ミスはミスでもMissではなくmissの方です。
何かが失われている、あるいは足りない。
何かが違っている、あるいはそぐわない。
調和から遠いが、不調和というほどではない。
違和感があるが、解消すべきかは分からない。
本ブログにファンシーなテーマを選んでみました。
期間限定かもしれません。それは別にいいですが。
前に抜粋したレジス・ドブレの話も関係しそうです。
ブログのデザイン次第で同じ文章も違って読めます。
ミスマッチ、ミスリーディング、ミスディレクション。
内容とデザインの組み合わせにおける違和感がミスマッチです。
意図された内容と違った読みを行うのがミスリーディングです。
注意を他に向けて判断を誤らせるのがミスディレクションです。
ミスマッチがミスリーディングを誘うこともあります。
ミスディレクションがミスリーディングを引き起こすこともある。
同じ意図的なら、ミスマッチとミスディレクションは似ています。
また、ミスリーディングがこの2つを気付かせることもある。
性質でいえば、ミスリーディングは意味における出来事です。
ミスマッチとミスディレクションは、意味と関係はしています。
ただ、発生地点は意味以前にあるように思えます。
意味以前の効果が、意味において発揮される。
概念だけ並べると、抽象的に聞こえるかもしれません。
しかし、抽象的なものに対する実感は、抽象的な具体例から生まれます。
抽象的と具体的とを対義語と考えるとこれは意味不明な文です。
「抽象的」と「具体的」の好例は「脳」と「身体」でしょう。
互いの性質が反発し合うけれど、両立しないはずがない。
どちらか一方をとるなどといえば人間は存在できません。
人間のなかで、両者は明確に分離できず渾然一体となっています。
それを分かっているのは身体で、「脳」と「身体」と分けているのは脳です。
何の話をしていたのでしょうか。
単にデザインを変えました、というだけの話でした。
まあこれはこれで、一つの実験です。
僕自身、脳内の一部はファンシーですが、総体として決してそうではない。
あとひとつ。違和に違和をぶつけるという、わりと一般的な対処法があります。
原理は違いますが効果として、マイナスのマイナスはプラスというイメージですね。
やけっぱちでやることが多いようですが、これは狙ってやってもあまり成功しない。
というのも、上で書いた通りこれは意味以前の出来事だからです。
それを現在進行形でやりました、ということなのですが、
具体的にはこの記事をこの曲を聴きながら書きました。
記事とデザインの違和に、fancy songとsophisticated pianoの違和という訳です。
なんというか、いつもと別の疲労を得ましたが、さて文章にはどう表れているか。
また紹介したいですが、Watoさんの素敵なピアノをぜひ一度聴いてみて下さい。