human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

家の葬式、曲の葬送

 
 ──「家の葬式」のことを、前にちらりとおっしゃっていましたよね。
 ──はい。我々建築家は、家を新しく建てる場面に比べて、家を解体撤去する場面に立ち会うことが圧倒的に少ないのです。近頃はリフォームやリノベーションが流行しておりますが、世間の建築家に対するイメージは大方、「新しく建てる仕事をする人」に留まっていると思われます。しかし、人口はピークを既に過ぎ、空き家が増加し続けている現代には、「家の終いのお世話」がもっと必要になってきます。いえ、それは希望的観測で、必要になるべきだ、というのが正直なところですが。じっさい、賃貸マンションや貸家に住む人はもとより、分譲マンションに住んでいる人ても、マンションそのものがその人の所有物ではないのだから、自分が長年生活してきた家の最期を看取るという発想には、至らないのが普通です。持ち家に住む人であってすら、その傾向に大差はありません。建てたのは自分ではないから、家で育てた子どもは都会へ出てしまうから、取り壊す費用がすぐに捻出できないから、等々、いろいろな理由が幅を利かせている結果が、全国的に存在する大量の空き家という現状なのです。
 ──家の葬式というニーズが、出てきそうで出てきていない、ということですか?
 ──いえ、きっとニーズはあるのだと思います。そして、そのような世話ができ、実際にしてきた建築家のもとへは、そのような依頼が寄せられているのです。細々と、だとは思いますが。
 ──なるほど、そういう話でしたか。僕は「家の葬式」という言葉をその内容も知らずに聞いて、ある別の連想をしていたのです。
 ──それは、どのような内容のものですか?
 ──同じように言えば、「歌の葬式」となるでしょうか。あるいは、葬送曲という言葉を念頭において「曲の葬送」と表現してもかまいません。歌は、いやもっと広く音楽は、僕らのあらゆる生活場面で背景を飾り、また時に前景として映えることで、僕らを励まし、癒やし、楽しませてくれますよね。その点で、音楽は無償の愛のような存在だと言えるかもしれない。音楽は僕らに何も求めず、それでいて多くを、とても多くを与えてくれる。そして音楽には流行があり、ある時代には世界中で同じ一つの歌が流され、同時的に異国の人々が同じ曲を耳にすることがある。また、そのように世界を席巻していた音楽が、次の年にはぱたりと止み、現実の空気を震わせることなく、人々の頭の片隅に追いやられ、次第にその残響も薄れていき、最初からそのような音楽は存在すらしなかったと、年鑑を見たり、往年のヒットチャートを振り返る特番をテレビで見たりしない人間は、それを信じて疑わないといったことにもなる。今言ってみて気付きましたが、このテレビ特番はある意味で、かつて流行した歌の葬式とみなすことができます。
 ──なるほど。
 ──でも僕が言おうとしたのは、個人の中でのこと、非常に私的な事情のレベルでのことで、かつて自分にとても大きな影響を与えた、暇があれば家のCDコンポやウォームマンで繰り返し再生し、歌の歌詞を暗唱できるほど自分のものにし、歌詞の意味が自分の生活と密接に結びついて、今の自分の存在を、あるいは自分と親しい人との関係をこの歌が象徴している、肯定している、そういった自分と一体化していたと言ってもいいほどの歌が、あるちょっとしたきっかけで、友達とケンカした、恋人と別れた、仕事が忙しくなった、そう、本当にどうでもいいような些細なことが原因で、その歌のことが念頭からぽろりと転がり落ちる、忘れてしまうと言わないまでも、自分の中でその歌が響かなくなる、他の歌と同じように「いい歌だけど、ただそれだけ」という、口にする機会もないが敢えて言えばそう評価できる、といったような位置づけに成り下がる。こういうことは、よくあります。日常的な現象とすらいえます。
 ──そうですね。意識されないだけで、本当によくあることだと思います。
 ──そしてこれは、よくよく考えてみれば、親友に知らせずに遠くへ引っ越したり、説明もなく挨拶すらせず恋人のもとを去るようなものです。かつて自分を励まし、高めてくれたものに対する感謝の念が、ここにはありません。完全に失われている。忘れるというのは本来、そういうことかもしれません。そして、忘れた頃に、本当に久しぶりに、そのかつての歌を、偶然の機会かなにかで耳にしたときに、懐かしいなとは思って、それが感謝の念に結びつくということは、あまり多くはないと思います。……なぜ多くないのか。それはきっと、儀式がなかったからなのです。
 ──儀式、ですか。
 ──そうです。「ああ、この歌は昔によく聴いたな、懐かしいな。あの頃は良かったな」、こういう感想は、まず感謝ではない。「あの歌に自分はいつも励まされていたな。実際にいい曲だし、俺にはことさら、自分のことを歌っているように思えたものだ。いや、当時にあの歌に出会えて本当に良かった」、たとえばこういう述懐が、稀にある感謝の念が込もっていると言えますが、これは実は、儀式にまでは至っていません。遠くに去っていく、あるいは去ったそれを、親しげに見つめ、あるいは感無量の涙とともに心を注いでいても、その彼は、ただそこに、今彼がいる場所にぼうっと突っ立っているだけなのです。目は閉じられているかもしれない、でも、手は合わせられていない。その手は無為に垂れ下がったままでいるか、生活のために忙しく動いている。
 ──はい。
 ──僕が思うのは、きっと、いや、「ここ」でかは分かりません、適切なタイミングについては考えていませんが、「手を合わせる」ことが必要なのではないか、ということです。身振りで示す。自分がそれを、すべきだと思った人に対してするのと同じように、音楽に対しても。そして、その身振りによって、かつて自分の一部のようですらあったその歌は、頭の片隅に追いやられるのではなく、また新たな形で、自分の一部となるのです。儀式によって忘れないということではなく、昔のように熱心に聴かなくなるのだから、頭の中をメロディの一部がふと流れるようなことがなくなり、その存在自体を忘れてしまうことはもちろんある。ただそれは、たとえば、日中オフィスで忙しく立ち回っている時に、自分の足の爪や十二指腸の存在を忘れるのと同じことなのです。その存在を明確に知覚することなく、あるいは知覚できないくらい自然に、自分の一部となる。音楽という、形を持たないもの、波動として鼓膜を震わせはするが跡形もなく消え去る、経時的でありながら瞬間的でもある存在、そのような音楽が、無時間性という虚無を脱して、身体に定着する。そのような儀式の存在を、ふと思い浮かべてみたのです。
 ──そうですね。葬式というのは通常、「形のあるもの」に対する儀式ですが、その同じ身振りを無形物に対して行うことで、その「形のないもの」が何かを獲得する、ということはあると思います。その何かは、今おっしゃられたことについては、歌が獲得するのか、それとも貴方が獲得されるのか、どちらになるのでしょうか?
 ──難しい質問ですね。その「何か」とは何なのか、とも思いますが、それはどちらとも言えないのではないでしょうか。
 ──どちらでもない。……その答えから導かれるに、その「何か」とは、「関係」ではないでしょうか?
 ──ああ、その通りですね。さすがです。関係を手に入れるのは、その関係者の誰でもなく、敢えて言うなら、関係そのものですからね。
 ──所有の概念が曖昧になるところが、その概念の限界を表してもいるのですね。

 × × ×

 僕がその曲をもう聴きたくないと思ったのは、そのメロディーを耳にすると島本さんのことを思い出してしまうからというような理由からではなかった。それはもう以前ほどには僕の心を打たなくなったのだ。どうしてかはわからない。でも僕がかつてその音楽の中に見いだしていた特別な何かは、既にそこから消えてしまっていた。僕が長いあいだその音楽に託し続けてきたある種の心持ちのようなものはもう失われてしまっていた。それは相変わらず美しい音楽だった。でもそれだけだった。そして僕はもうその何かの亡骸のような美しいメロディーを、何度も何度も繰り返して聴きたいとは思わなかった。

村上春樹国境の南、太陽の西』 太字は文中傍点部