human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「春日本」とのシンクロについて

純粋な情報量から言えば、ぼく以上にぼくについての多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにもいない。しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによって──その価値観や、感覚の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によって──取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。とすれば、そこに語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真実があるのだろう?
(…)
 そういうことを考えれば考えるほど、ぼくは自分自身について語ることを(もしそうする必要があるときでも)、保留したくなった。それよりはむしろぼくという存在以外の存在について、少しでも多くの客観的事実を知りたいと思った。そしてそのような個別的な事柄や人物が、自分の中にどのような位置を占めるかという分布なり、あるいはそれらを含んだ自己のバランスの取り方なりを通して、自分という人間存在をできるだけ客観的に把握していきたいと思った
村上春樹スプートニクの恋人

 本読み子供が手あたり次第に読んでゆくと、どうも自分にはこれは向かないという本にぶつかる。それをくりかえすうちに、好きな本とそうでもない本の見当がつくようになる。こっち方面は駄目というのがわかってくる。そして、このような好みの本の傾向が教えてくれるのは、この世界のありようではなくて、自分というものの性格なのだ
池澤夏樹『海図と航海日誌』p.74

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『問題は、躁なんです - 正常と異常のあいだ』(春日武彦)を読了しました。
自分が、僕自身が、とても揺さぶられました。
自分は躁側ではなく鬱側だとはっきり認識していましたが、
この本を読んでそれを再確認し、さらには「その立ち位置からは逃れられない」ことを理解しました。

春日氏の本は何冊も読んでいますが、読むたびに揺さぶられたことを記憶しています。
覚えている限りで最初に読んだ氏の本について、昔の(本ブログの2つ前の)ブログに書いたことを抜粋してみます。

昨日は『不幸になりたがる人たち』という新書を読んでいた.
不幸や悲惨さを自分から選び取っているとしか思えない人々について語られた本であるが,
一言で表現すれば「人間には本能的に破滅願望があるのでは?」と提言している本である.

この中で「はたから見れば到底受け入れられる話ではないが」といった表現がよく出るが,
それに続く話に俺はあまり拒否反応は示さず,むしろ共感できる部分もあった
cheechoff.exblog.jp

この、春日氏の本に対する、あるいは春日氏に対する共感については一貫していて、
本の中のエピソード(患者の症例や精神の病として解釈できそうな事件など)に対しては共感というよりほとんどグロテスクだと感じるのですが、
春日氏がそれらをグロテスクだと思うこと、またはその分析のベースにある価値観に対しては、僕が本を読みながら反発する箇所がほぼ全くないのです
上のリンクのブログ(7年前の記事ですね)では控えめに書いてますが、この感覚は昔も今も、同じです。

 躁について語っていくと、その語り手は「うつ」になっていく。本書を著しながら、わたしはそんな思いを強くせずにはいられなかったのであった。
p.183


ここで唐突な話ですが…
子供が抱く「将来の夢」というのは成長するごとに、あるいは日を追うごとにころころ変わるものです。
僕が記憶している僕が小さいころの将来の夢にはたこ焼き屋さん(たこが嫌いだったのになぜ…?)や新幹線の運転手、自衛官(高校に通いながら給料が貰える事実に感動したというだけ。「自衛官募集」のハガキを家に持って帰って親に言って猛反対されたことを覚えている)などがあります。
これらと同じように、一時期考えてみたというものとして「精神科医」もありました。

僕は大学生の後半まで全く本を読まない人間だったのですが(大体が読書感想文を書くのに読んだくらいで、中学か高校だったか、感想文が書けずに泣いたこともありました…さすがに高校はないか)、例外として高一の時に「他人(同級生)が何を考えているのかが全く分からない」という不安に襲われ、自分で心理学の新書を2、3冊買って読んだことがありました*1
そして、それらの本を読んで「人間ってば面白い!」と思い(本のタイトルからしてもっと深刻だったかもしれませんが)、精神科医になったら人間について徹底的に考えるわけだから「自分が好きなことを仕事にできる」ことになるじゃないか、と思いました。

しかし、それからすぐか、しばらく後かに、
その夢想を推し進めて行って深刻な結論にたどり着きました。
まあ高一だし、短絡的な思考ではあるのですが、
当時はその結論に揺るぎないものを感じたのでした。
すなわち、
 「人間のことが全部分かっちゃったら自分は自殺するんじゃないか
と。
これ以降、「精神科医になる夢」については頭をよぎることはあっても、
本気で考えたことは一度もありませんでした。


社会人になり、また多くの本を読んできた今なら、「人間のことが全部分かる」なんてことはあり得ない、とわかります。
ですが、高一の僕が抱いたその結論は、間違っているとは思いません。
その理由は直接書くとしょうもない話になってしまうので書きませんが。

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最初に引用したのは「人はなぜ本を読むのか」についてであって、
春日氏の今回の本を読んだ時にこの引用を思い出したことは、
この本が「人はなぜ本を読むのか」という問いを呼び起こしたことを意味します。

というのは飛躍というか大事なところを言えてなくて、
春日氏の本の中に読書についての話はありません(文学者とその作品を「躁的に」分析する章はありますが)。
春日氏の本には要するに「人間とは何か」について書かれていて、
その問いと、「人はなぜ本を読むのか」とう問いとが深く結びついているのです。


 人は「自分」という言葉が何を指すのかを分かっていなくても、
 「自分」のことを知りたくて、
 「自分」を知りたいがために外と関わりを持とうとします。

 逆に言えば、「自分」が分かっていると思う人には外はない
 あるいは外はなくなる。
 なくそうとする。


僕は高一のその時から既に、こんな感覚を持っていたのかもしれません。

 

*1:そういえば今も持っているのでは…と本棚を探したらまとめて置いてました。
電車通学の帰りに樟葉駅(まだ急行しか停まらなかった頃)の改札前の水嶋書房で、まともに本なんて買ったことがなかったため、時間をかけて選んだことを覚えています。
これらの本が今の自分の思考の素地になったことは間違いなさそうだし、これを機に読み返してみようかしら…自分の「常識」のあぶり出しができるかもしれない。
以下にメモしておきます。
 『自己チュウにはわけがある - 対人心理学で分かったこと』(齊藤勇)
 『反常識の対人心理学』(相川充)
 『人間関係』(加藤秀俊
 『人と接するのがつらい - 人間関係の自我心理学』(根元橘夫)