human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

無題4

 橋の下で、川が大きな音をたてている。

 開いた堰を通って水が落下して、小さな人工の滝になっている場所だ。幹線道路から一本入った道沿いで日中も静かだが、音としての川の存在はあまり感じられない。いまは車がいないからだ。
 虫の鳴き声はきこえず、風のうなりがあたりを満たすように耳に入ってくる。追い風より向かい風の方が大きくきこえるのは、身体が抵抗を受けているせいもあるかもしれない。耳だって身体の一部なのだ。
 川と風と、あとはポケットでちゃらちゃら鳴っているキーホルダ。何にせよ、音が全くないより少しはある方が安心する。少しでいいのだ。自分はここにいるよ、耳が音をきいているよ、という程度。

 何を見るともなく、川沿いの遊歩道を走る。何かを見ようとすると、身体の動きがぎこちなくなることに気付いている。歩くと走るでは違うのだ。歩く時は畦道に咲く小さな花に目を留めたり、縁側のある家の庭を眺めたりを歩きながら自然にできる。だが走っている間は注目ができない。「車で酔わないためには遠くを見るのがいい」と小さい頃に教わったが、それと似たものを感じる。空を見上げても、横を向いても構わないのだが、視界の全体を眺めている感じがよい。
 唐突に聞こえそうだが、視界にある諸々のものの一部に、自分がなったように感じるのが心地良い。頭がからっぽになっているようでもあり、自分の知らないところでなにかくるくるとイメージしているようでもある。そう、思考というよりイメージが活発になっている。サイレント映画のような、音楽の、そして言葉のない、イメージのみの提示。それが何を意味するのか、考える余裕はなく、ただ脈絡が全くないわけでもなく、それが浮上してきた何かしらの必然は感じられるようでもある。夢に近いのかもしれない。走り終えた時には意識に何も残っていないのだから。


 脚は忠実に地を蹴り、腕と協力して身体を前に運んでいる。どこまでも走れそうな気がしてくる。夜の律法的な静けさも、月の盤石な光も「好きにすれば」と僕らを止める気配はない。頭は夜とイメージを行き来して夢想に浸り、身体のことを忘れそうになった頃に「明日があるよ」という囁きを耳にする。誰だろう、こんな夢の世界で明日を語るのは? 時間の止まった薄闇の中で現実的なのは?

生活をし、生活を語る者。
時間の中に生きる者。
現実を夢にする頭に対して、夢を現実にする者。


喉乾いた、水飲もうよ。