human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『未明の闘争』(保坂和志)を読んだ

 ホッシーが言うように人は前世と同じ人生を生きるのだとして、それは一回きりでなく、何回も同じ人生を繰り返す。宿命とはそのことを言ったかどうかわからないが、宿命の一番正しい言葉の意味はそういうことに決まってる。
(…)
(…)アキちゃんは今度は難しい顔をして、ゆっくり右手を上げてまた降ろしている。
「言ってもわかんないだろうけど、全然言わなかったら絶対わかんないから言うんだけど、」と、アキちゃんは右手の上げ下げをしながらしゃべり出した。「人生っていうのは、完全に同じ人生が何回も何回も繰り返されてて、今が何回目かなんて全然わかんないけど、このあとも何回も何回も繰り返されるんだよ。」
(…)
俺がこうやって手を上げるってことは、いま上げてるだけじゃなくて、この人生の前の何十回分でもあるし、この人生のあとの何十回分でもあるんだけど、本当は何千回とか何億回かもしれないんだ。」アキちゃんは本当だと思った。

保坂和志『未明の闘争』

運命は予め決まっているが「決まっている」ことと「わかっている」ことは違う、ことになるほどと思い、引用下線部を読んで思わず自分の本を持ってない右手を見つめてしまったのだけど、この動き、動いてない動きも含めた動きがただ今だけあるのではなく、今以外のいつと具体的に考えると目眩はするがそれこそ「一万光年分」の途方もないだだっ広い時間軸それ自体の実感云々はおいてもある時間幅において「厚み」があると感じられて頼りなさやよるべなさが減じる思いがする。
一番初期のスーパーファミコンマリオカートでタイムトライアルをやる時に自分の過去ベストの走りを再現した半透明の自分と一緒に走るゴースト機能を連想して、過去ベストではなく今の走りそのものの半透明の自分が何人も一緒に走っているようなものかと今考えて、その意味はおいといてそれならとても実感しやすいと思う。テレビ画面の中のマリオをコントローラで指で動かした経験に基づく実感だ。

上の下線部の感覚で下の引用下線部を読んで想像するととても不思議な気分になる。今にいながら「今とは別の今」に首を突っ込んでいながら、その「別の今」は今とは無関係でなく今がより濃密になったように感じる。お互いが相手と相手でない何かを経由して会話していて、それによって(反応に時間差が起きて)距離が遠くなるようでいて(より相手の懐に入り込めるように思えて)距離が近くもなる。

というか、俺たちはこうして生きていていろいろ具体的なことを知るわけだけだが、本当にこれを知りたいと思って知ったわけじゃなくて、向こうが勝手に「これはこういうことだ」と俺たちに具体的な姿をあらわすから俺たちは知っただけだ。知るということはこっちからそこに迫っていって知るわけじゃなくて、向こうからこっちに転がり込んでくる。視覚とか聴覚なんてのはそんなもんだ。だから自分から何かを知りたいと思ったとき、もうそれは本来のこの生を外れ出ている。
「いやっ、ホントにそうなんだよ。」と、アキちゃんは小林ひかるの後ろに連綿とつづく小林ひかるを説得できなければ、ここにいる小林ひかるは説得できないと思っているようだった。「恐怖っていう感情っつうか、あれは感情じゃなくて、生の根源みたいなもんなんだけどよお、恐怖っていうのはそのことなんだよ。
 ひかるはよお、聞きたかったことが親父さんから聞きそびれるかもしれないってことを怖れてるんじゃなくて、親父さんがいなくなっても親父さんに向きつづける意志を自覚したことを今は怖いと思ってるんだ。今は、な。でも、人の意志っていうのの本質はそれなんだって、わかるよ。それは自分が死んでも閉じない。

同上

この本の中で一箇所だけ「たたかい」とひらがなで出てくる所でタイトルに関係あるのかと、そういう緊張でその箇所周辺を読んだ記憶だけあって場面の記憶は全くないが、「未明」とは「意識(言葉)以前」ということだと思う。そして「闘争」とは、「意識(言葉)以前が意識(言葉)になろうとすることに抗する『たたかい』」だと思う(この「たたかい」は上の「たたかい」とは関係ない、ことはわかる)。この闘争の結末は、寺山修司が見届けたかもしれない。


未明の闘争

未明の闘争

夜半の闘争

 掛け布団だけでいけるかと寝入った朝に冷えてきて毛布に似た布団を重ねてかぶって二度寝したその日の昼に外で自転車をこいでいると暑くて上がスポーツ生地のタンクトップ1枚になるなんて寒暖の差が大きいにもほどがある。
 その日外から帰って来ると車のフロントガラスのワイパーに紙が挟まっていて、どうも駐車位置が違うことを知らせてくれているらしいが細かいことのような気がして分かったふりをしながらブスっとして家に入ってしばらくしたらチャイムが鳴って、出ると隣家のおじいさんだった。
おばあさんとは引っ越してきた次の日くらいから何度も顔を合わせていたけれどおじいさんとは初めてで、どうやら件の駐車の紙について教えにきてくれたようで二人で駐車場まで出て行くとさっさと本題は済んでいろいろと話を聞く。
 雪は当たり前に降るが豪雪というほどでもなく、昔に比べると量も減ってきているが(温暖化現象でねえ、とは言わなかったが言いたそうな、いやそう言ったような顔をしていた)15センチくらいで除雪車も来ないだろうねえ。じゃあ雪かきなんかも必要ないですか?
 ダンキンドーナツ村上春樹の初期の小説によく出てくるが、今読んでいる『未明の闘争』(保坂和志)の早速謎めいた出だしのところ(高橋源一郎がどこかの書評記事で取り上げていた「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」という出だしで、篠島は幽霊で自分が死んだことに気付かないほど粗忽な幽霊だと私はは言うがその私はも実は幽霊で自分でそのことに気付いてなくてひょっこり出てきたような唐突さがある。ちなみにこの私ははその後も忘れた頃にぴょこぴょこと現れる)にも出てきた気がして(ミスタードーナツでなかったのは確かだ)、今朝読んだアメリカのウェブ新聞(インサイダー何々という紙名が不穏だ)にドーナツ食べ比べの記事がありサムネイルにおいしそうなかじり跡のついたドーナツが4つ並んでいてついついクリックして読んでしまい、ドーナツ専門店3つとスタバの計4店でglazed donuts(シロップか何かで表面につやがあるのを慣用的にglazedと呼ぶらしいが原義に照らすと体に悪そうだが特に太ったアメリカ人は喜びそうだ)の食べ比べをした結果最下位がダンキンドーナツで「大きさ以外に何ら特筆すべき要素はない」「鮮度が早く落ちるので買った日より後に食べるのはどうもよくない」など酷い言われようだったが(鮮度の劣化にそう大きな違いがあるとも思えないが、敢えてダンキンドーナツに対してだけ言及した理由が何かあるのだろうか)、村上春樹の小説は初期に限らず料理や食事がとても魅力的に描写されているがダンキンドーナツを食べる場面がそれらと対比的に味気なく描かれたという記憶はなくて、むしろドーナツもサンドイッチやパスタといった他の手料理と同じ種類の魅力を持っていた気がするのだけれど、そうだとしたらそれは村上春樹の食事描写の魅力はその場面、登場人物がいる場所やその時の気持ちや誰と一緒にいるかといった場面にとても相性の良い料理にあるのではないかという仮説を支持してくれると思う。ダンキンドーナツそのものは他のドーナツより魅力がなくて味気なくて鮮度が落ちるかもしれないが、他のドーナツよりもダンキンドーナツを美味しく食べられる状況というものがある。ちなみにその状況に現在の日本のどこかが当てはまる可能性はゼロである、ということをダンキンドーナツが89年に日本から撤退したことをネットで調べて知ったから知っている。
 おじいさんはこの貸家(つまり僕の隣家の貸家)に30年以上住んでいて、今年この近くに土地を買ったから来年にはそっちに引っ越すかもしれない。ここから少し離れて息子夫婦が家族で住んでいて、孫が朝幼稚園か小学校かに行く前におじいさんの家に寄って行く。僕は引っ越してきた週の末の朝に隣で子どもの声を聞いたので親子で住んでいると認識したけれど、数日経って顔を合わせたおばあさんはお母さんというよりはおばあさんだし、夜の8時に帰宅した時に隣家は真っ暗で物音一つしないことも不思議だったけれど不思議が不思議のまま立ち消えたのは大して関心がなかったからで、でも実際住んでいるのはおじいさんとおばあさんの夫婦二人だけだと知ると不思議が戻ってきてそして納得と一緒に一瞬で消える。
 駐車の細かいこととは結局奥行きのある駐車スペースで手前に停めるか奥に停めるかという話で、他人と他人の契約のことなので実際の融通より決まりを守った方がよいという話で、それ以上でも以下でもないのでわかりましたと言う以外にない。

手書きの感触/大学へ書類を出す

司書講習に必要な書類は昨日まとめて、今日大学へ提出しに行ってきました。

メモ帳に打ち込んでいた文章も昨日申請用の作文用紙に写したんですが、書き写すだけでも頭は別の回り方をするようで、意外なところで手が止まったり*1、途中で(これから写す部分に)納得いかなくなって段落の半分をごっそり書き換えたりしました。おかげで冗長な内容を省けました*2

大学へは自転車で行きました。
行きは寄り道していたので国道4号から大学へ向かいましたが、帰りは通学経路になる道を確認がてら走り、10分前後というところでした。
不動産屋で「この家から大学まで自転車で通えますよね」と聞いたら驚いた顔をされたんですが、全く無理のない道のりでした。
距離に関係なく、この辺りでは自転車で通学とか通勤という発想がないのだと思います。
今日も大学近くまで行ってやっと自転車に乗っている学生を見かけましたが、普段は自転車を滅多に見かけません。
主要道の歩道が自転車数台並列走行しても余裕のあるくらい幅広いのは別に自転車を慮っているわけではなく、それは「サイクリングロード」とわざわざ銘打たれた道の舗装状態がそれほど良好ではないことからもわかります。
もちろん道が広く人が少ないうえに空もすかっとしていて、自転車で走るにはとても気持ちいい。

申請書類を大学の窓口に出す時に、書類によって担当が異なるとかで教務課と総務課を行ったり来たりしたんですが、そのたびに窓口の人が一緒についてきてくれたのでちょっと話ができました。
それとなく応募人数のことを聞いてみたんですが、どうも今年はあまり多くないようで(「今年に限って」なのか「例年通り」なのかは判然としませんでした)、最終的に募集の定員に満たない見込みというニュアンスにも聞こえました。
前にネットで司書課程について情報収集をした時は「(就職口の少なさはもちろん)講座を受けるまでのハードルも高い」という印象を受けたんですが、都市部の大学と地方大学とでは状況が違うのかもしれません。
あるいは実学志向という昨今のトレンドから外れていて、全体的に応募が少ないとも考えられます。

いずれにせよ、選考漏れの可能性について、多少は楽観的に構えていてよさそうです。
「落ちたらボルダリングのプロでも目指すか」と冗談半分で考えていたんですが、残念ですね。
2020年のオリンピック種目に入ったとかで、「熱い」らしいですよ。
東京オリンピックにはけっこう興味がありませんが、ボルダリングの中継なら見てもいいかな、と今思いました。
 

*1:意識の「識」の字を書く時にぱたりと手が止まって、なんでだろう、漢字を忘れるはずはないのにと思いつついちおう字を確認すると、この字の中に「音」があることに違和感があったのでした。ブログを書いていて高頻度で使う字で違和感もなにもないはずなんですが、表意文字ならではの、手で一画ずつ書いて行く間に一字の中にいくつもある「まとまり」が書く人にある印象を与えるのだと思います。今書いた違和感というのは、たぶん「普段自分が意識してる"意識"に"音"ってあんまり関係してないような」というようなものです。音はむしろ無意識の方に作用するはずで、あそうか、無意識は意識を含んでいますね。

*2:冗長というか余計というか、「書店より図書館が好きです」なんて中学生みたいなことを書いていました。やはり文章の「塩抜き」は必須ですね。

無題10

「欲しいものが欲しい、って昔ありましたよね」
「おっ、シゲやんか。古いな。君いくつやっけ?」
「なんですかその運ちゃん仲間みたいな呼び方は」
「ばれたか」
「…それ、物欲が満たされたあとには欲望が独り歩きするってことですよね。そういう状況において、欲望の制御という意味では退化もアリだと思うんです」
「おお、退化の改心やな」
「そんな大層なことではないですが」
「リアクション薄っ」
「…で、物に溢れた現代で物を不足させてみると、選択肢がたくさんあるんですね」
「初心に帰る、と」
「そうです。お店に行けば何でも売っていて、ある用途のものに限定しても種類がいくつもある。僕そういうのを眺めてると別のこと考えちゃうんです」
「ほお?」
「もとの用途を無視して、これ何か別のことに使えるんじゃないかって、つらつらと」
「売り物の前で色々想像すんのも消費者の醍醐味やわな」
「まあその、ふつうの消費者とは別のバリエーションなんですけど、僕はむしろそっちに力入れちゃうというか、欲がそっち向いてるというか」
「それ、君がよう言うてるブリコルールってやつか」
「そうそう、それですよ。明確な用途が発想される以前のものを求めるという。でね、これが消費における欲の向き方の未来形だと思うんです」
「ふうん? ほんなら、それをシゲやん風にゆうたらどないなんの?」
干し芋の干し椎茸」
「ほお、なるほどな」
「冗談ですよ」
「ほお、なるほどな」
「…怒らないで下さい」
「んで?」
「今から考えます」
「なんや、期待もたしといて。よし、あたしが考えたろ」
「珍しく積極的ですね」
「んとな……欲しかったら取ってみな! ってのはどうや」
「ちょっとちょっと、それ僕の財布じゃないですか。いつの間に」
「ふふふ、シゲやん仕込みの神通力や」
「何を意味不明なことを…あっ! そういうことか」
「お、ビビッときた?」
「欲しいものはもう自分で持ってるんですよ。ところがそれが手元から失われるまでそのことに気付かない」
「ほう。その心は?」
「梅雨時の干し芋に注意」
「こだわるなあ。そんなに好きなん?」
「とっても。歯によく挟まりますけどね」
「ふうん。ほい、ほなテイク2」
「…欲しいのはものじゃない、ですね」
「ふつうやな」
「仕方ないですね」

 × × ×

シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君の歳ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない」

村上春樹海辺のカフカ(上)』

無題9

「疫病神みたいなもんだと思うんですが」
「悪い人?」
「いや、そうではなくて? いや、その、人って変わっていくもんでしょう」
「せやね」
「人と違うことをしたがる人ってのはある意味傾向そのもので、大勢で同じことやってる時に凝り固まるのをほぐす機能があるわけです」
「傾向そのもの? 傾向って、ものやっけ? ああ、光って見えるわけやな。照明はいらんと。存在照明ね、カッコええな君」
「あー、そのケイコウではなくてですね」
「ケイコウ灯マナー部(笑) ちゃんと勉強しいやー?」
「……。人が変っていくのは人間の傾向で、でも集団でいるとそれを忘れる。僕みたいな人はそういう時のリマインダ機能であって、集団を一人の人間だと考えれば僕個人は傾向なわけです」
「ふんふん」
「でも傾向は性質であって人ではないから、そういう人は個人としては破綻しているのです。自分で自分がわからないとか、落ち着かないけどそれでもいいのかもしれないとか思う」
「ああ、せやからいらんことばっか考えとるわけやな」
「落ち着いてしまうと変わらなくなってしまうという不安があって」
「せやけどずっと変わってくっつのも、変わらんことと変わらへんのとちゃうの?」
「マンネリ化すればそうなりますね」
「んーとな。要するに顔デカいっちゅうことや、君」
「…まあ顔にも脳は含まれますけど。あれ、いやほんとかな」
「期待を裏切らんビトレイヤやで、ほんま」

オーブンは温室である/キッチンからあれこれ

前に書いた壁登りジムへは16日に行こうと思います。
ニトリに注文していたペールボックスを取りに行くので。

 × × ×

オーブン余熱利用は今朝からさっそく始めました。
プロジェクトと銘打っただけある。

モーニングセットを焼いている間に天板の温かい場所を探して*1ベーコンの空きトレイに乗せた浸々ティッシュと種を置いておいたんですが、食後に片付けている間にふとオーブンの中に入れることを思いつきました。

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15分くらいオーブン機能を使って約1時間後のチャンバー内温度が24℃で、1.5時間経過後も数値はそのままでした。
ゴーヤの種の発芽に適した温度がたしか25〜30℃だったので、このアイデアはなかなかいけそうな気がします。
空気の循環がない分は時々フタを開け閉めしてあげればよいでしょう(種の時点で通気性は考えなくてもよいかもしれませんが)。
入れたまま忘れてしまうとかわいそうなので、タイマーを使います。

 × × ×

キッチンについて。
ひとまず大きなものはもう増えなさそうなので、落ち着いたとみなしてちょっと書いてみます。

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洗い場とガスレンジの奥には色々置けそうな幅広のスペースがあって、最初は洗い場の奥にできあいの乾燥用食器置きがあれば順当だと思っていたんですが、ものを増やしたくないのでしばらくは買わずにいて、洗った食器はスペースに直接置いていました。
何度かホームセンタに通ううちに「吸水マット」なるものを見つけ、試しに買って置いてみたところ、これがなかなかいい。
食器置きのように平皿や茶碗を立てるガイドがありませんが(ただのマットなので当然です)、そのために洗った食器をどう配置するか、その前にどの食器から洗うかに頭を使うことになります。
それが面白くもあり煩わしくもあるんですが、それを面白いと思えている時はいい気分でキッチンに立っているんだろうなと思うし、食器の一つひとつに気を配る必要性から食器に対する扱いが丁寧にもなります。

洗い方としては、小さくて底が深くて安定性の高い食器をまず洗ってマットの端に置き、それをガイドにして、あとは大きさや重さを考えて他の食器を裏返して立てかけていきます。
夜に朝夕食分を洗うなら、夕食に使う食器を先にマットに置けば、翌朝使う分だけを手に取れます。
たとえばこんな↓感じ。

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ボウルやザルなどの調理器具はマットとは違う位置のスペースに直接置きます。
しゃもじやへらといった手で扱う器具はマット上の皿に立てかけることもあります。
2枚目の写真の右側はサラダスピナで、野菜の水切りに使います。
『サラダ教本』(坂田阿希子)を読んで初めて買ったんですが、この本の言う通り、水をしっかり切るだけでサラダが見違えるように美味しくなります。
水菜やレタスなどの葉っぱもの、それから玉ねぎや根菜のにんじんでも薄切りにした場合などは水切りの効果大です。
…本題に戻りますが、このサラダスピナは部品が全部で4つに分かれるので、洗ったあとの置き方にしばらく試行錯誤したんですが、この写真の感じでいちおう落ち着いたような気がします。
今朝のことなので、まだ定着していませんが。

キッチンまわりは落ち着いたと言いながら忘れていたんですが、生ゴミのテンポラリな行き場についてはまだ思いついていません。
シンクのコーナにカゴを置くとシンクが狭くなるし、蛇口の付け根から網状の袋をぶら下げるのがスペース利用法として妥当かなと思っているんですが、それはなんだか審美的に許容できない。
思いつくまでシンク横の作業スペースの端に固めて置くことにしているんですが、もうこれでもいいかという感じもします。
『野菜のだしで作るVegetable Soup』(樋口正樹)では、調理で出てくる野菜の切れ端を集めて煮込む「野菜だし」が全レシピ必須の素材で、これを実践していると生ゴミは細かいものというか、あまり細々とは出てこなくなるのです。
それで生ゴミは1日1回ペースで直接燃えるゴミ袋に放り込んで、週2の回収に出しているんですが、今はいいとして夏場は大丈夫かどうか。
暫定的という意識は持っておきます。

シンク奥スペースの窓に立てかけている洋書は、海外のアパート部屋の写真集です。
引っ越してきて間もない頃に段ボールの中の本を整理していて、この本は変則サイズなので本棚に他の本とは並べにくくて、周りを見渡すとがらんとしたキッチンが目に入って、何げなく置いてみたのがそのまま定着しました。
要するにディスプレイなんですが、キッチンの審美性を意識するおまじないでもあるし、水場における本という「生もの」の存在感もあります
3つ目は今思いついて言葉にしましたが、紙にとって水は大敵であって、カバーも付けずにキッチンの作業スペースに置くなんて常識的にはありえません(この洋書は表紙が厚いので水は若干弾きますが)。
が、上に書いた吸水マットに食器を並べる話とも通じるんですが、水はねを嫌うものが近くにいることで、シンクにおける炊事のふるまいが丁寧になります。
これらのことは、僕が常にそういう意識を持って台所に立てるというよりは、僕が自然にそう振る舞うようにマットや本が配置されている、いわゆるアフォーダンスについての話です。
前者と後者は一緒に見えて全然違っていて、出力側から見れば同じにも思えますが入力側から見れば全く異なる。
例えば、テスト勉強せずに単位が取れて喜ぶ大学生なんかは前者のマインドに該当します。
過程を大切にするというのは、出力だけでなく入力も(そしてもちろん「入力と出力の間のこと」も)見ることです。

思いつくまま、気のままに書いていますが、最後にスピーカの話を。
シンク奥スペースの両端にある小ぶりの黒いスピーカは木製で、底にコルク製の脚がついているから音の響きが床に邪魔されず良好であるというONKYOの売り文句になるほどと思い、2004年に購入してからずっと使っています。
何度かグレードの高いものに買い替えようと思ったことがあるんですが、別にこのスピーカの音に不満があるわけでもなく、そのつど家電製品店で物色したりネットで探したりしながらも、時間が経つうちにうやむやになって今に至ります。
村上春樹は昔小説家になる前はバーだったか小料理屋をやっていて、その頃からずっと使っているのだったか一度買い替えたのだったか、レコードデッキと共にスピーカに対しては強いこだわりがあって、「スピーカはその人の音楽鑑賞における身体を形成する」というようなことをエッセイに書いていました。
つまり、最初は安物で間に合わせて手持ちのお金の余裕に合わせてだんだん高価なスピーカに買い替えていく、というサラリーマン人生になぞらえたような音楽鑑賞スタイルは身体(耳)ではなくお金(収入)の都合でしかなく、廉価品であれ高級品であれ、どんな質のスピーカであっても長い間それで音楽を聴き続けるうちに、耳というよりは身体全体が振動に適応していき、そのスピーカの音が「自分に合う音」になっていく
時間のスパンが全然違いますが、カツ丼を食べる前にずっとカツ丼のことばかり考えていると「胃の内側がカツ丼の形になる」(@内田樹)というのも同じことです。
…話を戻しますと、スピーカを水場に置くというのも家具が全然足りない引っ越し当初に場当たり的に決めたことだったんですが(床に置くよりは何でもいいから台の上に乗せたい、という程度のことでした)、置いてみるとこれも予想外にフィットして、キッチンに立つ楽しさを根っこの方で支えてくれています。
そしてこのスピーカも、マットや洋書と同じく、アフォーダンス的存在でもあります。
ただ、右側のスピーカがガスレンジの右側コンロの真正面にあり、炒め物や揚げ物をする時に(調理の丁寧さとは関係なく)油がはねそうな気がするので、何か対策をした方がよいかもしれません。
アルミシートを立ててガスレンジを囲うのは論外だし、スピーカの前に壁をつくると音が跳ね返ってしまうので好ましくない。
妙案はすぐには浮かんでこない*2ので、これもひらめきをゆっくり待つことにします。

こういう生活じみたことをつらつら書くのはとても楽しいですね。
 

*1:チャンバー内壁と天板の間になにかしら配管が通っていたりすると放熱具合が変わってくるので。そんなことはなさそうでしたが。

*2:スピーカのすぐ横の壁が両側とも木なので、ネジか釘を打ち込んで足場をつくってスピーカを(たとえば布巾かけより上に)浮かせると絵的にはステキなのですが、あまりに目立つ穴を開けるのも気が引けます。突っ張り棒もNGですね(今はトイレの上の方に物置き用に渡すのも許せません)。うーん。

「ゴーヤハウス」プロジェクト始動/怪物クッキー

観葉植物を部屋におくという話を前に書きましたが、それより先に、気分が乗ったので屋外に種を植えてきました。

前にホームセンタでゴーヤの種と肥料と軍手を買い、スコップが良いものがなかったのでしばらくそのままにしてあったんですが昨日100円ショップで(機能性よりはデザイン的に)よいものが見つかったので購入し、道具が揃いました。

今日は起きたのが昼前で、昨日までは遅くとも8時台には起きていたのにこんなに遅くなったのは昨日の夕食がマヨネーズ作りから入って「マセドアンサラダ」(気が向けばまた別記事に書きます)を作って食べ終えたのが23時前で、それから花巻図書館で借りた『未明の闘争』(保坂和志)をだらだら読み続けたせいなんですが*1、それはさておき午後の買い物途中で菓子パン1個食べたものの一日二食でよくもったと思うんですが。

昼前の朝食後からずっと部屋作りをしていて、カーテン代わりのアジアンクロスをもう買ってあるスクリーンに変えるのが残っている一番大きい作業で(カーテンレールを別の窓から付け替えるところからがスタート)、でも面倒臭そうだと他の事をちまちましているうちに種まきのことを思い出したのでした。


テーマは「めざせゴーヤハウス*2」です。

散歩中に家並みを眺めていて壁という壁が蔦に覆われた家なんか見つけるとステキだなあ思って、夏なんか涼しいんだろうなあと想像していました*3
ただ今までずっとマンション暮らしで、ベランダでプランターを使って育てる手もあって、会社の同期でベランダ菜園に凝っていた人もいたんですが、実践には至りませんでした(フェイクグリーンで満足していたのでしょう。「目の保養」という観点ではそう大差ない)。

一戸建てだとマンションのようなせせこましいことをしなくてよくて、それは実際の家回りの地面状況にもよるんですが、今回借りたところは玄関のすぐ横に菜園スペースが若干あり(幅1m前後かな)、その他は砂利に覆われています。

が、それほど徹底していない砂利で所々に土が見え苔があったりしていて、同じ間取りの隣家では砂利スペースの石を一部取っ払って花を植えたりしていて、前に不動産屋にこのことを聞いた時は「まあ、その辺はてきとう*4で」ということだったので、まずは「窓の眺めが緑いっぱい」を目指すべく読書スペースに面する窓下に種を植えることにしました*5

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元あった土に肥料を混ぜて種を植えただけですが、土いじりをしている間に虫をほとんど見かけなかった(1匹だけ見ました)こと、やたらと土が湿っていることなどに「これでいいのかな?」と思って、ネットでちょっと調べると(主にこのサイトを参考にしました)、芽が出れば簡単に育つが発芽までは工夫(というか温度)が必要だそうで、東北のこの時期では屋外の温度は期待できませんが、まあもう植えてしまったので残った種で室内発芽を試そうと思います。

(以下想像)平たいトレイに水に浸した綿を入れて種を乗せて、さてどこに置くか…日当りが長時間続く場所はなくどの部屋も気温が低めなので、ヘルシオ(ウォータオーブン)の上に置くことにします。
毎朝使っているので、わずかな時間ではありますが天板が温かくなります。

料理しながら種の発育を助けるというのも、なんだかいいですね。
循環しているというか。
肥溜めで肥料作るみたいなもんですかね。

…言うんじゃなかった。

 × × ×

昨日マヨネーズを作った時に余った卵白でクッキーを作りました。
cookpadで見たレシピ通りに作ったつもりなんですが、生地がかなり液状で、アルミホイルに垂らしてしばらくすると4つ作るつもりが全部くっついてしまいました。

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怪物化したカーバンクルみたいですね。
いや、あれはもともと怪物か。

*1:だらだらといえば、この小説のだらだら具合がすごいです。要約が一言「だらだら」で済んでしまうほど。細かいことを考えずに読む本ですね。

*2:タンポポハウス」(@藤森照信)や「ニラハウス」(@赤瀬川原平)のような路上観察DIY緑化なんかいいですね(赤瀬川原平『我輩は施主である』参照)。ゴーヤの蔦と葉で外壁も屋根も埋め尽くすとか…まあそこまではっちゃけることはできませんが。貸家だし。

*3:この点東北に来てからは実はあまり惹かれませんが…曇りや雨の日が寒いです。涼しいではなく、寒い。6月に冬の服装(暖かい上着、ズボン下etc.)や掛け布団&毛布なんて、関西にいた頃では考えられません。

*4:「適当」でもなく「テキトー」でもなく、その中間というニュアンスでした。なんのこっちゃ。

*5:作業を終えて部屋に戻って気付きましたが、これなら家の中から水を撒けますね。S&Mシリーズ(森博嗣)の中で犀川が研究室内の観葉植物にコーヒー用のケトルで水やりする場面が「カッコいいなあ」と思ってたんですが、これがやっとできます。もちろん、じょうろは買いません。

親指よし手首やよし/壁があったら登りたい

前にスライスしてしまった親指はなんとか順調に回復しています。

しばらくは血が止まらなかったり止まったと思って絆創膏を外すとまた出てきたりしていましたが2日で落ち着き、傷口がガーゼを取り込んで固まるとよくないのでラップを直接巻いていましたがけっこうたびたび痛くて、なんとかならないかと薬局に行ってたまたま見つけたキズパワーパッド↓を貼ってみると良い感じになっています(というのはこの製品の解説書の想定通りに傷が推移しているからです)。
www.band-aid.jp
血は止まって、でも傷口が赤く潤んで露出している場合に効果的のようです。
参考までに1日経過時のスライス写真を小さめに載せておきます。
指を一日ラップでくるんでから外した直後で指がふやけています。

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2枚目の「皮膚をスパッとキレイに持ってかれた感じ」がセラミック刃の切れ味を物語っています。
切った瞬間に接触抵抗も痛みも全くないのに「うげえ」と声が出たんですが、あれはたぶん金属の刃に対する切れ味の異次元さに生理的な違和感を覚えたからだと思います。
今想像しても気持ち悪いなあ。

 × × ×

花巻に来る前に秋田の玉川温泉へ行って手首の腱鞘炎と足首の疲労を治そうとして、手首は悪化したと前に書きました。
手首の痛みは大学生の頃にタイピング*1にハマって以来大なり小なり続いていて、ついこの前温泉で悪化した時はその「大なり」、手首を指の背の側に曲げるだけで痛み、日常生活にも支障が出ていました。

玉川温泉で治らんのだから病院に行くかと思い(本当は順序が逆なんですが)、花巻に来てから整形外科に行くと(たぶん今から1週間くらい前かな)、関節近くの節にステロイド注射をされました。
遅効性で効果は出るなら2、3日後かなと言われ、確かに打った日とその翌日くらいはむしろ痛いくらいだったと記憶しているんですが、その後はしばらく手首のことを忘れていて、つい最近そういえばと思って左手をいろいろ動かしてみると、なんだか痛くない。
両手の指を組み合わせて手のひらを外に向ける伸びもできるし、手のひらを床につけて腕立てもできる。
逆立ちは恐いのでまだやっていませんが*2、どうやらステロイド注射が効いたようです。
苦しんでいた年月からすればあっけないほどの効き目です。

こんなことならもっと早く…とは思いませんが、どうも、玉川温泉で手首の痛みが悪化したのは確かなんですが、炎症起因の痛みは増したけれども別の症状は治癒に向かわせてくれたのではと思っています。
そう考えないとこの呆気なさ、長年あった痛みが突然なくなって痛みがあったことを忘れるほど(痛みがなくなったことに気付かないほど)の唐突さがうまくのみ込めません。

まあいいんですが。
嬉しいことには違いない。

 × × ×

ボルダリングは神奈川に一度だけ行って、とても面白くて僕自身ととても相性の良いスポーツだと思ったんですが、その時は友人の車で遠出して行って、その後は機会に恵まれませんでした。
京都へ引っ越してからもやろうとは思いながら人出の多い所を避けていたので結局行かずじまい。

が、花巻へ来てまたボルダリングのことを思い出し、車もあることだし近くで行けないかと探してみると、ありました。
北上市花巻市の隣なんですが、地図を見ると4号線沿いのニトリのすぐそば。
ニトリへは家具を買いに何度も通っているので、このジムまでは全部知った道です。
車で20分もかからない。
clambonclimbing.kitakamicity.com

また、ジムまでの2倍くらい距離はありますが、花巻市内の大迫*3地区にある体育館にもボルダリング用の壁があるようですね。
道具を揃えるようになったらこちらにも行ってみましょう。

大迫地区体育施設|花巻市体育協会

手首の懸念が解消されたので、親指が復活したらすぐにでも行こうと思います。
引っ越し後の荷物整理と部屋作りはもう終盤なので*4

*1:Typewellというwindowsで動くタイピングソフトです。働き始めた時にmacに変えたんですが、そのおかげで離れられたのかもしれません。

*2:首周りを鍛えるために日常的に逆立ちをやっているんですが(最近は1回50秒程度を一日5,6回)、手首を痛めていたので拳を握って指を床につける「拳立て」でやっています。

*3:「おおはさま」なんですね。つい「おおさこ」と読んでしまいますが、内田樹氏の昔のブログには「大迫力」さんがよく登場していました。「おおさこちから」さんだそうです。

*4:内装やら何やらを整える過程をブログに書こうと最初は思っていたんですが、面倒臭くなりました。なんというか、文章化するような話ではあまりないのですね。とはいえ、かつてない力の入れようで、ろくに発揮したことのない美的センスをフル稼働させているので、いちおうの完成形にたどり着けば写真を載せようと思います。

受講動機の作文を書く

司書講習の応募に使う作文を書き上げました。
まずは気ままに1枚書き、読み返して「…で?」という感じだったのでtake2を書き、文字数が意外に不足していたので肉付けをして。
ここまでで約2時間。

花巻に来る前に書こうとした時はプレッシャが強かったのか、ネタになりそうな材料を箇条書きにしてもどう書けばいいのか見当がつかなかったんですが、今朝はふと思い立って(この話は別の記事に書きたい…がモチベーションが保つかどうか)自分が前に書いた橋本治氏や保坂和志氏についての記事を読み返していて、ちょっと休憩とトイレに立った時に「あれ、今なら書けるかも」と思って、テーブルに戻ってきて書き始めたのでした。

落ち着いてからとは思っていましたが、5/27に住み始めて「目的に対する生産的なこと」をしたのはこれが初めてですね。
提出期限が6/Eなので意外と早いといえば早い(締め切りに追われて書き始めるだろうなと思っていたので。何せ最近小田嶋隆氏のこんな記事を読んだところだったので)。


思ってもみなかった達成感の表現として、テキストエディタに書いたtake2を貼っておきます。
これでもかというくらい小さい画像にしましたが、段落ごとに1行空けたので起承転結の感じがわかります。
この原稿は何日か寝かせてから見直して、手直しの後に完成稿とします。
字数制限800字のところ、現在777字。

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そしてついでにtake1も。
受講動機に関する作文なんですが、読み返して呆れて最後まで仕上げなかったせいもありますが、何が言いたいのでしょうね。
ただ、これを書いたおかげで調子づいたのは確かです。
とにかく書いてみるもんですね。

シンプルな構文にしようという意味で、少しだけ村上春樹の文章を意識しました。
内容は推して知るべし。

 本は読む人の世界を広げると言います。読書をすることで、人から教わるのとは別の形で何かを教わる。私は本から教えられることの中から「一人でいることの充実」を挙げます。読書は本質的に個人の営みです。読む本やその著者をコミュニケーションの相手とする考え方もありますが、それは比喩的なものです。本による教示や示唆を受けて、読者は一人で思考を深めていきます。ある種類の思考によってその人の考え方そのものが変化する場合もあります。人と出会うことで変われるように、本と出会うことで自分が変われることもあります。
 スマホを持たない人の方が珍しいというネット社会では、LINEやフェイスブックによって人と常時繫がることが当たり前になっています。そのような高度情報社会においても、本の機能は昔から変わりません。世の中をうまく渡るための情報は、ネット検索で手に入るかもしれません。しかし、世の流れから離れてふと立ち止まった時に求められるのは、本に書かれた内容であり、紙媒体の冊子を読むという形の営みです。
 毎年出版される本が増え続けているのは、出版業界が好況の証ではありません。けれど、もし出版社が軒並み廃業となっても、図書館はあり続けるし、その蔵書の果たす役割も変わらずにあり続けるでしょう。

しかし『小田嶋隆のコラム道』の巻末対談で内田樹氏が言っていたけれど、こんな書き方だと鉛筆で作文用紙に書く段ではお手上げですね。
…講義のテストで記述問題出たらどうしよう。
杞憂ですが。