human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『喜嶋先生の静かな世界』(森博嗣)を読んで

いつも平日夜は一日おきに小説二冊を交互に読んでいますが、
今回はちょうど年末で、先週後半にうち一冊を読了したので、
仕事納めの今日に読了するようにもう一冊を毎晩読みました。
年始からは二冊とも新しく始められるわけできりがよいです。

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というわけでその「もう一冊」の、
『喜嶋先生の静かな世界』(森博嗣)を読了しました。
上の写真の右から二番目の本です。

この写真は何かというと、ある土曜にBookOffに言ったら200円棚に普段は並ばない森博嗣本が大放出されていて、ここ1年は一回入店につき一冊ずつしか買わない(積ん読があまりにも多いため)と決めていたにもかかわらず衝動的に購入した4冊と、蕪です。
蕪は、味噌汁の具です。
地元神奈川産で安かったので「へー」と思って買い、葉と茎と根の(何種類か野菜を組み合わせたような)バリエーションが良くて、根が意外と甘くて(大根より元の味がついてると思いました。汁の染み具合は大根の方が良さそうですが)気に入った頃に撮った写真のようです。


まえおきにもならない関係ない話はさておき。

読みながら色々不思議な印象があって、
半分くらいまで読み進めると、
読んだことないのに既視感がある場面がちらりちらりとでてきて、
(「計算機センタのマドンナ」って森氏の別の作品にも出てたような…エッセイやったかな? とか)
それでも初読を疑わなかったのが8割くらい読んでやっと過去に一度読んだことを認め、
でも記憶のある場面がほとんど出てこないことに困惑していると、
終盤に突然「マドンナの顛末」について記憶が甦り、
けれど残りページ数からしてそれはあり得ないこの記憶は何の記憶だ…とさらに困惑し、
完結を示す最後のページの空白を目の隅に留めながらラストをゆっくり噛みしめつつ進むと、
最後の数行前に自分のその記憶の通りのことがさらりと、
本当にさらりと書いてあって、
何か浮かんだはずの感慨が言葉になる間もなく読了し、
小説に対する感慨と自分の記憶の残り方に対する感慨が混ざっていることを意識しながらも、
「ああ…」と呟くしかありませんでした。

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今さらですが書評ではないし本の感想でもありません。
自分のこと(自分の中を通ったもののこと)を書いていますが、
そのことを僕が書く理由、あるいはそのことの書かれうる理想の形について、
実は本書に書かれているのであとで抜粋したいです。

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まずは「過去に読んだ本書の内容の記憶」について。

いつ読んだかの明確な記憶はありませんが、
就職して最初の頃に、市立図書館で2週に一度、本を借りていたことがあり、
本の出版日からして他の可能性は考えられず、
そうなると大体4、5年前に読んだことになります。

もっと前に読んだ本でも読むうちにストーリーやらすぐ後の展開が思い浮かぶことはあるはずで、
『喜嶋先生の〜』を読んでいてほんのわずかの既視感っぽいものしか現れなかったことは、
「そういう読み方をしていた」ことを意味します。

今回読む前に、
仕入れるべきでなかった情報かもしれませんが「自伝的小説」とどこかで書かれたのを目にしていて、
その認識のもとで読み始めるとエッセイのようにも思えてきたので、
小説にしては珍しくシャーペン片手に(つまり線を引いたり○や☆をつけたりしながら)読みました。

何らかの興味を惹かれた箇所には線や記号を入れるのですが、
そうやって書き込みを加えた箇所はどこも既読の記憶が全くありませんでした。

同じ本を時期を置いて二度読めば、「自分の本の読み方の変化」が分かるものなのですね。
そしてもう一つ、ストーリーやら気の利いたセリフやらの「内容を忘れる効用」にも気付かせてくれます。
内容を覚えていることは往々にして、その内容に対する評価も固着しているものです

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「どうして、刃物沙汰の理由、きかなかったの?」
「どうしてかなぁ。なんとなくだけれどね。うん。つまり、理由を言葉で聞いても、結局はその意味するところは、抽象化できない。抽象化できないものは、つまり理解できないものなんだ。言葉を聞いても、理解したことにはならないんだ」
「じゃあ、理解するっていうのは、どういうこと?」
「それは、その理解によって、なにか手が打てるということだよ。その刃物沙汰を起こした人の理由を理解したら、それで刃物沙汰は起きなくできるかっていったら、そんなことはできないんじゃないかなって思うわけ」
森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』

抽象、あるいは抽象化という言葉は日常会話ではあまり使われません。
「話が抽象的だね」という風には使われますが、基本的にネガティブなニュアンスを伴います。
森博嗣氏(と保坂和志氏も)は常識とは逆に、ポジティブな意味で使います。
(森氏はその常識を茶化すように「話が具体的過ぎる。もっと抽象的に言いなさい」と犀川創平に何度か言わせています。また保坂氏はエッセイでも小説でも、人が日常的にどれだけ抽象的なことを考えているか(あるいは抽象的なものに支えられているか)について奔放に説いています)
僕は抽象化の大切な機能は「リンクを繋げること」だと思います。
関係ないように思えるもの同士に、関係を見出す。
そして、その関係と「その関係を見出した自分」にもリンクが張られるのですが、そのリンクの強さは抽象化の能力と強く相関しています。
つまり、と言うには話が飛び過ぎていますが、
”自分以外はどうでもいい”が常識の社会」では抽象化の能力に価値がないと見なされます
そのような社会は原理的に、劣化が避けられない短命社会です。

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本記事はどうも単発連打になってしまいましたが、あと一つ。
今は掘り下げる元気も思考も足りないのでただ並べておくだけに留めますが、
この連想は僕自身のことに深く関係していそうなので、またじっくり考えたいです。
野口晴哉氏の本を読了した時に触れられるといいですね。

 北極のオーロラも観たかったけれど、それよりも、その現象について書かれた専門書を熟読する方がずっとオーロラを体験できるだろう。僕は「体験」とはそういうことだと思っている。
同上

 ただ夢を見た人の中で、全然、第五*1が弛んでいない人がおりました。その人の夢は、いつも、現実にあるのです。(…)家内は上下型ですから、本当のことより、夢の方が真実なのです。ご馳走を食べるより、ご馳走すると言われた方が、ご馳走を食べたような感じになるのです。現実の旨い、まずいの味は判らないのです。そういう特殊体癖ですから、夢が本当なのです
「第四章 夢見の体」p.238(永沢哲『野生の哲学 野口晴哉の生命宇宙』)


今年はたぶんこの記事で本ブログの「書き納め」です。
年末年始はいつも↓に書いていますが、今年も書けるでしょうか。
状況と気分次第ですが。

cheechoff.exblog.jp

*1:後頭骨の第五は、(…)後頭部の眼の裏のやや下にあたる部分で、はっきり突起しているために手で触って確かめることができる。彼[野口晴哉]の観察によれば、その後頭骨第五が緊張していたり、弛緩しすぎている場合には、「自然のリズム」からの対ム・ラグが生じていて、それを修正するために、長時間眠ったり、夢を見たりすることになるのである。(p231-232)