human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ゆくとしくるとし '19→'20 2

去年の、つまり先の年末年始の「ゆくくる」を読み返していました。
よくもこれだけの量を書けるなあ、というくらいの長文でした。
1から5まであります。

cheechoff.hatenadiary.jp

はっきりとは書いていませんが、その時の自分の状況が文章の雰囲気としてよく表れていました。
「転機」という言葉を使っていましたが、あれは「はっぱ」だったのだと思います。
言の葉という意味では「葉っぱ」でもありますが、もちろん「発破」のほうです。
言えばそうなる、という行為遂行型の発言。
そしてその転機は、穏やかな推移を見せ、軟着陸でもしたか、低空飛行を続けているか。
去年からの流れをいえば、そんな感じです。
何を言っているのか、よくわかりませんね。


頭の中は、去年とさほど変わっていません。
自分がありたいと思う「状態」をいつも念頭において、それを目指すというか、裏切らない、あるいは維持するように日々を過ごす。
そういう生活をする中で、だんだんと「生産性」にとらわれないようになってきました。

今日一日で、何か成果があったか、能力の向上はあったか、話は前に進んだか。
夜に寝る前に、そういう視点で一日を振り返ることをよくしていました。
会社で働いていた間よりも、むしろ辞めてからの方が、そのような傾向が強かった。

一人暮らしだから、という面もあると思います。
誰かといつも一緒にいれば、その誰かが気分よく過ごせる、あるいは(子どもがいれば)成長する、変化する、といったことを身近に実感することができる。
それは、いつからか生活実感につきものとなった、進歩している感覚、前に進んでいる感覚を満たしてくれる。

「生産性」というのは、この生活実感の代替物の役割を果たす。
本来このワードは社会集団や企業活動内で使われますが、経済成長が前提とされる社会設計、サラリーマンという就業形態の普及などとともに、個人的な文脈で使われるようになった。
だから、現代人が(仕事以外の場面でも)個人の生活に対する評価指標として、その人自身の生産性を採用することは、自然な成り行きといえる。

本当はそうではない…という言い方は雑なのでしませんが、一つの視点として続けて以下に書きます。

生活の充実度を生産性で測る姿勢は、その人が年齢を経ていくごとに実りが少なくなることは避けられません。
老いを感じるようになり、当たり前にできていたことができなくなり、体力や能力がどんどん衰えていく中で、その姿勢は必ず転換を迫られる。
行く先に不幸の増進を宿命づけられた価値観に、人はいつまでもしがみつくことはできない。
よって、この姿勢の転換、価値観の一転は、同じ価値観で維持発展を続けていく社会に対するドロップアウトということになる。
これは、年功序列や定年制という社会システムが前提していた、個人の人生設計の構造です。

一方で、能力主義が進み、転職が当たり前になり、定年の年齢がどんどん後退する流れがある。
その流れのベースにあるのは、成長志向というのか、資本主義のさらなる興隆です。
これらが意味することは、個人の価値観として生産性から逃れられない、先に触れた「行く先の不幸の増進」を構造的に運命づけられているのが現代人だ、ということです。

 × × ×

以上のことを去年末から正月の三が日くらいに書いて、そのまま今日(1/9)まで放置してしまいました。

今回の年末年始はまったり(というか「ぐったり」)し過ぎて、元の生活に戻ってからも身体が重いです。
体重は増えましたが、使える筋肉が減って、使えない(=「蓄え」としての?)肉が増えたのだと思います。
軽快に動けるようになるまで、しばらく調整日が続きます。

今年の抱負かなにかを書く前に、今撮った写真を1枚。
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新聞を購読することにしました。
家に届いた朝刊をリュックに入れて、オフィスで読む。
という生活習慣をやってみようと昨年末に思いつき、今日がその一日目です。

動機は…単なる情報収集、ではないと思います。

ネットでなく紙媒体を選んだことには理由がある。
また近いうちに掘り下げて考えたいですが、ネットには無限の可能性が広がっていながら、その「等身大から見た無限」によって、逆にそれを使う人間の想像力を抑制したり、捻じ曲げてしまう影響力をも持っているのではないか、と考えています。
ネットのことを「仮想空間」という言い方をすることがありますが、これは一人の人間の頭が想像する仮想空間とは違う。
後者が奔放に活動でき、かつバランスを崩すことがないのは、そこに身体性があるから。
前者のネットには、それがない。
上で抑制や捻じ曲げと書いたのは、ネット空間でバランスを保つためのストッパ的役割のことです。
この話は今はこの辺にして…

去年は世間というか、社会の現在の動きに対して、ほとんど隔絶した生活をしていました。
先の年末に実家の新聞で「この一年のニュース」という総括記事を読んで、知らないニュースの多さに驚きながらも、個々のニュースにあまり関心はありませんでした。
(今覚えているところでは、加藤典洋氏が亡くなったことくらいです)
だから何だ、ということも実はないのですが…

今考えながら書いているので散漫な文脈は容赦頂くとして、
「社会に対する無関心」は、実はその逆と等価なのだと思います。
もちろん、社会の方からアプローチがあれば、反作用として社会への関心は生まれる。
では、情報収集もせず付き合いも少ないフリーの人間は必然的に社会に無関心になるか、といえばそうとも限らない。
新聞購読は情報収集の一つの形ですが、その結果として社会に関心が生まれることはあるとして、その逆は必ずしも真ではない。
つまり、自分は社会に対する関心に基づいて新聞を読もうと思ったわけではない。

…何が言いたいのかよくわかりませんが、たぶん「社会」とか「世間」とか、そういった「みんなで"ある"ことにしているバーチャルなもの」に対する関心は、僕にはないのだと思います。
ニュースを日々追っていれば、なんとなく現代日本の流れのようなものを感じることはできる。
その「なんとなく」とは、自分に関わる人が同じニュースを知っていて情報や感想を共有できる、そのことによって「間が保たれる」という日本的なプラグマティズムに貢献はする。
これに対する積極的な興味は、僕にはない。
では、何があるのか。
何でしょうね。


写真に映ったもう一つ、新聞の上に乗った青い物体は、正式名称は忘れましたが「フィンガストレッチャ」です。
五指に嵌めると、指を開くときにゴムの弾性が抵抗となる。
ボルダリングは手を握る、掴むという閉方向の力ばかり使うので、バランスをとるためのストレッチグッズですね。

昨年暮れから手根管症候群なるものを発症し、左手の親指側三指が時々痺れるようになって、医者に行く前に治療法を色々探っていました。
漢方、栄養剤(グルコサミン&コンドロイチン)、湿布等を試し、本質的な効果があまりなかったのですが、写真のグッズを使うと症状が和らぐような感触を得られたので、使用を継続しています。

また、昨年の暮れに自炊の野菜炒めが「あたって」、入院をすすめられるほどの重度の胃腸炎にかかり、1週間以上高熱で寝込んだのですが、治ってしばらくしてみると、まあ体幹や筋力がだいぶ落ちたのは仕方がないとして、手根管症候群もだいぶましになっていました。
これは多分、野口晴哉氏いうところの「風邪の効用」だと思うんですが、これを病を経た幸いと思って、症状の改善を今後目指していくつもりです。

 × × ×

えーと、今年の抱負でしたか。

「自分に正直に」、加えて「いつでもメタ思考の余裕を」でしょうか。

「やりたいこと」はよくわかりませんが、
「やりたくないこと」は明確に、そしてたくさんあります。
後者をなるべくせずに、生活を成り立たせるように工夫できればと考えています。

寛容の精神はグラスルーツから。

今年もどうか、よろしくお願いします。

chee-choff