human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

個を超える可能性について(1.5)

「何もしないことが何かのためになる」とは何でしょうか。

その実感は、どこから生じるか。
例えば、何をしても何のためにもならないと自分が思える人を見た時。
その人の価値観もおかれた環境も知らないから、勘違いの可能性は高い。
けれど、自分の価値観と照合してそう思えたのは確かであるとする。

すると、その実感にも、一定の根拠があり、整合性がある。
それを否定することで、自分の価値観の基盤が緩むこともありうる。
しかし、他人の存在を全否定するという認識は、常識を凌駕しています。
自分の妄想と社会常識という、まるで強度の違うものが対立して見える。

本来は考えるまでもないことですが、敢えて考えると面倒が起こる。
二者択一に見えて、実はそうではない可能性がうっすら見えてくる。
論理学でいえば、テーゼとアンチテーゼを包含する、ジンテーゼという地点。
そしてそれを追えば、「日常の論理」が破壊されていく予感がある。

ただ、「日常の論理」は常に相対化される余地を持っているべきです。
常識のもつ厳密でない点や多くの矛盾は寛容さの顕れで、成員の余裕を生む。
それが整合的になればなるほど、息苦しくなる論理というものがある。
論理そのものは、ルールである前に、ツールであったはずです。

話題をちゃんと絞れていませんが、このテーマには多くのアプローチがある。
とりあえず書いておくのは、論理を極めていけばどこかで突き抜けるということ。
巷で流行のメタ思考は、前段に枠組み内での熟考がなければただの思考停止です。
枠組みを作った人は、その構成を築くために身を賭して深く考えたはずです。

メタ思考はお手軽に見えて、それに正当に至るプロセスは長き道のりなのです。