human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

悪なす善人、名刺を作って思うこと

半年以上かかっていた『1Q84』は結局、岩手から引っ越す時期の慌ただしさに巻き込まれてbook3前半で途絶し(そして引越し時に半分の蔵書とともに手放した)、なにはともあれ騎士団長への道が一歩前進、次は「多崎つくる」かと思って本棚を眺めると、訳書でない未読のハルキ本が目に入り、タイトルからして旅エッセイだろうと見当をつけて読み始めると小説であった。

 もちろん僕はイズミを損なったのと同時に、自分自身をも損なうことになった。僕は自分自身を深く──僕自身がそのときに感じていたよりもずっと深く──傷つけたのだ。そこから僕はいろんな教訓を学んだはずだった。でも何年かが経過してからあらためて振り返ってみると、その体験から僕が体得したのは、たったひとつの基本的な事実でしかなかった。それは、僕という人間が究極的には悪をなし得る人間であるという事実だった。僕は誰かに対して悪をなそうと考えたようなことは一度もなかった。でも動機や思いがどうであれ、僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になることができた。僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手さえも、もっともらしい理由をつけて、とりかえしがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった。

村上春樹国境の南、太陽の西

「竜巻のように激しく(そして否応なく)巻き込まれる恋(情事)」は『スプートニクの恋人』を思い起こし、「幼馴染の女の子と手を握った特別な瞬間」は『1Q84』と同じモチーフである。
馴染みが深くもあり、語り口に限らず前に読んだ雰囲気を随所に漂わせる(それが飽きに結びつくか喜悦を呼び起こすかは、文体の身体的な馴染み度合いによる)この小説のなかで、まずは「新しいな」と思ったところを抜粋してみました。

まずは、というのは、つまり第一印象のことで、よくよく考えると、この主人公がほかハルキ小説とは特異なメンタリティを備えているわけではない、むしろその逆であることがわかってくる。
僕の記憶レベルの認識ですが、新しいという印象は、偏ったある一面に強い意志を持ちながら状況に流され続ける主人公達の一人でありながら、自分を悪と呼ぶ人間は初めてだと思ったからでした。
だから時系列もおかしくて、この新しさは僕が読んだ順番でしかなく、単行本92年刊行の本書よりあとの小説を、すでにいくつも読んでいます。

ハルキ小説は教訓にあふれていて、語りの内容にそのまま教訓が含まれていることもあるし、出来事から読み手が教訓を容易に(あるいは豊富に)引き出せるようにもなっているし、けれど今僕が発見しようとしている教訓は位相がまた一つ上がって、ハルキ小説(群)に対するこの小説の位置関係がその出所のようです。

 本当の悪人は、悪を自覚しないがゆえに、悪の執行に抵抗がない。
 悪を自覚するがやめられない人間は、悪人かどうか?

 彼の内には、悪の自覚による抵抗を上回る圧力が、彼を悪に向かわせる。
 自然の流れに抵抗が噛んでおり、否応のない人生の進行は自然に破滅へ向かう。
 悪人は、法や倫理の網を潜れば、自らの悪によって破滅することはない。
 己の悪が自らを滅ぼす人間は、善人である。

 しかし、
 悪を自覚しない善人は存在し得ない。
 悪を自覚せずに悪をなさない人間は存在し得ない。

 したがって、
 己の存在に苦しまない善人は存在し得ない。

書いてみてなんですが、「発見しようとしている教訓」は、この中にはありませんね。
なんだこりゃ。


 同じ人間が、善人にも悪人にもなる。

あるいは、

 悪人(善人)の自己規定は、行為遂行命題である。

といったあたりを、言いたかったのですが。

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

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仕事の話ですが、名刺をつくりました。

表に友人の屋号を、裏に自分の屋号を入れました。
現状主な仕事が表側なのでそれはいいんですが、業種を表裏で同一にしたことに少し考えるところがありました。
これも現状そのとおりではあるんですが、自分自身の特色を何か入れるべきではなかったかと。

たとえば「機械設計・工業デザイン」の横に「司書」と入れてもよかったのではないか。
資格を持っているだけで実務経験がなく、看板倒れと言われて否定はできないけれど、看板が仕事を育てることもある。
なにより、縁を大事にするなら「きっかけづくり」として書いてみてよかったはず。

けれど、また少し考えました。
そもそも、図書館で働くのではなく、個人事業として「司書」をどう仕事にするのか、今の自分に全くイメージがない。
これはたぶん、相手の提案を待つのか、自分から仕事をつくるのか、といった積極性の話とはまた別の問題です。
普段から司書の仕事を意識して生活しているわけでもない。
本が好きで、でも読むことを選ぶことも、個人的な枠から出ることがない。

鳥と卵、のような話だとも思います。

つまり、名刺をそう作った以上、まずはそういうものとして活動していく。
後悔があったのなら、それは作り直しとか、その前段階で司書についての個人的活動のイメージを考えていく、という方向につながるはず。


目の前に「印象的な物」があるとつい引き寄せられて、何か道ができたような気になってしまいますが、いつでもやはり、根本は自分が何をしたいかですね。

それは言葉にできるレベルがよいわけでもなく、言語化以前の思いが先にあるというわけでもなく、自分が進んでいく道が、自分が行きたい道であり、自分がやっていくことが、自分のやりたいことである。

これがとても素直な認識であることは、森博嗣の「冷たい」エッセイをいくつも読んでいると理解することができます。