human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ゆくとしくるとし '18→'19 1

年の瀬です。

今年は大阪に移ってきたので、年末年始は実家にいます。

去年は岩手にいて、積もった雪がすべての音を吸い込んだ静寂の夜を初詣に歩きました。
近所の神社では身の丈の数倍は高く燃え盛る焚火が生命の中心で、ぽつぽつと訪れる人々はみなひっそりとしている。
神社の人に手渡された餅はやわらかく、つきたての感があり、ありがとうと目を合わせたおじいさんには、固有の表情がある。

思えば、「やりたいことをやる」より「したくないことをしない」生活をしようと考えたのは、昨年にお遍路から戻ってからか、その後の岩手での1年滞在の間のことだったか。
会社員時代から生活はシンプルでしたが、目に触れる情報の量が減って、「余計なこと」をしなくなって、精神的な地盤がしっかりしてきました。
なにか、「わるいもの」に振り回されることがなくなった。
流される性質の人間として、流されるもの、僕を流れに乗せようとするものに対する、僕自身の姿勢が落ち着いてきました。
相手を選ぶわけではない。
近づいてくるものを、言祝げば親しくなり、受け流せば遠くなる


唐突にゲームの話をしますが、最近ロマサガをはじめとする「サガ・シリーズ」の総集編的復刻版のようなものがスマホのアプリで出たのを、ボルダリング仲間がやっているのを見て知りました。
ロマサガ3は一番よくプレイしたし、ゲームの曲は今でもよく聴きます(小説やマンガを読む時に、雰囲気が合った曲を頭の中で流すのです。それについて書いた記事を張っておきます。『宝石の国』(市川春子)×「水晶の廃墟」)。
レベルアップの時に技や魔法を覚える、というRPGの定石があった時代に、戦闘での攻撃時に確率に応じて技を閃くという「閃きシステム」が当時は話題になりました。
その技の話。

単体の敵に攻撃するという時、こちらから仕掛ける技よりも、相手の直接攻撃があった際のカウンターとして反撃する技の方が、消費技ポイントに対する攻撃力が高く、僕は槍の「かざぐるま」や大剣の「切り落とし」を(「デザートランス」や「鳳天舞の陣」という戦闘陣形と共に)好んで使っていました。
その一方で、発動形態はカウンター技と同じですが相手の攻撃を無効化するだけの回避技もあって、剣の「パリイ」がその代表なんですが、僕はこういう技を「カウンター技でも相手の攻撃を無効化できるのに、敢えて使う意味がない」と軽んじていました。
もちろん後者の方が基本的に成功確率が高いということはあるのですが、それにつけても、と。

ロマサガ3の武器は大別すると小剣・剣・大剣・斧・棍棒・槍・弓があって、それぞれの武器に固有の技があり、お金で買って身につける術と違って、戦闘中に閃くのはこちらの技です。
そして固有種の技は上記のほかにあと一つ、武器を持たない体術がある。
体術にはカウンター技の「カウンター」と回避技の「無刀取り」の両方があって、消費技ポイントは後者がグンと高い。
ゲームに熱中していた当時は「無刀取り」なんて閃いた瞬間に封印(つまり「お蔵入り」)していましたが、
今思うと「なるほどなあ…」という感慨があります。

バガボンド』(井上雄彦)を読んだ記憶によれば、柳生石舟斎だったかその師匠かが、その無刀取りの使い手だった。
打ちかかってくる敵の、その手からいつの間にか刀が消えて、はっと気づけば、今斬らんとした相手がすまし顔で手にしている。
奪い取ったその刀を使えば、素手の敵など容易に斬れようものですが、無刀取りの使い手にその気はなく、敵は戦意喪失して、斬り合いは終結する。
戦いなど、最初からなかったかのように。


「刀」は、現代でいえば「鎧」でもある。
相手に無防備をさらして傷つかぬよう、突然の中傷に耐えられるよう、幾重にも張り巡らせる、言葉の鎧、鈍感の鎧。
昔、vocaloidでこんな歌がありました。「対人武装」という。(→ニコニコ動画piapro

僕はある種の女性の化粧も武装だと思うんですが、女性側の見解は全く別にいろいろとあるのでしょうが、深入りはしませんが(先に言い訳)、少しだけ。
化粧の中には美人化を目指すものがあるはずで、それは没個性化でもあり、用途としては攻撃よりも防御の意味合いが圧倒的に大きいと思われる。
両者の見分けは僕にはほとんどつきませんが、女性が街中を歩く場合と、親しい人とプライベートな空間にいる場合とで違うはずで、きっと普段僕が目にするのはほとんど前者でしょう。
なんというか、それも、鏡なのですね。

己の身を固く守っている人の目前に立てば、自然と、自分がその人を攻撃しようとしているように思えてくる。
その人に対する自分の関心の有無にかかわらず。
対人の場とはそういうもので、それは複数の人が同じ場所に居合わせればその状況の意味に関係なくそこが対人の場であり、しかし、そうは思っていない人があまりにも増えている、というかそれが当たり前になっている。
テレビの家庭への普及が始まりで、スマホの普及がその「当たり前」を確固とさせたのだろうと思います。


話を戻しますが、「したくないことはしない」という話ですが、僕が人混みの多い場所に行きたくないのは、そういう理由からです。
そこは、「質の悪い対人の場」であるから。
自分のやりたいこと、魅力的なものが多くある場所でも、感度を落とさないとその場にいられないから。

「何をするか」ではなく「どうありたいか」という状態の志向を前提とした時、その場では現在が「未来への投資」へと否応なく変わる。
そして、それが許せる場合にだけそこにとどまる、ということになる。

いわば「妥協」であるこの認識は、習慣化すると簡単に失われる。
これが、感度の擦り切れ、鈍感化のメカニズムです。



一度、切りましょうか。
今年を振り返る…よりは、その振り返りが来年にどうつながっていくか、に興味があるので、そういう風に書ければいいですね。