないでも身体は(成長なり老化なりバイオリズムなり)変わっていきますが、意識したくないのが頭で変わらないことを志向していく頭の見つめる先は身体と逆で(「昨日の私は今日の私は同じ」という、これはこれで意識の「自然」な傾向です)、そのために意識が不変に傾き過ぎると身体に不調をもたらすわけで、不変に拘る意識に時々は喝を入れるつまり意識の目を身体の変化に向けさせる必要があって、そういう場合に意識が喜ぶのは身体の変化に「驚きと興味」を発見できる時

 × × ×

昨日はちょっと限界を超えてやってしまったのか、今朝は起きる勢いが不足し続けて(一度宅急便が来た時に無理やり起きましたが…岩手の午前配達は大体が早朝なのです)トータルで半日近く寝てしまいました。
起きてしばらくは指がふわふわして手を握り込めない感じでしたが、しばらくすると炊事に支障ないくらいには戻りました(でも重い食器を洗ってると取り落としそう…)。
そういえば昨日は手足にすり傷がたくさんできたんですが、それらの多くがいつできたとも知れないもので、それだけ集中していたこともあり、こういう「傷は男の勲章」みたいな時間は少年時代以来だとも思ったり。

無理せずに、ボルダリングを生活の一部として続けていこうと思います。
ジムに行った翌朝もふつうに動けるようになって、講習*2が始まっても今と同じように通えればいいんですが…あでも予習復習とかいるんですかね。

大学生の頃よりはマジメに勉強するはずですが、さて。
 
 

*1:大学生はまあ、モラトリアムですから。院生然り。

*2:司書講習を受けられるかどうかは7月に入って2週間後に決まります。

この書を持ちて、その町を捨てよ/「生活読書」

cheechoff.hatenadiary.jp


前↑の記事で寺山修司がひょっこり出てきたのは、橋本治の小論集『夏日』を同時に読んでいたからです。
下に引用した小論の初出は93年、『新・書を捨てよ、町へ出よう』のたぶん解説文です。
この本は文庫で持っていたんですが(たしかリボルバ拳銃の表紙だった)、読まずに古い方と一緒に前の家へ置いてきてしまいました。
惜しいことをした。

 しかしでも、本物の詩人は、その理性する頭脳もまた肉体の一部である、としか思わないものである。頭脳とは、言葉を発する”心”という田園に向けて苗を送り込む苗代でしかないからだ。
 心は肉体の中にあって、肉体は心によって動かされている。頭脳とは、所詮その一切を見守る、肉体の監視塔でしかないのだ。
 心という田園が豊かに栄えた時、人はそれに対応するものとして、己が肉体の充実を実感する。「生きる」というのはそのようなことで、それを愛でなければ、人間は意味の上で餓死してしまう

 美しいものに感応して、その感応というベクトルに乗ってしまえば人間は詩人で、詩人というものは、その瞬間から「美しい」と思われた対象よりも更に美しい詩を作ってしまう。(…)
 美しいものを美しく崇めた人間は、その瞬間、崇められるものよりも美しくなる。詩のパラドックスを成り立たせるものは、それを「パラドックスだ」と言う理性ではなく、そんなことに気がつかないでいる肉体だ。
 だから肉体は詩で、肉体がある限り詩は生まれ、詩がある限り、肉体は物語を生む。(…)
 寺山修司は、肉体を排斥する理性の産物である書を「捨てよ」と言った。そして、肉体が肉体のままで存在しうる場である筈の町へ「出よう」と言った。そう言った瞬間、そこには「それを言う書」があった。そして町は、「それを言わない書」に侵された人間達で一杯になっていた。だから今ここで言う──「この書を持ちて、その町を捨てよ」と

「この書を持ちて、その町を捨てよ──寺山修司論」(橋本治『夏日』)

「頭脳とは、…苗代でしかない」。
あの、トラクターに積み込む、密にふさふさしてるけど平たいやつですね、苗代って。
余ったやつが田んぼの端っこにぎゅうぎゅうに植えてあったりする。
この比喩はいいですね、しっくりきます。
今の僕だと、苗代はゴーヤの種の発芽を促す(元は「さばみりん」の)トレイです。
発芽だけが目的なら土よりトレイの方が可能性が高い。
水と熱だけで発芽まではもっていけて、でもたぶんそこから成長し続けることはできない。

土は、身体は、どこで必要になるか。

発想は生まれた瞬間は頭脳が完全に優位でも、それを豊かにしていく(自分のものにする、身につける)ためには身体が前に出てこないといけない。
教訓は生み出すだけなら、寝そべって本を読んでいてもできる。
けれど教訓が真に教訓としてその人の中で機能するためには、その人は本を脇にのけて身を起こさねばならない。

でも、本は手放すのではない。

「この書を持ちて」…これは本にかかりきりになることを言っているのではない。
脇に置く、机の手の届くところに並べる、車に乗せる鞄の中に入れる。
身体が賦活した状態を、田んぼが耕された状態を保ちながら、そばには常に本がある。

本とそういう風に関わっていきたいです。
…司書志望者として言うなら、そういう本との関わり方を身につけて、人に提示できればいい。
脳と身体をともに活性化するような本との関係。
それは読書生活ではなく、「生活読書」。

夏日―小論集

夏日―小論集

トレイ出奔第一陣、働きダネの原理

プロジェクトの経過。
タグを作ったので前はタグから参照下さい。

6/11にトレイ栽培を始めて3,4日で、発根というのか、種から白い根が顔を出し始めました。
これは6/15時点で、生きがよさそうなのをトレイの右側に集めています。
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土に蒔いた方は表面から見る限り音沙汰なく、トレイ分より育ちが早いとも思えないのでとりあえず掘り返して回収しました。
1つだけ見つけられなかったので8つ。
やはり種たちはみんな固い沈黙に閉じこもっている。
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それから5日後の今日のトレイの様子。
1枚目と左右逆に撮ってしまったので写真を引っくり返していますが、トレイの右側だけでなく左側からも1つ発芽しています。
生育スピードは一つひとつがフェーズごとに違うのでしょうが、どうも「働きアリの原理」がはたらいているのではと思っています。
回りが怠けてばかりいると「よし、ここらでひと働きするか」と頑張るのが出てくる。
もしそういう気分の空気のようなものが種の間にもはたらくのなら、育ちに応じて並べ替える意味もありませんね。
そうか、並べ替えるのはもともと見やすいからというだけですね。
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発芽した右の1つと左の1つを土に植えることしました。
残った7つに、土から一度回収した8つを加えて引き続きトレイ栽培を続けます。
家の回りにこれら全部を植えるスペースはなさそうですが、発芽率というものがあるので多めに育てます。
右側に継続栽培のものを、育ちのいいものを右端に固めて並べました。
ちょっと密度が高い気がしますが。
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土の方は数日前から肥料やら何やらを混ぜて耕して水をやっていました。
化成肥料が2ミリくらいの粒状で、少しずつ土中に溶けていくものなので本当はもっと前からまいておくべきでしたが、種の成長が早かったので仕方がない。
発芽した種まきが早過ぎたとしたら、第二陣以降に頑張ってもらうとしましょう。
今日植えた2つは、玄関横のちょっとした菜園スペースとリビング奥の窓の下にこしらえたグリーンカーテン用土に1つずつとしました。
そういえば用土の方は数日前の肥料より1週間くらい前に油かすをすきこんだり腐葉土を混ぜたりしていて、その時にはいなかった小さいアリを見かけたりもしたので、土作りはまあまあ進んでいるようです。
とはいえもともとの菜園スペースである玄関の土の方がいろいろ豊富な感じがするので、2つの種の育ちには差が出てくるでしょう(2つのうちより元気な方は玄関横に植えました)。

暖かくなって日差しも勢いを増しています。
ゴーヤには育ち盛りの季節です。

『未明の闘争』(保坂和志)を読んだ

 ホッシーが言うように人は前世と同じ人生を生きるのだとして、それは一回きりでなく、何回も同じ人生を繰り返す。宿命とはそのことを言ったかどうかわからないが、宿命の一番正しい言葉の意味はそういうことに決まってる。
(…)
(…)アキちゃんは今度は難しい顔をして、ゆっくり右手を上げてまた降ろしている。
「言ってもわかんないだろうけど、全然言わなかったら絶対わかんないから言うんだけど、」と、アキちゃんは右手の上げ下げをしながらしゃべり出した。「人生っていうのは、完全に同じ人生が何回も何回も繰り返されてて、今が何回目かなんて全然わかんないけど、このあとも何回も何回も繰り返されるんだよ。」
(…)
俺がこうやって手を上げるってことは、いま上げてるだけじゃなくて、この人生の前の何十回分でもあるし、この人生のあとの何十回分でもあるんだけど、本当は何千回とか何億回かもしれないんだ。」アキちゃんは本当だと思った。

保坂和志『未明の闘争』

運命は予め決まっているが「決まっている」ことと「わかっている」ことは違う、ことになるほどと思い、引用下線部を読んで思わず自分の本を持ってない右手を見つめてしまったのだけど、この動き、動いてない動きも含めた動きがただ今だけあるのではなく、今以外のいつと具体的に考えると目眩はするがそれこそ「一万光年分」の途方もないだだっ広い時間軸それ自体の実感云々はおいてもある時間幅において「厚み」があると感じられて頼りなさやよるべなさが減じる思いがする。
一番初期のスーパーファミコンマリオカートでタイムトライアルをやる時に自分の過去ベストの走りを再現した半透明の自分と一緒に走るゴースト機能を連想して、過去ベストではなく今の走りそのものの半透明の自分が何人も一緒に走っているようなものかと今考えて、その意味はおいといてそれならとても実感しやすいと思う。テレビ画面の中のマリオをコントローラで指で動かした経験に基づく実感だ。

上の下線部の感覚で下の引用下線部を読んで想像するととても不思議な気分になる。今にいながら「今とは別の今」に首を突っ込んでいながら、その「別の今」は今とは無関係でなく今がより濃密になったように感じる。お互いが相手と相手でない何かを経由して会話していて、それによって(反応に時間差が起きて)距離が遠くなるようでいて(より相手の懐に入り込めるように思えて)距離が近くもなる。

というか、俺たちはこうして生きていていろいろ具体的なことを知るわけだけだが、本当にこれを知りたいと思って知ったわけじゃなくて、向こうが勝手に「これはこういうことだ」と俺たちに具体的な姿をあらわすから俺たちは知っただけだ。知るということはこっちからそこに迫っていって知るわけじゃなくて、向こうからこっちに転がり込んでくる。視覚とか聴覚なんてのはそんなもんだ。だから自分から何かを知りたいと思ったとき、もうそれは本来のこの生を外れ出ている。
「いやっ、ホントにそうなんだよ。」と、アキちゃんは小林ひかるの後ろに連綿とつづく小林ひかるを説得できなければ、ここにいる小林ひかるは説得できないと思っているようだった。「恐怖っていう感情っつうか、あれは感情じゃなくて、生の根源みたいなもんなんだけどよお、恐怖っていうのはそのことなんだよ。
 ひかるはよお、聞きたかったことが親父さんから聞きそびれるかもしれないってことを怖れてるんじゃなくて、親父さんがいなくなっても親父さんに向きつづける意志を自覚したことを今は怖いと思ってるんだ。今は、な。でも、人の意志っていうのの本質はそれなんだって、わかるよ。それは自分が死んでも閉じない。

同上

この本の中で一箇所だけ「たたかい」とひらがなで出てくる所でタイトルに関係あるのかと、そういう緊張でその箇所周辺を読んだ記憶だけあって場面の記憶は全くないが、「未明」とは「意識(言葉)以前」ということだと思う。そして「闘争」とは、「意識(言葉)以前が意識(言葉)になろうとすることに抗する『たたかい』」だと思う(この「たたかい」は上の「たたかい」とは関係ない、ことはわかる)。この闘争の結末は、寺山修司が見届けたかもしれない。


未明の闘争

未明の闘争

夜半の闘争

 掛け布団だけでいけるかと寝入った朝に冷えてきて毛布に似た布団を重ねてかぶって二度寝したその日の昼に外で自転車をこいでいると暑くて上がスポーツ生地のタンクトップ1枚になるなんて寒暖の差が大きいにもほどがある。
 その日外から帰って来ると車のフロントガラスのワイパーに紙が挟まっていて、どうも駐車位置が違うことを知らせてくれているらしいが細かいことのような気がして分かったふりをしながらブスっとして家に入ってしばらくしたらチャイムが鳴って、出ると隣家のおじいさんだった。
おばあさんとは引っ越してきた次の日くらいから何度も顔を合わせていたけれどおじいさんとは初めてで、どうやら件の駐車の紙について教えにきてくれたようで二人で駐車場まで出て行くとさっさと本題は済んでいろいろと話を聞く。
 雪は当たり前に降るが豪雪というほどでもなく、昔に比べると量も減ってきているが(温暖化現象でねえ、とは言わなかったが言いたそうな、いやそう言ったような顔をしていた)15センチくらいで除雪車も来ないだろうねえ。じゃあ雪かきなんかも必要ないですか?
 ダンキンドーナツ村上春樹の初期の小説によく出てくるが、今読んでいる『未明の闘争』(保坂和志)の早速謎めいた出だしのところ(高橋源一郎がどこかの書評記事で取り上げていた「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」という出だしで、篠島は幽霊で自分が死んだことに気付かないほど粗忽な幽霊だと私はは言うがその私はも実は幽霊で自分でそのことに気付いてなくてひょっこり出てきたような唐突さがある。ちなみにこの私ははその後も忘れた頃にぴょこぴょこと現れる)にも出てきた気がして(ミスタードーナツでなかったのは確かだ)、今朝読んだアメリカのウェブ新聞(インサイダー何々という紙名が不穏だ)にドーナツ食べ比べの記事がありサムネイルにおいしそうなかじり跡のついたドーナツが4つ並んでいてついついクリックして読んでしまい、ドーナツ専門店3つとスタバの計4店でglazed donuts(シロップか何かで表面につやがあるのを慣用的にglazedと呼ぶらしいが原義に照らすと体に悪そうだが特に太ったアメリカ人は喜びそうだ)の食べ比べをした結果最下位がダンキンドーナツで「大きさ以外に何ら特筆すべき要素はない」「鮮度が早く落ちるので買った日より後に食べるのはどうもよくない」など酷い言われようだったが(鮮度の劣化にそう大きな違いがあるとも思えないが、敢えてダンキンドーナツに対してだけ言及した理由が何かあるのだろうか)、村上春樹の小説は初期に限らず料理や食事がとても魅力的に描写されているがダンキンドーナツを食べる場面がそれらと対比的に味気なく描かれたという記憶はなくて、むしろドーナツもサンドイッチやパスタといった他の手料理と同じ種類の魅力を持っていた気がするのだけれど、そうだとしたらそれは村上春樹の食事描写の魅力はその場面、登場人物がいる場所やその時の気持ちや誰と一緒にいるかといった場面にとても相性の良い料理にあるのではないかという仮説を支持してくれると思う。ダンキンドーナツそのものは他のドーナツより魅力がなくて味気なくて鮮度が落ちるかもしれないが、他のドーナツよりもダンキンドーナツを美味しく食べられる状況というものがある。ちなみにその状況に現在の日本のどこかが当てはまる可能性はゼロである、ということをダンキンドーナツが89年に日本から撤退したことをネットで調べて知ったから知っている。
 おじいさんはこの貸家(つまり僕の隣家の貸家)に30年以上住んでいて、今年この近くに土地を買ったから来年にはそっちに引っ越すかもしれない。ここから少し離れて息子夫婦が家族で住んでいて、孫が朝幼稚園か小学校かに行く前におじいさんの家に寄って行く。僕は引っ越してきた週の末の朝に隣で子どもの声を聞いたので親子で住んでいると認識したけれど、数日経って顔を合わせたおばあさんはお母さんというよりはおばあさんだし、夜の8時に帰宅した時に隣家は真っ暗で物音一つしないことも不思議だったけれど不思議が不思議のまま立ち消えたのは大して関心がなかったからで、でも実際住んでいるのはおじいさんとおばあさんの夫婦二人だけだと知ると不思議が戻ってきてそして納得と一緒に一瞬で消える。
 駐車の細かいこととは結局奥行きのある駐車スペースで手前に停めるか奥に停めるかという話で、他人と他人の契約のことなので実際の融通より決まりを守った方がよいという話で、それ以上でも以下でもないのでわかりましたと言う以外にない。

手書きの感触/大学へ書類を出す

司書講習に必要な書類は昨日まとめて、今日大学へ提出しに行ってきました。

メモ帳に打ち込んでいた文章も昨日申請用の作文用紙に写したんですが、書き写すだけでも頭は別の回り方をするようで、意外なところで手が止まったり*1、途中で(これから写す部分に)納得いかなくなって段落の半分をごっそり書き換えたりしました。おかげで冗長な内容を省けました*2

大学へは自転車で行きました。
行きは寄り道していたので国道4号から大学へ向かいましたが、帰りは通学経路になる道を確認がてら走り、10分前後というところでした。
不動産屋で「この家から大学まで自転車で通えますよね」と聞いたら驚いた顔をされたんですが、全く無理のない道のりでした。
距離に関係なく、この辺りでは自転車で通学とか通勤という発想がないのだと思います。
今日も大学近くまで行ってやっと自転車に乗っている学生を見かけましたが、普段は自転車を滅多に見かけません。
主要道の歩道が自転車数台並列走行しても余裕のあるくらい幅広いのは別に自転車を慮っているわけではなく、それは「サイクリングロード」とわざわざ銘打たれた道の舗装状態がそれほど良好ではないことからもわかります。
もちろん道が広く人が少ないうえに空もすかっとしていて、自転車で走るにはとても気持ちいい。

申請書類を大学の窓口に出す時に、書類によって担当が異なるとかで教務課と総務課を行ったり来たりしたんですが、そのたびに窓口の人が一緒についてきてくれたのでちょっと話ができました。
それとなく応募人数のことを聞いてみたんですが、どうも今年はあまり多くないようで(「今年に限って」なのか「例年通り」なのかは判然としませんでした)、最終的に募集の定員に満たない見込みというニュアンスにも聞こえました。
前にネットで司書課程について情報収集をした時は「(就職口の少なさはもちろん)講座を受けるまでのハードルも高い」という印象を受けたんですが、都市部の大学と地方大学とでは状況が違うのかもしれません。
あるいは実学志向という昨今のトレンドから外れていて、全体的に応募が少ないとも考えられます。

いずれにせよ、選考漏れの可能性について、多少は楽観的に構えていてよさそうです。
「落ちたらボルダリングのプロでも目指すか」と冗談半分で考えていたんですが、残念ですね。
2020年のオリンピック種目に入ったとかで、「熱い」らしいですよ。
東京オリンピックにはけっこう興味がありませんが、ボルダリングの中継なら見てもいいかな、と今思いました。
 

*1:意識の「識」の字を書く時にぱたりと手が止まって、なんでだろう、漢字を忘れるはずはないのにと思いつついちおう字を確認すると、この字の中に「音」があることに違和感があったのでした。ブログを書いていて高頻度で使う字で違和感もなにもないはずなんですが、表意文字ならではの、手で一画ずつ書いて行く間に一字の中にいくつもある「まとまり」が書く人にある印象を与えるのだと思います。今書いた違和感というのは、たぶん「普段自分が意識してる"意識"に"音"ってあんまり関係してないような」というようなものです。音はむしろ無意識の方に作用するはずで、あそうか、無意識は意識を含んでいますね。

*2:冗長というか余計というか、「書店より図書館が好きです」なんて中学生みたいなことを書いていました。やはり文章の「塩抜き」は必須ですね。

無題10

「欲しいものが欲しい、って昔ありましたよね」
「おっ、シゲやんか。古いな。君いくつやっけ?」
「なんですかその運ちゃん仲間みたいな呼び方は」
「ばれたか」
「…それ、物欲が満たされたあとには欲望が独り歩きするってことですよね。そういう状況において、欲望の制御という意味では退化もアリだと思うんです」
「おお、退化の改心やな」
「そんな大層なことではないですが」
「リアクション薄っ」
「…で、物に溢れた現代で物を不足させてみると、選択肢がたくさんあるんですね」
「初心に帰る、と」
「そうです。お店に行けば何でも売っていて、ある用途のものに限定しても種類がいくつもある。僕そういうのを眺めてると別のこと考えちゃうんです」
「ほお?」
「もとの用途を無視して、これ何か別のことに使えるんじゃないかって、つらつらと」
「売り物の前で色々想像すんのも消費者の醍醐味やわな」
「まあその、ふつうの消費者とは別のバリエーションなんですけど、僕はむしろそっちに力入れちゃうというか、欲がそっち向いてるというか」
「それ、君がよう言うてるブリコルールってやつか」
「そうそう、それですよ。明確な用途が発想される以前のものを求めるという。でね、これが消費における欲の向き方の未来形だと思うんです」
「ふうん? ほんなら、それをシゲやん風にゆうたらどないなんの?」
干し芋の干し椎茸」
「ほお、なるほどな」
「冗談ですよ」
「ほお、なるほどな」
「…怒らないで下さい」
「んで?」
「今から考えます」
「なんや、期待もたしといて。よし、あたしが考えたろ」
「珍しく積極的ですね」
「んとな……欲しかったら取ってみな! ってのはどうや」
「ちょっとちょっと、それ僕の財布じゃないですか。いつの間に」
「ふふふ、シゲやん仕込みの神通力や」
「何を意味不明なことを…あっ! そういうことか」
「お、ビビッときた?」
「欲しいものはもう自分で持ってるんですよ。ところがそれが手元から失われるまでそのことに気付かない」
「ほう。その心は?」
「梅雨時の干し芋に注意」
「こだわるなあ。そんなに好きなん?」
「とっても。歯によく挟まりますけどね」
「ふうん。ほい、ほなテイク2」
「…欲しいのはものじゃない、ですね」
「ふつうやな」
「仕方ないですね」

 × × ×

シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君の歳ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない」

村上春樹海辺のカフカ(上)』

無題9

「疫病神みたいなもんだと思うんですが」
「悪い人?」
「いや、そうではなくて? いや、その、人って変わっていくもんでしょう」
「せやね」
「人と違うことをしたがる人ってのはある意味傾向そのもので、大勢で同じことやってる時に凝り固まるのをほぐす機能があるわけです」
「傾向そのもの? 傾向って、ものやっけ? ああ、光って見えるわけやな。照明はいらんと。存在照明ね、カッコええな君」
「あー、そのケイコウではなくてですね」
「ケイコウ灯マナー部(笑) ちゃんと勉強しいやー?」
「……。人が変っていくのは人間の傾向で、でも集団でいるとそれを忘れる。僕みたいな人はそういう時のリマインダ機能であって、集団を一人の人間だと考えれば僕個人は傾向なわけです」
「ふんふん」
「でも傾向は性質であって人ではないから、そういう人は個人としては破綻しているのです。自分で自分がわからないとか、落ち着かないけどそれでもいいのかもしれないとか思う」
「ああ、せやからいらんことばっか考えとるわけやな」
「落ち着いてしまうと変わらなくなってしまうという不安があって」
「せやけどずっと変わってくっつのも、変わらんことと変わらへんのとちゃうの?」
「マンネリ化すればそうなりますね」
「んーとな。要するに顔デカいっちゅうことや、君」
「…まあ顔にも脳は含まれますけど。あれ、いやほんとかな」
「期待を裏切らんビトレイヤやで、ほんま」

オーブンは温室である/キッチンからあれこれ

前に書いた壁登りジムへは16日に行こうと思います。
ニトリに注文していたペールボックスを取りに行くので。

 × × ×

オーブン余熱利用は今朝からさっそく始めました。
プロジェクトと銘打っただけある。

モーニングセットを焼いている間に天板の温かい場所を探して*1ベーコンの空きトレイに乗せた浸々ティッシュと種を置いておいたんですが、食後に片付けている間にふとオーブンの中に入れることを思いつきました。

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15分くらいオーブン機能を使って約1時間後のチャンバー内温度が24℃で、1.5時間経過後も数値はそのままでした。
ゴーヤの種の発芽に適した温度がたしか25〜30℃だったので、このアイデアはなかなかいけそうな気がします。
空気の循環がない分は時々フタを開け閉めしてあげればよいでしょう(種の時点で通気性は考えなくてもよいかもしれませんが)。
入れたまま忘れてしまうとかわいそうなので、タイマーを使います。

 × × ×

キッチンについて。
ひとまず大きなものはもう増えなさそうなので、落ち着いたとみなしてちょっと書いてみます。

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洗い場とガスレンジの奥には色々置けそうな幅広のスペースがあって、最初は洗い場の奥にできあいの乾燥用食器置きがあれば順当だと思っていたんですが、ものを増やしたくないのでしばらくは買わずにいて、洗った食器はスペースに直接置いていました。
何度かホームセンタに通ううちに「吸水マット」なるものを見つけ、試しに買って置いてみたところ、これがなかなかいい。
食器置きのように平皿や茶碗を立てるガイドがありませんが(ただのマットなので当然です)、そのために洗った食器をどう配置するか、その前にどの食器から洗うかに頭を使うことになります。
それが面白くもあり煩わしくもあるんですが、それを面白いと思えている時はいい気分でキッチンに立っているんだろうなと思うし、食器の一つひとつに気を配る必要性から食器に対する扱いが丁寧にもなります。

洗い方としては、小さくて底が深くて安定性の高い食器をまず洗ってマットの端に置き、それをガイドにして、あとは大きさや重さを考えて他の食器を裏返して立てかけていきます。
夜に朝夕食分を洗うなら、夕食に使う食器を先にマットに置けば、翌朝使う分だけを手に取れます。
たとえばこんな↓感じ。

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ボウルやザルなどの調理器具はマットとは違う位置のスペースに直接置きます。
しゃもじやへらといった手で扱う器具はマット上の皿に立てかけることもあります。
2枚目の写真の右側はサラダスピナで、野菜の水切りに使います。
『サラダ教本』(坂田阿希子)を読んで初めて買ったんですが、この本の言う通り、水をしっかり切るだけでサラダが見違えるように美味しくなります。
水菜やレタスなどの葉っぱもの、それから玉ねぎや根菜のにんじんでも薄切りにした場合などは水切りの効果大です。
…本題に戻りますが、このサラダスピナは部品が全部で4つに分かれるので、洗ったあとの置き方にしばらく試行錯誤したんですが、この写真の感じでいちおう落ち着いたような気がします。
今朝のことなので、まだ定着していませんが。

キッチンまわりは落ち着いたと言いながら忘れていたんですが、生ゴミのテンポラリな行き場についてはまだ思いついていません。
シンクのコーナにカゴを置くとシンクが狭くなるし、蛇口の付け根から網状の袋をぶら下げるのがスペース利用法として妥当かなと思っているんですが、それはなんだか審美的に許容できない。
思いつくまでシンク横の作業スペースの端に固めて置くことにしているんですが、もうこれでもいいかという感じもします。
『野菜のだしで作るVegetable Soup』(樋口正樹)では、調理で出てくる野菜の切れ端を集めて煮込む「野菜だし」が全レシピ必須の素材で、これを実践していると生ゴミは細かいものというか、あまり細々とは出てこなくなるのです。
それで生ゴミは1日1回ペースで直接燃えるゴミ袋に放り込んで、週2の回収に出しているんですが、今はいいとして夏場は大丈夫かどうか。
暫定的という意識は持っておきます。

シンク奥スペースの窓に立てかけている洋書は、海外のアパート部屋の写真集です。
引っ越してきて間もない頃に段ボールの中の本を整理していて、この本は変則サイズなので本棚に他の本とは並べにくくて、周りを見渡すとがらんとしたキッチンが目に入って、何げなく置いてみたのがそのまま定着しました。
要するにディスプレイなんですが、キッチンの審美性を意識するおまじないでもあるし、水場における本という「生もの」の存在感もあります
3つ目は今思いついて言葉にしましたが、紙にとって水は大敵であって、カバーも付けずにキッチンの作業スペースに置くなんて常識的にはありえません(この洋書は表紙が厚いので水は若干弾きますが)。
が、上に書いた吸水マットに食器を並べる話とも通じるんですが、水はねを嫌うものが近くにいることで、シンクにおける炊事のふるまいが丁寧になります。
これらのことは、僕が常にそういう意識を持って台所に立てるというよりは、僕が自然にそう振る舞うようにマットや本が配置されている、いわゆるアフォーダンスについての話です。
前者と後者は一緒に見えて全然違っていて、出力側から見れば同じにも思えますが入力側から見れば全く異なる。
例えば、テスト勉強せずに単位が取れて喜ぶ大学生なんかは前者のマインドに該当します。
過程を大切にするというのは、出力だけでなく入力も(そしてもちろん「入力と出力の間のこと」も)見ることです。

思いつくまま、気のままに書いていますが、最後にスピーカの話を。
シンク奥スペースの両端にある小ぶりの黒いスピーカは木製で、底にコルク製の脚がついているから音の響きが床に邪魔されず良好であるというONKYOの売り文句になるほどと思い、2004年に購入してからずっと使っています。
何度かグレードの高いものに買い替えようと思ったことがあるんですが、別にこのスピーカの音に不満があるわけでもなく、そのつど家電製品店で物色したりネットで探したりしながらも、時間が経つうちにうやむやになって今に至ります。
村上春樹は昔小説家になる前はバーだったか小料理屋をやっていて、その頃からずっと使っているのだったか一度買い替えたのだったか、レコードデッキと共にスピーカに対しては強いこだわりがあって、「スピーカはその人の音楽鑑賞における身体を形成する」というようなことをエッセイに書いていました。
つまり、最初は安物で間に合わせて手持ちのお金の余裕に合わせてだんだん高価なスピーカに買い替えていく、というサラリーマン人生になぞらえたような音楽鑑賞スタイルは身体(耳)ではなくお金(収入)の都合でしかなく、廉価品であれ高級品であれ、どんな質のスピーカであっても長い間それで音楽を聴き続けるうちに、耳というよりは身体全体が振動に適応していき、そのスピーカの音が「自分に合う音」になっていく
時間のスパンが全然違いますが、カツ丼を食べる前にずっとカツ丼のことばかり考えていると「胃の内側がカツ丼の形になる」(@内田樹)というのも同じことです。
…話を戻しますと、スピーカを水場に置くというのも家具が全然足りない引っ越し当初に場当たり的に決めたことだったんですが(床に置くよりは何でもいいから台の上に乗せたい、という程度のことでした)、置いてみるとこれも予想外にフィットして、キッチンに立つ楽しさを根っこの方で支えてくれています。
そしてこのスピーカも、マットや洋書と同じく、アフォーダンス的存在でもあります。
ただ、右側のスピーカがガスレンジの右側コンロの真正面にあり、炒め物や揚げ物をする時に(調理の丁寧さとは関係なく)油がはねそうな気がするので、何か対策をした方がよいかもしれません。
アルミシートを立ててガスレンジを囲うのは論外だし、スピーカの前に壁をつくると音が跳ね返ってしまうので好ましくない。
妙案はすぐには浮かんでこない*2ので、これもひらめきをゆっくり待つことにします。

こういう生活じみたことをつらつら書くのはとても楽しいですね。
 

*1:チャンバー内壁と天板の間になにかしら配管が通っていたりすると放熱具合が変わってくるので。そんなことはなさそうでしたが。

*2:スピーカのすぐ横の壁が両側とも木なので、ネジか釘を打ち込んで足場をつくってスピーカを(たとえば布巾かけより上に)浮かせると絵的にはステキなのですが、あまりに目立つ穴を開けるのも気が引けます。突っ張り棒もNGですね(今はトイレの上の方に物置き用に渡すのも許せません)。うーん。