human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

極北にて、連想強化と無私

 彼はよく言ったものだ。原始時代の泥の中から這い出して以来、我々は「不足」によって形づくられてきた。なんだっていい──チーズ、教会、作法、倹約、ビール、石鹸、忍耐、家族、殺人、金網──そんなものはみんな、ものが足りないから出現したものなのだ。ときにはものは「決して十分ではない」し、またあるときには「ぜんぜん足りない」。とにかく万民に行き渡るということがない。人類全体の物語とは、生活の資を得ようと悪戦苦闘して、それに失敗する人々の物語でしかない。
 その悪戦苦闘の痛みが、人類に忍耐というものを教えた。

マーセル・セロー『極北』(村上春樹訳)

 またローマの橋と言えば、人々はすぐにもコルドバに現存し、かつ現在の自動車道路の一つとして使用されているグアダルキビール川に架けられた巨大な石橋のことを思い出す筈であるが、まずあの橋は、セゴビアの水道橋とともに代表的なものである。けれども、言うまでもなく代表的なものだけがあるわけはないのであって、実にローマの橋はスペイン各地に無数にのこり、かつ存在しているのである。
 このローマの道と橋が、どんなにおそろしい山中にあるかということは、このあたりの名産であるチーズについてみればわかるのであるらしい。このチーズは、山がけわしいために山中で出来る牛乳その他を平地に降ろすことが出来ないために、牛、山羊、羊等の乳をまぜこぜにして作ったもので、それは途方もない強烈な匂いを放ち、そのまま冷蔵庫に入れておくと他のものがみなこの匂い、あるいは臭いをうつされてしまうほどのものである

「1 アンドリン村にて」P.20(堀田善衛『スペイン断章 - 歴史の感興』)

 × × ×

 なおかつ父はこうも言った。自分はものが過剰にある世界に生まれてきた。これはまさに上下が逆さまになった世界だ。そこでは金持ちは痩せ、貧乏人は太っていた。彼の若い頃には、ノアがアララト山に箱船を繋いで以来、世界に出現した人類の総数よりももっと多くの人間が、世界にひしめきあっていた。

同上

 新たな「満足」を手にすることよりも、開発のもたらす損害から身を守ることのほうが、人々の一番求める特権になった。もしラッシュアワーの時間帯以外に通勤できる身となれば、そのひとはすでに成功者であるにちがいない。自宅で子供を産める身となれば、そのひとはおそらくエリート校に通える身分でもあるにちがいない。もし病気でも医者にかからずに済ませられるとすれば、そのひとは他にはない特別の知識に精通していることだろう。もし新鮮な空気を吸うことができるとすれば、そのひとは金持で幸運なひとにきまっている。もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ。今日の下層階級を構成するものは、逆生産性のお荷物一式を消費しなければならないもの、みずから買って出た奉仕者たちのお情けを何としても消費しなければならないもの、にほかならないのだ。これと逆に、特権階級とは、逆生産性的な装置一式と手前勝手な世話やきを自由におことわりできる人々のことである

「2 公的選択の三つの次元」p.40-41(I.イリイチシャドウ・ワーク - 生活のあり方を問う』)太字は本書傍点部

 × × ×

 なぜ私にそれがわかったのか──またなぜ彼がそんなことをしなくてはならなかったのか──いまだに不明だ。しかし、人々のなす暗い行為について深く考慮しても詮ないということを、その後に巡ってきた歳月が私に教えてくれた。不思議なことだが、人々は理念のために戦っているときに、最も残虐になれるようだ。カイン以来私たちは、どちらが神のより近くに立つかということを巡って、延々と殺し合いを続けてきたのだ。私の目には、残酷さとはものごとのひとつの自然なありように見える。そんなことについて個人的に突き詰めて考えても、頭が混乱するばかりだ。誰かを傷つける連中は、自分たちが望んでいるほど、相手に対して強い力を有しているわけではない。だからこそ彼らは残虐な行為に及ぶのだ。

同上

「個人的な立場では、そんなに簡単に引き金はひけないと思うな。人が人を簡単に殺すときって、必ず、もっとなんていうのか、妄想的な力がバックに存在している」
「妄想的な力?」
「うん、つまり、神とか、国家とか、あるいは組織とか

「そう……、そうですね」
「そういう力に、自分は後押しされている。それで自分が動いている。自分はその使徒なのだ、と解釈して、引き金をひく。だけど、けっしてそうではない。その妄想を作り上げたのも自分だし、すべては自分の責任なんだ。ただ、そうやって責任を自分の外側にあるものだと偽って、人を殺そうとする」
「何故、殺そうとするのでしょうか?」
「さあね……、でも、たぶんそれは、殺したいという気持ちがあるからだと思うな。破壊したい、むちゃくちゃにしたい、そういう感情が人間にはある。それがいけないことだ、という社会的観念が、こんなにも強固に作られたことが、裏返せば、その純粋感情の存在を証明していると思う。人間は理由があるから殺すんじゃない、殺すための理由を探すんだよ」
「ああ、嫌だ」西之園は首をふった。躰中が僅かな悪寒に包まれるのを振り払いたかった。

「第4章 悲しみの高まり」p.214-215(森博嗣εに誓って』)

 × × ×

同じ思考を繰り返していると、その思考が強化される。

パブロフの有名な実験では、犬に餌をやる前に声をかけるだったか鈴を鳴らすだったか、餌と直接関係のない刺激を犬に与えるという一連の動作を繰り返し行う。
食事と特定の音とが犬の頭の中で強固に結びついて、その音を聞いただけで、餌を出していないのに犬は涎を垂らすようになる。

犬の例はもっと単純で通俗的ですが、原理は同じだと思います。
正確な用語は知りませんが、無秩序に茂るジャングルに轍を踏み固めていくように、特定パターンのシナプスの反復的な発光がニューロンの結合強度を高める、といったこと。

ただ、反復によって強化される「思考」、これは何を指すのか。
僕が想定しているのは、風景に結びついた記憶とか、音楽が呼び覚ます経験とか、五感を(直接に)介在する場合ではありません。
ある思考が、その思考が開始されるといつも、同様の経路に従って特定の結論に落着する。
たとえばそのような思考を「強化」されたものと考えます。
だから、その思考の中に間接的に五感が含まれる場合はある。


想定するというか、こうだったら面白いなと思うのは、その思考が具体的であるほど反復によって強化されやすいことはイメージしやすいのですが、より抽象的な思考のレベルにおいても同様の強化が起こらないだろうか、と。

「思考のクセ」というのも、一つの抽象のレベルです。
物事をなんでも構造主義的にとらえる(ことができる)、とか(僕は内田樹氏がそういう人だと思っています)。

あるいは、これが本命なんですが、「連想的思考」という抽象のレベル。

思考の飛躍によって特定の対象にリンクする可能性の強化ではなくて、思考が飛躍すること自体の発生頻度の強化

これも思考のクセの一種なのかもしれませんが、もっと抽象性の高い次元のことかもしれません。


そういうことがあるとして、そのような強化が極端になされた人間がどうなるかといえば、分裂症というよりは、無私に近くなるのでないかと想像します。
いや、分裂症と無私とは、そう変わらない精神の状態ではないかもしれません。
自我の統合を振り切って「私」が分かれていく、その「別の私」の数をカウントできる間は分裂症と呼ぶ、そしてさらに分かれ分かれて、制御どころか分類すら不能となる。
無数と思える各々は手が(誰の?)届かない地点に達し、なおかつ各々は周りなど素知らぬ顔で落ち着いている。
『24人のビリー・ミリガン』という本をタイトルだけ知っていますが、24ではまだ足りないのでしょう。

それは、24が素数でないことから明らかです。

 × × ×

極北

極北

εに誓って (講談社ノベルス)

εに誓って (講談社ノベルス)

本の可能性を「草の根」で賦活するために

『「本の寺子屋』が地方を創る - 塩尻市立図書館の挑戦』(「信州しおじり 本の寺子屋」研究会)を読了しました。

表紙裏に抜粋された、まえがきの一節には、こうあります。

「本の寺子屋」とは──
塩尻市立図書館が中心となって推進している取り組みで、
講演会、講座等のさまざまな事業を通じて、
「本」の可能性を考える機会を提供するもの。
地域に生きる市民の生活の中心にもう一度、本を据え直し、
読書を習慣化させるための方策を、
書き手、作り手、送り手、読み手が
共同して創り出そうとする仕掛け。

「本」の可能性を考える。
僕自身珍しく、書店で新品の本を購入したのは、このキーワードが目に入ったからです。
それは常に念頭にあって、ずっと考え続けていることだから。

本書には塩尻市立図書館の「本の寺子屋」が立ち上がるまでの経緯、事業に関わった人々の思想と熱意、開始以後の事業報告などが書かれています。
まだ図書館で仕事をしたことはありませんが、大学(岩手の富士大)で2ヶ月の図書館司書講習を受けて資格を得た者として、身近といえばちょっと違いますが、半分当事者として読みました。

講習の同期生はほとんど公共図書館学校図書館で働いていて、今もやりとりをしている人もいますが、彼らが読めば、内容がそのまま身にしみるということもあるでしょう。
僕自身は、図書館という人が集まって本と関わる場所から離れて、あくまで「個人と本との出会い、その生活」を中核として、「本の可能性」を考えています。


ただ、地方から立ち上げる、地域の草の根の活動から始まる、という理念は、本や読書の可能性に限らず「その通りだ」と思っています。
たとえば、政治、教育、治安といった領域。

いや、ここでそれらの領域の話をしたいわけではありませんが、世の中の仕組みや価値観、そういった何かをよくない、変わるべきだという思いを持った時、革命的にというのか、大きな範囲での劇的な変化を期待するのではなく(自分一人では起こせないから、他人任せな姿勢になってしまうのは仕方のないことです)、変えたいという思いを能動的に活かすには身近なところから始めるしかない。
そういう思いは人それぞれ持っていて、たまたま自分は「本」を通じて、その思いを形にしたいと思っている。
だからこの本の熱意は僕に十分伝わってきたし、では僕は自分なりに、どういうアプローチでやろうか、と改めて考えさせてくれました。

 × × ×

大量の本を入手する伝があり、上記の講習同期生(M崎姐さんと呼んでおきましょう)の助言、というか発言に対する閃きがあり、ネット古書店を始める準備をしている、という話を前に書きました。
今はその、仕入れたままシェアオフィスにダンボール山積みになっている書籍を収納するための書庫を製作しています。
9割方完成していて、あとはまあゆっくり進めようと思っているさなかに、M崎姐からメッセージをもらい、こちらの準備状況を写真と共にお知らせしました。

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シェアオフィス1F談話スペース。壁四面を本棚で埋め尽くすまで、あと少しです。
するとその返事にはこうありました。

 「一階? ウォークインのお客様もアリなのね?」

今までその用途を(閉架)書庫としか考えていませんでしたが、
さも自然にこう言われてみると「ああ、アリなのか」と思いました。

それがこの前のこと。
そして今この本を読み終えて、ほぼ全景を現しつつある壁面本棚の、開架書庫としての使いみちを考え始めています。


ビジネスとしての成立要件よりも先に、「本の可能性」がグラスルーツで活性化するために、何ができるか。
会社ではなく、個人だからこそできるフレキシブルな活動として、どうあり得るか。

ここには、もう一つの(というより今はこちらが主力の)「ものづくり」の仕事を絡めることもできる。
今製作中の書庫は、同じ建屋の同階手前にある工作スペース(アトリエ)で材木を切る所から全てやっているし、元々余分に購入した材料と、製作過程での発見や思いつきとで、別の何かを作れないかとも考えています。


さあ、どうしていきましょうか。

 × × ×

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天満橋ジュンク堂で購入。高校が近かったので昔から馴染みでしたが、いつの間に、マンガ売り場が書籍エリアとは分かれていました。

「本の寺子屋」が地方を創る 塩尻市立図書館の挑戦

「本の寺子屋」が地方を創る 塩尻市立図書館の挑戦

instinct resolution

保坂和志の本で「主体の解体」についての記述を読んで、「解」という字の不思議を感じた。
それについて以下に書く。
まず一言でいえば両義性ということなのだけど、あとで別の表現が出てくるかもしれない。

本題に入る前に、…(以下後略)。*1


保坂氏は「主体の解体」という言葉を、人間は自分のことをすべてわかっているわけではない、意識として把握できるのは全体のほんの一部だし、意図したり計画してそれが思い通りにこなせるという制御性はそのほんの一部の表れに過ぎない、といった文脈で使っている。

「解体」とは、統合された、輪郭のはっきりした一個体である主体、そういった仮想物を「バラバラにする」ことを指す。
バラバラだから、構成は雑多で分類できないし、一望俯瞰も不可能である。

でも、「解体」が通常用いられる意味は、「対象が巨大かつ複雑で、そのままでは理解できないから、その対象を要素ごとに分解することで把握する」ではなかったか。

いまでは接尾語的な名詞となった「解体新書」はたしか、蘭学者の訳した人体解剖書だ。
人間という複雑極まりない生体に、機能を与えて肉体的な境界を設定し、部分に名前をつける。
バラバラにすることで、全体を一望俯瞰し、理解する。

解決、解答、解読。
「解」をもつ単語のほとんど(全て?)は、物事をスッキリさせる語感を持っている。
解体だけが例外、なのではなく、これも元はその仲間である。

だからといって、保坂氏の文章が特別なわけではないし、文脈に違和感もない。


これは分析だけど、たぶん僕は、同じ「解体」が理解可能と理解不可能の両方を目指す(目指せる)ことに不思議を感じて(「いや言葉の両義性なんてのはどんな単語にもあり得ることだ」と"逃げ"を打ちそうになってそれは止めたのだけど)、考えてみると「解体」ということばはほんとうに対象の現状に対する解体行為なのだ。

という言い方は意味不明で…

 何か全体を分かっているつもりの「一個」をバラバラにすると、わからなくなる。
 広きにわたって込み入った全体の「一個」をバラバラにすると、わかる。

対象の構成に変化を与えて、把握の仕方を変える

解体の意味を、もっと言えば「解」という字が含む意味をこう取れば、矛盾かと思えた両義性の論理が明快になる。


それで、今書いてきたことは「解」の字の解釈ということになるのかもしれないが、「解」がほぼ「わかる」の意味でしか使われていないのは、科学的思考の一形態、要素還元主義が全盛だった(流れは変わりつつあるが、今だってそうだ)からというのもあるし、大学受験を牙城とする受験教育熱の凄まじい日本の国柄と関係があるようにも思う。

「解体」することでわからなくなる、それは「知識が増えるほど分からないことも増える」、無知の知という古くからある知性のあり方だし、保坂氏はもとより、『「分からない」という方法』というこの文脈にうってつけの本の著者・橋本治(つい最近論語についての本が出ましたね。いつ書いたのだろう)、話を複雑にした方が物事はわかりやすくなるという持論で連想と隠喩を駆使する思想家・内田樹など、そのような思考を体得し本に著し続けている人々を僕は何人も知っているし、そういう本を好んで読んでいる。


問を「解決」すること。
謎を「解読」すること。

そうして「解く」ことが、自然と「わからない」へ向かうようになること
それはとても、心躍ることのように思える。

 ──と、こういうことを考えてみると、今回「わかること」への批判を賭けずに『フランドル[への道]』のことになってしまったのは無駄ではなかったことになる。小説の書き手は解釈されることをやみくもに嫌っているのではなくて、小説家の意図として想定される主体が、主体が解体した人間像を持たない解釈者の主体の反映としての主体に置き換えられてしまうだけのろくでもない読みに対して腹を立てるということなのだった。

「5 私の解体」p.105(保坂和志『小説の自由』新潮社)

 

*1:スポルティバのクライミングシューズに「ソリューション」というモデルがあって、メンズのデザインが黄色系と白のマーブル文様だったり、最近は直線的な幾何模様になったようで(昨日ジムで新品を履いた人のを見ました)、僕も同感ですがデザインはあまり好評でないようです。靴の性能自体はたぶん素晴らしくて、僕は前にフューチュラを買う時に店頭比較で試し履きした程度ですが、5.10のハイアングルよりはスマートに、ただ同じく足裏感覚を犠牲にして立ち込みもトゥー・ヒールも抜群にできる、僕の感覚では「ライトアーマー」のようなシューズです。同じ視点でいえばハイアングルは比較的「ヘヴィアーマー」に近い(懐かしのSFCバハムートラグーン」のキャラで喩えれば、前者はルキア・ジャンヌ、後者はグンソー・バルクレイといったあたり)。いずれにせよ「鎧をイメージするガッチリさ」があって、足裏感覚を重視したい僕の好みではなかったんですが、つい最近、5足目となるニューシューズを購入して、それがレースアップ(紐靴)しばりとお手頃価格を考慮して選んだスカルパのインスティンクト・ブラックで、これが実は僕の好みに反して上記の靴と似た「高機能ゴツゴツ感」が高い。現在主力の4足目5.10クォンタムに比べるとトゥーフックは断然効きそうだが、その分つま先部分が固くて踏み込めない(これは最初だけの辛抱かもしれない)。足形へのフィット感はレースアップだけに高いので、徐々に慣らしていくしかないが。 いや、書きたかったのは「ソリューション」と命名されたクライミングシューズの意図は名前から明らかで、でも別の解釈もあるのではないか、そしてその別の解釈も以下の内容に関わってくるだろう、というだけのことだった。 p.s.ついでに調べると"instinct"は「本能、直感」という意味なんですね。いい言葉だ。靴の名に負けない登り方をしたい。 www.edgeandsofa.jp

Can one speak about unspeakable? (1)

 
「沈黙について語る、にはどうすればいいか、考えているんです」
「それは、沈黙すればいいのではないかな? 文字通り」
「……そうですね」
「……」

「いえ、その、言葉にしたいのです」
「沈黙を言葉にする? 沈黙を破って?」
「矛盾して、聞こえますかね」
「いや、言わんとすることはなんとなくわかる。まず、君が語りたいのは『沈黙そのもの』ではないね?」
「そうです。沈黙が、それを聞く人に伝わるように、語りたいのです」
「それが伝わると、どうなるのかね?」
「……きっと、それを聞いた人も沈黙するのだと思います」
「それで?」
「それだけです」

「ふむ。極めてシンプルで、極めて漠然とした意思だね。君はそれが実現すると、嬉しいのかね?」
「きっと、そうだと思います」
「そうか。君には世の中が落ち着きなく喧騒にまみれて見える。欲望と行動が乖離して、ただ騒いでいるだけ、まるごと全てが無駄に思える」
「いえ、そんなことは」
「まあいい、程度の問題だろう。君は少しでも人々が冷静になればいいと願っている。ひいてはそれが自分の冷静をもたらす。まわりくどい考え方をするものだ」
「……」

「話を戻そうか。沈黙を語るには、もとい、沈黙を伝えるにはどうするか。王道は、言葉以外の手段で伝えることだ。姿勢。身ぶり。背中、といえば少し格好良いな。とにかく、沈黙が状態である以上、面と向かってのコミュニケーションがなければ相手は感じることができない」
「はい」
「ところが君は、沈黙という状態を言葉で伝えたいと言う。つまり、沈黙を思い起こさせるような言葉を語ることで、聞いた人自らの内側で沈黙が芽生える。そういう、これをコミュニケーションと呼ぶのかは分からないが、そうだな、状態の伝播を望んでいるわけだ」
「状態の伝播、ですか。なるほど、そうかもしれません」

「人が沈黙するのは、それぞれ理由がある。そして、したくてする行為、というよりは、せざるをえない状況に至ってさせられる、受動的な状態だといえる。つまり、理由は外からやってくるが、その種は内に秘められていたものだ」
「いや、積極的な沈黙もあるのではありませんか? 流れとして、いや状況と言ってもいいですが、自分が自然に行動を起こす場面、あるいは起こしている場面で、ふいにそれを中断したいという意思が生じた時、その意思の実行が沈黙という形態で現れる。放っておけば溢れてしまうものを押し止めるためには、積極的な介入が必要です」
「うむ、そういうこともあるだろうな。ともあれ、沈黙は何かしら複数の要素が反応した結果の産物だと言えるのではないかな」
「そうですね」
「この表現を使えば、君はその沈黙反応を不特定他者において起こしたい、あるいは、その反応を媒介するものを投じたい。言葉という手段を以て」
「その通りです」

「ふむ。どうも話している間、『沈黙』の指す意味がぐらついているように思えるが。具体的に言うならばそれは、沈思黙考ということかね?」
「ああ、そうかもしれません。言葉を失う、という状態があります。あれは、安易に軽薄なことを口にすると、今自分が遭遇している状況がなにか致命的に損なわれてしまうという恐れが、頭の中に渦巻く思念のアウトプットを堰き止めている状態です。頭が真っ白になっているという自覚を伴う場合が多いようですが、実際は思考が暴走していて頭の回転状態を把握できていないだけで、それは言い換えれば意識の中では言葉を押しのけて言葉以前が席巻しているのでしょう」
「うん? その、言葉を失った者は、沈思黙考という落ち着いた状態からはかけ離れているように思えるが」
「すみません。ええと、精神の安定度という面ではずいぶん異なった状態ではあるのですが、今思い付きましたのは、その、僕がイメージする沈黙というものが、論理的な思考を口にせずに頭の中で展開しているという整然としたものではなく、『言葉を失う』という状態とある面で共通するように、言葉以前のものが脳内で活発に活動していて、その尻尾を捕まえるというか、下手に口にしてうっすら掴めそうだった感覚を失わないように冷静に対処している。そうですね、小説の一言一句をイメージ化しながら読み進めている状態に似ているかもしれません」

「その比喩が適切なら、みながみな、小説を読めばいいことになるのではないかね?」
「ああ、そうかもしれませんね」
「……本当かね」
「うーん、もしそうなら、『沈黙について語る』が『みんなに本を読んでもらう』とイコールになる、ということですか? それは……あれ、意外とそういうことなのかなぁ」
「ふむ、イコールにしてしまうのはいかにも大雑把に過ぎるが、そういう一面がある、くらいには言えそうだな」
「そうですね。そして、僕はそういう風に限定して考えたくはないです。やはりもっと、抽象的な問題なのです」
「わかった。だが、抽象的な問題は抽象的な論理で扱わねば解決できぬわけでもないぞ。問題の要点を具体例に落とし込みながら、かつ要所で次元を上げて抽象的な思考に戻ってくる。その往復運動が大事なのだ」
「わかりました。肝に銘じます」

「その心臓への記銘はもちろん比喩だが、その銘が言葉以前であれば、言うことはないの」
「……難しいことをおっしゃいますね」
「なに、話は簡単だ。君の墓石に写実的な心臓の彫刻がしてあるさまを想像すればよい」
「想像しました」
「それでよい」
「……?」
「死人に口なし、心に朽ち無し」
「……」

 × × ×
 

Quindecim annos, grande mortalis aevi spatium.

 伝記のエクリチュールにおいて、これらの時系列の省略と対比は、ある自己の経験、すなわち不可避なものの経験を通して、自己が自己に決して一致しないということを繰りかえす経験を表わす方法である。もしくは別の言い方で言えば、世界と自己の歴史性の意識化もしくは表現である。記憶とは、「言語という手段を通して時間性の中で自分を煎じ詰めるこのような時間のエクリチュール」の媒体なのである。ある意味、シャトーブリアンは最初の自我=歴史家である!

第3章 シャトーブリアン p.158(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 現在主義と時間経験』)

抜粋した本は、かなり厄介な本で、ちょっと読んで間をあけて再読すると何が書いてあったかもう分からなくなるし、そもそも最初に読んだ時から自分が何を理解したのかわからない(人に説明なんて到底できない)という難解な本なのですが、それでも読み続けられるのは「エクリチュール」、内容そのものというよりは筆致とか著者の言わんとすること(←これは内容ですね)を言おうとする姿勢というのか、「簡単には言えないこと」を回り道を繰り返してねばり強く言葉にしていく、たとえば文机の前で正座して、真顔で懐手に腕を組む明治人のような…いや、よくわかりませんが。

その、ちびちび読むとわからないんですけど、途中からでもいくらかまとめて読むと、何か心に染み込んでくるものがあって、それは内容理解とは別の形で自分の身になっているはずなんですが、それは思考の種であって、自分でそれを育てないと芽吹かないし、放っておくと殻を破る力を失ってしまうかもしれない。
まあその、育てるというのが、ジョウロで水をやることでもあり、日光や雨に当たるように日なたに置くことでもあり、土を新鮮なままに保つことでもあり、介入の直接性・関節性には幅があって、より直接的であれば効果的であるとも言い切れない。

だからなんだという話ですが…

 × × ×

とっつきやすいところから始めましょう。

「記憶とは…媒体なのである」という表現に出会って、まず驚き、複数の連想が同時に発生して収拾がつかなくなったのでした。


記憶媒体という言い方がありますが、あるいは記憶メディアでもいいですが、たとえばそれはHDD、フラッシュメモリなどを指します。
そのスペックのことを記憶容量ともいう。
ただこれは、記憶を納める媒体(あるいは記憶できる容量)という意味で、記憶が媒体だと言っているわけではない。
媒体でなければもちろん、内容、コンテンツですね。
記憶とは内容である。

…ではない、というのがまずは、表面的な驚きでした。
つまり、常識からの外れ、奇抜さを最初に見て取ったということですが、ではこの表現そのものが非常識な、通常の感覚から理解しがたいのかといえば、そんなことはない。

僕はむしろ親近感を覚えました。
そういう考え方を自分の傾向の一部として持っていて、けれど名前を持たなかったそれに適切な表現を与えてくれた。
親近感、とはそういう意味です。

 × × ×

プロセスと結果の話について、最近の記事の中で幾度か触れたと思います。
あるいは前提と評価という対比をこの話に関連づけもしました。
この文脈に、本記事のテーマも連なります。

つまり、

 メディアとコンテンツの対比、
 一方的な重み付けと価値の転倒、
 意味の反転による本来性への回帰、

といったことです。

本当かな…
最後まで辿り着ける気がしませんが、とにかく続けます。

 × × ×

コンテンツが大事、という価値観は、それをどんどん推し進めると、コンテンツそのものの完結性に行き着きます。
完成度の高いコンテンツは、それが提供される前から、万人に価値(の高さ)が分かっていて、受け手の解釈や工夫の余地がない、あるいは拒みさえする。
これは、プロセスの消失、結果の一方的な享受、でもある。

ここで、コンテンツとしての記憶について考えてみます。
思い出と言った方がより実感しやすいでしょう。

観光業のタームで「思い出づくり」という表現があります。
親子向け、カップル向け、など対象を絞ったうえで「外れナシ」「感動間違いなし」などと銘打たれたお仕着せプラン。
これらの観光プランを練った人間は、この場所でのこういう体験が思い出に残るという幾つかの想定をして、それらをルートにしかるべく配置するでしょう。
それが本当かどうかは今は問題ではありません。
僕が思うのは、観光業者の考えている思い出が「客の個別性に関係なく定まったもの」であり、プラン内の体験が思い出として残ることの価値が「体験が記憶の中で(時間が経っても)そのままの形を留めること」にあると想定している、ということです。
これが、記憶のコンテンツとしての価値を極めた一つの形です。


もちろん、極端な言い方をしたのはその方がわかりやすいからです。
では、他方の、メディアとしての記憶について。
こちらも極端に考えてみます。

…というか、「メディアとしての記憶」の極端な一例が、引用したアルトーグ氏の本の第3章で中心人物の、18世紀末フランスの歴史家・旅行家シャトーブリアンの一生なのでした。
第3章はシャトーブリアンの伝記のようでもあり、彼の生涯をたどりながら本のテーマに合わせてアルトーグ氏が解釈を加えていく、そのような記述の一部が上の引用です。

だから本書のこの章を読めば「メディアとしての記憶」のイメージがなんとなく分かるし、僕が可能ならそれをここで言葉にすればいいんですが、先に言い訳した通りたぶん「理解」はできていなくて、親近感を抱いたという、つまり価値観としてシャトーブリアンとそう遠くないところにいるはずの僕の解釈を書いてみよう、と思ったのが本記事を書く動機でした。

…やっとスタート地点に立ったようです。さて。


上でとりあげた「コンテンツの究極」と対比させれば、その特徴が見えてきます。
メディアとしての記憶は、変化を前提とし、変化の機を内在しています

またちょっと話がズレますが、思い出に関連して「後悔」について考えると、話が少し分かりやすくなると思います。
自分の昔の言動を後悔するという時、それは振り返る当時のある特定の経験を恥ずかしいと思ったり、その経験が今の自分の境遇や人間関係にマイナスの影響をもたらしたと感じるからです。
そして、未来の自分のことをちゃんと想像して、後悔のないように行動しなさい、といった説教が成り立つ。

でも実際、わかんないですね。
未来の自分がどう考えるかなんて。
想像しろと居う方は言えるし、する方は想像してみることはできる、でも当然、その想像通りの未来がやってくるかどうかはわからない。

「あんなことしなきゃ(言わなきゃ)よかった」と言えるのは、既に過去となった出来事と、現在の状況との因果関係を想定できる位置に自分がいて、現にいま自分がそう想定しているからです。
では、後悔の原因はどこにあるのか?
過去の出来事か?
違いますね。
過去の出来事を恣意的に今に結びつけている、「現在の自分の想定」が正しい。
現状の不満や不首尾が、頭の中を後悔に仕向けるのだとしても、その現状の言い訳をするためにひねくり回す自分の頭が原因であって、現状は動機、きっかけに過ぎない。

人が自分の過去の経験を後悔するかどうかは、経験の内容に関わりなく常に、現在に懸かっています
それは、経験の記憶、体験の思い出というものが後になってから、いくらでも変化するからです。


変化を前提とする記憶とはたとえば、このようなものです。
でもこれは、たぶん「メディアとしての記憶」の性質の一つに過ぎません。

 × × ×

…話が進みませんが、力尽きました。

触れたいことがまだあったのですが、そのトピックと、あと上の引用に続く気がかりな一節を引用しておきます。
「気がかり」なのは主観ですが、この引用はこれだけで「メディアとしての記憶」の別の特徴を表しているようにも思います。

・定点観測について
  「定点からの観測」ではなく「定点の観測」
  そもそも観測ではない、客観を捨てた(緩めた)体験
・脳内BGMの記憶としての性質
  音楽のリピート再生とコピペ文化
  一回性のライブ視聴と、思考とリンクする脳内BGM

 しかし、ここでシャトーブリアンは、特に自身のことをもはやこのように存在しない者であるかのように話している。時間の作用が、自己を、自分自身からいなくならせ、究極の不在にまで至らせる。それは物事の劣化であり、自同的なものの場所に忍びこむ他者である。(…)旅行者であり作者である者は常に時間のうえで二つの寄港地のあいだにいる。「私は常に自分をもうすぐ再び船に乗り込む船員としてみている」。

同上 p.158-159

保坂-森リンク、予感が賭けるもの

『血か、死か、無か?』(森博嗣)を図書館へ返却する直前に、剥がしてなかった付箋箇所を読み返すと、つい今しがた読んでいた『小説の自由』(保坂和志)へと連想が繋がる。

シンクロニシティは客観と意味の結合だとか、図書館で借りる本は自分で購入する本とはまた違った緊張感がある(出版界の各方面の事情はどうあれ、読者自身は「どちらの方がいい」というものではない)とか、そういえばこのWシリーズ第8作は待たずに借りれたけど次作は予約が30人待ちで一方大阪市内の図書館所蔵は3冊でベストセラー本の複本問題はなかなか複雑だなと司書講習で他人事のように習ったことの実際を目の当たりにして思ったりとか、いろいろあるんですがとりあえず本返すんで抜粋メモだけしておきます。
太字にした部分は、文脈とは別の興味です。

 この[柴崎友香『青空感傷ツアー』の主人公の]わたしは、『金閣寺』[(三島由紀夫)]の私のようにバザールに火をつけたりはしない。このわたしが視線に先行してはまったく存在せず、視線によってもたらされた私に完全になっているとまでは言いがたいし、この場面が『子どもたち』[{チェーホフ)]ほどに拡散的な視線の運動を作り出しているとも言いがたいけれど、方向としてはそういうものと言えると思う。
 この視線の運動と私の主体性なり私の意志なりとは、同じ場所を占めることが難しい現象なのではないか
「現象」という言葉は、それ自身が原因とはなりえない言葉で、私というものを指すときには不適当と感じる人もいるかもしれないけれど、私も私の主体性も私の意志も、すべて現象であり、小説には、本当の意味でそれに先行するもの(原因)はない、という認識が視線の運動の基盤にあるのではないか

保坂和志『小説の自由』

 頭の中の発想というのは、逆戻しができない。これは、理屈がない、時間がない、前後関係、因果関係がないからだ。元を辿れないというよりも、元がない。つながらない、ばらばらの離散イメージだから、一瞬だけリンクらしいものを予感しても、実は、なんの関係もない。

森博嗣『血か、死か、無か?』

小説の自由

小説の自由

 × × ×

ついでに、『血死無』から抜粋をあと2つ。「考えたい欲求」がむくむくとわいてくる箇所。

不思議なもので、以下2つと上の1つ、計3つが「残していた付箋箇所」なのですが、上の1つがいちばん「考えたい欲求」の強度が低かったはずで、けれどそれは強度云々よりも、きっかけ待ちというか、欲求を起動するための入力が不足していたのだと後付けですが推測できます。

予感とは、それは予知とか予測とは違って、「思った通りのことが未来に起こる」ではなく「この先何かが起こる」という、それらよりもっと漠然とした感覚で、内容が曖昧なら当たり外れも曖昧であって、未来への投資でありながらすぐれて現在的な現象である、のだと思います。

なぜなら、予感の当たり外れに賭けられているのは「自分自身」だからです。

つまり、仮説が正しければ、結果は順当なものになる。意外な発見がない方が良い。それでも、なんとなく、イレギュラなものを求めてしまう感覚はたしかにある。そういうものを人間は、面白い、と評価する傾向にある。意外なものに出会ったとき、人は笑うし、興奮するものだ。
 多くのエンタテインメントが、これをやり尽くして、人々は面白いものが目の前に現れる日常を楽しみすぎた。だから、意外なものが展開するのが日常になっている。きっとそんなところだろう。僕が特別なのだ。そういうものを極力見ない生活をしているし、いわゆる「遊び」のような行為からすっかり遠ざかってしまった。
 遊びって、何だろう、とふと考えてしまうほどだ。


 電子は光速で走る。それが宇宙の限界を決めている。あらゆるものは、この物理法則に従っているのだ。もしも、ミクロ化しないコンピュータ、つまり思考形態が成り立つとしたら、それは……、おそらく、高速ではないものになる。それは、我々から見て、高速ではない時間を持っていることになる。
 ゆっくりと思考するのか……、と僕はそこで息を止めた。
 スローライフとでも呼べそうな生体なのか。
 たしかに、それは永遠の存在に近づける一つの道かもしれない。
 だが、残念ながら、手が届かない。人間の時間、思考時間では、そこへ行き着けないのではないか、と予感した。
 もしかして、我々が、速すぎるのか?
 これまでに考えたことのない方向性だった。
 ただ、それ以上に、発想を絞り出すことができなかった。

同上

鏡としての人工知能(森博嗣『血か、死か、無か?』を読んで)

『血か、死か、無か?』(森博嗣)を読了しました。
Wシリーズ第8作。

ここへ来て、森博嗣の過去のいくつかの著作との関連が一気に見えてきました。
それに応じて、その関連著作の続編的作品との関連があるかもしれないという予感が生まれました。
よくわかりませんが、『赤目姫の潮解*1』を再読してみたい気になっています。

それはさておき、久しぶりにやりたくなったので、以下に抜粋&思考。

「大学で教官をされていたときのことでしょうか?」
「そんな感じで、いろいろとね。どうして、彼女を、僕に質問するように仕向けたのかな?」
「教育的指導です」デボラは答えた。
「それは、誰に対する?」
「もちろん、キガタ・サリノに対してですが、博士の今の発想は素晴らしいと思います」
「僕に対する指導かと誤解したことが?」
「はい、そうです」
素晴らしくもなんともないね。人間っていうのは、うーん、まあ、全員ではないにしても、基本的に自分を責める、被害妄想的な指向性を持っているように思う
「それは、危機回避能力に結びつく重要な要因になります」
「そういう目的ではなくてもね」
 そうではない。まずは、自分の足許を見る。前進するにも、後退するにも、その場に踏みとどまるにしても、自分が立っている地面が確かな強度を持っているのかを最初に確かめる。それが知性というものの基本だろう

森博嗣『血か、死か、無か?』講談社タイガ

「知性というものの基本」、これは言語意識の機能のことだと思います。

自分が変われば世界が変わる、という認識の仕方があります。
自分がいなくても世界は何も変わらずそのまま存在するという、唯物観の対局に位置するもの、唯心論。
この観測の違いは「世界」とは何か、に因るのですが、知性あるいは言語意識とは、唯心論的な存在です。

その知性の「被害妄想的な指向性」、これは端的には「なんでも自分と結びつける発想の仕方」ですが、これが被害妄想、誇大妄想とされる判断の根拠は、客観の側にあります。
判断の可否とは別に、この傾向自体が知性の本来的な発揮である。


先に、知性と並べて言語意識などと書いたのは、言葉がそもそもそういう機能を持っているのではないかと考えたからです。

言葉は、あらゆる存在に名前をつける。
物に、状態に、形のあるもの、ないものを問わず、すべからく。
名前で呼ばれて、それは初めて身近なものになる。
名前を持ったものは、他の言葉たちと関係をもつようになる。

そして言葉は、言葉を発するものと関係をもっている。
まさに自分がそれを言った、というその理由によって。
だから本来は、本人の発言内容に依存せず、本人とその発言内容とは関係をもっている
言葉とは、そういうものだから。

そして社会のシステムは、言葉の本来性を抑制するように構築される。
システムにおいては、言葉はツールとして、集団生活の安定した運営という目的のために用いられるから。
だから、人間関係の構築が促進するほど、言葉の自由な関係構築機能が抑制される、というパラドクスに見えることが起こる。
いや、別にパラドクスでもなくて、単に「変化が落ち着けば安定である」と言っているだけかもしれない。


その、知性、あるいは言葉の問題が、ここ最近、念頭に留まり続けています。
知性の劣化、知性への信頼性の低下、言葉の形骸化、といったことについて。

本で生計を営もうとする人間にとって、これは避けて通れないテーマです。

 × × ×

「(…)メモリィの状態をはじめ、人工知能には、自己診断の機能が備わっている。自分の一部が、別の意思を持つことは許さないようにデザインされているはずだ。つまり、統合が基本だということ。統合することが、自律という意味でもある。意見を一つに絞ることが、演算の主たる目的なのだからね」

同上

人工知能の研究は、産業や社会の維持・発展に寄与するという実利的な目的をもつ一方、人間とはなにかという哲学的な問題を追求する一面もあります。
石黒浩・阪大教授の研究は後者の一面が強く出ている好例で、石黒氏はアンドロイドを扱っていますが、アンドロイドは人工知能以上に「鏡で自分を見ている」ようなものだと思います。

とふと思ったんですがそれは派生の話で、最初に抜粋して思ったのは、人間にもし身体がなければ「こう」なのではないかということ。

世界に人間が一人しか(残って)いない場合を想像したとき、彼の判断に他人の事情が介在する余地はないわけですが、それでも「自分の一部が別の意思を持つこと」はありうると思います。
腹が減ったが、獣を狩ろうか、木の実を探そうか、とか。

いや、そんな極限状態でなくとも、身体の状態、たとえば健康状態や運動状態などが、個人の意思や判断をダブらせることはあります。
あるいは、個人以外の身体との接触状態も、身体の状態に含まれるでしょう。
こういった、演算不可能に思える(モデル化・数値化はできても論理に移すと膨大な情報量が欠損する)ことを人工知能がどう扱うのか…いや、人間自身が扱うにしても、既に欠損があるのでしょう。

この小説の中では、身体(性)の有無は人間の定義に含まれていないようです。

 × × ×

「作戦や戦略について助言をしたことは?」
「ありません。そのような具体的な話をするには、状況を把握するデータが必要です。ここに来てから、その後の入力は一切ありません」
「宝の持ち腐れですね」僕は呟いた。日本語だった。
「ハギリ先生のおっしゃったことは理解できます」イマンはすぐに反応した。
「その境遇に対する、君の考えは?」僕は尋ねた。
境遇に対する評価は行いません。目的が設定されて初めて、それを実現するための環境を評価することができます

同上

「宝の持ち腐れ」とは、イマンと呼ばれた人工知能がオフライン化で長い間使用され、イマンが持つ機能が十分に発揮できる状態でなかったことを指しています。
この状態に置かれていたことに対する人工知能の自己評価が抜粋の最後の発言です。
これが僕には、とても人間的に思えました。
人工知能の発言として違和感のない表現でありながら、人間だってまさにそうじゃないか、と思ったのです。

確固とした目的がブレずに長期に渡って持続するものであれば、境遇に対する評価は、実際の変化に追随した、安定したものとなるでしょう。
逆に、目的がコロコロと不断に変わるようであれば、境遇自体に大きな変化がなくとも、それに対する評価が大きく変動することがあり得ます。


ところで、「目的の設定」と「境遇に対する評価」の関係について。

ふつう、時系列では前者が先に来ます。
が、その逆を考えると、”評価が目的を生む”というようなことになりますが、これは前回の記事に書いた「発明は必要の母である」という逆転した諺と同じ構造に見えます。
と気付いた瞬間に予感したことですが、この「評価が目的を生む」事態も、同じく現代でありふれて存在するようになったことです。

情報技術の発達、増殖を続ける無尽蔵のウェブリンク、クラウドコンピューティングによる身の丈を遥かに超えたデータベースの参照可能性、これはある視点をとれば「評価の坩堝」の巨大化でもあります。

ある目的に対して、なんらかの行動・実験・思考を行った結果として、一定の評価が定まる。
目的は前提であり、評価は、それを導く行動・実験・思考を含めればプロセスです。
ところが、データベースとして存在する「評価の坩堝」とは、それを参照する者にとってはプロセスではありません。
物語を読むように、プロセスの追体験として読み取ることもできますが、結論の既に定まったそれらの臨場感は、既に失われている。
いや、データベースを物語と解釈すればできないことはないが、それは情報技術の利用としては例外的な方法でしょう。
話を戻しますが、情報技術の発達は、「プロセスの前提化」といえる現象を促進しているのではないか、と書いていて思いつきました。
この現象は、技術の最先端や高度な利用状況においてよりも、情報技術を単純に利用する、技術の仕組みに触れずにただアウトプットを享受する環境、つまり一般人の日常生活においてより顕著に観察されるはずです。


「評価が目的を生む」、この事態が意味するのは、目的の流動化です
それは例えば、一人の人間に対して、立つべきと思えるスタート地点が無数にあるようなもの。
そしてスタートを切り、走っている間もずっと、自分が選ばなかった多くのスタート地点が視野に入り続けている。
スピードを緩めないために、頭が混乱しないために、目を瞑りたくなるのは自然なことです。
でも、目を瞑って全速力で走ることはまた、極めて不自然なことでもあります。

なんの話をしているのだと思われそうですが(僕も同感です)、人工化が、それ自体を自然と見做せるようになろうともある「不自然」を否応なく背負わせてくるものだとすれば、僕は、「不自然」に絡め取られて見失うのではなく、自ら「不自然」に光を当ててそれを直視しながら生きていきたいです。

きっとそうすることが、知性を信頼することだからです。

*1:googleでタイトルの検索一覧だけ見たんですが、どうやらコミック化されているようです。読んでいてかなりイメージしづらい作品だったので興味はあります。いずれまた巡り会えるでしょう。

トラックのダッシュボードにイリイチがある世界(1)

 
『街場の現代思想』(内田樹)を、学生の頃に好んで読み返していました。
こういう仕事がしたい、という明確な像を持っていなかったし、そもそも仕事に対する強い意志もなかった時期、大学院生の頃でした。

こんな極端なニュアンスではなかったと思いますが「思想は暇人が紡ぐものである」みたいなテーマの断章があり、その中で長く覚えているフレーズが「トラック運転手は現代思想なんて絶対読まない」というものです。
運転手の仕事と、その仕事を成立させるための日常生活、それはきっと、「かなり即物的な生活」と言えると思いますが、現代思想の営みはその真逆に位置するわけです。

現代思想形而上学の一種で、と言って僕は形而上学に詳しいわけではなく、せいぜい形而下でないあらゆる事象を扱う学問のことだろうと思うくらいで、まあこれでは何も分かりません。
もっと砕けた言い方をすれば、日常生活と何らかの関係はあるのだろうが直接的に関係することはまずありえない事柄のこと。
直接、これがほぼ即物的と同じ意味を指す。

そのフレーズは、読んだ時はまあそうだろうという程度の感想を抱き、しかしどこか引っかかるところがあり、時々思い出すことがあるごとに、「忘れていた」ではなく「覚えていた」という印象を持つくらいに、僕の中に留まり続けていました。
暇人が新しい思想を生み出すのなら自分が創造してやろう、という思いもありました。
それは今だってあまり変わらないというか同じ強度の興味を持ち続けていますが、その野心と呼べるようなものは、関心のエネルギーを一定度備給しつつも、先を見据える方向に変化が見られる。

その関心事に前向きな状態の自分は、腕をいっぱい伸ばして斜め上方を指差す、それは夜で、過去も今も肘の角度は等しく、指の先ではなく「指の先にあるもの」を見ているのも同じ(いや、その腕は自分ではなく、師のものである。)、けれど過去に見ていたのは一つの星、対して今は無数の星を含む夜空全体である。

 × × ×

唐突ですが、共通思考の話をします。

森博嗣講談社タイガという文庫で出している未来小説、W(ウォーカロン)シリーズに出てきます。
善悪の齟齬、思想の対立、国同士の戦争、人や集団が敵対し、多くの人間を巻き込み、傷つけ合い殺し合う、繁栄を目指す人類においてはそのような事件は問題であり失敗である。
共通思考は、そのような間違いを繰り返さないための、多様な異文化集団が平和にコミュニケートするためのデータベース、それは現代人がその呼称から想像するよりもずっと動的でフレキシブルなもの。
人工知能が国の政治決定に携わり、また各地で起こる事件をリアルタイムに把握して複数の未来情勢を重み付け計算できるほどに高度化した世界の、その人工知能たち(なのかな?)が構築を目指すのがその共通思考です。


人工知能がそれだけ発達して、人間は物事に対して深く考える必要がなくなった。

些事に煩わされなくなれば、もっと大切なこと、もっと本質的なことに関心を向け、エネルギーを割くことができる。
便利さの追求とは、もともとそういう発想が動機の、手段の一つだった。
それが、利便性追求の独り歩きになると、手段が目的になる。
「もっと大切なこと」「もっと本質的なこと」と、かつて呼んでいたもの、それらは姿を変えて見失う、あるいは明確な一つに統一されて目前に現れる、「便利さの追求」という姿で。

共通思考によって安定化された世界は、ユートピアであり、ディストピアでもある。
それは矛盾ではなくて二極化である、つまり本人の認識次第でどちらでもありうる。
なぜか、それは安定化が、正確には安定の定常化が、極端であり異常だからである。
極端を目指す意識の志向性、かつて身体が抑制し得たそれを科学技術が解き放った。

 × × ×

共通思考の話にどうしてなったのか、ここまで書いて少し見えてきました。

と言いながらまた話が変わりますが、『パンプキン・シザーズ』(岩永亮太郎)の20巻か21巻で、正義の話が出てきます。

 人の数だけ正義がある。
 人々に共有される意味を持つように思われるが、人はそれに寄り掛って、あるいは利用して、自分の正義を語ることができる。
 そして一つの正義は、別の正義と対立し、また批判することができる。
 定まった形がなく、それでいて永遠に対立を生み出し続けるもの。
 正義とは、人の制御の敵わない、魔物のような概念である。
 ただ、そのように生まれ続ける対立や批判は、蓄積することができる。
 知識や知恵は、そのような蓄積のことである。
 蓄積の営みを怠らず、整理分類すれば、新たな対立の解消に活かすことができる。
 情報技術の発展は、この「正義の効果的な蓄積」の可能性を高めることができる。

無線通信が一般化されていない世界が物語の舞台で、技術革新と正義の追求が一つの文脈で繋がる展開を読んだ時は、それまで「戦争もの」だと思って読んできたのが途中いろいろテーマが増えていくなと感じていたわだかまりが氷解したようで「へえ!」と思いました。

いや、そんな感想は今はいいんですが、この「正義の蓄積」は、上に書いた共通思考と同じ方向性の思想といえます。

 × × ×

共通思考、あるいは正義の蓄積、これは恐らく現実的には完成、完遂されるものではありません。
おそらく、確実に。
では無駄な営為なのか、といえばそうではない。
到達する見込みのない目標へ、分かっていながら突き進む。
広く捉えれば、そのように人間は生きています。
それを生きがいだとすら感じて。
プロセスが大事なのだ、という言い方もできます。
その通り。

共通思考を構築する努力、研究かもしれませんが、それはとてもやりがいのあることだろうと思います。
ただ、それを利用するだけ、享受するだけの人は、どうか。
自覚があればいい、選択ができるのだから、イヤなら使わなければいいという。
でも、もし本当に共通思考というシステムが完成したのならば、その機能は「人々の無自覚的従順」という形で発揮される。


それを推進し、導入を目指すのは、統治の思想です。
集団を制御できる個人の発想。
そして情報技術の高度化は、集団を制御できる可能性を、統治者から一般人に広げた

支配欲、なんてもの本当にあるのだろうか、とふと思います。
人間が人間を支配することに対する欲望。
もしかしてそれは、文明の産物かもしれない。
支配できる手段が、ツールがあるから、支配しようと思う。

環境が欲求を生み出すのは、ありふれた事象です。
三大欲求はさておき、生活における「やりたいこと」や、将来の夢などが、何も外部の影響を受けずに生じることはまずありません。


「必要は発明の母である」、これは技術水準や生活水準が低い、発明家(これは生活者とイコールでした)にとって幸福な時代の諺で、いつからか現代社会を端的に表すようになったのは「発明は必要の母である」、こちらの方です。

この逆関係の2つの諺、これらを比べて眺めていて、先の文脈からふと疑問に思うことがあります。
前者の「発明」、これはプロセスを指します。
「必要」は前提状態ですね、何か解決すべき問題がある、改善したい不都合がある、そういう初期状態に対して発明というプロセスが営まれる。
では、後者はどうなのでしょう。
「発明は必要の母である」、この中の「発明」は、前提でしょうか? また「必要」は、プロセスでしょうか?

何か、言葉の意味が、ひどくおかしくなっているような気がします。
あるいは僕の日本語がひどくおかしいのかもしれませんが……次回はこの割り切れない感覚を言葉にするところから続けたいと思います。

(続く)

 × × ×

街場の現代思想 (文春文庫)

街場の現代思想 (文春文庫)

Pumpkin Scissors(21) (KCデラックス)

Pumpkin Scissors(21) (KCデラックス)

 

エンパワーメントサラダとパウリング

昨日歯医者へ行って、虫歯の治療跡に金属の詰め物をしてきました。
予定では1週間で済むはずが、一度目は衛生士の型取りが失敗して(とはあちらは言いませんでしたが)歯と金属が合わず、けっきょく仮のゴムゴムした詰め物で昨日までの2週間を過ごしました。

仮物の間はガムや餅など、くっつくものを食べないようにと言われて、その通りにしたつもりだったんですが、朝食のミューズリーに入れているドライフルーツ(レーズンはまだしも、キューブ状のマンゴー系のものが強敵)がよくなかったらしく、仮詰めした翌朝に変形し、その次の日にはとれてしまいました。
とれたやつは鏡を見ながら入れ直しましたが、結局朝食メニューを考え直し、オートミールのベースを臨時でミューズリーからグラノーラに変えました。

グラノーラは味が付いていて、口に入れた最初から甘味が広がるので美味しいといえばそうなんですが、普段「ストイックミューズリー」と呼びたくなる代物(←ベースのアララミューズリーに生の押麦もち麦をトッピングしたもの)を執拗に噛み砕いて唾液分泌で味を出していた習慣からすると、味気ないというか、(素材が)軟弱だなあとつい思ってしまいました。
それが昨日に歯が元通りに、というか元通り以上になって(虫歯を治療した箇所はそもそもミューズリーの繊維が毎日のように詰まるほどの隙間があって、今回金属でそこを埋めてもらいました)、昨晩の食事もいつも以上に美味しかったんですが、今朝メニューを戻したミューズリーを食べて、心置きなく噛めるのはいいなあと改めて思いました。

ボルダリングもそうですが、食事なり運動なり、身体を使うという時にどこか不調があって、仮留めが外れないかとか悪化しないかとか気を遣いながら動かすのは、不完全燃焼というのか、常にわだかまりを感じているようなものです。
その不調が当たり前になるとか、慣れざるを得ないような場合は、そういう適合をするしかないし、適合した場合にそれがデフォルトになってわだかまりも解消されるのでしょうが、そうではなく不調の回復が見込める場合は、どうしても上向き(のはず)の将来のためにブレーキをかけてしまう。
考えようによってこれは、未来のために今現在の充実を犠牲にしているとも言える。
計画とか予定とか、ありふれて人間らしい行為には、この一面がある程度は必ず含まれるもので、「脳と身体は真逆の志向性をもつ」と言われるのはこういうことかもしれません。


サラダの話になりませんね…しちゃいましょう。

その、仮留めの間の話で、今週半ばだったと思うんですが、夜に外食しようと思って、事前にネットで見つけていた近所の中華料理屋に行くと閉店になっていて、あれれどうしようと思いながら同じ道をそのまま進んでいると入ったことのないスーパーを見つけて(天六周辺は本当に多いですね、徒歩圏内で5,6店はあります)、入ってみたらサラダ菜がかつて見たことのない安さで売られていて(あの、袋を手に取った時の軽さでいつも購入をためらっていたんですが、ふつうなら100円以上はする一袋が30円台でした)、思わず籠に入れてしまい、周りを見渡せばサラダ素材がいくつか安かったので折角だし久しぶりにサラダを作ることにしました。
ヘルシオを使い始めて2年は経っていますが、そのオーブンで焼き野菜ができるようになってからサラダを作る頻度がぐんと落ちて、今週作ったサラダは、思い出せませんが1年近くぶりくらいだと思われます。

サラダ菜、サニーレタス、水菜、キャベツと買って、ドレッシングはないからオリーブオイル使って手作りするとして、味が足りなさそうだから上に肉を乗っけるかと思って、鶏皮が安かった(100g60円くらい)ので買って、あとはミューズリーのトッピングに使ってるナッツを砕いて入れるか、などとスーパーで算段を立てました。

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上がサラダ一日目、下が一日おいての二日目です。

何が書きたかったかというと、久しぶりに作ったからというわけでもないですが、サラダはどうも作ると分量が多くなってしまって、というのも刻んでザルに入れる時には少ないかなあと思ってちょこちょこ量を増やすことになって、でも洗って水を切って盛り付けるとアラ不思議、膨れ上がって体積が増えている。
まあ不思議でもなんでもありませんが、それを見越してのことだったか、サラダ用に巨大な器を岩手にいた時に古道具屋で買っていて、写真ではよく分からないかと思うんですが、うーん、草の量でいえば、キャベツ1/4玉で器が半分満たされるくらいです。ご飯もパンも、完全に「おかず化」しています。
それで器に入るもんだから調子に乗ってどんどん切って、なんだか量が恐ろしいことになって、一日目は食べる前からゲップが出てお腹も痛み始めたんですが、いざ食べ出すと、どんどん身体が熱くなっていって(途中でウィスキーの力を借りたせいもありますが)、後半は腹痛も止んで、満腹で箸が止まるようなこともなく食べ切れました。

何が書きたかったかというと(二度目)、二日目は慣れもあって、あと惣菜の唐揚げを足したりしてスムーズに食べられたんですが、身体が熱くなったというのは、もっと言えば興奮状態になって、サラダを食べてこんな身体状態になったのは初めて…いや、学生の頃サラダバイキングで似たような経験をした気もしますが、こう、「普段の姿勢じゃマズイな、ここはひとつ奮起するか」と身体の方が火事場の自覚というか勝手に危機感のようなものを覚えたようで、わりと最近のことだと思うんですがスーパーの惣菜エリアで唐揚げなどの肉をのっけたサラダが「パワーサラダ」なる名称で売られているのを目にするようになって、でもそのトッピング肉の「ちんまりさ」につい原価計算をしてため息をついていたんですが(だってそれだけで普通のサラダ100円増しですよ)、パワーサラダと言うからにはこれくらいじゃないとな、いや待てよ、これは食べて元気になるサラダというより「食べるために元気になるサラダ」だな、と思って、自分のサラダにタイトルのような名前をつけたのでした。


しかし思えば、養護施設などで、流動食でも栄養は摂れるけど素材の形を留めた料理を食べて元気になるという話は、もちろん食感が大いに影響しているんですが、料理の形態をきっかけとして鼓舞される食事者の姿勢が重要なのですね。

食事によってエネルギーを獲得するが、食事行為そのことでエネルギーは消費もされる。
睡眠もそうで、いや寝てもカロリー摂取はできませんが、消費と回復の両面を担う活動であるという意味で同じです。
そういう身体活動の複雑さを数値化することはできない、とは思いませんが(たとえばカロリーとは別の指標と思われる食感の効果については、唾液の分泌量が関係しているのでしょう)、数値化が単純化になるようではいけないなと思います。


そういえば、最近読み始めた本↓で、序論でユングとパウリの交友のことが書かれていて「へえ!」と思ったんですが(前に読んだ↓↓ハイゼンベルクの自伝にもパウリのことが書かれていて、骨の髄から理論屋の彼が近づくと実験装置が故障するという「パウリ効果*1」は相当有名なようで、このことはどちらの本にも書かれています)、心理学と物理学の協調とか、客観に意味が与える効果とか、すごく面白そうな話が書かれているようです。
パウリはかなり壮絶な人生を歩んだようですが、僕はパウリの生涯を通した姿勢こそが科学的な考え方だと思います。

シンクロニシティ

シンクロニシティ

cheechoff.hatenadiary.jp

*1:ハウリングに託つけて「パウリング」でどうでしょう。

しずか【静か】、連想と鍛造

 
 草の芽の伸びる音さえ聞き取れそうにあたりは静か。

 湖面が小波一つないほど静か。

 生気に満ちた音がすっかり掃き清められたように静か。

 冬眠中のリスのように静か。

 休日の病院が墓場のように静か。

 風鈴のかすかな音さえ騒がしすぎるほど静か。

 耳がなくなってしまったのかと勘違いするくらい静か。


 居るのか居ないのか分からぬくらいにいつも静かな男。

 海老が髭を動かすさえも聞こえそうなほど静かな店。

 真空地帯みたいに静かな路地。

 湯呑みに茶を注ぐ静かな音が茶の間に広がる。

 ひっそりとして人の出入りも稀なほど静かな暮らし。

 家の中を静かに夕暮れが満たす。

 影のように静かに歩く。

 雲ただ静かに屯する。

 呼吸しているとは信じられないほど静かにしている。


 ロビーが一瞬冷蔵庫と化し、そこにいる人たちを沈黙させる。

 霧が微かな音を立てる。

 新聞紙を細かく引き裂いて厚いカーペットの上にまいたほどの音。


(以上、小内一 編『てにをは連想表現辞典』p.482-483「しずか【静か】」の項から抜粋)

てにをは連想表現辞典

てにをは連想表現辞典

 × × ×

ブックアソシエータに関連して、連想について勉強したほうがいいかとふと思いついて、大阪市の図書館で「連想」のタイトルを含む蔵書を検索していくつか本を借りました。
上がその一つです。
さっき初めて開いてぱらぱらとページをめくってみました。

これは辞典で、索引語に対して、その語を含む文学表現(編者が20年かけて集めたとされる作家400名の各々1〜3作品中の文章表現)が列挙してあります。
考えればなるほどですが、索引語としては凝った表現よりは凡庸というか汎用性の高い表現の方が、それを含む文学表現が多く引用されています。
例えば上に引いた「静か」は、これと同じ意味(あるいは下位概念?)の「静謐」よりも、圧倒的に列挙数が多い。
そして、表現が多いほど、面白い。
この表現の雑多さ、多様さこそがその語(=索引語)からの連想の豊かさということで辞書のタイトルに「連想」とあるのだと思いますが、それだけではない。

「静か」という一語が、これだけ多くの「別の意味をもった言葉たち」とくっついて、違和感がない。
言い方を変えれば、「別の意味をもった言葉たち」のそれぞれが、それら各文章の中で「静か」の一語に収斂されている。
「〜のように静か」と書いてあり、それを読者が先頭からつらつらと文字を追って読み、「静か」までたどり着いた時、その手前までの「〜のように」の内容はすべて、「静か」の一部になっている。
そのようにして、「静か」はどんどん、内に含むニュアンスの多様さを広げていく。
言葉が、意味を獲得する。

「その主語は?」と気になるかもしれません、「その言葉を扱う主体は誰?」と。
出版書籍の本文データベースか、Googleブックスか…という話ではありません。
主語は僕です、そしてあなたです。


連想というのは、その活動が現れた時に、脳に特殊な躍動感をもたらすものですが(たとえば、思い出せそうでなかなか出てこなくてずっと気にかかってた昔の有名人の名前がある時ひょっと分かった時の感覚です)、これは比喩かもしれませんが、自分の頭の中に息づく言葉が新たな意味を獲得してその言葉とリンクしている言葉群ともどもが生気を吹き込まれ、活性化することでもある。

「鉄は熱いうちに打て」。
鍛造工程は金属を高温に熱し、冷める前に叩いて整形するとともに強度の獲得を目指します。
上で「躍動感」とか「活性化」と言ったのは、冷めた金属が再び熱を得るようなものです。
変化し得る状態になること、過渡期への遷移。

単純に強さを目指すなら、熱い間に鍛えるだけ鍛えて、冷やして終わりにすればいい。
でも僕らは、強くなるために生きているわけじゃない。
強くならなくちゃ乗り切れない、苦しい時期もある。
でも、強くなったばかりに、いちばんそばにいたい人の弱さが理解できなくなることもある。

弱さを獲得するために、もう一度自分の内に火を灯す。
弱くなるために、熱を得る。

そういうこともある。

 × × ×

p.s.
最初に引用した「静か」の表現の中で、村上春樹の作品からのものが2つあります。
その文体が好きで、ハルキ小説をたくさん読んでいる人には簡単な問題だと思います。

小川洋子のものも2つあるんですが、これは、言われてなるほどとは思っても、知らずに当てるのはちょっと難しいなと僕は感じます。

この差には僕は、作者の文章表現の特異度よりも、読者が作者の文体に親しむ程度の方が効いてくると思っています。