human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「体験に基づく頻度」について

「確率」にはいくつかの意味がある。一つは長期的に見た相対頻度である。「この一セント硬貨の表が出る確率は〇・五である」と言えば、一〇〇回投げると五〇回表が出るという意味だ。これとはべつに、単一の事象の結果に対する主観的な確信という意味もある。こちらの場合の「この一セント硬貨の表が出る確率は〇・五である」は、「つぎに投げた結果が表になる見込みとならない見込みは五分五分だと思っている」という意味である。
 単一事象の確率を指す数字は、主観的確信の見積もりでしかないが、今日ではこちらの使い方が普通になっている。(…)しかし心は確率を、単一事象についての確信をあらわす数字としてではなく、長期的な相対頻度として考えるように進化してきたのかもしれない
(…)
私たちの祖先にとって、これにもっとも近いものは、「たぶん」というような粗いラベルとともに伝達される、未知の妥当性についてのうわさだったのではないだろうか。祖先が使えた確率は、彼ら自身の体験からきていたはずなので、それは頻度だったはずだ。長年のあいだ、発疹チフスにかかった人の八人中五人は翌朝に死んだのである。
「第五章 推論 確率に敏感な本能」p.202-203(スティーブン・ピンカー『心の仕組み(中)』)

抜粋の「長期的に見た相対頻度」は、統計と呼ばれているものだと思います。
統計は個人が扱うものではないな、といつからか考えています。
大人数を相手に商売をする人なら必要でしょうが、果して個人の生活に合うのかどうか。
役に立つのは間違いないのですが、どうも身体に馴染まない。

抜粋を読んで気付いたのですが、統計には個性が介在する余地がない。
自分が求める効果が得られる可能性の高い選択を統計に従って選ぶわけですが、
もともと計算されたその「可能性」には、自分のことは何も含まれていないのです。
サンプルの性質は一般化されていて、自分をそれに合わせて初めて統計が利用できる。

たとえば、病気を早く治すために、自分の症状に合わせてよく効く薬を探すとします。
もちろん効く効かないは個人差があり、副作用が出ることだってある。
期待通り治らなかった場合に、自分のせいにするのか、薬のせいにするのか。
統計の効率的な利用を追求すると、薬のせいにせざるを得ないのでは、と思います。

いや、自分の身体のことだからと、どこかの段階で自分が責任を持つのが普通です。
僕が極端な考え方をして「統計」や「効率」を毛嫌いしているだけかもしれません。
けれど、それらが身体に馴染まないことは確かだと思います。
そして、人は身体に馴染まないことを馴染ませることができるのも確かです。


抜粋を読んだ時に、ページに「時間感覚のある生活」と書き込みました。
「自分の体験に基づく頻度」は、時間をかけないと見出せないものです。
数値化するにしても、最初は値が上下し、回数を重ねるごとに落ち着いていく。
その頻度に一般性はなくても、自分に固有の情報がふんだんに含まれています。

たとえば…目覚ましをかけないで朝起きる時刻、とか?


頻度の話は、個人よりは(小規模な)集団の方が想像しやすいとは思います。

新しい畑には玉蜀黍や馬鈴薯が植えられ、男たちは木を切り根を焼いて荒れ地を開墾した。生命が地表に顔を出し、若い実を結び、人々がほっと一息ついた頃にいなごの大群がやってきた。
 いなごの大群は山を越えてやってきた。(…)いったい何が起ころうとしているのか、誰にもわからなかった。アイヌの青年だけがそれを知っていた。彼は男たちに命じて畑のあちこちに火を焚かせた。(…)彼は(あとで誰もが認めたように)やれるだけのことはやったのだ。しかし全ては無駄だった。何十万といういなごは畑に降りて作物を思う存分食い荒らした。あとには何ひとつ残らなかった。
 いなごが去ってしまうと青年は畑につっぷして泣いた。農民たちは誰も泣かなかった。彼らは死んだいなごをひとまとめにして焼き、焼き終るとすぐ開墾のつづきにかかった。
 人々はまた川魚とぜんまいと蕗を食べて冬を越した。そして春が来ると三人の子供が生まれ、人々は畑に作物を植えた。夏に再びいなごがやってきた。そして作物を根こそぎにした。アイヌの青年は今度は泣かなかった。
村上春樹羊をめぐる冒険(下)』