human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

すべてが懺悔Fにならない

なみだがでたはなし


明日は友人の結婚式でした。

何のぬかりもありませんでした。


習慣を重んじる僕は日曜に予定が入った場合もいつも通りの週末となるよう、
次の月曜の有休を、1週間前から申請していました。
(いつもは休む2日前に申請する習慣からすれば周到に過ぎるくらいです)
土曜はVeloceへ行き、日曜は結婚式に出席し、月曜はゆっくり家で本を読む。
心身に負担のない予定を組んでこそ、非日常的なeventにもいつも通りの気持ちで臨めます。

祝儀袋も買っておりいくら包むかも考えていました。
相場も調べはしましたがその通りではなんだか面白くない。
友人の名前に因んで壱零肆零圓にしようかと思い付き、
しかしこれではあまりに少な過ぎて非常識だとは当然思って、
そこから零を一つ増やして良しとする程度の常識を僕は備えていると思っていました。


その日暮らしの自分にしてはなんとも気の早いことだなと、
当日2日前の昨日に招待状を読み返して14時前に新横に着けばよいことを確認し、
小田急からだと相模大野から乗り換えて終点が…新横だっけ?」と曖昧な記憶を辿り、
それが知識になっていないのは普段電車に乗らないからで、
そういえば帰省を除いて今年初めて乗るなとはまず当然思って、
もしかして去年1年間を繰り込んでもやはり初めてのような気がして、
まあ前日の夜に「駅すぱあと」で調べればわかることだし、
そんなことしなくても大体の移動時間はさすがに予想がつくし、
今関心があるのは「ご飯の準備がいつもとどう変わるか」で、
日曜に普段と違う用事が入って月曜は有休で一日家にいて…?
と雨のせいで普段は行かないスーパーの惣菜エリアで簡単に思える計算に混乱し、
余るよりは足りないを良しとする僕はいつもよりパンを1つだけ多く買いました。

帰宅してからいつも時々しか確認しない携帯電話を見たのは、
明日出席するであろう共通の友人から連絡が入っている可能性を考えたからで、
案の定不在着信が入っていてしかし登録されていない携帯の番号でした。
14時過ぎという時間を見てあまり深く考えず「番号変えたのかな」とまず思い、
それは変だよなそうかたまにある保険会社の勧誘か何かかだろうと思い直して、
これとは関係なく友人からの連絡を想定して携帯が鳴るようにしておきました。


それからいつも通り夕食を準備し、

日本農業新聞を読みながら玄米と味噌汁を食べていて、

ふと、

ある可能性がちらりと頭を掠め、

「まあ思いついちゃったし一応…」

と招待状を見直してみると、

日付なんかよりも僕の目に突き刺さったのは、

「(土)」

…。

………。


 × × ×


まず今日ともに祝うべきだった友人に対する済まなさがこみ上げ、
ほんのわずかに涙が出ました。

そして涙が出た理由はそれだけでした。


 × × ×

いいわけざんまい


気付いてから1時間ほど落ち込み、
食べながら読んでいる記事の内容が読んだそばからぽろぽろ横にこぼれ落ちていくようで、
やってしまったなあとしか言いようがないのですが、
習慣で『攻殻機動隊2』(士郎正宗)を食後に読んだら(本日読了です。長かった…)、
心の動揺が落ち着いていたので冷静になってあらためて考えてみると、
こういうことが起こってもおかしくない生活をしていたのでした。
ここ数年ポカをやらかさなかったのは、やらかし得る出来事がなかっただけのことでした


直接の原因は「結婚式は日曜にやるものだ」という思い込みのせいで、
土曜なら次の日が休みだからむしろこちらが選ばれるはずだと今なら思いますが、
あらためて考えるに「休日度」が土曜より日曜の方が高いと思っていたのでしょう。
こんな概念があるのか知りませんが、しかしある年代以上の方はご存知かと思いますが、
週休二日になるまでに、土曜日は段階的な「休日化」を経過してきたのです。
半ドン」という言い方をしていましたが、会社でいえば午後半休のようなものです。
つまり、学校の授業が土曜日は午前中だけ、という時期がありました。
今でこそ実質的な機能として土日に差はありませんが、
経験上というか身体に染み付いた感覚として、土曜より日曜の方が「休日っぽい」のです。

という言い訳が話としては理解できても非常識に見えるのは、
「招待状の日付けを見りゃわかるだろう」と思うからですが、
その日付を見ても分からなかった理由について次に書きます。
もちろんこれを書いても非常識の上塗りにしかなりませんが。


さきほど上に何げなく書きましたが、
僕には日付感覚がありません
朝刊を夜に読む習慣も一因としてあるだろうし、
会社の卓上カレンダーが表紙(若葉の写真。目が癒されます)のままで使われていないのもそう。
PCのデスクトップの隅っこに仕事の予定をインプットしたカレンダーがちんまりとありますが、
これは「今日の予定は何か」「あの仕事の期限はいつまでか」といった用途に使っていて、
書類に今日の日付を書き込む時やデータ印を押す時にほぼ必ずカレンダーを覗き込むのは、
念のためなんかではなく「今日の日付を(興味がなくて)覚えていない」からなのです。

なぜ興味がないかのかと考えると、予定を何も入れないからですね。
プライベートで人と一緒に何かをすることがほとんどないし、
あるとしても土日なので日付に注意する必要がありません。
会社の飲み会も今の部署に来て歓迎会に出てからはオール欠席です。
(仕事が個人プレーの部署というのもありますが、そうと決めてみると意外と抵抗ありません)
唯一日常的に日付を気にする場面としては「賞味期限の確認」があって、
買い物の周期が1週間に1回なのでこの点にはシビアであってしかるべきなのですが、
毎週土曜に肉や鮮魚の売り場で頭を悩ませるのは献立ではなく「今日が何日だったか」で、
この悩みが解消されるべきものなら日付を記憶する必要性があることになるのですが、

…今書きながら自分で「なるほど」と思うのですが、
実際はその逆で、売り場で頭を抱えることが習慣になっていることが、
日付に対する興味の無さの一番の証明になっている
のですね。


あとは、これもさりげなく上に書きましたが、
携帯電話をほぼ使っていないことも一因だろうし、
(帰省を除けば、前にいつ外出時に「携帯」したか記憶がありません。
 今の位置付けを正確に表現すれば「鳴らない固定電話」ですね)
そうか、もっと包括的な「思想」(生活方針)として、
時刻としての時間に無関心であろうとしている」ことが効いている気がします。

小林 (…)私の素人考えをもうしますと、ベルグソンという人は、時間というものを一生懸命考えた思想家なんですよ。けっきょくベルグソンの考えていた時間は、ぼくたちが生きる時間なんです。自分が生きてわかる時間なんです。そういうものがほんとうの時間だとあの人は考えていたわけです。
岡 当然そうですね。そうあるべきです。
小林 アインシュタインは四次元の世界で考えていますから、時間の観念が違うでしょう。根本はその食い違いです。
岡 ニュートン以後、物理学でいっている時間というものは、人がそれあるがゆえに生きている時間というものと違います。それは明らかに別ですね。
(…)
小林 ベルグソンの、時間についての考えの根柢はあなたのおっしゃる感情にあるのです。
岡 私もそう思います。時間というものは、強いてそれが何であるかといえば、情緒の一種だというのが一番近いと思います
小林秀雄岡潔『人間の建設』p.36-37, p.45

先の帰省時に読み始めた『風土』(和辻哲郎)を今日Veloceで読み終え、
まだ時間があったのでそのまま読み始めたのがこの『人間の建設』です。
ちょうど書いていて下線部を連想したので、その関連部分を抜粋しました。

計測に向かず、体感として伸び縮みするし、連続的であり離散的でもあるもの
時間を「有機的なもの」ととらえることの奥深さはこれまで色んな本で読んできて、
自分の生活にもそれを取り入れることで「肩の力の抜け具合」を実感しています。
が、「時間とは情緒の一種だ」という言い方を見たのはこれが初めてでびっくりしました。


 × × ×

まとめ


つまり、一言でいえば「肩の力を抜き過ぎた」ということです。

が、
申し訳ないと思いながらも上で「起こるべくして起こった」と書いた通り、
今回の出来事に対して必然という言葉も違和感なく浮かんできます。

反省はしていますが後悔はなくて、
それは「受けるべき報いは受ける」と思っているからで、
今回は例外的に「報いの源」が顕在化してしまいましたが、
ハインリヒの法則に照らせば既に僕は、
見えない報いの集合に寝首を掻かれんとする存在となっています。

そうか、そのために首を鍛えているのですね。
(誰も笑えないオチですみません。僕もです)


 × × ×


p.s.1 to Mr.To
 今回はほんまごめん。
 寛大な返事に救われました。
 大学ん時より非常識度が純粋培養されてるけど、
 これからも仲良くして下さい。
 機会があれば会いましょう。
 結婚したから麻雀は難しいかもしれんけど。


p.s.2 to Mr.Te
 前科者になっちまいましたが、
 4/30は間違いなく出席しますのでご心配なく。
 ビバ前日入り!
 アッシャーしっかりやりますんで。