human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

身近な喪失と諸行無常について

あるとき、ある若い母親が、リヴィエールに告白したことがあった、「子供が死んだという事実は、あたしにはまだはっきり理解できません。辛いのはかえって、些細な事柄です。子供の着物が目についたり、夜半の目ざめに、心の中に湧き上がるあの愛情、この乳房同様、もはや役に立たないあの愛情です……」と。今ここにいるこの若妻にとっても、ファビアンの死はようやくあすから始まるはずだった、いまさらに無益の一つ一つ、品物の一つ一つの中に。彼女の家から、ファビアンは徐々に去り行くはずだ。だがリヴィエールはこの深いあわれみを口には出さなかった。
「夜間飛行」p.103(サン=テグジュペリ『夜間飛行』)

飛行士の乗った機が消息を断ち、連絡を受けたその妻は支配人と面会する。
途方に暮れながら、しかしその哀しみは、死の実感はまだ始まっていない。
何度も同じ状況を経験したリヴィエールは、その過程を想像できてしまう。
そして聴きに徹した彼は、面会を終えた余韻に浸りながら、思索を深める。

「あの女は、僕がたずねていたものを見いだす手伝いをしてくれる……」
 彼は、漠然と北方の飛行場からの保安電報を手でいじくっていた。彼が考える、
僕らは自分たちを永遠なものにしようと願うべきではないかもしれないが、といって、行為や事物が急に意義を失うものだと考えるべきでもまたない。もしそう考えるとすると、僕らの周囲の空虚がはっきりしてきて……
 彼の視線がそれらの電報の上に落ちた、
今となっては意味を失ってしまったこれらの報告、これらのもののあいだから、僕のところへ死が忍び込んで来るのだ……
同上 p.103-104

人は、身近な喪失や死に、誘い込まれることがあります。
喪失は、それぞれ確固とした意味を備えた生活要素を、瞬時に無意味に帰します。
その無意味を受け入れるための時間は長く、ひとつ意識するたびに痛みを伴う。
痛みに耐え切れず、早急に無意味に意味を与えようとすると、人は空虚に吸い込まれる。

昨年末に読んだ鷲田清一氏の本に、氏の地元での死者を弔う慣習の話がありました。
あやふやな記憶ですが…葬式を終え通夜を済ませてから、週末毎に一席を設ける。
今週は近所の方々、来週はかつての仕事仲間、というように集まる人は入れ替わる。
残された家族は、死者の生前の知人たちとその人について語り合い、記憶を共有する。

無意味というのは、ひとつ、他者に共有され得ない意味のことです。
鷲田氏の地元の慣習は、一度失われた意味に、新たな意味を与える知恵です。
記憶は語られるそばから形を変え、また他者と共有することで意味を獲得する。
失われた意味を遠ざけるのでなく、身近においたまま、じっくりと受け入れて行く。


時間を経ることの大切さは、本記事を書きながら思い出したことです。
数日前に抜粋部を一度読み返した時には、別のことを考えていました。
後半の下線部のことで、永遠の命を求めるでもなく、虚無主義に陥るでもなく、
そのどちらでもないと考えると「僕のところへ死が忍び込んで来るのだ」…。

これが、最初はよく分かりませんでした。
ニヒリズムが空虚をはっきりさせる、というのなら分かるが…。
と思っていたのですが、先週末に歩いていて、ふと気付いたのでした。
「そうか、死を身近に感じる状態は一つではないのだな」と。

例えば、ニヒリズム諸行無常はおそらく異なります。
「人事を尽くして天命を待つ」が、前者にはなく、後者にはある
どちらも刹那主義と言えなくはないが、「刹那」の射程が異なる。
「良い死に方をいつも考えている」ことと「いつ死んでもいいと思う」ことは…

ダメですね。具体的に書かないと分からない。

関係のない連想かもしれませんが、最近「後悔しない生き方」について考えました。
後悔するかどうかは過去の行為の内容ではなく、それを意味付ける現在が決める。
それでも、僕らは「後々に後悔しないように」選択をします。
それは、今の自分がそのまま未来にいて今の自分を見る感覚、と考えることができる。

でも実際は、「後悔のないようにその行動によって変化する」のですね。
つまり、後悔しない行動とは、変化の予感を胚胎している。
変化してしまえば、変化する前に想定した後悔なんて、もう分からない。
これは屁理屈ではなく、意識が生命活動をモデルにした考え方です。

収拾がつかないですね。うーん。