human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「境界の緩んだ思考」- free dialogue in vivo 5

キーフレーズが最初に頭に浮かぶ。

「孤独と境界には相関がある」

境界とは、自分と他人との境目のことだ。

孤独は、自分が一人であること、近くに誰もいないことの強い意識といえる。
その意識の前提として、自分と他人とが、個別にくっきりと認識されている。


孤独が意識された時の「孤独でない状態」とは、どのようなものだろうか?
自分は孤独だと思い、その孤独が解消されたと思った時の、自分とは。
「孤独の解消」は、変わらず抱える孤独から目を逸らした状態ではないか。
自分という個を強調する限り、孤独はいつでも、すぐそばに潜んでいる。

「思考は孤独な営みである」と最近何かで読み、僕もそう書いた。
それは思考の主体が一人の人間の脳にあるから、そう納得できる。
しかし、孤独とは根本的に異なる状態へ、思考が導くことがある。
つまり、前提が間違っている。


境界が薄れ、または滲み、または緩む場面を想像してみる。
食べる時、雑踏を歩く時、全身を駆使して登る時。
境界の濃さは、思考の質と相関がある。
思考の質を問える思考は、孤独を超えるものではないか。

境界は実際には、精神的な構築物である。
肌と空気を隔てる壁は、視覚の分解能に依る仮想的なものだ。
意識が境界を設定し、強化し、常置する。
意識が作り上げたものは、同じく意識によって解体可能である。


「境界が緩んだ思考」に、深く関心があり、強く惹かれている。
その「思考」と孤独には、複層的な関係がある。