human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

毎日新聞(2/2 日)、アラブ社会に想像を巡らせる

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「ストーリー」という特集記事(たぶん外国の特派員記者が担当するシリーズ)では、アラブ社会のグラスルーツの「風刺の精神」について書かれていました。

記事の中では、アラビア語でジョークや小話を意味する「ヌクタ」がいくつか紹介されています。

エジプトでは1970年代からあるという「伝統的」なヌクタを教えてくれた。
「男が虫歯を悪化させた。でも歯医者には行かなかった。友人が理由を尋ねると、こう答えた。『この国で今、誰が口を開けられるんだ?』」言論の自由に気を使う庶民の気持ちが伝わる。

毎日新聞2/2日 1面 取材・文 篠田航一

「飛行機がサウジに着陸すると、機内アナウンスが流れる。『皆様、ようこそサウジへ。時計を現地時間に合わせてください。現在、当地は7世紀です』」
 預言者ムハンマドが生きた7世紀から、保守的な社会は変わらない。そんな現実を皮肉るジョークだ

同上 4面

ジョークや風刺は、その面構えだけで「言葉通りの意味」以外の意味を、伝える相手に想起させる。
そして、状況を共有している人同士であれば、これはジョークだという明示がなくとも「裏の意味」が伝わる。
だから言論の統制や弾圧が激しい国では、身の危険から口に出せない、でも言わずにはいられない本音を表現するための技術が、特に日常生活のレベルで発達する。

記事には、アラブの街角でおしゃべりに興じる人々の話題に常に「ヌクタ」がのぼる、とあります。

表現の自由が議論されたり、失言が失職につながることはあっても、少なくとも日本では、言語表現が即座に身の危険につながることはありません。
ジョークや風刺に対する価値観は、日本とアラブ諸国とでは大きく異なるのでしょう。
風刺に期待する機能は同じでも、その実効性に対する信頼度、それから喫緊性に落差がある。

政治や文化の背景が異なることはさておき、風刺の精神が日常に息づく文化というのは、どう言えばいいのか、「言葉に活気がある」と感じます。
下手なことを公然と口にすれば己が身に厄災が降りかかる社会、今の自分からすればそれは恐ろしい社会に違いありませんが、見方を変えれば、そういう社会は言葉に重みがある、言葉のもたらす影響力が大きいとも言える。

そういう社会では、とにかく危機を避けようと押し黙る人々がいて、同時に、なんとか危険の網の目をかいくぐって発言してやろうという人々がいる。
人間が、言葉を話さずにはいられない、人になにかを伝えずにはいられない存在であるなら、後者のような人々は、どれだけ言論統制の厳しい社会であっても少なからずいる。

彼らは自分が発する言葉に、とても重いものを懸けているわけです。

言葉の存在感を、
身に迫る危険によって必然的に理解せざるを得ない、
そのような状況を、
大変だ、不幸だと思うこともできるし、
羨ましいと思うこともできる。

 × × ×

読み進める目がしばらく固まり、眉をひそめる事件の記述が、同じ特集記事の中にありました。

 メッカの女子学校で火災が発生し、
 黒衣(アバヤ)を着けずに避難しようとした生徒が宗教警察によって押し戻され、
 火の広がる校舎内に黒衣を取りに戻り、
 その結果14人が死亡した。

厳格な宗教規律やそれに基づいた法律の存在によって、日本の価値観からすれば痛ましい事件が、アラブ社会では起こります。
逆に、宗教性に馴染みのない日本で生活するアラブ人が、宗教に対する日本人の無邪気な対応に尊厳を傷つけられ、それが政治問題に発展することもある。

日本とアラブの文化の違いが、それらが交差する際に驚きや衝突を起こす、これは要するに文化摩擦です。

日本の国際化が進むにつれて文化摩擦も大きくなっていくが、その摩擦は異文化理解の必要性も同時に高めていく。
ただ、日本人が異文化理解や多様性の尊重を問題にする場合に、相手に関心を持って理解を深めるのではなく、「勝手にすればいい」という放任・無関心の方向へ進みがちのように思えます。

実際に個人的な人間関係がある場合は別ですが、街でよく外国人を見かけるなあ、という程度の人の多くはおそらく、そう感じている。
外国人に「君のすることにとやかく言わないから好きにすればいい」という態度をとることが、多様性の尊重になるという考えが、存在しているように思える。
でも、文化摩擦が異文化に対する無理解から生じる限り、無関心が摩擦を減らすことはない。


事件の記述を読んで、僕はかつて日本の高校であった「校門圧死事件」のことを思い出しました。

たしかあの事件で亡くなったのも女子学生で、学校の生徒管理に関わる事件ということで連想したように思いますが、この事件はサウジの事件と背景は全く異なります。
それでもなぜか僕に、事件の当事者たちの主観を想像してみたいという気が起こりました。

校門圧死事件の方は、女子生徒も体育教師も「まさかそんなことは起こるまい」と思った。
 走って向かう先で門がガラガラと閉められているが、
 教師は自分が通る直前に止めてくれるだろう。
 相当に重い門が目の前で閉まっていくのだから、
 生徒は危ないと思って直前で足を止めるだろう。
その「まさか」が実現してしまうに至る要因はいくつもあったはずです。
 いつもやっていることだから、という認識がもたらす、目前の出来事に対する不注意。
 管理のノルマをこなす、緩んでいた規律をひきしめるといった動機。
 生徒の教師に対する甘えまたは侮りや、生徒の侮りを覆すための教師の威厳。
複数の要因が重なった不幸な事件ではあれ、想像に難いということはない。

一方で、サウジの事件で焼死した生徒たちは、なぜ火の中に飛び込んだのか。
 火はまだ弱い、
 置き場所は近いからすぐ取りに行ける、
 そういった見通しの甘さか。
理解は容易いが、たぶんそうじゃないと思う。
 燃え盛る校舎から飛び出してくるまでに、命の危険を感じた。
その校舎に再び戻ることに、身体は恐怖を覚えたはずだ。
それでも、宗教警察(この実態も全く想像できない)に従って、戻った。
 日頃からのこの警察の取り締まりが凄まじかったのか。
 黒衣を着ないで出歩くことに対する格別の恐れがあったのか。
 成員の年齢を問わず、宗教的戒律は身の危機感に勝るのか。

日本人は宗教を観念的なものだとするが、彼らはそれを身体化している。
アラブ文化は観念的なのではなく、きっと観念を身体化する規律をもった文化なのだ。
そういう文化と、日本とでは、命の価値観も異なるかもしれない。
人間一人の命が、軽いか重いか、ということではない。

「一人の命は地球より重い」というフレーズを、過去にどこかで聞いたことがある。
日本かもしれないし、もとは欧米の思想かもしれない。
おそらく、アラブではそういう言い方はしない。
それはアラブ社会では一人の命が軽い、ということではない。
人の命に対して、そういう考え方をしない、そういう物差しを持ち込まない。


異文化理解の道のりは、遠い。
それも、現地で暮らすならまだしも、日本で、実際の異文化交流もなく想像するだけなら、なおさら。
けれど、想像することは重要だと思っている。
想像することで、理解が全く及ばない範疇の広さを実感できる。

相手の中に、自分には理解することができない領域がある。
他者の尊重、そして多様性の尊重のために、これは常に念頭におくべきことだと思う。

毎日新聞(1/26 日)と「宇宙空間の豚さんたち」

 
面白い哲学書においては、論題が抽象的でも、その議論が日常生活と有機的にリンクされています。

僕の思う「有機的に」というのは、生活のこまごまとしたことに対する認識を変えたり、些事が新たな意味を獲得したり、あるいは哲学(的思考)そのものが生活の一コマになる、そういった作用を起こすということです。
哲学議論がどれほど途方もなく、また「こじつけ」というか、言葉遊びに見えたとしても、それらの性質と「哲学の有機性」とは、直接には関係しません。
言葉遊び、とか机上の空論、という評価は社会が滞りなく(もっといえば「効率的に」)運営されるうえで採用している通念に基づいた価値観がなすものであって、哲学がその価値観を根底から疑うものであることから社会通念が脊髄反射的に生み出すレッテルに過ぎません。

そのことの言い換えですが、哲学は社会通念的価値の「お株を奪う」ものでもあります。

社会が定義する「必要性」、ここでいう社会とは分かりやすくは消費至上主義社会ですが、この必要性を人々が認めることで、経済が回っています。
ほんとうは必要性を訴えるのは個々の(でも多くは巨大な)広告主体ですが、人々の多くが自然にそれを受け入れることでその必要性が当たり前とみなされる、だから(しまいには)「なぜそれが必要なのか」という根拠や経緯が問われなくなる、そこで敢えて聞かれれば「そりゃもうそうなってんだから仕方ないよ」と面倒臭そうに答えるしかないような状況、これを「社会が必要性を定義している」と表現することもできます。

哲学はその「必要性」に問いを投げかけます。

「必要性の検討」では通常、ポジティブな結論が行動面ではネガティブに現れます。
それは「これは本当に必要なのか? もしかしていらないのではないか?」を吟味することで、検討に対するイエスの回答とはすなわち「これは不要である」の認識に落ち着くことである。

一方で、これは僕自身の印象論ですが、この「必要性の検討」が「これは自分にとって必要なのではないか?」というポジティブな行動を引き出す場合、その姿勢は「消費のための消費」という消費の自己目的化を連想させます
そう思うのは、僕自身に「必要性というのは本来、頭を悩ませて判断することではない」という認識があるからかもしれません。
…いや、この本来性は動物的なもので(つまり身体的なものということ)、世の中が複雑になって予定や計画なしに生活が成り立たない現代社会においては成り立たない前提のようにも思います、が、
これはその複雑さが、人を"生かす"目的で人が設計したシステムによっていつの間にか"生かされる"ようになった段階に至っての「揺り戻し」ではないかとも考えられる。
…すみません、話がごたついたので、本題へ戻るべくいったん切ります。


まだ本題に入る前のまえおきでした。

少し前から読み始めた『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)は、毎週日曜の朝に読んでいます。
なかなか面白くて、いろいろと考えてしまうのですが、それが新聞を読む前なので、新聞の記事を読んでいるあいだにも、その哲学書への連想がはたらきます。

今日はその話。

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ケース・バイ・ケース、とよく言います。

 事前に想定できない状況が起きれば、その時その場で対応するしかない。
 マニュアルに書き切れないことは、個々の現場の人間に判断が任される。

それは臨機応変ということで、その時その場で手近なコトモノを使って解決を導くという意味ではブリコラージュでもある。

今週もまた、毎日新聞別刊の「日曜プライムくらぶ」にある、梨木香歩氏の「炉辺の風おと」の記事を読んで考えたことです。

この連載は長く続いているようで、以下のまとめサイトによれば、テーマが変わるごとなのか、一定期間ごとに小タイトルが変わっていて、いまは「秘(ひ)そやかに進んでいくこと」になっています。
nashikikaho.blogspot.com
なにが「秘そやかに進んでいく」のか、氏の文章を読む僕はいろいろと想像するのですが、氏は自身の人と交わる生活の中で、やりとりその場では感情が激することもありながら、その「なにか」について想いを巡らせて書かれていると感じられる、文章の筆致には静けさが満ちている。

その文章の中で、「マニュアル的な誠実さ」といった表現がありました。

こう言われて、経験した具体的な場面をいくつか思い出すかもしれません。
そうでなくとも、ドラマや小説で見たような絵を想像するかもしれない。

でもこれはたぶん、矛盾しているのです。
この表現に違和感がないとすれば、それは言葉の意味が変質したからです。

そこからケース・バイ・ケースのマニュアル化という言葉を思いつき、今書きながら、これは上と同じ矛盾を抱えたものであると気付きました。

マニュアルには明記できないはずの状況・対応についてまでマニュアル化される。
それはマニュアルが厳密であるとか、想定ケースが複雑多岐にわたるとか、そういうことではありません。
マニュアルを作成する人間が、それに従うべき人間を、限りなく完全に管理しようとする。
個人の事情はさておいての、会社の論理でいうリスクマネジメントの発想を徹底させたもの。

そういう志向が、ここにはある。

 × × ×

『なぜ世界は存在しないのか』を読んでいて、クスッと笑える場面がいくつかあったのですが、第3章まで読んでいちばん面白かったのが「ブタートレック〔Pigs in Space〕」の話でした。

これはアメリカの子供向けのテレビ番組『マペット・ショー』の中にあるコーナーの一つで、番組タイトルからして人形劇だとは思うんですが、著者によればこのコーナー(邦訳すれば「宇宙空間の豚さんたち」)は「科学的世界像」(これを「存在論的に間違った世界像」と著者は指摘しています)に関する優れた知恵を見せてくれる、と言います。

この「豚さんたち」の哲学的なエピソードは長いので省略しますが(でも表現が可愛いのでタイトルに入れてみました)、ガブリエル氏は豚さんたちを手がかりに「科学的世界像」について、「外界が存在するとともに、それと並んで、わたしたちが外界についてなす表象が存在するのだという想定」であると書いています。
また別の言い方として、この「外界」という概念は、「あたかも自分のそとに世界があり、自分がある種の部屋や映画館にいて、そのなかで現実をながめているかのように見えてしまう」ことから生じる、とも。

「地球という客観的で物理的な世界は、自分(人間)存在とは何ら関わりなく、存在している」

このような科学的世界像が人々に自然に受け入れられてしまうのは、自分の経験とか、人生などは結局は幻想であるという印象を我々が根底に持っているからだ、氏はそう主張する。


「科学的認識の根底には幻想がある」というこの話を読んで、僕は岸田秀の「唯幻論」を連想しました。
それは別に意外でもなくて、現に『唯幻論論』という岸田氏の対談集をいま併読しているからなんですが、この連想は僕に「へえ」と思わせる認識をもたらしたのでした。


「この世のすべては幻想に過ぎない」と一言でいえばこうなる唯幻論が、唯心論なのかポストモダニズムなのか、僕自身あまり学問的な理解をしていないのでここで正確に説明はできませんが、僕の認識では「全ての価値は相対化である」とするポストモダン思想に含まれています。

 ポストモダニズムは、全ての価値を相対化した。
 でも、人間は絶対的なものを求める志向をもつ。

唯幻論の範疇にはもちろん、科学主義も含まれています。
科学とは、理論構築と実験による検証によって永遠に更新されていく、積み上げられた仮説であって、相対的なものである。

ところが、上述の「科学的世界像」が人間の認識の根底に幻想として張り付いていることは、唯幻論が科学主義に吸収されることを示唆しないだろうか、と思ったのです。
わかりやすくいえば、こうなるでしょうか。

 「人間の知覚も思考もすべては幻想だ。
  現象を事実として客観的に記述する科学だけが実在する」

「科学が実在」とはどういうことだろう、と誰しも思うでしょうが、このように文章として表すと妙だなとすぐ認識できるものが、実際のところ僕らがふだん生活するうえでの価値観というのか行動原理(これは実際的なものです)のおおもとにある考え方においては、このように論理的に混乱した形で存在するのではないか。

もしそうだとすれば、哲学とはこの混乱を明るみに出す営みである、と言えるでしょう。
そうして哲学が何をもたらすのか、それは「そこに立った者」にしかわからない。

人は哲学に正しい道や救いを求めますが、哲学が人を導く先はつねに「入り口」だからです。

 × × ×

梨木氏の連載記事を読んでいて、「豚さんたち」へ連想が及んだのでした。
それをそのまま並べて書いてみたのが上の通りです。

2つの話がどう繋がるのだろうか、と少し考えてみて、別のことを思い浮かべました。


僕は「システム」というものに強い関心を持ち、これまで何度もブログに書いてきました。
これのちゃんとした定義ができたことがない(記憶がない)ように思いますが、村上春樹氏のメタファー「壁と卵」(@イスラエル文学賞講演)を借りて、ここではシステムとは「壁」である、としておきます。

 一人の人間の前に立ちはだかり、
 回避不能かつ圧倒的な、
 しかし人が認識できるとは限らない、
 (時間的かつ空間的に)不明瞭な影響を及ぼすもの。

…何を言っているのかさっぱりですが、定義はさておきます。


ふと僕は「言葉」もシステムではないのかと思いました。
言葉はシステムとしての要件を十分に備えている。

人は言葉をツールとして、コミュニケーションや記録といった目的のために用いる。
人は言葉を使う。
でも時に、人は言葉に使われることがある。

「悲しいから泣く」のか、「泣くから悲しい」のか。
例えば人が言葉に使われるとは、このうちの後者のような現象を指します。

そして、人が言葉に使われることがその人(やその周りの人々)にとって致命的になるのは、その人に「言葉はシステムである」という自覚が欠けている場合である。

これは逆の言い方(「自覚が状況を救う」)もできます。

そしてまた、繰り返しになりますが、
自覚によって人がたどり着けるのは、ただ「スタート地点」であるところの場所です。

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

脳化社会における庶民の「抽象的土着」について

あるいは本題の5倍以上は長いまえおき

 
理解よりも前、それを目指す考察よりも前の、興味の段階にある状態が、
なにごとかを指し示すことがある。

「普遍に至る個性」は、その個性が社会にもまれて生活している限りにおいて、
いわゆる個性的な人物でなくとも、すべての人が可能性として持っている。

ではその「普遍」とは、数多ある開始点がその終局で収斂するただ一点を指すのか、
それとも「個性の数だけある普遍」という矛盾じみた存在なのか?

一つわかっているのは、
そう問おうとする姿勢の主は「普遍」の意味を取り違えているということ。

 × × ×

引き続き『民衆という幻像』(渡辺京二)を読んでいます。

この本は過去に一度手に取った形跡があり(読始の日付が頁にメモしてある)、しかし読み通したかどうかに記憶がなく、気になる箇所からの再読という形で進めていて、ところどころに読んだことがあるなと思わせる場面がありつつ、それを気に留めることなく読む。


そういえば再読の価値を認めるようになったのは、内田樹氏の著作を多く読むようになってからのことでした。
同じ話を何度も読む(聞く)のは、新しい情報が得られるわけでもなく、意味のない無駄な行為である…思考に意味を見出すことを前提とした読書において、以前の自分はこのような認識でいました。
それが、以前に読んだ記憶がある文章を読んで、しかしその当時に得たものの中にはなかった視点や価値観の変化があったという経験が、「自分が変われば世界が変わる」という啓蒙本にありがちの擦り切れた標語に実感を与えたのでした。

読書を「書き手と読み手の一対一の対話」であるする見方があり、その比喩に従えば、対話主体は話の内容だけでなく「対話の場」について言及もし、また考察するという意味で、読書は絵的にマトリョーシカを連想させる「絶え間ない自己言及」をその活動のうちに含む。
よって、「一冊の本を読んで世界が変わる」という言い方が意味するのは正確には、読了したその時にがらりと認識が一新されることではなく、頁をめくり読み進める間に読み手の価値観が、そのいくつもの末端部において間歇的にじわじわと化学反応を起こすような、地味でいて着実な、息の長いプロセスのことである。
その一方で、一冊の本を読み終えることは読書行為の明確な区切りでもあり、この明確さは、同じ本の再読時における自己言及の対象として際立ったマーカーの役割をも果たす。

以上のことを了解しておけば、すなわち、一冊の本を読むことは終わりなき自己言及・自己参照のプロセスを含む経時的活動であること、そして自己の生活経験がそのプロセスに差し挟まれることで当の自己言及・自己参照が外に開かれたものであることを、一度は念入りに考え、常日頃は頭の片隅にでもいいから置いておくことができれば、「一度読んだ本を再度読む価値」について、計量できるはずもないコストパフォーマンスなどといったものさしを取り出してきて、頭を悩ませる徒労をおかすこともない。

 × × ×

閑話休題
タイトルの話を書こうとしていました。

私は雁さんのもっとも優秀な読者のひとりでありうる自信はさらにないが、そのもっともしつこい読者のひとりにならなりうる自信がある。なぜならこの人の負うている主題は、私自身ののがれられぬ運命にとってとうてい他者ではりえぬからである

「わが谷川雁」p.400-401(渡辺京二著、小川哲生編『民衆という幻像 渡辺京二コレクション[2]民衆論』ちくま学芸文庫

抜粋した文章は、『谷川雁作品集』の月報に寄せるために渡辺氏が書いたものです。
渡辺氏が谷川氏に対して表現したほどの強度というのか、覚悟はありませんが、この一文を読んで思わず線を引いた今現在の自分は、ここで書かれたものと同種の思いを渡辺氏に対して抱いているのだと思います。


民衆、あるいは市民といった表現は、為政者が在民をカウンタブルな対象とみなす価値観を時に含むことになる(たとえば行政文書に表れる場合)ものですが、そういうシステム設計者的な(今風にいえば「上から目線」の)姿勢の対極に位置するのが、各々が独自の生活を営み、互いに交換可能であるはずもなく、一般化という視点がそこでは実質的な意味を持たない、一人ひとりが思想として(言葉にしないまでも)各々のプラグマティズムを実践する主体である民です。
ここでは「庶民」という表現にこの意味を託しますが、僕はここ数年、現代社会におけるこの庶民のあり方について、関心を持っています。

この関心というのは、学問的なそれではなくもっと身近な経験に基づいています。
換言すると、身体性の賦活を維持した生活を送ろうとする僕自身が社会で出会う、またはすれ違う人々に抱く多くの違和感に対して(自分自身の反常識や不適応はさておいて)説明をつけたい、という意図がなす関心

常識や慣習というのは、無定形でとりとめがないながらも、同時代において無批判に金科玉条とされ、個人にはその適応度によって正しい・間違いを課されます。
個人が抱く違和感というのは、その正しさとは次元が異なるものです。
その本質は、その常識が正しいかどうかという疑問にも関係がないし、当然、別の正しい常識があるはずだという建設的(?)な考察にも関係がない。

違和感の出所、原因というのか、それを感じるに至る経緯は様々あります。
自分がよしとする価値観と「常識とされるもの」とがぶつかった時に違和感が生じたのであれば、それは「脳起因」である。
一方で、自分がこれまで生きてきて培われた身体感覚が呼び起こした違和感ならば、それは「身体起因」である。
起因するのが脳か身体か、二元論のように厳密に区別できるはずはなく、実際は両者が謎の比率(つまり数値化に意味はない)で混在しているのでしょう。

それはさておき、僕は、自分が抱いた違和感の起源から「身体起因」をより分ける…のではなくて、その違和感が「身体が発する声」であるという前提に立って、その違和感に思考でもってなんらかの根拠を与え、ひいては身体性の賦活に繋げたい、と思っている。


こう書いて、読まれた方は、思考(言葉)が身体感覚を向上させる(鈍磨を食い止める)、ということに矛盾を感じるかもしれません。
たとえば「頭でっかち」という表現が想定する人間像を思い起こすなどして。

けれど、言葉に全面的に依拠して生きている人間は、言葉によって身体を鈍感にさせるだけでなく、敏感にすることもできる。
このことに(ブログや著書を読むことを通じて)実感を与えてくれたのも、上で触れた内田樹氏です。
たとえば氏は「軒下から手を出して雨が降っているかを確かめる」というイメージを、合気道の稽古で手のひらの感覚を鋭敏にするために用いるそうです。
目の前にいる人の背中にそっと手で触れる時、彼(稽古者)に何も言わない場合と、このイメージを言葉で伝えて彼がその場面を想像しながらする場合とで、彼の手の感覚は明らかに違っている。


また逸れた話を戻しますが、上に書いた自分の関心を一言で表すのは難しいですが、敢えていえば…いや、やはり難しいですね。

とにかく、渡辺氏の著書はじめ、何冊かの本を読んでいて、庶民の在り方、そして実在性というのか……唐突ですが「デラシネ」とは根無し草のことで、これは中世ヨーロッパで農地改革だったか産業革命だかで都市に大量に流入した農民の生活基盤の脆さの喩えに使われた表現なのですが、それと同じ位相の喩えで逆の言葉、シモーヌ=ヴェーユのある著書のタイトルでもある「エンラシネメント」(邦訳は『根をもつこと』)、これですね……つまり、昔のいくつかの時代のいくつかの国の庶民のエンラシネメントについて読んで、その現代のあり方とはどんなものだろう、ということに関心を抱くようになりました。

(話のついでに書いておきますが、この「庶民のエンラシネメント」についてのグラスルーツな考察がなされているものとして、渡辺氏の当の著書を含む3冊を選び、セットとしてサンタナ鎖書店で販売しています。オススメという言い方はちょっと違うのですが、これまで僕が作成してきた鎖書の中ではいちばん「歯ごたえがある」ものだと思っています。この認識に基づいて(あと本の原価も考慮していますが)、鎖書の販売価格もいちばん高く設定しています)
3tana.thebase.in

「鼓腹撃壌」という言葉があります。

曖昧な記憶で書きますが…これはたしか中国の故事です。

 お忍びで町に出たある国の王が、一人の農民にこう尋ねる。
 「この世でいちばん偉大でない人間は誰か」
 相手が王と知らない農民は「我が国の王である」と答え、王のことを散々こき下ろす。
 けれど、それを聞いた王は腹を抱えて大笑いする。

その王が「民が自国の統治者を自由に批判することができる国こそ平和な国である」と言ったか、これがこの故事の意味であったか、だったと思います(正確なところは調べてください)。

この故事に関連づけてだったか、渡辺氏が著書の中で、アジアの国の「為政者の平和(安定)的統治観」として、古くからそれは民が政治のことに何ら関心がなくとも国(国政)が維持されることであった、と書いています。
それは市民の政治参加による民主的な政治運営というヨーロッパの文化と異なる、とも。

それで、この鼓腹撃壌が「庶民のエンラシネメント」とリンクしていて、庶民の庶民性は、一人ひとりが目の前の自分の生活のことにかかりきりになれる(なっている)ことにある、というようなことが、社会主義に関する戦後ロシア文学をテーマにした渡辺氏の文章に書かれています。

 人間とは風景であり、そして風景はたがいに愛しみあうものであるという思想は、とほうもない詩人の恣意のようにみえる。しかしこの思想には、少なくともロシア的な生活伝統という基礎がある。ロシアの民衆は風景のように生きて来たし、それは個が個たりうる生きかただったとパステルナークはいうのである。
 私には、ソルジェニーツィンもこれとほとんどおなじことを言っているように思える。少なくとも彼が『イワン・デニーソヴィチの一日』で提示し、『収容所群島』で展開した、日常些事こそ民衆の思想的とりでであるという思想は、パステルナークの圏域とけっして異なる世界を指してはいないと思う。

パステルナークの圏域」p.398 同上

ときに自分の話をします。
僕自身は抽象的な思考が好きで、その志向は森博嗣氏の膨大な著書に培われたのですがそれもさておき。

 物事を抽象的に捉える。
 具体的な体験を抽象化して教訓を見出したり一般論に結びつけたりする。

こういった思考はふつう、上で抜粋した「民衆の日常些事」とは遠いことのように思えます。
通常は、庶民がかかりきりになる「目の前の生活のこと」から目を逸らした想像、実際的な成果を生まない頭の中だけの妄想のように思える。

でも、実はそれは違うかもしれない。

なぜ「それは違う」と思ったか、その理由を先に書きます。
それは僕自身の関心にあります。

僕には、「庶民のエンラシネメント」に関心があり、それと違和感なく並ぶようにして、抽象思考、具体的な出来事の抽象的把握にも関心がある。
これは単に、一人の人間が全く関係のない2つの対象に関心を持っている、ということに過ぎないのかもしれない。
でも、もしかしたら、ここにはそれ以上の意味が、まだ言葉になっていないが言葉にされることを待っている意味があるかもしれない。

やっと本題

 
…本題を展開する前に書き過ぎてしまいました。
そしてほぼ力尽きています。
毎度のことですが。

タイトルに関して、思いつく限り、無秩序になりますがメモだけしておきます。


現代日本は、生活が不安定だ、先行きが見えなくて不安だ、といった言論に満ちている。
実際に、流行も技術革新も仕事(就労)環境も変化が目まぐるしく、起こる事件は凶悪化し、また大規模になっているように見える。
不安を覆い隠すようなテレビのどんちゃん騒ぎがあり、引きつった笑い声が街に、通りに、駅や電車に満ちる。
自分の仕事に、家庭のやりくりに、子供を外部の不確定要素から守るために、スマホが抱え込む膨大な情報をキャッチアップするために、「目の前の生活のこと」にかかりきりになる。そうして目の前のこと以外は存在しないもののように振る舞う。自分にとって存在しないものであるはずの外部から干渉を受けると、気分良く弛緩していた表情が歪み突然怒り出す。理不尽な現象には、理不尽に対処する。
こういった振る舞いをすべて、現代日本庶民のエンラシネメントの現れであると考えることは、可能ではある。
同時に、その逆として、彼らはデラシネである、と考えることも可能である。
後者を採用した場合に、その思考はどのような展開を見せるのか。

脳化社会において人、特に都会人は、人間の頭が設計し、計画した事物(街、道路、住居、インフラ、情報環境、…)に囲繞されて生活を営む。
事物は明確な因果関係を前提とし、数量化されることでシステマチックに管理される。
あるものを数量化するとは、そのものの性質のうち数量化できないものを捨象する作業である。
それはすなわち抽象化である。
我々は社会で暮らすにおいて、実際に使い、目にし、五感で感じることができると思っているが、それらの背景・布置が抽象化されたものに囲まれている。
そこで、こう問うてみる。

人は「目の前の生活のこと」にかかりきりになるだけで、抽象化された社会に「根付く」ことができるのだろうか?

そうではなく、もしかすると、歴史上かつてなく、現代社会に特有なこととして、
脳化社会に庶民が「根付く」ためには、いったんプラグマティズムを棚上げしての「抽象的な思考」を要するのではないだろうか?

ものごとの背景やメカニズムや構造を知るといった迂回的に実際的な効果を生む思考、とは次元の異なる「抽象的な思考」、すなわち抽象志向。
社会の脳化に呑み込まれて身体性を損なうのでなく、身体性の自由領域を保護すべく社会の抽象的な運営システムに対してバランサーとして機能する、抽象志向。

そうだとすれば、
脳化社会における「庶民のエンラシネメント」のための抽象志向とは、どのようなものか?

毎日新聞(1/19 日)

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今週も、日曜版を読んで考えたこと。

1.

 
俳句を一つ取り上げて、何がしかのコメントを述べる小欄。
その小欄において評者は、交番前につくられた雪だるまを描写した一句に対して誰がその雪だるまを作ったのか、と想像を膨らませる。

 近所の子どもだろうか、派出所のお巡りさんだろうか。
 もし後者が、勤務中に作ったのだとしたら、職務怠慢だと叱られるだろうか。

その想像の結びの言葉に、ちょっと思考を刺激されました。
正確に覚えていませんが*1、子どもにせよ警官にせよ、遊び心はあってしかるべきだ(あるいは彼らの遊び心を周囲は大目にみるべきだ)、といった内容でした。


最初の違和感は、遊び心が当為の言葉で語られていることでした。
「遊び心を持つべきだ」あるいは「遊び心は容認せねばならない」、こういった語り口をとる人に、遊び心があるのかどうか。

けれどこれは揚げ足取りのようなものであって、違和感は別の進路をとります。

結句で用いられた「べき」はたんに、言葉のあやである。
深く考えず、筆の勢いに任せて自然に出てきたものである。
では、なぜそのようなことが起こるのだろう?

 × × ×

誰しも内にいくらかの遊び心を持っている。
そして誰しも、それを自然に表現でき、かつ周囲が認めてくれる(つまり、その表現が「遊び心の発揮である」と認識されて、軽く笑い飛ばすなどの応答が返ってくる)ことは、望ましいことだと思う。

訴訟社会アメリカの後を追ってのことなのか、ネット社会が実現させた個人の発言力の増大を主な武器として、”モンスター”を冠する人々が多方面において跋扈し、多種多様なハラスメントの主張に起因して発生する利害に組織も個人も敏感にならずにはいられない現代日本では、最早それは懐古的な願望であるのかもしれない。
相互監視社会の整備、PC(ポリティカリー・コレクトネス)の濫用といった状況に、それらがもたらした恩恵の裏で、多くの人がある種の息苦しさを感じている。

…という背景がまずはあって。

俳句の紹介欄を一読してまず考えてみたかったのは、ある願望が当為の形で(自然に)表現されてしまうことの意味についてです。
これはたぶん、個人の社会における発言が評論家的になったからですね。

「自分の発言を他人がどう解釈するか」、これは対面で会話する場合や、かつてのラジオの視聴者投稿コーナーのような場合においては、ある特定の他者に対する関心や、あるいは自己満足という指標のもとで考慮の対象となるものです。
一方で、社会的発言に責任を伴う職業や立場の人は昔も今もいるわけですが(マスコミ関連、有名人など)、そのような職業や立場に関係なく、インターネットというインフラツールの存在自体が、それを使用する人(だけでなく、直接・間接に関わる人も含めて)に、新聞記者や著名人と同じ責任意識をもたらすことになった。
その責任意識とは、つまりリスクマネジメントというやつです。

「こう言っておけば、無難だ・間違いはない・…「炎上」しない・クレーム対応可能だ・…」

一歩間違えれば(言葉遣いの一つで)大変なことになる、という理不尽さが、発言者に否が応にも保身の姿勢をとらせます。
そうして、リスク回避があらゆる言説に共通の「隠れた命題」であるかのように飛び交う言葉たちは、その生命力を削がれていき、「死んだ言葉」へと姿を変えていく。


ここ最近、ブログで何度か「言葉が死ぬこと」について触れてきましたが、今書きながら、この現象のひとつの定義ができそうだと思いました。
すなわち、「死んだ言葉」とは、言葉の宛先が血の通った一人の(あるいは複数の)人間ではなくなり、その代わり、情報化社会というシステム*2に基づいたルールに違反しないものとして想定される匿名的普遍的人間に向けられるようになった言葉である、と。

この「想定される匿名的普遍的人間」は、ルール化されてしまったという意味でだけ「普遍的」なわけですが、ここで想定されている判断基準はハイリスクベースド(high risk based)です。
つまり、リスク対象とされる人間像は巷で「なんたらモンスター」と呼ばれる人々にかなり近い。

それも当然のことで、なぜならリスクヘッジとは、彼らがもたらす理不尽な突発的厄災を未然に防ぐことだからです。
 

2.

 
上の話を書いてみて気づいたのですが、今日の新聞記事でもう一つ僕の関心を惹いた「炉辺の風おと」(梨木香歩)にもつながることでした。


梨木氏の父は介護士の介護を受けていて、ある介護処置上の不手際があった時、その経緯を知るために梨木氏が施設の担当者と話をした場面が書かれていました。

 その担当者は個人として好意的な人物であり、これまで何度も助けられてきた。
 けれど今回起きた問題に対する正確な説明を必死な気持ちで求めたこちらの問いかけは、
 電話の中で別の話題に振られることではぐらかされてしまった。

その瞬間に梨木氏は、場違いにも(まだ電話で会話しているのに)大笑いしてしまった、と書いています。
そしてあの笑いは、怒りの表現ではなかったか、と。

コラムの最後には、個人としていかに誠実で好意的な人物であろうと、彼(彼女)がそれと同じように組織人として振る舞うとは限らない、といったことが書かれていました。


コラムに書かれている、この個人の人間性と組織の冷徹さ(会社的プラグマティズム)の落差というのは、人間性が問われずにはいられないサービス業の中で特にその傾向が強い介護の現場において、劇的に現れるものなのだと思います。

この落差は、同じ種類の職業においても、時代を経るに連れて変化するとは思いますが、今自分が考えるには、この「変化」とはおそらく一方向的な増大、です。
当然、この落差に直面した人が受ける精神的衝撃も、大きくなっていく。

そのような流れの中で、「適応」という現象が起こります。

繰り返し起きる難局がもたらす苦痛を和らげるために、個人あるいは社会が採用する方策。
自然界の淘汰とは異なる、意識的なもの。
僕は、その適応の中身は「感度を下げる」つまり物事に対して鈍感になっていくことなのだろうと思っています。
現代社会は、そういう流れの中にある。


でも、別の方策もあります。
それを一言でいえば「自覚」です。

個人的なやりとりと組織をバックにした対応が異なるレベルで行われるのは当然である。
その落差が、組織(あるいは社会全体)の専門分化が進み、生活の利便性が向上するにつれて(たとえば通信技術の発達に伴ってコミュニケーションにおける身体性が取り除かれていくために)大きくなるのは、構造的帰結である。

こういった認識自体が、冷めた考え方であるとか、人間性がない、というのではありません。

自覚とは、行動や態度の基盤であり前提であって、そのアウトプットはもちろん人によって千差万別となるはずです。
そして冷静さとは、ある種の人物の特質(キャラクター)ではなく、あらゆる人が時に応じて取りうる状態のことです。
 

3.

 
話はころりと変わりますが、夕食時に時々読む内田樹氏のブログ記事の中に、ハッとさせられる言葉がありました。

blog.tatsuru.com

この記事の内容に関してついては実際読んでもらうとして、僕が目に留めたのはこの言葉です。

 「書物を商品ではなく、『人間にとってなくてはならぬもの』として扱う仕事」

本は、僕自身にとって「なくてはならぬもの」です。
読書は趣味ではなく生活であり、人生の主要な一部分である。
そして今僕がしている本の仕事は、この認識に支えられています。

一方で、僕が本や読書において考えている大事な要素は「自覚」です。
読書は本質的には人と本との一対一の対話であり、同時に読み手の孤独な営みでもある。
きっかけとして、人に薦められたり、みんなで一緒に読んだり紹介したりすることはあっても、人が実際に本と向き合う読書という場に、他者は介在しない。

これは僕の考え方であって、他にいろいろあるとは思いますが、僕のベースにこの考え方があることは、僕の仕事観にも影響を与えています。
それは、「”本はなくてはならぬものである”という認識を他人に押し付けることはしない」というものです。
この認識が、上の言葉に触れた時に僕の中に降りてきました。
(ちなみに「書物は商品ではない」ことは、僕もずっと考えてきたことです)


ウチダ氏の言葉に感化されて、今こんなことを考えています。

本や読書の効用を、声高に訴えるようなことはしたくない。
でも、個人的な利益とかコストパフォーマンスとか、そういうことを超えて、
「人間が本を読むこと」という普遍的な次元で思考を進めることはできるのではないか。
このような思考の展開と、本の仕事とをリンクさせることができるのではないか。

…何が起こるか、楽しみです。
 

*1:朝刊はすぐ手元にあるので見返せばいいのですが、自分が読んだ記憶をもとに書くという方針にとりあえずしています。

*2:システム:人間が社会の利便性向上のために組み上げたが、高度化するにつれて、もとは運用主体であったはずの人間の顔がどんどん薄れていき、ひとりでに組織化・再構成・増殖などを行うように見えるもの。そして運用主体の価値観をどんどん「システムの維持発展」が主目的となるように染めていくもの。

毎日新聞(1/12 日)

 
なにか、習慣的なことがらに関連して書こうと思った時に、それを書くこと自体が習慣になるかどうかを、書く前から考えてしまいます。
その「先読み思考」が、習慣化できないのなら書く意味はない、という判断材料になってしまうのは、よくない。

やってみたいと思ったことが、やって得られるものの結果を(本当はできるわけないのに)先取りして、無駄なことはするまい、などと賢しらを自分に誇る。
その「無駄」の判断基準は成果主義に統御されていて、この成果主義は実は一貫性がない。
仕事に対してはいいとして、それ以外の生活の中では、都合のいい時だけこの判断基準をもってきて、確信を得た気になる。
が、ご都合主義的な成果主義の運用は、その運用そのものの疑義を招く。
「なぜ今この基準で判断するのか? 矛盾なきよう、常に同じ基準を行動指針とすべきではないのか?」

このような迷いは、人間的であり、社会との折り合いの可能性を見限っていない、という姿勢でもある。
迷うな、と社会は言うが(「人間は迷うものだよ」と言ってくれるのは個人だけだ)、迷わない人は「社会との折り合い」を超えて、社会との一体化を志向することになる。
言い換えればそれは、私は世間の一般人である、私は常識に属する、私がすることは誰もがしている、という認識への染まり込み。
迷わない人は、疑いが持ち上がった時に、その目を自分自身には向けない。

…だからといって、迷わない人は人間的でない、というわけでもありませんが。

人はどこまでいっても人、です。
その視点を忘れないこと、目の前の人の不可解さを(関心をもって)問い続けること。
この姿勢におけるキーワードは、内田樹氏の思考の根幹の一つである「主観的合理性(の探求)」です。
忍耐には限界がありますが、身体性の賦活をベースに、時が経てばこの姿勢に戻ってこれること。

そういう人に、私はなりたい。

まえおき

先週に新聞を読み始めて、平日はオフィスで読んでいます。

昨年の秋頃にアパートのすぐ裏でマンション工事が始まってから、日中家にいる日が工事のない日曜だけになって(土曜も、祝日の月曜も工事がある)、日曜だけは家で読むことにしました。

それで、家でコーヒーを飲みながら(いつも1日一杯と決めているが今日は久しぶりに二杯飲んだ)じっくり読んでいると、これがなかなかいい。

学生時代はジャズ研に入っていて、その時に聞いていた大量のジャズその他音源が今もデータとして手元にあって、今日はそれを整理して、新聞を読む間に流すBGMを選び出しました。今日はその中のボサノバ。


新聞の日曜版は平日と同じ調子のニュース欄に加えて、連載コラムや書評欄があり、社説のような記者の書いた記事も日々のニュースを遠目に見ての視野の広いもののように思えて、なんだかホッとします。

閉塞感とか、成長時代の終わりとか、先行きの見えなさとか、ニュースの内容も社会批評のテーマもネガティブな調べが底流していますが、それらのテーマや内容が僕をネガティブにさせるかといえば、実はそうではない。

ネガティブな感情は、それを否定せず受け入れるにしろ、吹き飛ばそうとポジティブに反跳するにしろ、近視眼的な姿勢を誘導します。
だから、目の前のことしか見ていないような記事ばかり読まされると、そこから(自明なものであれ、隠されたものであれ)ネガティブな感情を読み取ってしまうのだと思います。
そう思えば、短期利益を追求する経済志向も、ある種のネガティブさの顕れかもしれません。


それはさておき、時が経つのを気にせず日曜版を読むのもいいものだと思い、このゆっくりさを維持して自分の思考を文章にできればそれもまたいいなと思い、この記事を書き始めました。
最初に書きましたが、これが習慣化するかのような記事タイトルがついていますが、あまりその可否とか結果とかを想定せずに書ければと思います。

ブログの記事のタイトルには、その記事内容の要点やキーワードが並ぶものですが、そうやって整理分類とか、要約的意味づけを、してもいいのですが、しないのでもいいのではないか。

また話が抽象的に逸れますが、成果主義と習慣というのは(特に反発するでもなく見えて)本質的には相性が悪いと僕は考えます。
先の「ゆくくる」でも少し触れましたが、その時とは別の言葉で書くと、習慣とは「なにげなく続くもの」で、意味(価値)はないし、仮に意味を見出すならばそれは続いていること自体にしかありません(なぜなら、続かなければそれは習慣ではなくなるから)。

成果主義は、この習慣という行雲流水的営為に、全く別の価値基準を持ち込みます。

上で「相性が悪い」と書いた理由は、成果主義はこのことによって習慣に対し、常に潜在的な破壊可能性を有するからです。
このような自覚がなくとも、人は柔軟に習慣を破壊しては新たに構築し、そしてそれをまた繰り返すものですが、社会の成果主義が個人に負荷する圧力が増すに連れて、柔軟性だけでは対応し切れなくなります。
そして、「ゆくくる」の繰り返しになりますが、成長から老いへシフトする宿命である人間が全的に成果主義に染まることの帰着は、構造的な不幸の増大です。

…話が本題にたどり着く前に力尽きそうなので、ここで本題に入ります。

今週の「毎日」日曜版

今週のというか、今回は初めて毎日新聞の日曜版を読んだので、その感想も入ります。

これまで朝日新聞(実家で読んでいるし、「ののちゃん」が好きで個人的な購読期間が一番長い)、読売新聞(工学部の院生の時に酔狂にも入社を目指して、就活時にしばらく読んでいた)、日本経済新聞(実家に帰った時に読む)、日本農業新聞(神奈川で働いていた時、ニュースを読んでネガティブになる自分に耐えきれなくて「一番害がない」という選定基準でしばらく読んでいた)を読んできました。
それらとの比較はしません(できません)。
今列挙した意味も…特にありません。

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連載記事に、僕にはお馴染みの著者がいたのが少し嬉しいです。
・「人生相談」に、高橋源一郎
・別紙「日曜プライムくらぶ」に「炉辺の風おと」というタイトルで、梨木香歩

書評の(社外)担当者では、橋爪大三郎白井聡池澤夏樹の各氏。
同じ担当者で、名前をどこかで見たという記憶しかありませんが(音楽評論家だったかな…)、山崎正和氏の書評が、とりあげられた本が面白そうというのもあるんですが、文体が好きで、氏の著書も読んでみたいという気になりました。

山崎氏が取り上げていたのはトーマス・ベルンハルト著『破滅者』。

破滅者

破滅者

書評記事から二箇所、引用します。
記事のタイトルは、「わかる」ことの悲劇と救い、です。

 「わかる」ことは、人を孤独にする。わからないすべての他人を敵に廻し、わかり知る密室に閉じこもることになるからである。
 とくにわかる対象が自然物ではなく、人間の知恵や才能である場合、事態は致命的な悲劇となる。他人の優越がわかればわかるほど、人は自分にはそれができないことが切実にわかり、自分自身を見下して、孤独を深めるほかはない。

 文体が直接に主題を表現する前衛的な手法がみごとだが、その厭世観も読み終わると救いがなくもない。人は誰しも自分だけにわかる何ものかがあるわけで、狂気には到らなくともその意味で人生共苦のなかにいるからである。

「わかる」ことの孤独、それがもたらす悲劇。
その悲劇の内容は書評内で述べられていますが触れません。
孤独がエスカレートして運命的に悲劇が導かれる、ということのようですが、もちろん本の内容は知らぬまま、この要約だけを目にして、考えるところがありました。


無知の知、という言葉があります。

なにかを知る、理解することは、そのことよりももっと多くのことを自分が知らないことを教えてくれる。
解決はつねに、新たな問いを携えてやってくる。

人に対する理解において、一般論や客観的な観察結果、そして主観のバイアスへの認識など、アプローチを突き詰めれば人は他者をかなりのところまで把握することができる。
ただ、そのアプローチがどれほど精緻に、慎重にとられようとも、他者理解を不変の確定的なものとしてしまえば、それは「見限り」になる。
(話は逸れますが、現代日本で蔓延しているのがこの「他者の見限り」で、他人への関心を持たない、想像力をはたらかせることもない、という現象の大元です…いや、因果関係ではなく単に言い換えただけかもしれません。すぐ思いつく原因としては、個人の頭の情報処理をオーバーヒートさせる高度情報社会の複雑さ、プラス養老孟司先生いうところの脳化社会の進行、等々)

知の袋小路は、思考の閉鎖性と不変志向によって形を成し、その影響力を増していきます。
しかし、この両者は意識活動の自然過程の必然であり、そうだとわかっていて簡単に回避できるものではない。
そこにメカニズムはあっても、メソッドはない。
意識の自己言及、マトリョーシカ入れ子構造の外に出るには、身体性の助力が必須です。

そして、身体の本質は不確定性、すなわち変化することにあります。


話がオチないので前言撤回します(オチを気にするのは大阪人のよくない癖ですね)。
書評内の「悲劇の内容」ですが、この小説(二編の中編)の登場人物は孤独が極まって自殺してしまいます。

僕はもちろん、人生の中で自殺を考えたことがないとは言いませんが、今の僕が(将来にわたって)自殺する可能性は限りなく低いと思っています。
それは、意識活動の深奥には身体があること、このことの「実践的な」理解があるからです。


いや、言い直せば、理解を志向している、ですね。
それは終わりのないプロセスだからです。

寿命という「終わり」がありながら、人が取り組むプロセスに終わりがないものがある、そのことの意味は、「人は永遠を知ることができる」です。
それは今流行りの「永遠の一瞬」などという刹那的把握とは対極にあるものです。

(オトしたそばからこれだもの。。来週に続…けばいいですね)
 

ゆくとしくるとし '19→'20 2

去年の、つまり先の年末年始の「ゆくくる」を読み返していました。
よくもこれだけの量を書けるなあ、というくらいの長文でした。
1から5まであります。

cheechoff.hatenadiary.jp

はっきりとは書いていませんが、その時の自分の状況が文章の雰囲気としてよく表れていました。
「転機」という言葉を使っていましたが、あれは「はっぱ」だったのだと思います。
言の葉という意味では「葉っぱ」でもありますが、もちろん「発破」のほうです。
言えばそうなる、という行為遂行型の発言。
そしてその転機は、穏やかな推移を見せ、軟着陸でもしたか、低空飛行を続けているか。
去年からの流れをいえば、そんな感じです。
何を言っているのか、よくわかりませんね。


頭の中は、去年とさほど変わっていません。
自分がありたいと思う「状態」をいつも念頭において、それを目指すというか、裏切らない、あるいは維持するように日々を過ごす。
そういう生活をする中で、だんだんと「生産性」にとらわれないようになってきました。

今日一日で、何か成果があったか、能力の向上はあったか、話は前に進んだか。
夜に寝る前に、そういう視点で一日を振り返ることをよくしていました。
会社で働いていた間よりも、むしろ辞めてからの方が、そのような傾向が強かった。

一人暮らしだから、という面もあると思います。
誰かといつも一緒にいれば、その誰かが気分よく過ごせる、あるいは(子どもがいれば)成長する、変化する、といったことを身近に実感することができる。
それは、いつからか生活実感につきものとなった、進歩している感覚、前に進んでいる感覚を満たしてくれる。

「生産性」というのは、この生活実感の代替物の役割を果たす。
本来このワードは社会集団や企業活動内で使われますが、経済成長が前提とされる社会設計、サラリーマンという就業形態の普及などとともに、個人的な文脈で使われるようになった。
だから、現代人が(仕事以外の場面でも)個人の生活に対する評価指標として、その人自身の生産性を採用することは、自然な成り行きといえる。

本当はそうではない…という言い方は雑なのでしませんが、一つの視点として続けて以下に書きます。

生活の充実度を生産性で測る姿勢は、その人が年齢を経ていくごとに実りが少なくなることは避けられません。
老いを感じるようになり、当たり前にできていたことができなくなり、体力や能力がどんどん衰えていく中で、その姿勢は必ず転換を迫られる。
行く先に不幸の増進を宿命づけられた価値観に、人はいつまでもしがみつくことはできない。
よって、この姿勢の転換、価値観の一転は、同じ価値観で維持発展を続けていく社会に対するドロップアウトということになる。
これは、年功序列や定年制という社会システムが前提していた、個人の人生設計の構造です。

一方で、能力主義が進み、転職が当たり前になり、定年の年齢がどんどん後退する流れがある。
その流れのベースにあるのは、成長志向というのか、資本主義のさらなる興隆です。
これらが意味することは、個人の価値観として生産性から逃れられない、先に触れた「行く先の不幸の増進」を構造的に運命づけられているのが現代人だ、ということです。

 × × ×

以上のことを去年末から正月の三が日くらいに書いて、そのまま今日(1/9)まで放置してしまいました。

今回の年末年始はまったり(というか「ぐったり」)し過ぎて、元の生活に戻ってからも身体が重いです。
体重は増えましたが、使える筋肉が減って、使えない(=「蓄え」としての?)肉が増えたのだと思います。
軽快に動けるようになるまで、しばらく調整日が続きます。

今年の抱負かなにかを書く前に、今撮った写真を1枚。
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新聞を購読することにしました。
家に届いた朝刊をリュックに入れて、オフィスで読む。
という生活習慣をやってみようと昨年末に思いつき、今日がその一日目です。

動機は…単なる情報収集、ではないと思います。

ネットでなく紙媒体を選んだことには理由がある。
また近いうちに掘り下げて考えたいですが、ネットには無限の可能性が広がっていながら、その「等身大から見た無限」によって、逆にそれを使う人間の想像力を抑制したり、捻じ曲げてしまう影響力をも持っているのではないか、と考えています。
ネットのことを「仮想空間」という言い方をすることがありますが、これは一人の人間の頭が想像する仮想空間とは違う。
後者が奔放に活動でき、かつバランスを崩すことがないのは、そこに身体性があるから。
前者のネットには、それがない。
上で抑制や捻じ曲げと書いたのは、ネット空間でバランスを保つためのストッパ的役割のことです。
この話は今はこの辺にして…

去年は世間というか、社会の現在の動きに対して、ほとんど隔絶した生活をしていました。
先の年末に実家の新聞で「この一年のニュース」という総括記事を読んで、知らないニュースの多さに驚きながらも、個々のニュースにあまり関心はありませんでした。
(今覚えているところでは、加藤典洋氏が亡くなったことくらいです)
だから何だ、ということも実はないのですが…

今考えながら書いているので散漫な文脈は容赦頂くとして、
「社会に対する無関心」は、実はその逆と等価なのだと思います。
もちろん、社会の方からアプローチがあれば、反作用として社会への関心は生まれる。
では、情報収集もせず付き合いも少ないフリーの人間は必然的に社会に無関心になるか、といえばそうとも限らない。
新聞購読は情報収集の一つの形ですが、その結果として社会に関心が生まれることはあるとして、その逆は必ずしも真ではない。
つまり、自分は社会に対する関心に基づいて新聞を読もうと思ったわけではない。

…何が言いたいのかよくわかりませんが、たぶん「社会」とか「世間」とか、そういった「みんなで"ある"ことにしているバーチャルなもの」に対する関心は、僕にはないのだと思います。
ニュースを日々追っていれば、なんとなく現代日本の流れのようなものを感じることはできる。
その「なんとなく」とは、自分に関わる人が同じニュースを知っていて情報や感想を共有できる、そのことによって「間が保たれる」という日本的なプラグマティズムに貢献はする。
これに対する積極的な興味は、僕にはない。
では、何があるのか。
何でしょうね。


写真に映ったもう一つ、新聞の上に乗った青い物体は、正式名称は忘れましたが「フィンガストレッチャ」です。
五指に嵌めると、指を開くときにゴムの弾性が抵抗となる。
ボルダリングは手を握る、掴むという閉方向の力ばかり使うので、バランスをとるためのストレッチグッズですね。

昨年暮れから手根管症候群なるものを発症し、左手の親指側三指が時々痺れるようになって、医者に行く前に治療法を色々探っていました。
漢方、栄養剤(グルコサミン&コンドロイチン)、湿布等を試し、本質的な効果があまりなかったのですが、写真のグッズを使うと症状が和らぐような感触を得られたので、使用を継続しています。

また、昨年の暮れに自炊の野菜炒めが「あたって」、入院をすすめられるほどの重度の胃腸炎にかかり、1週間以上高熱で寝込んだのですが、治ってしばらくしてみると、まあ体幹や筋力がだいぶ落ちたのは仕方がないとして、手根管症候群もだいぶましになっていました。
これは多分、野口晴哉氏いうところの「風邪の効用」だと思うんですが、これを病を経た幸いと思って、症状の改善を今後目指していくつもりです。

 × × ×

えーと、今年の抱負でしたか。

「自分に正直に」、加えて「いつでもメタ思考の余裕を」でしょうか。

「やりたいこと」はよくわかりませんが、
「やりたくないこと」は明確に、そしてたくさんあります。
後者をなるべくせずに、生活を成り立たせるように工夫できればと考えています。

寛容の精神はグラスルーツから。

今年もどうか、よろしくお願いします。

chee-choff
 

まったりと年越し

今年も紅白見ました。

AKB系列の、なんたら坂か忘れましたが「不協和音」という曲が、曲はいいなと思ったんですが、君らそんな大勢で歌う曲ではないだろう、と思いました。

日本語には建前と本音という裏表の性質があって、それぞれが実質を備えて補完し合うことで言葉に厚みが出る。
いつからか「ぶっちゃけ志向」というのか、臆せず本音を言える人間がカッコイイ、という風潮が流行るようになった。
それが流行になって、「本音っぽいこと言えばカッコイイ」みたいになって、本音に伴うはずの姿勢や覚悟が遊離して、意味が実質を失った。
言葉が道具に成り下がり、さらに一歩進んで「飾り」になった。
そりゃあ、信用できんわな、と思う。
他人の言葉も、自分の言葉も。

あと、やはり椎名林檎には今年も注目してしまいました。
おとなしく会場に出て素直に歌っているようで、他の出演者と比べて「力の抜け具合」が違う。
気楽に歌い始めた1曲目も、情熱的にテンションが上がった2曲目も、抜群の歌唱力ながら目だけは笑っていない。
あの目が好きなのだと思います。

 × × ×

そしてNHK紅白のあとの「ゆくとしくるとし」という番組で、各地の神社の初詣の様子が映されていました。
なるほど、これを見たら初詣に行った気になるのか、と納得しました。
というわけで今年も、はちまんさんには行きませんでした。
リラックスしてしまうと、おせち食べて酒飲んだ後に寒い外に出る気なんて起きませんね、ふつうは。

そんなこんなで、ぐうたらしながら2020年を迎えました。
考えること…そんなにないかもしれません、ね?
去年たくさん書いたし、今年はいいかという気も少し。

とりあえず、ご挨拶。


あけましておめでとうございます。

chee-choff
 

ゆくとしくるとし '19→'20 1

年の瀬です。

今年は、いつもより寒くない気がします。
だからなのか、年末という感じがあまりしません。

毎年、年末になると頭の中に流す曲がまた同じように流れて、それで年末だなと感じる。

「節目」という感覚が、年々薄れているかもしれません。
年齢のせいかもしれないし、それとはまた全然違う理由かもしれない。

 × × ×

テレビの「NHKドキュメント」で、自民党の政治についての特集をやっていました。
最後までけっこう真剣に見たんですが、なんだか甲斐がないなと思う。
「永田町」というキーワードがもはや、政治じゃなくて政局の話題であることの表明になっている。

現役の総裁や大臣がインタビューで話していた言葉は、僕らに向けられたものではなかった。
せいぜいが内輪向けの、実際は自分自身に向けての、鼓舞なのか慰撫なのか、政治と関係のないプライベートな言葉。
もっと言えば、心の声のだだ漏れ。
「せっかく政権をとったんだから続けたい」
何? 修学旅行の思い出作りと一緒?


ただ、枝野氏がインタビューで言っていたことは、本当だろうなと思う。
不祥事や事件に関する釈明や説明が、事実に関係なく、落着させたい筋書に沿うように捻じ曲げられ、論理を損ない、そしてそれらがまかり通っている。
そうして引き起こされている事態を、枝野氏は「モラルハザード」と呼んでいた。
同じことを、小田嶋隆氏は日経ビジネスで連載しているコラムでは、もっと端的に「日本語が死んだ」と書いていた。

僕らにできることは、一つしかない。
政治の言葉の死に、巻き込まれないことだ。
マスコミは、巻き込まれる運命にある。
だから、一人ひとりが対処するしかない。

それは「正気でいる」ことかもしれないし、
あるいは「孤独に耐える」ことかもしれない。

変わるべきではないことがあり、それを自分の中で守り続けることが、対外的には状況に応じて何らかの形をとって表れる。
その形には意味がない、そのクールな認識を保つこと。

 × × ×

今年は昨日から実家に帰省しています。
年末に予定はなく、年明けも、合間にジムに登りに行く以外には入れていません(今日は長岡京市のジムで登り納めをしてきました)。

今年を振り返るのか、来年の抱負を見据えるのか、「ゆくくる」の進行はなりゆき次第ですが、
考えたいこともあるので、じっくりと書いていきます。

時間は、とてもゆっくりと流れています。

Black Enigma

 
──あまり人の登りを見たりしませんよね?

「いくつか理由はあります。
 まずは、あまり参考にならないから。僕がそうなんですけど、能力バランス的にフィジカルが弱くて、でも足でグイグイ登るタイプの人はわりと少ないのです。足遣いが上手い人は上半身も強いし指も持てる。そういう人の登りは見ても真似できない。パワータイプの人も然り。
 もう一つは、人が登っているのを見ると、自分も登った気になってしまうんですね。これはオンサイトか否か、つまり初めての課題を何も見ずにトライするか答えを知ってトライするか、ということとはまた別の問題です。
 自分の頭で思い描いただけのムーブを、実際にトライして確かめる、という一連の試行錯誤には、いつでも未知の発見があります。身体が驚く準備ができている状態というのか。それが、人がやったムーブを再現しようとするトライは、何か邪念が混り込んだ感じになる。上手くできれば正解、できなければ間違い、みたいな、問題を解いているような、答え合わせのような感覚になる。それはまた一つの上達のプロセスではあるんですが、なんだか、目的がかちりと決められてしまったような不自由を感じる。自分の想像ムーブに対する答え合わせなら、正解すれば想像力の強化になるし、違っていればその齟齬が次の向上というか、新たな想像のヒントになる。
 僕はあまり『上達すること』に熱心ではありませんが、想像力が広がることは伸ばしたいと思います。上手くなること、高難度の課題が登れるようになることは、もっと色んな登り方、身体の動きができるようになることの、付随的な効果として表れてくればいいと考えています」

──課題を自分でつくるのも、目的は同じところにあるのですか?

「そうです。自分の身体との対話、という意味では新しい課題を登るのと同じです。でも課題作成には別の楽しみもあります」

──別の楽しみ、とは?

「キーワード的にいえば、ブリコラージュ、それとアフォーダンスですね。
 ホールドというのは、一つひとつに形があるわけですが、それが特定の形状の壁に、特定の向きで取り付けられている。ホールド一つを考えても、壁と向きとで、パターンはいくつもあるわけですが、それが、ある連関を持ちながらたくさん並べてつけられているのが、ボルダリングの人工壁というわけです。
 一つのコースを同じ色のホールドで作ることをカラーセットと呼びますが、カラーセットで作られた壁も、いくつものコースが隣り合ったり混り合ったりして、それぞれのコースとは別の小宇宙を壁の表面に形成しているわけですが、コースを作りながらホールドをつけるのではなく、壁に開いたボルト穴をとにかくホールドで埋め尽くす『まぶしセット』という手法もあって、こちらは完全に、壁形状とホールド群の宇宙空間のテイストがあります。既にあるホールドから課題をつくるという時、作りやすいというか、アイデアがどんどん生まれてくるのはやはり『まぶしセット』のほうですね」

──キーワードがおいてけぼりになっていますが…?

「そうですね。では順番にいきましょう。
 ブリコラージュ、文化人類学では器用仕事と訳されますが、簡単にいえば『ありものでなんとかする』です。何か問題に取り組むとき、その場にあるもの、持ち合わせのもので解決しようとすること、その姿勢。そういう人のことをブリコルールとも呼びますね。本質的に、人間はいつでもどこでもブリコルールだとは思うんですが、それはさておき。
 いろんなものが簡単に手間なく入手できる現代社会で、僕は特にこのブリコラージュが大事だと思っていて、効果の確かな効率の良いものを高コスパで入手して最短時間で解決、みたいなことは決して理想ではなくて、使い方とか、実用性とか、傍目にそういうことがよくわからないものを、自分の視点で使用して、使い途や効果を見出していく、曖昧であったり不明だったものを、自分の力で明らかにしていく、そういうプロセス自体が、現代では意識しないとできなくなっている。で、ぶっちゃけていえば、このブリコラージュそのことが生きることだろう、と思います。だから、効率とかコスパとか、善意で見れば、それは何か別の大事なことを達成するための道程の短縮として追求するのなら、まあそういうものかと思いますが、それ自体が生きる目的というか、生活の主体になっている人(そんなひと間近に見たことありませんけどね)がいたら、それは生きることに対して手抜いてんじゃないの、と思ってしまう」

──話がずいぶんそれてきましたが。

「すみません、戻しましょう。まあ、簡単にいえば、ブリコラージュは生きることそのもので、それ自体楽しいことで、ボルダリングの課題作成もその中の一つですと。登ってるだけで楽しい、課題作るだけで楽しい。言ってしまえば一言で終わるところを長々と語るための言い訳のようでもありますが。ああでも、このブリコラージュの肯定というのは、生活のほかの場面にもフィードバックがあるわけです。
 またややこしい話をしますが、『ありものでなんとかする』という姿勢は、ある見方をすれば貧しくもあるわけでしょう? 水性洗剤とか、重曹とか、汚れの種類に応じて使いやすい洗剤があって、それらを揃えれば大掃除なんかで苦労しないで済むのに、ぜんぶ雑巾1枚でカラぶきと水拭きだけでなんとかする、みたいな、これもブリコラージュと言えなくはないんですけど、『洗剤買いなよ』って素直に思いますでしょう、この場合。これはブリコラージュが苦労を背負い込む一例なわけですが、逆に、家にある全然違う用途の何かが掃除で思わぬ効果を発揮したりすれば、これはブリコラージュの役得なわけです。こういったように、ある人の生活思想としてブリコラージュが定着していて、ある一場面でブリコラージュがプラスに働いた時、その人の生活全体が明るく楽しいものになる。これが先に言った『ブリコラージュの肯定的フィードバック』の意味です。で、話を戻せば、ボルダリングの課題作成の楽しみや充実というものは、このフィードバックをもたらし得るのです。ということをさっき思いつきました」

──なるほど。そろそろ話を戻しますか。

「そうですね。では…えーと、しかし『楽しいです』と一言で終わってしまえることを、何か具体的に話せとおっしゃっているわけですよね」

──そうなりますかね。

「ふむ。では自分が作っている時のことを想像すれば何か思い浮かぶかもしれませんね。…ああそう、キーワードがもう一つありましたね。
 アフォーダンス。これは生態学者、だったかな、ジェームス・ギブソンの用語で、動物主体の行動が、主体の意志によるのではなく、主体の周囲環境によって誘発される現象とか、その環境効果のことを指していたはずです。記憶が曖昧ですが…ここでこの言葉を出したのは、ホールド、あるいは壁の形状とホールド群が、アフォーダンスを形成しているということです」

──その用語について少し説明してもらえますか。

「はい。例えば、ホールドが奥行きのある縦長の形状ならば、そのホールドはタテにピンチ持ち(親指とそれ以外の指とでつまんで持つこと)するようクライマーをアフォードしています。あるいは窪みが下から上向きに空いたホールドを見れば、下から指を引っ掛けたくなる。以上はホールド単体の話。別の例だと、同じ高さ、腰くらいの高さで1mくらい間隔をあけて2つのツノホールド(円錐台形のホールド)が並んでいれば、またその2つがスタートホールドだとすれば、それらは両腕を各々に上から突っ張って(体操の)鞍馬態勢をとることをアフォードしている。などなど」

──そのアフォーダンスと、課題作りが、どう関わってくるのでしょう?

ボルダリングにおけるアフォーダンスをわかりやすく言い直せば、ホールドはすべて『こう持たれたい、こう使われたい』という隠れた意志をその佇まいの中に持っているのです。だから、設定された課題を登る人は、その意志の声を聞き取って、あるいは課題者の意図を想像して、上手く登ることが要求される。一方で、元から並んでいるホールドから課題を新たに作る人は、一つひとつのホールドの声、また色んな組み合わせの複数のホールドが発する声(それは和音になるのでしょう)を聞いて、それを形にする作業が求められます。もちろん、ホールドの声を聞いたうえでそれを敢えて無視する、逆を行く、というやり方もあります。あるホールドを、その一番持ちやすい持ち方ではなく、掴みにくい、滑りやすい持たせ方を敢えてするように課題に取り込めば、その課題を難しくすることができます。
 課題をつくる作業は、いろんな意味で創造なわけですが、声を聞き分ける、複雑なホワイトノイズの中からある整った和音をそれとして同定するという繊細な手続きが一つ、また、これまで自分が登ってきて自分の身体に蓄えられたムーブの記憶もその同定作業に加わる。そして、自分が今までしたことはないが、このホールドの組み合わせならできるかもしれないという思いつき、これはアフォーダンスに導かれる創造ということになるでしょう。こうして言葉にしてくると、課題作成というのは、決して作成者の思いつきが全てではなく、壁が人に作成を促すようなところがあり、同時に作成者自身の頭の中から生まれたことも事実であるから、どこか自分の潜在能力が活性化されたような感覚にもなる。いわば、課題作成とは自分の中から謎が引き出され、その謎が形を獲得する過程なのですね」

──そしてその謎の色とは黒である、と。面白い話、ありがとうございました。
 
 × × ×

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Galera(@大正区)のメイン壁まぶしセットより

月と眼球

 
 ビルの隙間から月が見える。
 見上げながら一緒に歩く。
 自分たちだけが動いているように見える。
 自分たちだけが止まっているようにも、見える。
 同じことだと思う。

 月に時間があるか?
 月から時間が生まれるか?
 月は定点だと捉える。
 自分は月に観測されている。
 不変の基準として、適切な対象。


 月の眼球を持つ人がいる。
 目は口ほどにものをいう、という。
 同時に、目は耳ほどにものを聞く。
 月が語るのは、その奥から放つ光から。
 同時に、その光はその月を見る目でもあるから。

 距離を無効化する視線がある。
 一極には、対象と同一化するゼロの距離。
 対極には、対象を無効化する無限の距離。
 どちらも幻想。
 そしてアクロバティックな同一性。


 自然と人工という枠組みの人工性を取り払う。
 意識は成り立ちとして人工だが、営みとして自然である。
 人工は定義であり、自然は存在である。
 枠組みは科学と同じく、仮設的であり、便宜的である。
 便宜性の本質は「人生普請中」の一言にある。

 月のない世界も、月が6つある世界も、ここにある。
 人は月との距離を、知るべきではなかった。
 知ったことを無効にはできない。
 それでも、月の瞳は失われない。
 エントロピーが覆い尽くせないのは、ただ静謐のカオスのみである。