human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

見つめる為に写生する(2011/9/24)

2011/09/24(土)16:21

店内
 Lブレンドコーヒー  ¥220



ワシダ氏〔鷲田清一〕p.35を見て思い出す。
「見続けることで、今まで見ていなかったように物が見えてくる」
というようなコトを誰かが言っていた。「見続けるために描く」のだ、と
それを聞いて、面倒だと思った僕は、
「じゃあ何もしないで見続けてみせる」と思ったのだった


(「他者の対話」という比喩)「世像」に比べると「手(筆)」は他者かもしれないが、
…いや、反論が思いつかない。まずはそれをやってみるのがいいのだと思う。

好きなものを食べていて、食べ終わるのが惜しいと思う。
お気に入りの小説が、中盤を過ぎたあたりから、終わりが来なければと思う。
達成感とは別に、食べ終わること、読み終えることに一抹の寂しさを感じる。
描くことは、これらと同じようでもあり、違うようでもある。

僕は絵を描かない(遥か昔に挫折した)ので想像ですが、
主体的に描く限り、「描き終わり」の判断は自分で下すものでしょう。
そして絵が完成か未完成かは、その判断材料の一つでしかない。
未完成であっても、その絵との「対話」に満足して筆を措くこともある。

たぶん、絵を描くことは、ポリフォニック(多義的)な行為なのだと思います。
絵を完成させること、手を動かすこと、画用紙の変化に見入ること、等々。
メモにある「(描写対象を)見続けるために描く」もその一つ。
そして絵を描く間、それらが代わる代わる前景化することで、描き手を驚かせる。

言葉を連ねるのも、対象を表現する行為としては絵を描くことと同じです。
今読んでいる『ムーンパレス』(ポール・オースター)にはこんな場面があります。
盲目と思しき老人の横で、歩く街並の要素を逐一言葉にして「景色を立ち上げる」青年。
彼は老人の叱咤を浴びながら、聴き手の想像力を刺激する描写法を会得していきます。

表現手段や細微な出力の試行錯誤に没頭すると、当初の目的を忘れることがあります。
ふと気付けば、キャンバスはぐちゃぐちゃになっている、老人は拗ねてそっぽを向いている。
その「我に返る一瞬」の感覚には、カタルシスがあります。
失認していた目的が意識にせり上がり青ざめる、その前の一瞬です。

それ自体決して目的にはできない「覚醒」が、集中の、ひいては生命の醍醐味でしょう。

 工作をしているときは、本当に無心になれる。これが気持ちが良い。いろいろなことから、一時的にだが離れられる。どんな嬉しいことも、どんな悲しいことも、たぶんすっきりと忘れられる。きっとこんな状態のことを楽しいと思うのだろうな、とあとから思うわけだ。
(…)無心というのは、ぼんやりしているのでもないし、寝ているのでもない。躰は動いているし、頭も考えているのに、生きていないみたいな感じ、というのだろうか。死んでいるのに近いかもしれない。
 無心でいる最中は、もちろん無心なので、楽しいともあまり思わないわけである。無心から戻ってきたときに、楽しかったことが遅れて理解できる。生き返ったみたいな気持ちだろうか
「2006年9月25日(月) 無心」p.229(森博嗣『MORI LOG ACADEMY 4』)