human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「専門家」について(前)

というわけで、今日もVeloceで本を読んでおりました。

そんなそんな

先の土曜から読み始めた『人間の建設』(小林秀雄岡潔です。
そんなに厚くない文庫本で、一日で読了できると思いきや、そんなそんな。

背表紙の紹介文が「有り体にいえば雑談である。」と始められている通りで、
しかしこの雑談がなんとも恐ろしい雑談なのです。
話の筋が転々として定まらず自由に展開されるという本来の性質を備えつつ、
テンポラリな話題ごとに思考を賦活する種がゴロゴロと埋め込まれています。
対談する二人の、饒舌な語りを構成する言葉の一つひとつに重みと裏付けがあって、
それでいて会話のテンポが良いものだから、
勢いよく読み進める欲求と立ち止まってじっくり考えたい欲求の板挟みに遭います。

「時間がない」ことで「時間がある」僕は、もちろんじっくり考えつつの遅読となります。
(時間感覚がなければ、何かに追われることもないわけです)

せんもんとは

年始に少し書いたことですが、
世間的なイメージの「専門家」にあまり良い印象を僕は持っていません。
ここ最近は夜にその年始の文章(↓)を読み返していたので念頭にあって、
『人間の建設』を読んでいて自分の印象が更新される機会を得ました。

本記事ではそのことについて書こうと思います。
(リンク先の記事は全然まとまっていませんが、4〜6ブロック目の文章がそれです)
cheechoff.exblog.jp

専門について考えるアプローチが、ここでは2つあります。

(1)つみきざいく

岡 (…)積木でいえば、一人が積木を置くと、次の人が置く、またもう一人も置くというように、どんどん積んでいきますね。そしてもう一つ載せたら危いというところにきても、倒れないようにどうにか載せます。そこで相手の人も、やむをえずまた載せて、ついにばらばらと全体がくずれてしまう。いまの文化はそういう積木細工の限度まで来ているという感じがいたします。これ以上積んだら駄目だといったって、やめないでしょうし、自分の思うとおりどんどんやっていって、最後にどうしようもなくなって、朝鮮へ出兵して、案の定やりそこなった秀吉と似ているのじゃないですか。いまの人類の文化は、そこまできているのではないかと思います。(…)
小林 つまり数学はどういうふうになっているのですか。
岡 だから、すぐれた人が数学を知りたいとおっしゃっても、そのもとめに応じられぬ。(…)大学まで十六年、さらにマスター・コース二年、十八年準備しなければわからぬ言葉を使って自分を表現しているといったやり方をこれ以上続けていくということは、それがよくなっていく道ではない。もういっぺん考えなおさなければいかぬと思います。
小林 それが数学は抽象的になったということですね
「数学も個性を失う」p.29-31

このことは、大学で勉強している時にも、今仕事をしている時にも感じたことがあります。
工学部にいた時には、テストで点を取りながらも一緒に勉強する友人の会話についていけず、
「理解するとはどういうことだろう?」という言い方をしていました。
 その疑問が文転(転部)を志す動機の一つとなり、何度も迷いながら周りに流されて実行せず、
 今までの経験を無駄にせずかつ文転という選択(弁理士の資格勉強)も道半ばで挫折し、
 結局はその徹底的な中途半端さが今の仕事(知財部で明細書書いてます)との縁を結びましたが…

社会人になってからは学部生時の疑問を「括弧に入れる」程度に大人にはなりましたが、
括弧に入れる、とは綺麗さっぱり忘れることではなく、抱え込んだまま生活するということでした。

 何だか自分はブラックボックスとやりとりをしているようで、
 欲しいものを取り出すために何を入れればよいかは分かるのだが、
 これは「理解」ではないとすれば何なのだろう?

一つの考え方として、これは宗教的行為と同じようなものです。
生け贄を捧げて祈るとなぜか知らんが嵐が止んだ、というような。
いや、それは僕のような(実は)「文系」な人の科学的理解だけに当てはまる話ではなく、
科学が一つの仮説だとすれば、誰にとっても程度の差でしかありません。
 原理を追求する姿勢や精度が科学と宗教では違うかもしれませんが、
 精度のあまりの差が目くらましになっているだけで「姿勢は同じ」です。

ちょっと観念先行な話になっていますが、ここで言いたかったのは、
科学技術が複雑になるほど原理に目が届かないまま技術を使うことになる、ということ。
この恐れというか違和感を数学者の岡氏が言葉にされていて、
僕の過去に、そして現在も抱えたままの問いに足場が与えられた気がしました。

岡 (…)数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね
(…)
小林 あなたのおっしゃる感情という言葉ですが……。(…)
岡 だいぶん広いです。心というようなものです。知でなく意ではない
小林 ぼくらがもっている心はそれなんですよ。私のもっている心は、あなたのおっしゃる感情なんです。だから、いつでも常識は、感情をもととして働いていくわけです。
岡 その感情の満足、不満足を直観といっているのでしょう。それなしには情熱はもてないでしょう。人というのはそういう構造をもっている。
「科学的知性の限界」p.39, 42-43

ちなみに、最初の抜粋の最後にある「抽象的」という言葉について、
これは普段僕が森博嗣保坂和志を引いて書く言葉とは違います。
…というか、それがどう違うかということをこの本に教わったのでした。

小林 わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね。
岡 そうなんです。
小林 そこから逸脱したという意味で抽象的とおっしゃったのですね。
岡 そうなんです。
小林 わかりました。
岡 裏打ちのないのを抽象的。しばらくはできても、足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩を出すことができない、そういうのを抽象的といったのです
小林 それでわかりました。
同上 p.44

裏打ちがあって(文脈があって、発祥がたどれて)、
下位の様々な(多分野の)具象に展開ができて、
また逆に多様な具象から導くことができる。
どんづまりの回答ではなく、末広がりの問いを生み出すことができる。

ポジティブな抽象(的)とは、きっとそのようなものです。

人間の建設 (新潮文庫)

人間の建設 (新潮文庫)

 × × ×

…2つめにたどり着けませんでした。
こちらの方が厄介で、しかし是非書きながら考えてみたいことだったのですが。
次回に持ち越しとして(持ち越しテーマがどんどん溜まっていくな…)、
トピックを今考えている言葉で表現しておきましょう。


理想の専門家とは? あるいは天才とは?

「他人のため」と「自分のため」が自覚として完全一致していて、ブレない人のこと