香辛料の国 1-4
連想の契機、可能性の感覚。夢は叶うと色褪せるというが、これは夢を現実化する能力や資源に恵まれない者の負け惜しみではない。何かができる、自分は変われると思うのは、今の自分には手が届かないが、霞む視線の先に未知の色を見るからだ。
味や香の組み合わせは時に、算術和以上の効果を生む。互いに相手の良質を引き出した調和を感じることもあれば、素材の姿を見失うほどに新たな内実を獲得することもある。計算式を描いていた者はその意外性に驚き、充実を得るだろう。そしてこれは各々の素材にも当てはまることだ。我々も意外性と充実を遠望し、その機会を希求している。意志は起これば風に乗る。風はより好みなく全てを運んでゆく、彼らは重力を知らない。ゆえに我々は意志する、僕もその一つ。
「いつ消え去ってもよい、と考えたことはない?」
「何を言う。そんな恐ろしいこと、縁起でもない」
「そういう意味ではないんだ。消失を望んでいるわけではない。儚い残り香を悟った者の話を聞いたことはないかな」
「ああ、そういうことか。先行きの短さを知れば今一時が輝いて見える、っていうんだろう。でもそれさ、鮮度の高い私らには関係ないんじゃないの?」
「そうとも限らない。永遠の時間は束縛のない自由な感覚をもたらすと思われているけれど、束縛のなさは、茫漠としたあてどなさでもある。僕らが自由を活かせるのは、ある程度の障害や限定を抱えてこそかもしれない」
「やだね、好んで障害を抱えようなんて、普通は誰も思わない」
「話が逸れたね。君の言った先行きの短さというのは、一つの具体例というか、充実をもたらす核心ではないと思うんだ。どう言えばいいのか‥‥消失がすぐそこにあると、その終わりの瞬間を想像することになるよね。できることなら華々しく散りたいとか、ゲシュタルト的調和に呑み込まれて消えたいとか。本当に大事なのはそこなのではないかな」
「散り際をいつも考えていろっていうの? それこそ縁起でもないな。後ろ向きどころか、目を塞いで何も見たくないって言ってるようなもんだ」
「そういう考え方もあるだろうけど。たぶんウーシャンフェンは、理想の散り方がある、どんな状況でも間違いのない消え去り方があると考えている気がする。でも、そうじゃないんだ。僕らはそれぞれが実にいろんな散り方をする、時に鮮度には無頓着に。理想がただ一つしかなかったら、僕らの大半は悲しみや後悔のうちに消化されていることになる」
「消失は誰にだって悲しいし、後悔だってするだろう。散り方に理想があろうがなかろうが、そんなこと関係ない」
「僕が言いたいのは、実際に理想の散り方があるかどうかじゃなくて、あるかどうかわからないけれど、それでも僕らはより良い散り方を目指しているということなんだ。僕らはそれをいつも忘れている、けれど残り香を悟った者はそれを思い出して、しかも二度と忘れない。忘れることができないんだ。でも僕はそれを、束縛の苦痛ではなくて、自由のための限定ではないかと考えている。そして、どうすれば今の僕がその限定を獲得できるだろうかと考えている」
「フェンネル、あんたって、前向きか後ろ向きか分からんな」
目を閉じれば暗く、開けば明るい。暗さによって光の受容体は感度を向上させる。明るさを眩しいと感じるのは最初だけ、眩しさに順応すると全てが平板に見える。暗闇における受容体の賦活は、見ようとして見るものを見ず、見えてくるものを目に見せる。平板な視界はその世界と同じく、見えるものに溢れ、目は見たいものとしてそれらを見る。視覚の比喩はその世界と同じく、他を威圧する勢力を誇るが、目を閉じれば沈黙する。沈黙は金、だが金は沈黙しない。暗闇は、金の沈黙する世界。
香辛料の国 1-3
色の混じらない虹がある。五つの各色ははっきりと濃く、境界も明確で、五つの独自の主張となる。相手に見せるのはそのうち1つだけだが、その相手はこのこと、つまり「今目にしているのは五つのうちの1つだけ」であることを知っている。ふつうは2つ、持てる者でも3つがいいところ。それが彼の色は五つ、しかも混じり気なく、衝突もなく共存している。統率する長もいない。いや、統率者がいないこその秩序か。相手は、つまり僕のことだが、この隠されて明らかな五色を前に、消耗する。その理由が知りたいと思った。
「やっ、フェンネル! ここで会ったが百年目」
「やあ、ウーシャンフェン。僕は君の仇か何かだったかな」
「相変わらずだなあ。変わってない。懐かしいなあ」
「君は今は何をしてるんだい?」
「ま、いろいろさ。いろんなものをくっつけたり、離したりしている。私はくっつけようとしか思ってないんだが、結果として離れることもある、って意味だ。後者はな」
「なるほど。よくわからないけど、入り組んだ関係が好きなところは変わってなさそうだね」
「そりゃ誤解だ。必要以上にリンクを形成するような真似はしない。一つひとつの対象にきちんと向き合って、真率かつ丁寧に関係を拵えていくのが私の身上だ」
「気持ちはわかるけど、その身上が結果として君の周りの関係性を複雑にしているんじゃないかな」
「そんなはずはない。心は込めれば通じる、香は醸せば伝わる。君にそう思われるということは、私の努力がまだまだ足りんのだろう」
醸せば? 「そんなことはないよ。君は十分に努力しているし、十分すぎるほど真剣だ」
「そう言ってくれると嬉しいな。やっぱりフェンネルは昔のままだ。また会えることを楽しみにしてるよ」
自覚が大事だという考えを呼び起こす。その横に、根本的に合わない相手がいるという考えを並べてみる。
自覚の効果には限界があるのだ。自分の思考や行為と、その効果や結果を認識していることは、それだけで効果や結果を補正する機能をもつわけではない。自覚の空回りと言ってもいい。なぜそのようなことが起こるのか。「反省の普遍化によって、反省の素朴な効果が損なわれた」と最近どこかで聞いた。これと同じことかもしれない。本来は自分一人で、自分自身を外から見つめて静かに問い直す行為である自覚が、習慣化し、巷間で一般性を獲得した身振りになる、つまり誰もが同じように手軽にできるようになる自覚の常識化によって、その効果のうち個別具体的な側面が剥がれ落ちる。個性を一般化できるわけがないから、当然のこと。
大上段に構えるようだが、僕の消耗の原因をここに見ることもできるかもしれない。抽象的かつ本質的な希望、その破砕、具体的にして象徴的な破砕。
希望はまだある。抽象性をもって具体性と向き合うこと、普遍性を帯びたグラスルーツ。縁を棄てないこと、悪い流れからは徒手で漕ぎ出すこと、「身を任せる流れを選ぶ者」の矜持。彼とはまたどこかで会うことになるだろう。
"walking sincerity"、「行間のある会話」
一昨日に、高校の同級生と久しぶりに会って話をしました。
数年前の同窓会ではロクに立ち話もしませんでしたが、それ以前に在学中もこんなに長く話したことはなかったかもしれません。
聞けば彼女も独立して個人事業で生計を立てているという。
驚きはしたものの、なるほどと思ったのは、「今だからこそ会えたのか」ということでした。
会社員時代も旧友と久闊を叙す機会はあったのですが、会った時の印象、自分の気持ち、話の内容などを思い返してみると、会社を辞めて(つまり会社という「大きなもの」に所属しなくなって)からの同様の機会と比べて、明らかに違う。
なんというのか、前は、自分のことを他人事のように話し(それを客観的な分析だと誤解し)、旧友の話も「そういうことって、よくあるよね」という、なにか(自分と相手という)個性を一般人の枠内にはめ込もうとする空気がはたらいていたように思います。
「これでいいのか」とか「将来こうしたい」とか口にする内容に関わらず、現状肯定の、ある種の諦めを含んだ空気が漂っていた。
自分の力では(自分のこと以上のことは)どうしようもない、考えても仕方がない、という「なにか」に対する消極性。
一昨日の記憶を振り返ってみて、上に書いたような前にはなかった感覚として、「自分には何ができるか」という視点で話をしていたことに、今感心しています。
組織の後ろ盾がない個人の「現状維持」は、即、停滞を意味する。
今の自分があって、今の仕事があって、その自分の仕事がいつまでも続くなんてありえないという認識が当然にある。
変わりたい、という願望が悠長にすら思える、「変わらざるを得ない」状況。
真剣に思考できる状況として、これほどふさわしい時期は、これまで無かったのではと思います。
× × ×
その元同級生は、多くの人と関わり、人と人をつなげる仕事をしていて、昔からそうでしたがよく考えよく喋る子で、そしていつでも真剣なところも変わっていませんでした(その「遍き真剣さ」が時に人間関係における問題を引き起こしていましたが、今思うに、それは他の当事者の真剣さが足りなかったのでしょう。今僕は「真剣さ」を「生命力」と同じように使っています)。
普段から考えはするが口にすることのない僕は、彼女の作り出す「真剣な会話空間」に馴染んで、これまで面と向かっては人に言ったことのない話をしました。
いや、実際は「話をしようとした」で、その話をするための前段の構築のところで口が頭に追従できず、話があやふやになって別の話題へ移ったのでした。
けれど、僕の面倒な「前段の構築」にも真剣に耳を傾け、それが曖昧に途絶して話が変わる直前に、鋭いコメントをくれたのでした。
「せんちゃんと話してると、立場の説明が長くなるね」
そう言われて、なにか深い納得があり、しかし同時に「ちゃんと考えなければならないこと」が生まれたようでした。
後者は、彼女に対する弁解としてかもしれず、あるいは理解以前に留まっている僕の認識を言語化する必要としてかもしれない。
「これまで面と向かっては人に言ったことのない話」と先に書きました。
これはすなわち、思考するための文章として今まで書いてきたことを指します。
僕が「前段の構築」という回りくどいことをやろうとしたのは、会話に通常使われる「意思伝達のための言葉」ではなく、「思考のための言葉」、つまり何が出てくるか本人にも分からない言葉を会話に乗せていいのかという逡巡があったからです。
いいわけがない、相手に不快を与えたり誤解を招くような発言が制御を外れて飛び出すような会話は、コミュニケーションを円滑にとろうとする意思があるのなら、少なくともまっとうな形態ではない。
と、僕はそう思っていたのですが、このようなことを言うと、彼女は「そうとも限らないんじゃない」と言いました。
「そういう会話ができる場合も、つまり、そういう会話ができる相手もいると思うよ」
それはつまり、お互いが相手の人間性を認めたうえで、そして会話の内容が先走りすることなく、発言の一つひとつが相手の口調や表情によって時に文脈から離脱することを許容する、いうなれば「行間のある会話」のようなものではないか。
僕は、思考のための言葉を文章に綴ることをある種の「実験」と認識していて、この同じ言葉をこれに当てはめるのはあまりに素っ気ないのですが、なにかやたらにハートウォーミングな表現を除けば、ほかに思い当たりません。
なので仕方ないのですが、単独実験を底の割れた未知空間の広がりと思う僕には、ペア実験である「行間のある会話」が一体どういうものであるのか、全く想像がつきません。
「そこ」で僕が何を話し、どんな表情をしているのか。
ただ非常に興味深いと思い、そして機会は大切にしたいと思うのみです。
「怒り」と「憤り」、あわよくば『VIVO!』(瀬川藤子)の書評
3巻まである『VIVO!』(瀬川藤子)をさっき読了しました。
何度目かの再読ではあるんですが、最終章を呼んでいるあいだに意外なところに連想がつながったので何か書こうと思いました。
- 作者: 瀬川藤子
- 出版社/メーカー: ノース・スターズ・ピクチャーズ
- 発売日: 2018/07/20
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佐藤 (…)男の子がおかれてる状況は大変だなと思いました。魂の問題でいうと、いまの子どもたちを見ていて、芸術的な感動がなくなっているし、怒りはあるんだけど、憤る感情がなくなった。
藤原 キレるっていうことはありますね。
佐藤 そう、キレるんだけど、あれは生理の爆発であって、魂の憤りじゃない。
藤原 結局、キレるというのは神経作用でしょう。憤りというのは理念の作用ですね。いいか、悪いかで判断していた時代というのが六〇年代から七〇年代にあって。そのつぎに、感覚で好きか、嫌いか、っていうのがあって。八〇年代以降は、パルス(衝動)なんですね。バリアがなくなって、神経へどんどんパルスが打ち込まれる。そういうものは、コマーシャルなんかがいちばん象徴してますよね。社会の仕組みのなかで、憤りじゃなく、キレるような脳にされてきている。だから、これ、資本主義といってしまえば、政治的な言い方になってつまらないんだけど、やっぱり、モノに包囲されている人間っていうのは、すごい世界に生きていると思いますよ。
「多くの子どもが酒鬼薔薇に共感するのはなぜか」(「分裂する魂と肉体 ×藤原新也」)p.42-43(『身体のダイアローグ 佐藤学対談集』、2002年初版、太郎次郎社)
- 作者: 佐藤学
- 出版社/メーカー: 太郎次郎社
- 発売日: 2002/03/01
- メディア: 単行本
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この本も再読で、最初はいつだったかと過去のブログを検索すると、2011年の1月でした。
何度かの引っ越しがありましたが、そのたび身軽になっていった蔵書に居続けた、いわば「風雪に耐えて」残った大切な本です。
読み返すかどうかわからないが、本棚に並べ、その背表紙が目に入るだけで、大切なことが思い起こされる、そういう思いが自分の手元から離さなかった。
再読のきっかけは、本棚を眺めていてたまたま目に入ったという、意識のうえでは偶然としか言えないものです。
意識のうえでは。
× × ×
話を戻します。
『VIVO!』では、仲村渠(なかんだかり)というひたすら自己中心的な人間が、ふと友人に巻き込まれて高校の臨時教師として一年を過ごすことになります。
三年の担任になったのですが、良心と思いやりの超絶的欠乏は着任から一切の揺らぎを見せず、卒業式の日も(出身校の後輩でもあるパシリ役の)用務員に電話で起こされ、式が終わってやっと(教室ではなく「サボり用の座椅子」が置いてある部室に)姿を見せる、というのが最終話の始まりです。
そんな教師ナカムラ(「仲村渠」が呼びにくいのでみんなそう呼ぶ。本人公認)に、高校にいる普通の人々はとても澄まし顔では応対できないわけですが、今書いたような仕方の説明はある気づきがあって初めて可能になります。
最終章のドタバタを読み進めながらふと思ったのは、まず「眉間のシワを描くのがほんとうに上手いなあ」で、「そういえばこのマンガは、眉間のシワとか怒りの四つ角とかが頻出で、とにかく怒ってる人間が多いな」と思い、「いや、これは"怒り"ではなく…?」と抽象的な方に発想が進み、本記事の冒頭に引用した一節のことを思い出したのでした。
引用の中で藤原氏は「キレる(怒り)は神経作用で、憤りは理念の作用だ」と発言しています。
これは違う言い方をすることもできます。
たとえば、「怒り」は無時間的な反射で、「憤り」は経時的作用の蓄積の結果である。
マンガを読む目を休めてふと思い巡らせたとき、『VIVO!』に登場する人物はそのほとんどが「怒って」いるのではなく「憤って」いると気付きました。
(例外は、2巻に出てくる(たしか舞台が小中高の一貫校だったかで)学校敷地内から部室へやってきた小学生たちと、2巻で「どヒール」(悪役)として描かれる文化委員の女の子です。彼らは絵に描いたように「キレて」います)
ナカムラは自己中心的で自由奔放で、意に沿わないことが起こると間髪入れず「嫌な顔」(眉間にたっぷりシワ付きの)を露呈し、友人の教師には嫌味を言い、相手によっては罵詈雑言を浴びせかけますが、それら嫌味や皮肉や罵詈雑言でさえ筋の通った言葉であり、教え子の生徒たちも付き合ううちに理解していきます。
ナカムラは「キレて」いるのではない、と。
自己本位な要求があり、通念に沿った社会的要求があり、弱者の切実な要求がある。
さまざまな要求が対立し、意見が食い違い、本意が叶わずに感情が露出する。
でも、彼ら彼女らがつい身から溢れさせる感情は、なにかこちらを納得させるものがある。
単純に共感できる、というわけではない。
「鬱憤を晴らす」という言葉があるように、人を動かす、いや人を動じさせる感情の発現が、経時的な現象を契機とすること。
僕はここに、空気のように(=当たり前に)思考する、人間としてのまっとうさを感じるのかもしれません。
『VIVO!』の3巻のあとがきに、タイトルについて著者のコメントがあります。
曰く、「いろんな言語だったり専門用語だったりします。私の中でコレ!!という意味も理由もあります」。
Amazonの評価欄だったか、どこかで「内容は面白いがタイトルに訴求力がない」というコメントを見たことがあります。
パッと見では分からない、調べてもよくわからない、でも僕はこの言葉がこのマンガのタイトルであり、そしてこのマンガを読み通すことで、その意味が僕なりに「身についた」気がしています。
本ブログ内で "free dialogue in vivo"というタイトルの記事を書き始めたのは、このマンガを読んでからのことです。
意味が「身についた」と書いたのは、はっきり言葉として表現できるわけではない消極的な意図も含まれています。
けれど、せっかくなので書いてみると、冒頭の引用から言葉を借りて、『vivo!』とは、「魂のぶつかり合い」という言い方ができそうだと思います。
読み返すごとに、その時々の僕の関心と反応して、新たな思考が生まれる。
蔵書から外さなかった(過去の)僕の選書眼も、なかなかだなと思いました。
奥が深いマンガだ、と言ってもいいのですが、その奥が見通せないのは、意識の洞穴が途中でねじれて「身体と繋がっている」からです。
ここまで書いてやっと、冒頭の連想が、そう意外なものでもなかった、とわかりました。
この意味は、「身体の理解に脳が追いついた」ということです。
面白いですね。
人間の定義、幽霊の希望
「君はいつだって、どこへだって行ける。でも……、ここへ来た目的は?」
「人間じゃない生きものを見たかった」
「ロイディは生きものじゃないよ」
「生きていないの?」目を見開いて、クロウ・スホはロイディを凝視した。「でも、話ができるし、歩いているわ」
「それは、生きていることとは別のことだよ。彼は機械なんだ。メカニズムなんだ」
「メカニズム?」
「そう……」
森博嗣『女王の百年密室』
その定義は、とてもシンプルだ。
少女にだって、わかる。
いや、きっと大人は忘れてしまうのだ。
具体的な物や言葉に囲まれて、純粋な抽象思考を忘れてしまうように。
「ミチルは人間?」彼女はこちらを向いた。
「どう思う?」僕は尋ねた。
「人間だと思う。お話がとても面白いわ」
「ロイディ、聞いたかい?」僕は振り返った。「よく覚えておくんだよ」
「了解」ロイディが答えた。
「私、図書館へ行くわ」クロウ・スホは立ち上がった。「ありがとう。サエバ・ミチル」
「何が?」
「お話をしたこと」
「人間らしく、できた?」
「できたわ」クロウは悪戯っぽく唇を噛んだ。「あなたは人間よ」
同上
でないと、人は人を殺せない。
だからこそ、人は人を殺せる。
そしてこの定義は、自分に撥ね返る。
確信を持ち、行動指針とした者の姿を、淀みのない鏡となって映す。
お金を破り捨てた 人間のように
人間(いのち)を破り捨てた人間は‥‥
愛を口にする 資格すら 失うのかも しれない
思うことも 感じることも
人間の所業とするのなら
その根幹たる人間を 否定してしまった 存在は‥‥
人間の世では 誰とも疎通 できなくなる
それはもう 幽霊(ゲシュペンスト)だ‥‥
岩永亮太郎『パンプキン・シザーズ11』
幽霊には己が幽霊である自覚がなく、従って苦しみはない。
最早戻れない世界を羨まないのは、まだ自分がそこにいると信じて疑わないから。
けれど、幽霊と人間のハーフとなった者は、生きるそのことが苦しみとなる。
自分の所業の一つひとつを、確信を持って否定し続ける人生。
それでも生きたいと思える希望、noblesse oblige.
☓ ☓ ☓
女王の百年密室―GOD SAVE THE QUEEN (新潮文庫)
- 作者: 森博嗣
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Pumpkin Scissors(11) (月刊少年マガジンコミックス)
- 作者: 岩永亮太郎
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「境界の緩んだ思考」- free dialogue in vivo 5
キーフレーズが最初に頭に浮かぶ。
「孤独と境界には相関がある」
境界とは、自分と他人との境目のことだ。
孤独は、自分が一人であること、近くに誰もいないことの強い意識といえる。
その意識の前提として、自分と他人とが、個別にくっきりと認識されている。
孤独が意識された時の「孤独でない状態」とは、どのようなものだろうか?
自分は孤独だと思い、その孤独が解消されたと思った時の、自分とは。
「孤独の解消」は、変わらず抱える孤独から目を逸らした状態ではないか。
自分という個を強調する限り、孤独はいつでも、すぐそばに潜んでいる。
「思考は孤独な営みである」と最近何かで読み、僕もそう書いた。
それは思考の主体が一人の人間の脳にあるから、そう納得できる。
しかし、孤独とは根本的に異なる状態へ、思考が導くことがある。
つまり、前提が間違っている。
境界が薄れ、または滲み、または緩む場面を想像してみる。
食べる時、雑踏を歩く時、全身を駆使して登る時。
境界の濃さは、思考の質と相関がある。
思考の質を問える思考は、孤独を超えるものではないか。
境界は実際には、精神的な構築物である。
肌と空気を隔てる壁は、視覚の分解能に依る仮想的なものだ。
意識が境界を設定し、強化し、常置する。
意識が作り上げたものは、同じく意識によって解体可能である。
「境界が緩んだ思考」に、深く関心があり、強く惹かれている。
その「思考」と孤独には、複層的な関係がある。
思考の自由、意識と関係、その起源
誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるっきりです。自らの内へおはいりなさい。(…)もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。(…)そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ちたてて下さい。あなたの生涯は、どんなに無関係に無意味に見える寸秒に至るまで、すべてこの衝迫の表徴となり証明とならなければなりません。
「若き詩人への手紙」p.14-15(リルケ『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』新潮文庫)
リルケに詩評を依頼した一詩人への、彼の返報にある峻厳な言葉。
人生を賭す覚悟を問うような強い筆致は、しかしそれほど、強迫的には感じられない。
「これはむしろ当たり前なことかもしれない」と思った時、別の本の一節が連想されました。
抽象的思考には、具体的な手法というものは存在しない(そもそも相反している)。日頃から、抽象的にものを見る目を持っていること、そうすることで、自分の頭の中に独自の「型」や「様式」を蓄積すること、そして、それらをいつも眺め、連想し、近いもの、似ているものにリンクを張ること、これらが、素晴らしいアイデアを思いつく可能性を高める、というだけである。
「アイデアのための備え」p.47-48(森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』新潮新書)
これに続いて抽象的な思考の具体例を提示したあと、以下のように続く。
このように、抽象的な考え方をする人は、何をやっていても、どんなつまらないことでも、なにか役に立つことを見つけるようになる。見つけたことがあるから、役に立ったことがあるから、また見つけようとしているともいえる。
同上 p.49
詩人にとって、詩作が生きることそのものであるのなら、リルケの(詩人の依頼に応える形での)要求は当たり前のものであり、このことを抽象化して、意識をもち呼吸するように思考する人間が「生きていこう」と思うのならば、森博嗣の思考(これは要求でもなければ提案でもない)も当然である。
(上に引用した森博嗣の新書は、格別目新しいことが書いてあるわけではない。「抽象的とはなにか」について抽象的な思考を展開すれば、文章に長けた人ならある程度似通った内容のものを書けると思う。ただ今僕が思った本書の特色は、その内容の文章の「平坦さ」にある。感情がなく、つまり温情もなければ冷徹でもない。温かくなければ冷たいのだ、という巷の常識が異常に見えてくるのは、リアルな人間関係ではほとんど見られることのない「平坦さ」が本書には確固として存在するからだ。そしてこの「平坦さ」は、「自分は当たり前なことしか書いていない」という彼のシンプルな認識の表れでもある。僕が本記事で「当たり前」を連呼していることは、おそらく本書を読中であることから影響を受けている)
正常や異常というのは、抽象的思考においては、ある前提や境界条件をもとにした思考の筋道からの外れ具合(または合致度)のことであって、本来の意味では正常も異常もない。
が、そういう狭義の表現を用いるとして、自然な思考を経た結論を正常とみなした時に、世の中の多くのものごとが異常に見えてくることがある。
思考の自由とは、常識や通念や多数派意見から離れたところで、また現実における自分の行動とは別に、それでも自分の感覚と経験をベースにして思考を展開できることである。
そこにあるのは、多くの人達が、物事を客観的に見ず、また抽象的に捉えることをしないで、ただ目の前にある「言葉」に煽動され、頭に血を上らせて、感情的な叫びを集めて山びこのように響かせているシーンである。一つ確実に言えるのは、「大きい声が、必ずしも正しい意見ではない」ということである。
できるだけ多くの人が、もう少し本当の意味で考えて、自分の見方を持ち、それぞれが違った意見を述べ合うこと、そしてその中和をはかるために話し合うことが、今最も大事だと思うし、誤った方向へ社会が地滑りしないよう、つまり結果的に豊かで平和な社会へ導く唯一の道ではないか、と僕は考えている。
「自由に考えられることが本当の豊かさ」p.57-58 同上
✕ ✕ ✕
話が逸れましたが、上で連想によって並んだ2つの引用を、つなげる言葉を先に思いついていたのでした。
これは岩手の大学で司書資格をとった講座の文集に載せた言葉でもあります。
その本は手元にありますが、敢えて参照しないで書きます。
単行本の表紙裏(カバー)にも引用されていて、すぐ確認することはできるのですが。
『村田エフェンディ滞土録』(梨木香歩)という本で、「土」は「トルコ」のこと、「エフェンディ」はたしか現地の言葉で「学ぶ者」だったと思います。
戦前に日本からトルコへ研究員として滞在した村田という男が、多国籍な人々の住まう寮で交友を深めながら、彼ら共々真率に暮らしていく物語。
その寮友、ディミトリというたしかギリシャ人が、村田に言った言葉。
"私は人間だ。私にとって無関係なことなど、何一つない。"
✕ ✕ ✕
3つ目の引用が上2つを「つなげる」と書いた意味ですが、
たぶん、考えることで人は、その考えた対象と無関係でなくなるのです。
そして、想像を逞しくすれば、こうも言えるかもしれません。
意識は人の中で、そのようにして生まれたのではないか。
もしそうなら、「飢餓ベース」の長い歴史をもつ人体が空腹の中で活動のピークを迎えられるように、"このこと"を意識の常識に登録できた時、その時彼の意識に起こることは、きっと素敵なことに違いありません。
✕ ✕ ✕
- 作者: リルケ,高安国世
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人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/03/15
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- 作者: 梨木香歩
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評価、身の丈、個性と抽象
『思想をつむぐ人たち』(鶴見俊輔著、黒川創編、河出文庫)を読了。
これで2回目だったか、3回目だったか。
事実はすべて過ぎ去る。今ごとにほろびる事実に対して、つづくというのが価値の性格である。何かに価値があるということは、その対象となる事実とのかかわりがあってはじめてあらわれるのだが、その事実が今ごとにうつろいほろびゆくということをこえている。価値ありという判断は、今という時をこえるところを指さしている。
p.447
✕ ✕ ✕
価値の判断、「評価」という姿勢に、いつからかマイナスの感覚をもつようになっていました。
マスコミや広告への食傷がその主な理由だと思います。
不特定多数を対象とした情報には、その発信元の「身の丈」を介在させる余地がない。
新聞記事の末尾署名を考えてみると、その名前から具体的な個人が立ち上がってくることを、誰も期待していない。
読み手はもちろん、記事を書いた記者本人にも。
彼を知る人にはその人となりが思い浮かぶはずのその名前は、記事の中では、情報の出所を明示するというこれも「情報」としての機能のみを負わされている。
内容も同じです。
ダイエットに効いたという薬の効能を謳う広告の体験談は、具体的な記述に溢れて見えて、その具体性は特定個人を指し示さない。
広告を読む誰もが自分の生活に当てはめて「自分にも使えるかもしれない」と思わせるそれは、匿名性を帯びており、その意味で抽象度が高い。
「書評」というのは読者の本に対する評価で、僕はこれを好んで読みますが、それは本来の意味を超えた書評に限定されてのものだと、今言葉にしてみるとそう感じます。
内田樹氏の書評(氏がブログ内で勝手に書いた私的感想ということですが)は面白くて、それは「この本を読みたいと思わせる」という書評本来の効果を備えて見えはしますが、なぜ彼が紹介した本を読みたくなるかといえば、「その本が、本の内容を超えていろんな事柄や人や別の本とリンクするさま」が躍動的に書かれているからで、その「リンク生成」の出所は、内田樹氏という特定個人に深く拠っているのです。
別の言い方をすると、たとえば氏がなにかの本を「面白い」と一言コメントした時に、氏を知る人ならばその本のタイトルや著者という少ない情報からその「面白い」の詳細な解説を思いつくことができる一方で、氏を知らない人は「"なぜ面白いか"の説明がなく、解釈のしようがない」とそのコメントに取り合わない。
つまり、個人の身の丈が介在した情報は、受け手を選ぶ。
先に書いた「食傷」の意味は、この逆の「受け手を選ばない情報」の氾濫に対する気持ち悪さ、のことでしょう。
誰もが情報を発信できるネット時代、それは通信技術水準の問題で良し悪しはありませんが、そういう環境が整った結果として日々増殖し続ける情報のほとんどが匿名的である(個人が抽象されている)ことは、なにか本末転倒であると感じます。
ある意味で、世界中の人々が日本人になったようなものでしょうか。
✕ ✕ ✕
話を戻します。
鶴見氏の「価値」にかんする文章を読んで、この言葉に対する感覚が変わりました。
戻ってきた、のかもしれない。
価値の判断には、そのはじめに、個人がある。
その判断を他者が理解する、あるいは賛同するより先に、個人がある。
巷に溢れる「評価」は、「他者に(正確には「不特定多数に」)理解されない評価には意味がない」という価値観が、その内容を覆っている。
これを僕は、逆だ、本末転倒だ、と言う。
もしかして、これは唐突な飛躍ですが、匿名性を自覚できない他者どうしの結びつきは、取り返しのつかない悲劇を生む(生んでいる)のではないか。
まずもって具体的で、即物的でしかない共同生活に、しかし互いに相手の個性が見いだせない。
個性がないことは、「交換可能である」ことだから。
悪なす善人、名刺を作って思うこと
半年以上かかっていた『1Q84』は結局、岩手から引っ越す時期の慌ただしさに巻き込まれてbook3前半で途絶し(そして引越し時に半分の蔵書とともに手放した)、なにはともあれ騎士団長への道が一歩前進、次は「多崎つくる」かと思って本棚を眺めると、訳書でない未読のハルキ本が目に入り、タイトルからして旅エッセイだろうと見当をつけて読み始めると小説であった。
もちろん僕はイズミを損なったのと同時に、自分自身をも損なうことになった。僕は自分自身を深く──僕自身がそのときに感じていたよりもずっと深く──傷つけたのだ。そこから僕はいろんな教訓を学んだはずだった。でも何年かが経過してからあらためて振り返ってみると、その体験から僕が体得したのは、たったひとつの基本的な事実でしかなかった。それは、僕という人間が究極的には悪をなし得る人間であるという事実だった。僕は誰かに対して悪をなそうと考えたようなことは一度もなかった。でも動機や思いがどうであれ、僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になることができた。僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手さえも、もっともらしい理由をつけて、とりかえしがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった。
村上春樹『国境の南、太陽の西』
「竜巻のように激しく(そして否応なく)巻き込まれる恋(情事)」は『スプートニクの恋人』を思い起こし、「幼馴染の女の子と手を握った特別な瞬間」は『1Q84』と同じモチーフである。
馴染みが深くもあり、語り口に限らず前に読んだ雰囲気を随所に漂わせる(それが飽きに結びつくか喜悦を呼び起こすかは、文体の身体的な馴染み度合いによる)この小説のなかで、まずは「新しいな」と思ったところを抜粋してみました。
まずは、というのは、つまり第一印象のことで、よくよく考えると、この主人公がほかハルキ小説とは特異なメンタリティを備えているわけではない、むしろその逆であることがわかってくる。
僕の記憶レベルの認識ですが、新しいという印象は、偏ったある一面に強い意志を持ちながら状況に流され続ける主人公達の一人でありながら、自分を悪と呼ぶ人間は初めてだと思ったからでした。
だから時系列もおかしくて、この新しさは僕が読んだ順番でしかなく、単行本92年刊行の本書よりあとの小説を、すでにいくつも読んでいます。
ハルキ小説は教訓にあふれていて、語りの内容にそのまま教訓が含まれていることもあるし、出来事から読み手が教訓を容易に(あるいは豊富に)引き出せるようにもなっているし、けれど今僕が発見しようとしている教訓は位相がまた一つ上がって、ハルキ小説(群)に対するこの小説の位置関係がその出所のようです。
本当の悪人は、悪を自覚しないがゆえに、悪の執行に抵抗がない。
悪を自覚するがやめられない人間は、悪人かどうか?
彼の内には、悪の自覚による抵抗を上回る圧力が、彼を悪に向かわせる。
自然の流れに抵抗が噛んでおり、否応のない人生の進行は自然に破滅へ向かう。
悪人は、法や倫理の網を潜れば、自らの悪によって破滅することはない。
己の悪が自らを滅ぼす人間は、善人である。
しかし、
悪を自覚しない善人は存在し得ない。
悪を自覚せずに悪をなさない人間は存在し得ない。
したがって、
己の存在に苦しまない善人は存在し得ない。
書いてみてなんですが、「発見しようとしている教訓」は、この中にはありませんね。
なんだこりゃ。
同じ人間が、善人にも悪人にもなる。
あるいは、
悪人(善人)の自己規定は、行為遂行命題である。
といったあたりを、言いたかったのですが。
- 作者: 村上春樹
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仕事の話ですが、名刺をつくりました。
表に友人の屋号を、裏に自分の屋号を入れました。
現状主な仕事が表側なのでそれはいいんですが、業種を表裏で同一にしたことに少し考えるところがありました。
これも現状そのとおりではあるんですが、自分自身の特色を何か入れるべきではなかったかと。
たとえば「機械設計・工業デザイン」の横に「司書」と入れてもよかったのではないか。
資格を持っているだけで実務経験がなく、看板倒れと言われて否定はできないけれど、看板が仕事を育てることもある。
なにより、縁を大事にするなら「きっかけづくり」として書いてみてよかったはず。
けれど、また少し考えました。
そもそも、図書館で働くのではなく、個人事業として「司書」をどう仕事にするのか、今の自分に全くイメージがない。
これはたぶん、相手の提案を待つのか、自分から仕事をつくるのか、といった積極性の話とはまた別の問題です。
普段から司書の仕事を意識して生活しているわけでもない。
本が好きで、でも読むことを選ぶことも、個人的な枠から出ることがない。
鳥と卵、のような話だとも思います。
つまり、名刺をそう作った以上、まずはそういうものとして活動していく。
後悔があったのなら、それは作り直しとか、その前段階で司書についての個人的活動のイメージを考えていく、という方向につながるはず。
目の前に「印象的な物」があるとつい引き寄せられて、何か道ができたような気になってしまいますが、いつでもやはり、根本は自分が何をしたいかですね。
それは言葉にできるレベルがよいわけでもなく、言語化以前の思いが先にあるというわけでもなく、自分が進んでいく道が、自分が行きたい道であり、自分がやっていくことが、自分のやりたいことである。
これがとても素直な認識であることは、森博嗣の「冷たい」エッセイをいくつも読んでいると理解することができます。