「全ては波である」について
シンプルな曲が最近の好みです。
音数が少ない、音圧が小さい、など。
新しく聴こうと思う曲は特にその傾向があります。
前にイヤホンでの音量が下がった時からかもしれません。
ちょっと考えてみると、今は「外の音が聴こえる音量」にしています。
食器を洗う時も、通勤の時も。
それは環境音が聴こえないと危険だから、ではありません。
音楽に没入したい訳ではない、ということだと思います。
プレーヤーで聴く曲と、脳内再生の曲が近づいている気がします。
環境音として音楽を聴く。
日常生活が発する音と調和するように音楽を聴く。
「日常生活」というよりは「日常の思考」が正確でしょうか。
いったん音楽に没入すると、その間はいいですが、戻ってきた時の虚脱感がある。
それはテレビ番組でもゲームでも同じです。
その虚脱感というか、喪失感が心地良くないのは確かです。
けれど本当は、その喪失感の意味するところが気に食わない。
前に集中の話を書いた時に森博嗣氏の言葉を引用しました。
集中から我に返る時に覚えるのは、虚脱感と充実感の両方があり得ます。
何の要素が両者に分けるのか、というと内容かもしれないし、結果かもしれない。
あるいは、主観として能動的か受動的かに因るのかもしれない。
イヤな思いはしたくないが、するべき時にはした方がよいと思います。
その「するべき時」の認識が、形を持ってきたような気がします。
長い目で見た生活の周期、安定性といったものを考えています。
その認識は目先のイヤを意味付ける視点にもなり、相対化に繋がります。
「振動数から周期を導出する生活」と呼んでみようと思います。
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今日の一曲
前の話
曲:弾人
絵:弾人
声:松田っぽいど
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タイトル思い付かんなあ、と頭を捻っていると、ふと波のことが浮かびました。
そして雲を連想しました。
いつか「どんな雲も波の合成で作られるのではないか」と思ったことがあります。
それはワッフル雲↓に見とれていた時のことでした。