human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛料の国 1-6

 
 文字のない本。ページを開けば広がるのは白紙ばかり、ではない。我々は紙の上のそれを、普通の本と同様に読むことができる。ただそれは、文字ではない。たとえば僕が、それを見る。読む。その本のあるページは、すると僕に問いかけてくる。僕はその本に対する応答を迫られる。それは解答ではない。もちろん反射でもなく、それらのあいだに位置する反応を促される。その応答がすなわち、次のページへ伸びる手の一連の動きである。我々はその本と対話をする。ただその本には、文字が書かれていない。

「きっと、文字通りの意味を持ってはいないのだろうね?」セージはいつも明晰だ。
「そうなんだ、たぶん。文字がなくとも絵はあるのだろう、とか、そういったシンプルなことでもないんだ」たぶん、と繰り返す言葉を飲み込む。
「ふむ。…どこか遠くの、いくつか境界を越えた先に『絵のない絵本』というものがあるそうだね。何か関係があるんじゃないのかな」
「ああ、それは僕も聞いたことがある。その話の中で、登場者は月に導かれて絵のない絵本を読むんだ。自分が描く絵のひとつひとつが物語を語る、そういう話だったと思う」
「主人公は絵かきで、彼が描く絵が集まって絵本になるのかい? それのどこが『絵のない絵本』なんだ? 月の存在も気になるけれど」
「いや、詳しくは知らない。ただ『絵のない絵本』は絵本ではなく小説なんだ。普通の絵本には少なくとも絵があるけれど、絵がなくたって十分に絵本として機能する、そういうことがあるとすれば、その本は小説であると同時に絵本でもある。誰かがそう言っていたのを聞いた覚えがある」
「そうだな。"そういうこと"は多分にありそうだ。絵と文字は全くの別物でもないからね。きっとその小説は、文字によって絵を描いているのだろう。そして月はその手助けをしているのだろうな。月は我々に限らず、あらゆる生命の意識下に神秘的な作用を施す存在だ」
「うん。そして絵と文字の重なりは、絵本と小説の重なりでもある」
「それで?」
「うん?」
「話を戻すけど、結局君の言う『文字のない本』とは結局何なんだ?」
「うーん。『絵のない絵本』のことを念頭におけば、”文字はないが普通の本と同様に本として機能する本”ということになるのだけれど」
「抽象的だね。なにか、言語の違いとか論理能力の差に左右されない、ある種の普遍性を備えた本ということかな? これも抽象的な言い方だが」
「そういう性質はエスペラントというらしいね。境界を跨いだ争いを根絶させる志向を持つようだけれど、跨いだことそれ自体を疑わない姿勢には問題があると思う。いや、そうではなくて…うん、そういうことでもないんだ」
「大体それ、どこで聞いたんだ? …フェンネルか?」
「うーん、鋭いね」

 我々は本を読む存在であり、本は我々に読まれる存在である。誰もがそう信じ、それを疑問に思うこともない。ただ、我々が鏡であることを思い起こせば、明朗活発な常識にも一抹の翳りが見える。

 鏡は非生命である。一方、生命を宿す鏡としての我々は、魔法を身に帯びる。世に言うマジックミラーだ。僕が明るく光を発せば、相手には僕が見える。僕が昏く静まり返れば、相手は僕を媒介して相手自身の姿を目にする。僕も相手も闇を抱えたまま向き合えば、雁首揃えて覗き込むは、果ての知れぬ深淵。
 本は生命である。つまり普通の本は、我々と同様に魔術的な鏡である。「文字のない本」は、そうではない。それはいわば、純粋な鏡である。我々は鏡と対話するようにそれと対話する。では我々は、「文字のない本」を読むことで自分自身と対話しているのだろうか? 否。

「それ」には、自分には見えない自分が書かれている。純粋に鏡的でありながら鏡ではない「それ」は、我々が纏う魔法を撥ね返し、魔法同士を干渉させる。これが、世に言うカオスだ。

家の葬式、曲の葬送

 
 ──「家の葬式」のことを、前にちらりとおっしゃっていましたよね。
 ──はい。我々建築家は、家を新しく建てる場面に比べて、家を解体撤去する場面に立ち会うことが圧倒的に少ないのです。近頃はリフォームやリノベーションが流行しておりますが、世間の建築家に対するイメージは大方、「新しく建てる仕事をする人」に留まっていると思われます。しかし、人口はピークを既に過ぎ、空き家が増加し続けている現代には、「家の終いのお世話」がもっと必要になってきます。いえ、それは希望的観測で、必要になるべきだ、というのが正直なところですが。じっさい、賃貸マンションや貸家に住む人はもとより、分譲マンションに住んでいる人ても、マンションそのものがその人の所有物ではないのだから、自分が長年生活してきた家の最期を看取るという発想には、至らないのが普通です。持ち家に住む人であってすら、その傾向に大差はありません。建てたのは自分ではないから、家で育てた子どもは都会へ出てしまうから、取り壊す費用がすぐに捻出できないから、等々、いろいろな理由が幅を利かせている結果が、全国的に存在する大量の空き家という現状なのです。
 ──家の葬式というニーズが、出てきそうで出てきていない、ということですか?
 ──いえ、きっとニーズはあるのだと思います。そして、そのような世話ができ、実際にしてきた建築家のもとへは、そのような依頼が寄せられているのです。細々と、だとは思いますが。
 ──なるほど、そういう話でしたか。僕は「家の葬式」という言葉をその内容も知らずに聞いて、ある別の連想をしていたのです。
 ──それは、どのような内容のものですか?
 ──同じように言えば、「歌の葬式」となるでしょうか。あるいは、葬送曲という言葉を念頭において「曲の葬送」と表現してもかまいません。歌は、いやもっと広く音楽は、僕らのあらゆる生活場面で背景を飾り、また時に前景として映えることで、僕らを励まし、癒やし、楽しませてくれますよね。その点で、音楽は無償の愛のような存在だと言えるかもしれない。音楽は僕らに何も求めず、それでいて多くを、とても多くを与えてくれる。そして音楽には流行があり、ある時代には世界中で同じ一つの歌が流され、同時的に異国の人々が同じ曲を耳にすることがある。また、そのように世界を席巻していた音楽が、次の年にはぱたりと止み、現実の空気を震わせることなく、人々の頭の片隅に追いやられ、次第にその残響も薄れていき、最初からそのような音楽は存在すらしなかったと、年鑑を見たり、往年のヒットチャートを振り返る特番をテレビで見たりしない人間は、それを信じて疑わないといったことにもなる。今言ってみて気付きましたが、このテレビ特番はある意味で、かつて流行した歌の葬式とみなすことができます。
 ──なるほど。
 ──でも僕が言おうとしたのは、個人の中でのこと、非常に私的な事情のレベルでのことで、かつて自分にとても大きな影響を与えた、暇があれば家のCDコンポやウォームマンで繰り返し再生し、歌の歌詞を暗唱できるほど自分のものにし、歌詞の意味が自分の生活と密接に結びついて、今の自分の存在を、あるいは自分と親しい人との関係をこの歌が象徴している、肯定している、そういった自分と一体化していたと言ってもいいほどの歌が、あるちょっとしたきっかけで、友達とケンカした、恋人と別れた、仕事が忙しくなった、そう、本当にどうでもいいような些細なことが原因で、その歌のことが念頭からぽろりと転がり落ちる、忘れてしまうと言わないまでも、自分の中でその歌が響かなくなる、他の歌と同じように「いい歌だけど、ただそれだけ」という、口にする機会もないが敢えて言えばそう評価できる、といったような位置づけに成り下がる。こういうことは、よくあります。日常的な現象とすらいえます。
 ──そうですね。意識されないだけで、本当によくあることだと思います。
 ──そしてこれは、よくよく考えてみれば、親友に知らせずに遠くへ引っ越したり、説明もなく挨拶すらせず恋人のもとを去るようなものです。かつて自分を励まし、高めてくれたものに対する感謝の念が、ここにはありません。完全に失われている。忘れるというのは本来、そういうことかもしれません。そして、忘れた頃に、本当に久しぶりに、そのかつての歌を、偶然の機会かなにかで耳にしたときに、懐かしいなとは思って、それが感謝の念に結びつくということは、あまり多くはないと思います。……なぜ多くないのか。それはきっと、儀式がなかったからなのです。
 ──儀式、ですか。
 ──そうです。「ああ、この歌は昔によく聴いたな、懐かしいな。あの頃は良かったな」、こういう感想は、まず感謝ではない。「あの歌に自分はいつも励まされていたな。実際にいい曲だし、俺にはことさら、自分のことを歌っているように思えたものだ。いや、当時にあの歌に出会えて本当に良かった」、たとえばこういう述懐が、稀にある感謝の念が込もっていると言えますが、これは実は、儀式にまでは至っていません。遠くに去っていく、あるいは去ったそれを、親しげに見つめ、あるいは感無量の涙とともに心を注いでいても、その彼は、ただそこに、今彼がいる場所にぼうっと突っ立っているだけなのです。目は閉じられているかもしれない、でも、手は合わせられていない。その手は無為に垂れ下がったままでいるか、生活のために忙しく動いている。
 ──はい。
 ──僕が思うのは、きっと、いや、「ここ」でかは分かりません、適切なタイミングについては考えていませんが、「手を合わせる」ことが必要なのではないか、ということです。身振りで示す。自分がそれを、すべきだと思った人に対してするのと同じように、音楽に対しても。そして、その身振りによって、かつて自分の一部のようですらあったその歌は、頭の片隅に追いやられるのではなく、また新たな形で、自分の一部となるのです。儀式によって忘れないということではなく、昔のように熱心に聴かなくなるのだから、頭の中をメロディの一部がふと流れるようなことがなくなり、その存在自体を忘れてしまうことはもちろんある。ただそれは、たとえば、日中オフィスで忙しく立ち回っている時に、自分の足の爪や十二指腸の存在を忘れるのと同じことなのです。その存在を明確に知覚することなく、あるいは知覚できないくらい自然に、自分の一部となる。音楽という、形を持たないもの、波動として鼓膜を震わせはするが跡形もなく消え去る、経時的でありながら瞬間的でもある存在、そのような音楽が、無時間性という虚無を脱して、身体に定着する。そのような儀式の存在を、ふと思い浮かべてみたのです。
 ──そうですね。葬式というのは通常、「形のあるもの」に対する儀式ですが、その同じ身振りを無形物に対して行うことで、その「形のないもの」が何かを獲得する、ということはあると思います。その何かは、今おっしゃられたことについては、歌が獲得するのか、それとも貴方が獲得されるのか、どちらになるのでしょうか?
 ──難しい質問ですね。その「何か」とは何なのか、とも思いますが、それはどちらとも言えないのではないでしょうか。
 ──どちらでもない。……その答えから導かれるに、その「何か」とは、「関係」ではないでしょうか?
 ──ああ、その通りですね。さすがです。関係を手に入れるのは、その関係者の誰でもなく、敢えて言うなら、関係そのものですからね。
 ──所有の概念が曖昧になるところが、その概念の限界を表してもいるのですね。

 × × ×

 僕がその曲をもう聴きたくないと思ったのは、そのメロディーを耳にすると島本さんのことを思い出してしまうからというような理由からではなかった。それはもう以前ほどには僕の心を打たなくなったのだ。どうしてかはわからない。でも僕がかつてその音楽の中に見いだしていた特別な何かは、既にそこから消えてしまっていた。僕が長いあいだその音楽に託し続けてきたある種の心持ちのようなものはもう失われてしまっていた。それは相変わらず美しい音楽だった。でもそれだけだった。そして僕はもうその何かの亡骸のような美しいメロディーを、何度も何度も繰り返して聴きたいとは思わなかった。

村上春樹国境の南、太陽の西』 太字は文中傍点部

香辛料の国 1-1

 
 透明の理想。感覚に夾雑物がなく、思考が研ぎ澄まされた状態。圏外から流入する全てを許し、境界の内側から生み出される全てを受け入れる。生きていること以外に興味がなく、すなわち生命の存続に拘りがない。混じり合い、溶解し、呑み込まれ、分解される。香は色を失い、座標を失い、無に漂う。
 香の煌めきは時間の狭間に由来する、色の華やかさが儚さに由来するように。瞬間と永遠のあいだ、そのいずれよりも脆弱で、可能性に充ちた狭間。「目にすれば失い、口にすれば果てる」、これは禁止ではなく、観察された事実に過ぎない。我々は失われて初めてその存在に気付き、朽ちた姿を前に祈り呟く。
 生命とは祈りであり、廃墟とは消えない蜃気楼である。

「やあ、フェンネル」彼方から声が近づいてくる。
「こんにちは、セージ」
「今日は、どうだ?」
「まずまずだね」
「このところ、界隈の空気が濁っている感じがする。会うたびに同じことを言っている気がするが」
「そうだね。仕方ないことだけれど」
「いや、そう早々に諦めるものではない。我々は空気を享受するだけではなく、わずかながら空気に介入している。我々は空気がなくては生命が続かないが、空気は我々の存在に関知しないと割り切れるものではない。空気は我々が理解している以上に、未知な現象だ」
「そうかもしれない。空気の成分を厳密に測定したり、その時間経過を図式化したりして、なにか相手を把握した気になっているけれど、それは僕らが勝手にそう決めつけているだけのことだからね」
 セージは中空の一点を見つめている。遠くには青い空が無辺に広がっているが、彼の関心は空よりは幾分か手前にあるらしい。
「空が暗くなり始める頃に注意した方がいい。これも挨拶のようなものだが」
「そうだね。ありがとう」
 風のように出会う我々は、擦れ合いすれ違うその一瞬に、濃密な時を経る。

 考えてはいけないことは、何もない。空気のことも、星と月のことも、「瞬発」のことも、あるいは生命の意味についても。僕は考える。けれどそれを誰とも共有することができない。僕も相手も、それを共有したところで何の益もないからだ。僕の思考が深まるわけでもないし、誰かの寂しさが紛れるわけでもない。お互いに相手の求めるものを持っていないし、仮にあったとして、僕に提供する気があるのかどうかも怪しい。相手が眼中にない者同士が一緒にいて、碌な事が起こらないのは火を見るより明らかだ。そんな場を想像すると、いっそのこと焼失してしまいたいと思いたくなる。
 そんな時、燃えて灰になるのはいつも僕で、相手ではない。なぜなら、秩序はつねに我々を泡の内側に抱え込む一方、自覚は界面をすり抜けて泡の外部にその顔を晒すからだ。秩序はそれと意識されてはならない、秩序はそう考えている。だが、意識されてはならないことなど何もない、そうではないだろうか?

 我々のあいだには、一緒にいるべきではない関係というものがあるに違いない(それは関係と呼べないかもしれないが、ある2つの存在の相対位置を比較するうえで、広義にはそう呼んでもよいだろう)。お互いに相手が見える位置にいると、本領が発揮できない。相性の悪い関係、いうなれば、その存在自体がlose-loseな関係。
 それなのに、そういう間柄の者たちが一つの空間に詰め込まれ、無作為に選ばれ、近接を強要される。その場に素敵な出会いが生まれることが稀にあるが、そういう僥倖を除いたほとんどの機会は、僕をひどく落胆させるものだった。この強要の意味は何か、ここに何らかの法則性が見出せないか、酷い目に遭うたびに僕は考えずにはいられなかった。そしてその時に見つけた意味や法則性は、最初は輝きをもって僕を励ましてくれたが、やがて光は弱まり、その力を失っていった。

 それでも僕は考えることを止めたことはないし、止めようと思ったこともない。
 秘密は解き明かさねばならない。

香辛料の国 1-5

 
 存在するものを共有できる人数は限られている。しかし、存在しないものを共有する人数には、限りがない。これは、その価値や重要性とは関係がない。ただそれが、存在するか、しないかの違いだけだ。
 けれど、その「ないもの」を、あるように見せることができる者がいる。無形物に輪郭を与える者、あるいは、自らその「ないもの」の具現化となる者。この現象には、物理法則が介在しない。無から有が生まれ、一が瞬くうちに百となる。
 彼は、何になったのだろうか。何になろうとしているのだろうか。

「やあ、シナモン。この間の集まりは楽しかったかい」
「ええ。あの時は初めからずっと和やかで、みんな嬉しそうで、私も幸せだったわ」
「君もウーシャンフェンも、よく立ち回っていたよ。あの場が大成功に収まったのは君たちのおかげだね」
「そんなことない。フェンネルだって、すみっこの方でひそひそ話をしていたけれど、周りにずっと気を配ってくれていたのは遠目に見て分かっていたのよ。どこかで喧嘩でも起これば、駆けつけて仲裁してやらなくちゃっていう目つきをしていたわ」
「それは買いかぶり過ぎだな。僕はそんなにお節介じゃない。会場の隅にいたのは、密度の高いエリアで背後を晒すのが嫌だったからだし、気を配っていたのではなくて、たんに観察していただけだ」
「照れる必要はないのよ。ああいう集まりに普段なかなか出ないあなたが来て、楽しんでくれたのが何よりだわ。また次にも、来てくれるかしら?」
「たぶん。前も言ったけれど、気が向けばね。今回は楽しかったから、また次も出るかもしれない。ところでシナモン、君はいつも誰かと一緒にいるようだけれど、独りでいる時間はあるのかい」
「…そうね、改めて考えてみると、そんな暇は無きに等しいわね。そばに誰かがいれば必ずやることがあるし、誰かのために行動することが好きだからじゃないかしら」
「うん、それは僕もわかるよ、君はいま君が自分のことを表現した通りに僕には見える。ただ、ずっとコミュニケーションし続けるのは疲れないかい? 君みたいにいつでも全力を尽くすには、それ相応の充電時間を必要とするように思えるんだけど」
フェンネルは孤独が好きだからそういう風に見えるのよ。独りでゆっくり考えたり本を読む時間が休憩で、みんなの前に出て混じり合うことを仕事だって言うんでしょ。でもね、あなたのようなタイプはたぶん珍しいほうだわ。私だって極端だけれど、それでも、調合が元気の源だというのは常識の部類に入るんじゃないかしら」
「その通りだと思う。僕らは誰であれ、単独では十全に力が発揮できない。それぞれの個性が、混ざり合うためにあるものだからね。僕も自分が異端だとは自覚している。ただ君を見るといつも、もう少しゆっくりしたり、休む時間をとった方がいいんじゃないかとつい思ってしまうんだ。だからこれは独り言のようなものだね。気にしなくていい」
「ありがとう。フェンネルは優しいのね。あなたの忠告、大切にするわ」

 個性が反応する対象は個性だと考えてみる。一般性は媒介にしかなりえず、個性がまっすぐ一般性に向かうことはできない。いや、できない、という表現は妙かもしれない。目指すことはできるのだ。決して叶わない夢を見て、それを一心に追い続けることができるように。
 ただ、ある個性が一般性を目指すとき、別の個性はその媒介に成り下がる。一般性をひたむきに見つめる彼の目は、相手の目をまっすぐとらえながら、その光は妖しく乾きを帯び、焦点は相手を突き抜けた遥か彼方に設定される。すぐ近くにいるようで、とても遠くにいるように思える存在。
 そして我々は鏡であり、焦点の合わない目と向き合う僕の存在は、希薄になっていく。あるいは彼と僕の存在密度が、反比例的に変化していく。それはとてもつらいことだ。一緒に薄くなるのはまだいい。彼が濃くなるごとに、僕は薄くなっていくのだ。そして彼はここにはいない。
 僕はどこにいるのだろうか? 僕は、どこに行くのだろうか?

桐野夏生とタカラヅカ

 
「姐さんは桐野夏生をご存知ですか。……ね、あの人の小説すごいですよね。重いというか、ズシッとくるというか。僕は『OUT』を最初に読んだんですけど、いや、食事中に話すのもアレなんですけど、死体を切り刻む描写にウッときて……そうそう、弁当屋の工場の。……"村"? あー、たぶんわかります。読んだことないですけど。あの、書評で何度か見たことがあって……ああ、村山由佳。そうそう。……へえ、似てるんですか? どう違うんですか?……胸が悪くなる。うーん、そうですね、キリノ小説はちょっと違いますね。なんというか、いろいろ悲惨なんですけど、「それでも私は生きていく」っていう強さというのか、こう、生命力に溢れてますよね。僕にとっては梨木香歩とは別の、かなり別な意味で、女性の未知な領域を教えてくれますね。……え? うーん、あれハッピーエンドですか? まあ、人生の新しい道を切り開いてく、っていう終わり方は前向きですけど、ハッピー、とは違うような。……ふーん、そうなんですかね。いや、その、宝塚からなんで桐野夏生が出てきたのかというと、姐さんがいうように、どっちも「女性のリアル」に絡んでるんだろうなというのは一つあって。でも思ったのはですね、タカラヅカは「女性の理想の物語だ」っていう評論をどこかで読んだことがあって、橋本治だったかな。まああの人なんでも書くからだいたい彼だってことにしちゃうんですけど…えーと、その、宝塚って「リアリティ無限大のアクチュアリティゼロ」なんですよ。「パンが無ければ」ってあるじゃないですか……あ、あれが「ベルばら」か。その、マリー・アントワネットだって、「可哀想…」だとか感情移入したり、なんか一悶着あったらすぐ決闘だとか……え、オスカルもアンドレも? へえ。そう、まあその劇的なドラマに現実性なんてカケラもないんですけど、でも観てる女性が感動するのは、そのドラマの何かが観客の頭の中にピッタリ嵌まるからですよね。そのぴったりフィット感がリアリティというわけで、でアクチュアリティってのは、一言でいえば身体感覚ですね。身体感覚に基づく現実感というか。……ね、決闘にそんなもんありゃせんでしょう。「カッコいい!」って思えるのも同じことで……それで、ここからが勘所なんですけど、キリノ小説は「アクチュアリティ無限大」なんです。まあ無限大ってのは大げさで、比べたから言ってるだけですが。小説ってふつう、リアリティに訴えるものですよね。文字は身体性のない抽象的なものなんで、構造的にその方がやりやすいから。でも桐野夏生はアクチュアリティに訴える小説を書けるわけですよ。殺人の場面なんてミステリーなら「常識です」って感じであるし……そうそう、「人の死なないミステリー」なんて妙なジャンル考えたもんですよね。あれPCと関係あるんですかね。……その、拳銃で撃つにしても、頭に当たって目玉が飛び出るとか脳漿が飛び散るとか、そういうのをリアルな描写っていうんでしょうけど、それは「想像力豊か」ってやつで、やっぱりリアリティの方なんですね。それがあの、風呂場でノコギリ持って工場仲間の死体の腕切り始めて、骨に達した時のガリガリっていう抵抗だとか、これって読んでて想像したら、想像から実感がはみ出てくるでしょう。僕学生の時にこれ読んで、しばらく食欲なくしましたからね……これがアクチュアリティだと思うんです。たぶん。……姐さん平気ですね。さすが年の功(笑)……うーん。そうですね。例えばちょっと…手貸してください。…こう、握るじゃないですか。男性と女性がディナーの席で手を重ね合わせる、なんてシチュエーションは、心ときめくものがありますよね。これがリアリティ。で、でも実際に手をとった時に、肌の接触から得られる情報がいっぱいあるわけですよ。肌の弾力とか、あれ、なんか見た目以上にカサカサしてるなとか……いえいえ、一般論ですよ? Don't take in personal. まあ今のはさすがに無理ありますけど。いやいや、すみません……でその、例えば相手の手の、他には指の長さとか血管の出方だとか、そういうマテリアル方面への興味を、アクチュアリティの一つだと考えていいと思います。今夜の食事会を会う前に想像する場合と、実際にその席で起こった場合とだったら、想像する方がリアリティの強度出ますよね。同じ場面を小説で読むならなおさら。……え? うーんと、だから「タカラヅカのアクチュアリティ」とは何かっていうところに興味があるなって話に……なりませんか。すみません。…なんか話してるうちにふと、リアリティとアクチュアリティの区別って、男性的な発想なのかなって。男にとって後者は得難いというか、身近でないんですよね。妄想で生きていけるってのもリアリティに偏ってる証拠で。じゃあ女性はどうなのかっていうのが……うん、ちょっと考えてみてくださいよ、せっかくなんで。明日タカラヅカ観ながら。…冗談です、はい。……ええ、シンシャさんにもよろしく。きっと感動すると思いますよ。これが日本のB級カルチャーなはずがないわ! って。知りませんけど」

脳の新陳代謝、雲を食べること

国境の南、太陽の西』(村上春樹)を読んでいて、ふと「脳と身体の新陳代謝」というキーワードが浮かんできました。
ある一つの場面に対して連想が始まって考え込み、しばらく立ち止まってから読む方に戻り、また別の場面で先の連想に対する反応がある(連想の繰り返しというよりは、先の連想がその別の場面によって導かれたその続きが見えてくる)。

 × × ×

脳と身体はその動作、刺激に対する反応などの傾向が異なる。
ある視点で見れば、真逆だ、と言ってもいい。
だから脳と身体を抱えて生きていく人間には、根本的な矛盾が内在している。
矛盾がどうしようもなく深いところに複雑怪奇な根を張り巡らせているので、無理のない方針として、その矛盾を解消するのではなく、共存する、なだめすかしたり、時には見て見ぬふりをしながらもその存在を常に感じながら生きていく。

ある状態や状況が、どれほど心地よく、快適で、非の打ち所がないとしても、その状態や状況がそのままずっと続くうちに、だんだんと、取るに足りない些細な場所から、少しずつ具合が悪くなってくる。
長く続いていた状態が良いものであるほど、その維持の努力の裏でひっそりと起こる変化に気付くことができない(気付かないことも「努力」に含まれている)。
変化は起こるのが自然だと認識し、自分から起こす場合もあるが、ひとりでに起きたように思われた際には、それをまっすぐ見つめ、分析し、あるいは大きくとらえて、「流れ」に乗るかどうかの判断を下す。


身体は、自身が意志を持って、ある特定の方向に変わっていく、ということがない。
台風に意志がなく、ハチに意志がないように、人間の身体にも意志はない。
(意志は「あるといえばある」もので、「ハチには意志がある」と思えるなら、そこから「台風にも意志がある」と思うところまでそう遠くはない)

活性化と減衰は身体のマクロレベルでは成長と老化であり、その波は空間的に大小のスケールで振動し(身体各部から細胞の一つひとつまで)、また時間的にも同じく長短入り交じる周期で展開している(人体の八十年、細胞の三日)。

波の周期が様々なら、振幅も様々である。
たとえば風邪は、中期的な周期の、中程度の振幅の波の下方極値点である。
(波の比喩とは、具体的には正弦波を想定しているが、風邪のプロセスが波の下に凸の領域に該当するとして、ではそれに対応する上に凸の領域があるかといえば、ほぼないか、前者よりは明確に認識できない。変曲点より上側は、もっと無秩序な、周期も振幅も安定しないものなのではないか)


脳は、身体と反対に、自然に変化していくということがない。
これは脳の働きについて言えることで、つまり生理的には脳は変化していくが、機能的に脳はその変化を認識することがない、逆に言えば、脳が脳自身の(身体としての)変化を認識しないことは脳の重要な機能の一つである。
脳が変化をとらえるのは、自然に相対してのこと、いちばん身近では自分の身体が変化していくのを目の当たりにするからである。
脳は、身体を見て、自分も身体であることを思い出す。
それは脳にとって、面倒な作業、できれば避けて通りたいことだ。

脳は計算をする、いまだけでなく明日も来月も十年後も生きるために計画を立てるが、その目的は計画の成就ではなく、計画そのものである。
たとえば、脳にとっては、明日や来月の予定を立てるのは、昨日や先月の出来事を振り返るのと、そう違いはない。どちらも、脳が今現在機能していることに変わりがないから。
人間には意志があり、夢があり、その達成や成就に向けて努力するものだという建前は、人間の物語というよりは、脳の方便である。
身体は、その意志や夢に従事を促され、あるいは活かされることもあるが、本来は、身体はその意志や夢とは何の関係もない。


雲が、ふわりと甘そうで、食べたいと思って手を伸ばしても、掴めない。
届きそうでも実際は届かないし、届くようになっても実際はその手は空を切ることになる。
近づきすぎて当初の形を失った雲を吸い込んで「ああ、美味しい」と思う、雲を食べるとはそういうことである。

 脳の新陳代謝とは何か。

雲を食べたいと思うなら、その観察を怠らないこと。
手を伸ばす前に、自分と雲の間にあるものに考えを巡らすこと。
なぜ自分は雲を食べてみたいと思ったか。

それは、他ならぬ雲でなければいけないか。
それは、晴れた朝の雲か、夕焼けに重なる雲か。
それは、都会を歩く街並みを見上げる雲か、山に薄くかかった雲か。

雲はいつも、空にある。
いつもと同じように、またいつもとは違うように見える。
雲は儚くも、永遠の生を謳歌するようにも見える。


 雲は、脳とどこか違うところが、あるのだろうか。

 × × ×

僕はとにかく自分を忙しくすることに神経を集中した。僕は前よりももっと頻繁にプールに通った。毎朝のように休みなしで二千メートル近くを泳いだ。そしてそのあとで階上のジムでウェイトリフティングをやった。一週間ほどで筋肉が悲鳴を上げはじめた。信号待ちをしているときに左脚が攣って、しばらくクラッチを踏むことができなくなったくらいだ。でもやがて僕の筋肉はその運動量を当然なものとして受け入れていった。そのようなハードワークは僕に余計なことを考える余裕を与えなかったし、毎日しっかりと体を動かすことは、日常的なレヴェルでの集中力を与えてくれた。僕はぼんやりと時間を過ごすことを避けた。どんなことをするときでもいつも集中してやるように努力した。顔を洗うときは真剣に顔を洗ったし、音楽を聴くときは真剣に音楽を聴いた。実際のところそうしないことにはうまく生きていけなかったのだ。

村上春樹国境の南、太陽の西

香辛料の国 1-4

 
 連想の契機、可能性の感覚。夢は叶うと色褪せるというが、これは夢を現実化する能力や資源に恵まれない者の負け惜しみではない。何かができる、自分は変われると思うのは、今の自分には手が届かないが、霞む視線の先に未知の色を見るからだ。
 味や香の組み合わせは時に、算術和以上の効果を生む。互いに相手の良質を引き出した調和を感じることもあれば、素材の姿を見失うほどに新たな内実を獲得することもある。計算式を描いていた者はその意外性に驚き、充実を得るだろう。そしてこれは各々の素材にも当てはまることだ。我々も意外性と充実を遠望し、その機会を希求している。意志は起これば風に乗る。風はより好みなく全てを運んでゆく、彼らは重力を知らない。ゆえに我々は意志する、僕もその一つ。

「いつ消え去ってもよい、と考えたことはない?」
「何を言う。そんな恐ろしいこと、縁起でもない」
「そういう意味ではないんだ。消失を望んでいるわけではない。儚い残り香を悟った者の話を聞いたことはないかな」
「ああ、そういうことか。先行きの短さを知れば今一時が輝いて見える、っていうんだろう。でもそれさ、鮮度の高い私らには関係ないんじゃないの?」
「そうとも限らない。永遠の時間は束縛のない自由な感覚をもたらすと思われているけれど、束縛のなさは、茫漠としたあてどなさでもある。僕らが自由を活かせるのは、ある程度の障害や限定を抱えてこそかもしれない」
「やだね、好んで障害を抱えようなんて、普通は誰も思わない」
「話が逸れたね。君の言った先行きの短さというのは、一つの具体例というか、充実をもたらす核心ではないと思うんだ。どう言えばいいのか‥‥消失がすぐそこにあると、その終わりの瞬間を想像することになるよね。できることなら華々しく散りたいとか、ゲシュタルト的調和に呑み込まれて消えたいとか。本当に大事なのはそこなのではないかな」
「散り際をいつも考えていろっていうの? それこそ縁起でもないな。後ろ向きどころか、目を塞いで何も見たくないって言ってるようなもんだ」
「そういう考え方もあるだろうけど。たぶんウーシャンフェンは、理想の散り方がある、どんな状況でも間違いのない消え去り方があると考えている気がする。でも、そうじゃないんだ。僕らはそれぞれが実にいろんな散り方をする、時に鮮度には無頓着に。理想がただ一つしかなかったら、僕らの大半は悲しみや後悔のうちに消化されていることになる」
「消失は誰にだって悲しいし、後悔だってするだろう。散り方に理想があろうがなかろうが、そんなこと関係ない」
「僕が言いたいのは、実際に理想の散り方があるかどうかじゃなくて、あるかどうかわからないけれど、それでも僕らはより良い散り方を目指しているということなんだ。僕らはそれをいつも忘れている、けれど残り香を悟った者はそれを思い出して、しかも二度と忘れない。忘れることができないんだ。でも僕はそれを、束縛の苦痛ではなくて、自由のための限定ではないかと考えている。そして、どうすれば今の僕がその限定を獲得できるだろうかと考えている」
フェンネル、あんたって、前向きか後ろ向きか分からんな」

 目を閉じれば暗く、開けば明るい。暗さによって光の受容体は感度を向上させる。明るさを眩しいと感じるのは最初だけ、眩しさに順応すると全てが平板に見える。暗闇における受容体の賦活は、見ようとして見るものを見ず、見えてくるものを目に見せる。平板な視界はその世界と同じく、見えるものに溢れ、目は見たいものとしてそれらを見る。視覚の比喩はその世界と同じく、他を威圧する勢力を誇るが、目を閉じれば沈黙する。沈黙は金、だが金は沈黙しない。暗闇は、金の沈黙する世界。

香辛料の国 1-3

 
 色の混じらない虹がある。五つの各色ははっきりと濃く、境界も明確で、五つの独自の主張となる。相手に見せるのはそのうち1つだけだが、その相手はこのこと、つまり「今目にしているのは五つのうちの1つだけ」であることを知っている。ふつうは2つ、持てる者でも3つがいいところ。それが彼の色は五つ、しかも混じり気なく、衝突もなく共存している。統率する長もいない。いや、統率者がいないこその秩序か。相手は、つまり僕のことだが、この隠されて明らかな五色を前に、消耗する。その理由が知りたいと思った。

「やっ、フェンネル! ここで会ったが百年目」
「やあ、ウーシャンフェン。僕は君の仇か何かだったかな」
「相変わらずだなあ。変わってない。懐かしいなあ」
「君は今は何をしてるんだい?」
「ま、いろいろさ。いろんなものをくっつけたり、離したりしている。私はくっつけようとしか思ってないんだが、結果として離れることもある、って意味だ。後者はな」
「なるほど。よくわからないけど、入り組んだ関係が好きなところは変わってなさそうだね」
「そりゃ誤解だ。必要以上にリンクを形成するような真似はしない。一つひとつの対象にきちんと向き合って、真率かつ丁寧に関係を拵えていくのが私の身上だ」
「気持ちはわかるけど、その身上が結果として君の周りの関係性を複雑にしているんじゃないかな」
「そんなはずはない。心は込めれば通じる、香は醸せば伝わる。君にそう思われるということは、私の努力がまだまだ足りんのだろう」
 醸せば? 「そんなことはないよ。君は十分に努力しているし、十分すぎるほど真剣だ」
「そう言ってくれると嬉しいな。やっぱりフェンネルは昔のままだ。また会えることを楽しみにしてるよ」

 自覚が大事だという考えを呼び起こす。その横に、根本的に合わない相手がいるという考えを並べてみる。

 自覚の効果には限界があるのだ。自分の思考や行為と、その効果や結果を認識していることは、それだけで効果や結果を補正する機能をもつわけではない。自覚の空回りと言ってもいい。なぜそのようなことが起こるのか。「反省の普遍化によって、反省の素朴な効果が損なわれた」と最近どこかで聞いた。これと同じことかもしれない。本来は自分一人で、自分自身を外から見つめて静かに問い直す行為である自覚が、習慣化し、巷間で一般性を獲得した身振りになる、つまり誰もが同じように手軽にできるようになる自覚の常識化によって、その効果のうち個別具体的な側面が剥がれ落ちる。個性を一般化できるわけがないから、当然のこと。
 大上段に構えるようだが、僕の消耗の原因をここに見ることもできるかもしれない。抽象的かつ本質的な希望、その破砕、具体的にして象徴的な破砕。

 希望はまだある。抽象性をもって具体性と向き合うこと、普遍性を帯びたグラスルーツ。縁を棄てないこと、悪い流れからは徒手で漕ぎ出すこと、「身を任せる流れを選ぶ者」の矜持。彼とはまたどこかで会うことになるだろう。

香辛料のくに(1)

 セージは言う、
「科学は幻想かもしれない」
 クローブは言う、
「幻想は科学かもしれない」

 フェンネルは問う、
 現在は過去と未来を含めるのか、
 変化と不変は視点の違いなのか、
 空虚は充溢のための準備なのか、

 コリアンダーは言う、
「小さな音に耳を澄ませることだ」
 キャラウェイは言う、
「己の感覚に素直に従うのがいい」

 フェンネルは秘める、
 夕日と終末の相同性、
 彼岸と此岸の同期性、
 瞬間と永遠の香辛性。

"walking sincerity"、「行間のある会話」

一昨日に、高校の同級生と久しぶりに会って話をしました。
数年前の同窓会ではロクに立ち話もしませんでしたが、それ以前に在学中もこんなに長く話したことはなかったかもしれません。
聞けば彼女も独立して個人事業で生計を立てているという。
驚きはしたものの、なるほどと思ったのは、「今だからこそ会えたのか」ということでした。

会社員時代も旧友と久闊を叙す機会はあったのですが、会った時の印象、自分の気持ち、話の内容などを思い返してみると、会社を辞めて(つまり会社という「大きなもの」に所属しなくなって)からの同様の機会と比べて、明らかに違う。
なんというのか、前は、自分のことを他人事のように話し(それを客観的な分析だと誤解し)、旧友の話も「そういうことって、よくあるよね」という、なにか(自分と相手という)個性を一般人の枠内にはめ込もうとする空気がはたらいていたように思います。
「これでいいのか」とか「将来こうしたい」とか口にする内容に関わらず、現状肯定の、ある種の諦めを含んだ空気が漂っていた。
自分の力では(自分のこと以上のことは)どうしようもない、考えても仕方がない、という「なにか」に対する消極性。

一昨日の記憶を振り返ってみて、上に書いたような前にはなかった感覚として、「自分には何ができるか」という視点で話をしていたことに、今感心しています。

組織の後ろ盾がない個人の「現状維持」は、即、停滞を意味する。
今の自分があって、今の仕事があって、その自分の仕事がいつまでも続くなんてありえないという認識が当然にある。
変わりたい、という願望が悠長にすら思える、「変わらざるを得ない」状況。
真剣に思考できる状況として、これほどふさわしい時期は、これまで無かったのではと思います。

 × × ×

その元同級生は、多くの人と関わり、人と人をつなげる仕事をしていて、昔からそうでしたがよく考えよく喋る子で、そしていつでも真剣なところも変わっていませんでした(その「遍き真剣さ」が時に人間関係における問題を引き起こしていましたが、今思うに、それは他の当事者の真剣さが足りなかったのでしょう。今僕は「真剣さ」を「生命力」と同じように使っています)。
普段から考えはするが口にすることのない僕は、彼女の作り出す「真剣な会話空間」に馴染んで、これまで面と向かっては人に言ったことのない話をしました。
いや、実際は「話をしようとした」で、その話をするための前段の構築のところで口が頭に追従できず、話があやふやになって別の話題へ移ったのでした。
けれど、僕の面倒な「前段の構築」にも真剣に耳を傾け、それが曖昧に途絶して話が変わる直前に、鋭いコメントをくれたのでした。

「せんちゃんと話してると、立場の説明が長くなるね」

そう言われて、なにか深い納得があり、しかし同時に「ちゃんと考えなければならないこと」が生まれたようでした。
後者は、彼女に対する弁解としてかもしれず、あるいは理解以前に留まっている僕の認識を言語化する必要としてかもしれない。


「これまで面と向かっては人に言ったことのない話」と先に書きました。
これはすなわち、思考するための文章として今まで書いてきたことを指します。
僕が「前段の構築」という回りくどいことをやろうとしたのは、会話に通常使われる「意思伝達のための言葉」ではなく、「思考のための言葉」、つまり何が出てくるか本人にも分からない言葉を会話に乗せていいのかという逡巡があったからです。
いいわけがない、相手に不快を与えたり誤解を招くような発言が制御を外れて飛び出すような会話は、コミュニケーションを円滑にとろうとする意思があるのなら、少なくともまっとうな形態ではない。
と、僕はそう思っていたのですが、このようなことを言うと、彼女は「そうとも限らないんじゃない」と言いました。

「そういう会話ができる場合も、つまり、そういう会話ができる相手もいると思うよ」


それはつまり、お互いが相手の人間性を認めたうえで、そして会話の内容が先走りすることなく、発言の一つひとつが相手の口調や表情によって時に文脈から離脱することを許容する、いうなれば「行間のある会話」のようなものではないか。

僕は、思考のための言葉を文章に綴ることをある種の「実験」と認識していて、この同じ言葉をこれに当てはめるのはあまりに素っ気ないのですが、なにかやたらにハートウォーミングな表現を除けば、ほかに思い当たりません。

なので仕方ないのですが、単独実験を底の割れた未知空間の広がりと思う僕には、ペア実験である「行間のある会話」が一体どういうものであるのか、全く想像がつきません。
「そこ」で僕が何を話し、どんな表情をしているのか。


ただ非常に興味深いと思い、そして機会は大切にしたいと思うのみです。