human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

しずか【静か】、連想と鍛造

 
 草の芽の伸びる音さえ聞き取れそうにあたりは静か。

 湖面が小波一つないほど静か。

 生気に満ちた音がすっかり掃き清められたように静か。

 冬眠中のリスのように静か。

 休日の病院が墓場のように静か。

 風鈴のかすかな音さえ騒がしすぎるほど静か。

 耳がなくなってしまったのかと勘違いするくらい静か。


 居るのか居ないのか分からぬくらいにいつも静かな男。

 海老が髭を動かすさえも聞こえそうなほど静かな店。

 真空地帯みたいに静かな路地。

 湯呑みに茶を注ぐ静かな音が茶の間に広がる。

 ひっそりとして人の出入りも稀なほど静かな暮らし。

 家の中を静かに夕暮れが満たす。

 影のように静かに歩く。

 雲ただ静かに屯する。

 呼吸しているとは信じられないほど静かにしている。


 ロビーが一瞬冷蔵庫と化し、そこにいる人たちを沈黙させる。

 霧が微かな音を立てる。

 新聞紙を細かく引き裂いて厚いカーペットの上にまいたほどの音。


(以上、小内一 編『てにをは連想表現辞典』p.482-483「しずか【静か】」の項から抜粋)

てにをは連想表現辞典

てにをは連想表現辞典

 × × ×

ブックアソシエータに関連して、連想について勉強したほうがいいかとふと思いついて、大阪市の図書館で「連想」のタイトルを含む蔵書を検索していくつか本を借りました。
上がその一つです。
さっき初めて開いてぱらぱらとページをめくってみました。

これは辞典で、索引語に対して、その語を含む文学表現(編者が20年かけて集めたとされる作家400名の各々1〜3作品中の文章表現)が列挙してあります。
考えればなるほどですが、索引語としては凝った表現よりは凡庸というか汎用性の高い表現の方が、それを含む文学表現が多く引用されています。
例えば上に引いた「静か」は、これと同じ意味(あるいは下位概念?)の「静謐」よりも、圧倒的に列挙数が多い。
そして、表現が多いほど、面白い。
この表現の雑多さ、多様さこそがその語(=索引語)からの連想の豊かさということで辞書のタイトルに「連想」とあるのだと思いますが、それだけではない。

「静か」という一語が、これだけ多くの「別の意味をもった言葉たち」とくっついて、違和感がない。
言い方を変えれば、「別の意味をもった言葉たち」のそれぞれが、それら各文章の中で「静か」の一語に収斂されている。
「〜のように静か」と書いてあり、それを読者が先頭からつらつらと文字を追って読み、「静か」までたどり着いた時、その手前までの「〜のように」の内容はすべて、「静か」の一部になっている。
そのようにして、「静か」はどんどん、内に含むニュアンスの多様さを広げていく。
言葉が、意味を獲得する。

「その主語は?」と気になるかもしれません、「その言葉を扱う主体は誰?」と。
出版書籍の本文データベースか、Googleブックスか…という話ではありません。
主語は僕です、そしてあなたです。


連想というのは、その活動が現れた時に、脳に特殊な躍動感をもたらすものですが(たとえば、思い出せそうでなかなか出てこなくてずっと気にかかってた昔の有名人の名前がある時ひょっと分かった時の感覚です)、これは比喩かもしれませんが、自分の頭の中に息づく言葉が新たな意味を獲得してその言葉とリンクしている言葉群ともどもが生気を吹き込まれ、活性化することでもある。

「鉄は熱いうちに打て」。
鍛造工程は金属を高温に熱し、冷める前に叩いて整形するとともに強度の獲得を目指します。
上で「躍動感」とか「活性化」と言ったのは、冷めた金属が再び熱を得るようなものです。
変化し得る状態になること、過渡期への遷移。

単純に強さを目指すなら、熱い間に鍛えるだけ鍛えて、冷やして終わりにすればいい。
でも僕らは、強くなるために生きているわけじゃない。
強くならなくちゃ乗り切れない、苦しい時期もある。
でも、強くなったばかりに、いちばんそばにいたい人の弱さが理解できなくなることもある。

弱さを獲得するために、もう一度自分の内に火を灯す。
弱くなるために、熱を得る。

そういうこともある。

 × × ×

p.s.
最初に引用した「静か」の表現の中で、村上春樹の作品からのものが2つあります。
その文体が好きで、ハルキ小説をたくさん読んでいる人には簡単な問題だと思います。

小川洋子のものも2つあるんですが、これは、言われてなるほどとは思っても、知らずに当てるのはちょっと難しいなと僕は感じます。

この差には僕は、作者の文章表現の特異度よりも、読者が作者の文体に親しむ程度の方が効いてくると思っています。

「砂漠だけが生きている」、生と死のフラクタル

 彼女は、すべてを見られる。世界中のどこにでも目を持っている。地理的にも歴史的にも、すべてを見てきた。人間のやることを、全部知っている。
 無限ともいえる知性、あるいは思考は、どこへ行き着くのか。壮大な実験を人間はスタートさせて、そのまま忘れてしまったのだ。コンピュータは、言われたとおりに学び続け、知性の実験を続けている。
 なんとなく、虚しい。
 人工知能が、無限の虚しさに襲われても無理はない。
 想像しただけで、躰が震えるほど、それは虚しく、悲しく、寂しい。
 あまりにも多くのものが動き回っているのに、トータルしたものは動かない。まるで大地のように、この果てしない氷原のように。
 生きているものを無数に集めれば、そこには死の静寂がある
 たぶん、そうなのだろう。
 理解はできないが、その雰囲気を少し感じることができる。
 できるような気がする。

森博嗣『青白く輝く月を見たか?』講談社タイガ

下線部を見た瞬間に、砂漠を思い浮かべました。

 砂漠…砂漠だけが生きている…?
 どこで読んだフレーズだったか。

思い当たる小説を参照してみました。
沢山貼られた付箋の中の一つの、関係はないがそのそばの箇所に、それはありました。
これと、もう一箇所、同じ小説の中にあったはずなのですが、ざっと全ページを見返しても見つけられませんでした。

「砂漠のことを考えていたんだ」と僕は言った。
「砂漠のこと?」と彼女は言った。彼女は僕の足元に腰をかけて、僕の顔を見ていた。「どんな砂漠?」
「普通の砂漠だよ。砂丘があって、ところどころにサボテンが生えてる砂漠。いろんなものがそこに含まれて、そこで生きている」
「そこには私も含まれているの、その砂漠に?」と彼女は僕に訊いた。
「もちろん君もそこに含まれているよ」と僕は言った。「みんながそこで生きているんだ。でも本当に生きているのは砂漠なんだ。映画と同じようにさ」
「映画?」
「『砂漠は生きている』、ディズニーのやつだよ。砂漠についての記録映画だよ。小さい頃に見なかった?」
「見なかった」と彼女は言った。僕はそれを聞いてちょっと不思議な気がした。

村上春樹国境の南、太陽の西

連想が、同じものを結びつけたかどうかは、わからない。

宇宙スケールの視点とか、諸行無常の比喩とか、ではない。
いや、2つのそれぞれが語るものではなくて、2つを並べてみて僕が思ったことの話。


フラクタル、が少し近いだろうか。
「生きているものを無数に集める」、たとえばこれは、人体一つについても言えること。
人体を構成する細胞、その一つひとつは、確かに生きているといえる。
つまりヒューマンスケールで人が自分自身を顧みて、同じ視点に立つことができる。

いや、肉眼の分解能を超えたミクロな視点を獲得した科学は、すでにヒューマンスケールではないのかもしれない。

いや、あるいはそうでもないか。
八百万の神」のアニミズムがある。
この中には、生の躍動と死の静寂が同居しているように思う。
対して違わない者たちとしての、併存。


そうか、

生と死は、隣り合わせなんかじゃない。
お互いに相手を含み合っている、フラクタルの構成因子。
だから、生の集積に死を発見できる。

だから、「一人の人間」という単位は、仮説なのだ。
あらゆる科学的言明が、仮説であることと同じく。

 × × ×

人間と人工知能の境界がどんどん曖昧になっていく、森博嗣のWシリーズは非常に興味深く読み進めています(引用したのは全10作中の6作目だったと思う)。
展開もそうですが、深く考え込ませる記述が随所にある。

 人間の定義が、変わっていく。
 それは、
 人間が人間でないものになっていく方向性と、
 人間でないものが人間になっていく方向性とを持つ。

いずれにせよ、人間のやるべきことは、なくならない。
そう信じることのできる、非常に楽観的な生物なのだ。
 
 × × ×

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

「現在主義」と終末論、知と地と血

 壮大なる「時の知(chronosophie)」、予言と時代区分の混合、(…)普遍史の言説は、絶えず歴史につきまとってきた。未来への問いから生まれた、このような構成物は、その前提事項と同様、千差万別で(それらは総体的に、循環的にしろ、直線的にしろ、展望なるもの(ペルスペクティブ)を特権化していた)、根本的に過去と未来の諸関係を把握しようとするものであった。
(…)
 これらの筋立て(…)は、西洋史において非常に長きにわたり存在し、大きな影響力をもったが、こうした筋立てにおいて、古代・中世=中間の時代(Media Aetas)・近代という分割が、まずはルネサンス期の人文主義(ユマニスム)とともに行われた。そして、未来と進歩の開けは、終末の期待からいっそう分離していった。これは完成という理念の時間化による。この時、人は、過ぎ去ったものとして過去のみならず、現在をも過小評価するまでになった。現在とは、「輝かしい」わけではないにしてもより良い未来の前夜にほかならないのだから、犠牲にされうるし、そうあるべきだ、というわけである。

「序章」 p.36,38(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制』)

文脈を汲み取った抜粋ができませんが、本書を読んでいて下線部に立ち止まり、意味が取りにくいと思って何度か読み直すうち、太字部の「行間」から言葉が浮かんできました。

終末論にはプロセスがない」という。


僕の読解ですが、抜粋文中の「終末の期待」とは、たとえば産業革命以前の思想を指します。
科学技術の発達、その段階的な進歩が視認できるほどの発達が、「完成」というものがある日突然神が宣告するようなものではなく、それに達する階梯が存在するものであるという認識をもたらした。
これを「完成という理念の時間化」と呼んでいるのだと思います。

抜粋後半、特に下線部以降は産業革命以後の価値観を表現していて、けれど現在は、そこからさらに先にいる。
それが本書副タイトルにある「現在主義」で、本章以後を読んでいくとそれが分かるのだろう、というのはまだ読んでいない僕の単なる想像です。


話を戻します。
僕は「終末」という単語に反応したのですが、「行間」に作用したもの、つまり連想のきっかけは何だろうと考えてみて、ここ数ヶ月再読を続けている『太陽を曳く馬』(高村薫)だと気づきました。

組織に倦んだ内省的な警察官、東京都心に僧坊を構える宗教者たち、それに科学主義的知性を手放さずに座り続ける副住職を交えた膨大な宗教論争の論点の一つに、オウム真理教が取り上げられています。
オウムとは何か、それは宗教なのか。

宗教によって生物学的死の無残から逃走するというとき、高木が言ったとおり、そこでは当然死が前提となっているし、その意味では、宗教は必ず人間の生物学的死の周りをめぐる言辞ではあります。然るに、オウムにそうした死への視線はあるか。彼らが目指した神秘体験やニルヴァーナの境地はいずれも現世拒否への表明ではあるが、あくまで今生で達するだけで、その眼差しは死にも、また死を通り抜けた彼岸にも届いていないと言うほかない。(…)しかし、彰閑和尚はさらにこう問うてこられたのです。すなわち、オウムが目指した不死はほんとうに不死と言えるだろうか、と。正確にはこれは不死ではなく、たんに究極の生き残りということではないか、と。不死には決定的に死が張りついているが、生き残りはどこまでも生き残りであり、生は生であって、そこでは死は、あくまで生き残る価値のない他者の死に留まり続けるのではないか。ただ無感覚なものとして、自分の外に累々と転がるだけではないのか
(…)
そもそも、この社会の平和と退屈の産物でしかなかったノストラダムスの終末予言ブームが、オウムではなぜ現実の世界破壊に具体化されるに至ったか。(…)オウムの場合、グルも信者も社会に対する強烈な疎外感がおおもとにあったと言われていますので、社会の全否定は比較的容易に起こりえたと考えられますが、問題は、全否定がなにゆえ皆殺しになるのか、です。いつの世でも宗教は戦争をしてきたけれども、殲滅思想をあらわにした宗教は一度たりとも存在したことがない。このことから、オウムが無差別大量殺人を説いたことには、聖なるものが発現するには俗なるものが死ななければならないという宗教の基本構造ではない、なにか別の仕組みを考えなければならないのは明らかだ、と彰閑和尚は言われたのでした。謂わば、生が虚構と直結してしまうような仕組み。いや、もっと言えば、生が自分のために死を必要としてしまうような仕組み──」

「第五章 僧侶たち」p.216-218高村薫『太陽を曳く馬(下)』新潮社)

オウム真理教が異常者の集団で、彼らが起こした事件は特異な一過性のものである、という楽観的な見方は当時にもあったようですが(今は「忘却」という意味で増えているかもしれません)、僕は、そうではなく彼らは当時の普通の日本人たちであり、一連の事件は社会の現代を映す鏡であった、という認識で書かれた本をいくつか読みました。
(いちばん記憶に残っているのは『アンダーグラウンド』(村上春樹)です。読んだ時に書いた文章を張っておきます)
cheechoff.hatenadiary.jp
高村薫の文章をいま長々と抜粋して、ここに書かれているのは「現在主義の一形態」ではないか、と思いました。
社会にシステムとして埋め込まれた(「整備された」と言ってもいい)現在主義の、極端な発現の一形態。


先の「終末論にはプロセスがない」という言葉について。

ノストラダムスの大予言については、内容は知りませんが恐らく、誰が何をしようが何年何月何日に世界が破滅する(たとえば隕石が地球に衝突して)といったものでしょう。
その「必ずやってくる破滅の日」までの束の間のどんちゃん騒ぎが、日本各所で起きていたのかもしれません。

本当かしらと思いながら書くのですが、
「現在主義」に対する一つの解釈を与えるとして、
それは、
「現在主義」とは、"破滅の日"を永遠に先送りしながら意識し続けている態度・姿勢である
と考えてみる。

これは改めて考えてみれば突拍子もない話でもなくて、
たとえば"破滅の日"は、環境問題として実際に懸念されているものでもある。


…なにか、ここから話が一気に発散しそうなので止めておきます。
こういう時に残った「わだかまり」は詩として発散するのが良い手です。
少なくとも書き手にとっては、ということですが。

 × × ×

 知の蓄積、共有、効率的利用。
 知は地に降り注ぎ、蒸発を知らず、太陽なくして芽を育む。
 知の肉抜き、骨抜き、魂抜き。
 知は血を濃縮し、精製し、複製する。

 地なる知は風化し、血なる知は腐食する。
 知の蠢き、地殻の轟き。
 知の瞬き、鮮血の輝き。
 人知は、地なり、血なり。
 

境界の連想、ものさしの忘却

『歴史の体制』(フランソワ・アルトーグ)という本を読み始めました。

序章の終盤に「境界」という言葉が出てきて、なにかが繋がりました。
「この繋がり方には覚えがある」と思い、「岬」がタイトルに入った本を連想して、ブログ内で検索すると『境界領域への旅 岬からの社会学的探求』(新原道信)だとわかりました。

この本が今手元にないのが非常に惜しいのですが(岩手から大阪に来る時に処分してしまったようです)、連想した時に読んでいた文脈と似たことを抜粋してないかと思い、過去の記事をいくつか読みました。

cheechoff.hatenadiary.jp
cheechoff.hatenadiary.jp
cheechoff.hatenadiary.jp

なんというか、これらを書いている時の精神状態などが想像されて、時の経過について考えさせられました。

内容に違和感がなくて、今の自分に同じような論調で書けないとも思うけれど、
それはこれらが「血肉化」したからだと思う。
きっと、ある面においては論理で納得する段階を越えて、
思想の基盤となり、自分の基本的な振る舞いにそれが現れるようになっている。

この経過に時間というものさしを当てようとして、測定不能であることを発見する。
ものさしは、変わらずここにある。
でも、ものさしを持つ者が変わって、目盛りの読み方を忘れている。
ものさしの目盛りが、なにかをわかった気にさせるものであったことを、忘れている。


とにかく、『境界領域への旅』を再読したいと思った次第です。

 × × ×

このようなこと、関心の持ち方、姿勢について、新原氏の本にも書かれていたはず。
そしてこの連想によって、僕がアルトーグ氏のこの本に「呼ばれた」ことに気づく。

現在の状況から導かれた省察は、絶えず現在の状況との間に距離をとり、そこによりよく立ち返るために時間を遠くにまで遡る。ただし、決して俯瞰的立場にいるという幻想に溺れずに。かつて私は、知的信条もしくは趣味から、限界、敷居、方向転換と回帰の契機、不協和を特権視し、「境界線をずらす運動」を選びとったことがあった
(…)
オデュッセウスに関しては、『オデュッセウスの記憶』という本を書いたが、これは古代世界における文化的境界について問うたものであり、私にとってオデュッセウスは、この展望を象徴する者である。最初の旅行者にして境界の人間でもあるオデュッセウスは、境界を設定し、自分の位置を見失う危険を冒しながら、境界を常に越え続ける者である

「序章 時の秩序・「歴史」の体制」p.47-48(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 現在主義と時間経験』伊藤綾=訳、藤原書店

 × × ×

歴史の体制 現在主義と時間経験

歴史の体制 現在主義と時間経験

境界領域への旅―岬からの社会学的探求

境界領域への旅―岬からの社会学的探求

非人称の明晰

 当事者でない人々にとって、白黒をつけることはメリットであるに違いない。それは社会が好コントロール装置だからである。たとえば、ハンチントン病を発症する可能性のある人々に対して、生命保険会社はどのように対処すべきか、という問題を考えてみればよい。保険会社にしてみれば、白黒をはっきりさせて、白ならばすっきり保険に加入してもらいたいし、黒ならば加入を拒否したいと思うだろう。物事はあいまいであるよりははっきりしている方が管理し易い。確実な知識、確実な予測は科学の欲望であると同時に、社会の欲望でもあるのだ

「不治の病を予測する」p.164(池田清彦『やがて消えゆく我が身なら』角川書店

『ウェクスラー家の選択』という本の紹介、というか解説の一節。
「好コントロール装置」というのは池田氏がよく使う表現で、その簡潔な説明もこの抜粋の中にあるが、僕が引っかかったのはそのあと、最後の一文だった。

すぐに二つの本の一節が連想され、それらとの関連について考えてみたくなった。
これを書くのは、書かなければ分からないからだ。

 明晰と呼ぶにふさわしい、すぐれた頭脳の持ち主は、古代世界全体で、おそらくふたりしかいないかった。テミストクレスカエサルであり、ふたりとも政治家である。一般に政治家は、著名な人も含めて、まさに愚かなゆえに政治家になるのだから、このことは驚くべきである。
 もちろん、ギリシアとローマには、多くの事柄について明晰な思想をもっていた人々──哲学者、数学者、博物学者──もあった。しかし、かれらの明晰さは科学的な次元の明晰さであり、いいかえれば、抽象的な事柄での明晰さである。科学の対象とするすべての事物はどれも抽象的であり、抽象的なものはつねに明快である。科学の明晰さは、それをつくる人の頭脳のなかよりも、かれらが語る事物のなかにある

「第二部 世界を支配する者はだれか」p.203-204(オルテガ『大衆の反逆』中公クラシックス

「肉体は生かすことができる。呼吸も鼓動も戻せる。体温もあり、血も通っている。不思議なものだ、脳の活動だけが、まだ完全にコントロールできない。やってみないとわからない。君は、どうしてだと思う?」
「いえ、わかりません。どうしてだと考えたこともありません。というよりも、コントロールできる方が不思議です。やってみないとわからない、というのは自然の大原則なのではありませんか?
工学者らしい投げやりな意見だ」ヴォッシュは微笑んだ。「しかし、それが本当のところかもしれないな。理論物理の世界にいると、不確定性さえも法則になる。すべてが計算で確率的に割り出せる世界なんだ。思うようにならないことは、まだ人知が及んでいないと信認する。理論を盲信したい。なにもかも確信したい」
メンデレーエフまでは、そうだったかもしれません。あるいは、アインシュタインまでは」

森博嗣『デボラ、眠っているのか?』講談社タイガ

まず、最初の抜粋に戻れば、「科学の欲望」なるものは存在しないと思ったのだった。
それは社会の欲望の反映であり、科学が社会で成立するために(=科学者という仕事で食っていけるように)社会が科学に背負わせた十字架なのだ。


オルテガのいう「科学の明晰さ」という言葉が、ここしばらく、ずっと頭に残っている。
これは、文脈のうえでは抽象性に結びつくが、ここで焦点をあてたいのは、非人称ということ。

複雑と観察される事象を、論理明快に展開し、解説できる。
誰かがその解説をしたとして、それが彼のオリジナルだったとしても、その明快さ、明晰さは彼の所属ではない。
彼は、「論理明快で頭脳明晰なツール」を用いたに過ぎない。
彼に特徴があるとすれば、そのツールの使用に習熟している点にしかない。
見方を変えれば、彼は伝道者であり、彼こそがツールなのだ。

「論理明快で頭脳明晰なツール」。
それをつくり上げたのは、人間だ。
でも、それができたことは、人間が明晰であることを必ずしも意味しない。

人間は、つねに未知に囲まれている。
現在とは、色褪せた過去と、霧深い未来にはさまれた、ほんの僅かな割れ目である。
狭くて身動きがとれず、暗くて見通しが悪い、不安定な足場。
人間がつくるものは、その未知が前提にある。
未知が創造の原動力である、ということだ。

そんな人間が苦心してつくり上げたものは、果たして既知といえるだろうか?
否、それもまた未知である。


非人称の明晰。
森博嗣のWシリーズ(Wはウォーカロンの頭文字)で、「人類の共通思考」と呼ばれるものも、その一つだ。
だがそれはSFで、現在に話を戻せば、歴史、学問、技術、その蓄積。

通常いわれる明晰さが人に属するのは、なぜだろうか?
その判断を人が行うからだろうか。
チェスや将棋で、AIが人間に勝利する。
高性能の、明晰な人工知能
その判定者は、価値を認定する者は、人間。

「非人称の明晰」は、人間の価値判断が及ばない領域にある、と思いつく。
どういうことか。

ある対象を評価できないということは、それが既知ではないことを意味する。
計れるものさしがない。度量衡がない。
が、ないのだが、なぜかしら「すごさ」を感じられる。
理由もわからず、敬意をもち、真摯に接しようとする。

そして結局、それは人間自身に還流してくる。

(…)そもそも、人工知能は人間のように私腹を肥やすとか、権力を欲しがるといった欲望を持たないはずだ。人間に比べれば、デフォルトが天使寄りなのである。
 それは、ウォーカロンでも同じだろう。皆素直で、正直に生きているではないか。
 そういった設計をしたのは人間なのだ。人間は、自分たちの至らなさを恥じ、もっと完璧な存在を目指して、コンピュータやウォーカロンを作った。その技術の初心を、忘れてはならないだろう。
 そうでもなければ、生命の価値が消えてしまう
 それでは、あまりにも恥ずかしい、と僕は思うのだ。

同上

「初心」を持つ者たちは、既にこの世にはいない。
けれど、「忘れて」しまったそれを「思い出す」ことができる。
これらの動詞は、どちらも非人称だ。


つまり、意識という生命活動が非人称なのだ。

 × × ×

大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)

 

半直線的人生、無人島レコード、媒介関数の発見

 人間の人生が半永久的に長くなった今、人は現実というものをどう捉えて良いのか、迷っているように僕には思える。たとえば、数十年しか生きられないとわかっている人生ならば、自分ができることと、とてもできそうにないことがかなり明確に判別できただろう。できない理由の多くが、生きている時間に起因しているからだ。その場合、疑似体験が手軽にできるこうしたバーチャル・リアリティが価値を持つ。偽物とわかっていても、それらしい時間を過ごせるからだ。しかし、いずれ自分にそれができるという無限の可能性を持っている者には、最初から興醒めでしかない。カタログを眺めるように、選択のための資料としての価値しかない。カタログは商品ではない。カタログが欲しいわけではなく、商品を手にする未来を見ている。その未来は、今は無限に広くなり、逆に霞んでしまったように思える。大勢が、霧の中で迷っているはずだ。

森博嗣『デボラ、眠っているのか?』講談社タイガ

無人島レコード」というのは「無人島に持ってゆくとしたらどんなCDを持ってゆきますか? 一枚だけ選んでください」という趣向のアンケートである。
(…)
[大瀧詠一]師匠は「レコード・リサーチ」という書物を選んだ(「無人島レコード」で本を選んだのは師匠だけである)。
これは『ビルボード』のチャートとチャートインしたアーティストごとにシングルのデータをまとめたもの。
その中の1962年から66年までがあればよいと師匠はおっしゃっている。
「あれさえあればいいんですよ。(…)その4年間くらいなら、ほぼ完璧だと思うんだよね。全曲思い出せるんだよ。その時期のチャートがあれば、いくらでも再生できるからね。自分で。死ぬまで退屈しないと思うんだけどね。次から次へと出てくるヒットチャートをアタマの中で鳴らしながら一生暮らす、と。」
これはすごい。
師匠の記憶力がすごいということではない(ことでもあるが)。
音楽というのは「記憶しよう」という努力によって記憶されるものではなく、「音楽を受け容れる構え」を取っている人間の細胞の中に浸潤して、そこに完全なかたちで記憶される。
本人がそれを記憶していることさえ忘れていても、「スイッチ」(師匠の場合は「レコード・リサーチ」)を入れると完全に再現される。

blog.tatsuru.com

 × × ×

関数と集合を想定してみる。

二変数の座標平面。
各変数をそれぞれ2つの不等号で挟めば、矩形状の閉曲線が指定される。
その閉曲線に囲まれた者たちの集合を、関数の集合とする。
高次関数で表せば、例えば" x^2+y^2=a(定数) "が円であるように、単式で集合を表現できる。

二変数を、人のある性質、志向と考える。
(二つあることにあまり意味はないかもしれない、つまり閉曲線が二次元であることからの要請が、一でも三でもない理由かもしれない)
一人の人間は、二変数に代入可能な2つの定数をもつ。
このとき、上述した特定の集合に含まれる人々は、ある共通の、少なくともいくつかの視点で似通った、性質や志向を持つ。
その集合から外れた、定点が閉曲線の外に位置する人間は、一見、その集合との関係が想定されない。
その集合内の人々との関係が発生しない、または同じ時空にいながら別の世界に住んでいる、ように見える。

ところで、人の性質を示す二変数は、実は別の座標平面における関数でもある。
つまり、ある座標平面上で特定の集合から外れたりそれに含まれたりする定点は、別の座標平面上では直線だったり閉曲線だったりする。
後者を媒介平面と呼ぶとすれば、媒介平面は座標平面と比較して、極めて複雑な構成を持つ。
閉曲線に含まれるかそうでないかという二項で判断されていた座標平面上の定点(これは質点すなわち零次元である)としての人は、媒介平面では二次元的な広がりを見せ、他者である無数の曲線・閉曲線と縦横無尽に交錯する*1

人の性質・志向を分析するフィールドとして、一般的な選択肢は座標平面しかない。
媒介平面は選択されない、端的に、複雑怪奇で言語化不可能がゆえ。

だが、「それ」は存在する。
存在を感知する者には、そのメカニズムを説明できないながらも、座標平面上では観測できない重なりを見ることができる。
共通点のあるはずもない人々の、あるいは人と物の、関係を透視することができる。


 無から有は生まれない、
 しかし、
 有は有からのみでなく、
 「無と有のあいだ」
 からも生み出すことができる。

 

*1:たとえば、こういうイメージ↓でしょうか。

f:id:cheechoff:20181210145419j:plain

陸のない地球の話(序)

 
「陸のない地球の話をしよう」
「面白そうね。どんな話なのかしら?」
「僕らは海で生活をしている。海の中で、または海の上で。生活の具体的な描写は後々考えることにしよう」
「あら、私はそこが知りたいのだけれど。お父さんは船の上で釣りをして、今夜のおかずを仕留めるのね。『もうすぐ日が暮れちゃうわよ、まだ一匹も釣れてないじゃない』なんて言いながら、お母さんはゴロンと横になって本を読んでたりするの」
「のどかな家族だね。僕は親父の横でじっと水面を見つめる息子がいいな。いや、申し訳ないけれど、そういう現実に沿った話ではないんだ。科学的でないというのか、要するにファンタジーの一種だね」
「いいわよ。続きをどうぞ」

「陸がないってことは、宇宙から地球を眺めたら、青と白の2色の斑模様に見える。ふつう陸があると、海岸の形状やら山脈の高低があって、大気の循環はそういった地形のバリエーションによって生まれるらしいから、もしかしたら青一色かもしれない。海の深さが均一だと仮定すれば、海流も生まれないだろうし」
「なんか妙なところで具体的ね。SFの世界設定場面のようだわ」
「いや、これは余談だった。本筋じゃない。最初に地球と言ったからスケールが大きくなりすぎちゃったけど、考えてみたいのは、海にぽつんといる一人の人間についてなんだ」
「ふうん。じゃあ家族とか、生活とかはメインじゃないわけね。あなたの好きな、抽象的な話ってやつかしら」
「そうだ。現実にある海の性質をいくらか借りながら、想像してみたい内容のためにそこに非現実な性質を盛り込んで、そのような”海”にいる人間が何を感じるかを、考えてみたいんだ」
「あら、伊藤計劃の本にそんな感じのこと、書いてあったわよ。たしか、なんとかポーションって」
「エクストラポレーション、だね。SF的な命題を一つ立てて、そこから連鎖的にいくつかの命題を導いていく。SFがSFたりうるのは、そこで語られる物語が、その世界に不動のものとして擁立された命題と必然の関係にある場合だ、と彼は言っていた。つまり、現実にありふれた人間ドラマを未来世界で描いてもしょうがないということだね」
「でも、どんな世界でも恋愛とか友情のドラマがあって、それが私たち人間なのよ、ってことなんじゃない?」
「そう言って間違いではない。でもその価値観に従えば、SFの物語を、現実に軸足を固定したまま消費することになる。たとえば未来の車をパロディにした保険会社のCMを茶の間で眺めるようなもので、ただ通り過ぎていくだけ。彼が言いたいのは、ある命題を掲げたSFが、読者がその世界にのめり込むことで現実の価値観が揺さぶられるような、そういう骨太な物語をSFと呼びたいってことだと思う」
「それはわかったけど、なんか私、余計なこと言ったわね」
「いやいや、全然余計なことじゃないよ。だって…あ、話が逸れたってことね」
「そう」
「なんだっけな。ああ、海の話だった」

「まずね、人は海の中でも息ができるんだ」
「じゃあ溺れる心配はないのね」
「うん、でも顔を海から出した状態と、海中に潜っている状態は、同じではないんだ。疲れ具合も違う、安定感も違う、何より意識の状態が違う」
「あなたが問題にしたいのは、その意識の状態ってやつでしょ」
「その通り。ただひとっ飛びでそこまでは行けなくて、まずはいろいろ設定することがあるんだ。面倒だけど」
「そうねえ、面倒だわねえ」
「さっき横道に逸れた時に言った、SFの命題を導く過程にいると思えばいい。物語というよりは、その切れ端のような思考実験に過ぎないけれど」
「あなたも折れないわね。一度喋りだしたら止まらないんだから」
「君が嫌そうな顔してれば、すぐやめるつもりではあるんだけど」
「別に嫌じゃないわ。お店で落ち着いてコーヒーが飲めれば、それで私は幸せ」
「同感だね。願わくば、客の出入りが少ない、静かなカフェがいいけれど。あと、隠れ家みたいな雰囲気は好きだけど、窓から外が見えた方が開放感があっていいよね」
「文句が多いわね、同感なんて言っておきながら。だいたいあなたがこの店にしようって言ったんじゃない」
「ごめんごめん、言葉の綾だ。この店にもコーヒーにも、そして君にも不足はない。でも不足がないことは満足とイコールではない」
「…あら、なんで突然そんなこと言うのかしら。そういえばこの前『ケンカできる仲っていいよね、一度してみたいな』とか言ってたわね。そういうこと?」
「えっと、どうして君が怒っているのか、いまいち理解が追いつかないんだけど…いや嘘だ。そうじゃなくて、うーんと、人は常に向上心を抱いてこそ、前向きに生きていけるってことさ。君に満足していないと言ったのは、君じゃない人がいいのではなくて、君と一緒にこれからも変わっていきたい、という意味だ」

「…ふーん。いいけど、あなたいつも、一言多いわよね。説明が長くて、その中の余計な一言に弁解しなくちゃならなくて、その弁解にまた言い訳がくっついて、って。つくづく忙しい人ね」
「女性はお喋りが好きだよね。僕には論理も目的もなくてすぐ発散するタンジェントのような会話に思えるんだけど、実際のところ、会話の内容ではなくて、会話そのものが目的なんだよね。お喋りしていて幸せだというなら、会話は純粋な手段ってことになるけど、僕もそれに倣ってるつもりなんだけどなあ」
「言ってるそばからこれだわ。あのねえ、喋ってればなんでもいい、なんてわけないでしょ。気遣いって言葉、知らないの? あれだけ論理が科学がどうこう言いながら、肝心なところでどうしてこんな大雑把なのかしら。あなたね、ザルよ、ザル。網目はものすごく細かいのに、いちばん底に大きな穴がぽっかり開いてるんだわ」
「それを言うなら、割れ鍋じゃないかな。割れ鍋になんとかって。ええと、ああ、君がそのなんとかの方なんだけど、つまり相性いいんだよ、僕ら」
「知らないわよ、もう」
「まあまあ、機嫌直して。コーヒーのおかわりと、そうだね、ケーキ食べようか」
「あ、私チーズケーキがいいわ」
 

mind magic multiplicity

Wシリーズ第2巻、読了しました。

かつてなく抽象度の高いシリーズだと認識しました。
森博嗣は余計なことをせずに、真賀田四季のことだけ書いていればいいんだ」と豪語していた司書講座の同期、イシーダ画伯にオススメしたいところです。

 × × ×

二人の絵に対する姿勢について、
「抽象性」という言葉が最初に浮かんで、
言葉が足りないかとその説明を考えているうちに、
「ものすごく具体的」という言葉も出てきました。
(…)
違わないはずはないのに、
この両者の違いが分かりません。
どういうことだろう…

岡潔と安西水丸の共通点 - human in book bouquet

その差異があまりに明瞭なものに対しては、それを表現する言葉を持たない。
具体的に一つ取り出せば、それ以外が捨象される印象を得て、嘘になる。
正確を期して膨大な記述を費やしても、量的に敵わないうえに、記述の順序が重み付けとなる。
そもそも、説明なしに差異の認識が人と共有できるのなら、それを表現する意味はない。

 「僕と君とは、いったい何が違うのだろう?」
 「…あなたは私と、いったい何が同じなの?」

その差異があまりに明瞭で、それでいて何かしら等しさを感じるもの。
それらのものに費やすに値する説明は、同一性についての表現。

疑問の余地がなかった差異に同一性のライトを照射して、浮かび上がる影は「謎」である。
影がその実体の存在感を際立たせる、澄明なる月夜の神秘。

 表現を要求する同一性は、運動を孕んでいる。

閃いた瞬間の真実には、やがて解ける魔法がかかっている。
生を変化たらしめる時間は、光に生まれた言葉を石に戻す。
言葉の輝きは宇宙の星々と同じく、原初との時間差を免れない。
ただ、過去に消えた火種に光を見るのは、時間を超越する意思の魔法である。

 解けない魔法がないとすれば、それこそが魔法の生命たる証。

reality stimulates vitality

リアリティ(現実性)について。


言葉の理解は、文脈を通じて現れる。
辞書的な意味の暗記ではなく、異なる様々な使用場面が複合的に頭に展開されることで「体得」される。

「これはなかなかリアリティ溢れる小説だ」
「Sさん? ああ、あのタンクトップのリア充っぽい人ですよね」
「その話は非現実に過ぎる」
「生活を感じさせる家具が一つもない、現実味のない部屋」
「『リアリティって何や』て思とる、君の頭はリアリティ満載やで」

リアリティとは、プロセスに冠される言葉ではないかと思う


客観的な存在であるリアル(現実)に対して、本来「現実性がある」とは言わない。
リアルでないはずのものに、リアルさを感じて初めて、リアリティという言葉が登場する。

本来、と言ったのは、実用上、そうでない場合があるからだ。
たとえば、リアルに対して「リアリティがない」と言う場合。
それは、リアルであるはずのものに、リアルさを感じない状況の表現であるはず。
しかし、これは少し妙だ。
ここでは、「リアル」と「リアルさ」は違うものであるように受け取れる。
それがリアルなら、誰がどう感じようが、リアルに違いはないはずなのに。

リアリティとは、リアルの感覚的な把握との比較において成立するようだ。
比較が生み出すのは差異であり、リアリティ(の有無)は差異の発生に起因する。
プロセスは、時間を変数にもつ差異である。


リアリティを感じる対象。
それは、リアルになりつつあるもの、である。
これは先に触れたことを逆に表現したものだ。
つまり、リアリティを感じない対象は、
リアルを失いつつあるもの、であるとも言える。


「リアリティ溢れる小説」は、現実的にある、社会で実際に起こっていることが確実な話、のことではない。
そうではなく、それは「現実的にありそうで、起こっていてもおかしくない」話なのだ。

ノンフィクションが持ちえない小説の魅力は、このリアリティである。
社会の闇でも裏社会でもいいが、丹念な取材に基づいた事実と記録の提示は、取り上げた事件の「確実性」を強調することで、それがリアルであることを論証する。
だが、リアルであることそのことに対しては、リアリティを感じない。
ノンフィクションにリアリティを感じることがあるとすれば、それは「リアルに限りなく接近していく様」の描写にある。
それがノンフィクションの魅力なのかもしれないし、ノンフィクションならではのリアリティかもしれないし、あるいはリアルの確実性を論証し切れなかった半端ものにだけ言えることかもしれないし、この魅力自体が小説に属するものかもしれない。
この一節は、ノンフィクションを全く読まない人間の憶測である。


「非現実」という表現は、生活や空間に対して使われる時、薄っぺらさという意味をもつ。
小説においても、現実においても同様に。
似た表現を探っていくと、何かが見えてくる。
薄っぺらさ、それは「何も立ち上がってこない」という予感。
動きがない、変化がない。

インテリア雑誌で、調度の行き届いた隙のない部屋の写真を「現実味がない」と言う。
これは、生活感がない、と言いかえられる。
この逆を考える。
「生活感がある部屋」は、ソファの上にシャツやズボンが(だらしなく)引っ掛けてあったり、テーブルの上に染みのついた(飲みかけの)コップがあったり、キッチンに掛けられたヘラやお玉のメーカー(色)がばらばらだったりする。
そういう部屋を、住んでいる人の性質が連想される、と言ったりする。
「生活感のある部屋」のリアリティは、この連想にある。
どういう人がここで生活しているのか、を、「確定できる情報が散在している」のではない。
生活者を、様々に、想像できるというプロセス(可能性)にある。
その内容は、想像する人それぞれに異なる。

つまり、リアリティの備わるプロセスには「個性」が介在している


リアリティは感覚的なものである、と言った。
それは、リアリティが対象に帰属するものではないことを意味する。
つまり、何かにリアリティを感じるその人の側の問題なのだ。
根本的には、という意味ではあるが。

 × × ×

先に書いたことに再度触れる。

「リアルになりつつあるもの」に現実性を感じる。
「リアルを失いつつあるもの」に非現実性を感じる。

そして、この稿を書くきっかけとなった一節を抜粋する。

 虫や魚や爬虫類はグレイゾーンに置いておくとして、哺乳類や鳥類となると「リアリティ」ではないにしても、その起源となるようなものを感じているのではないかと私は思う。そのように思うとき「リアリティ」は、進化の系に一貫して流れている「生きようとすること」と強く結びついていると、私は感じているらしい。

「第6章 「リアリティ」とそれに先立つもの」p.98(保坂和志『世界を肯定する哲学』ちくま新書283)

こう並べてみて、
生命の本質は変化にあるという日頃の認識に、
次の一文を加えたいと思う。

「リアリティへの感度は生命力と深い相関がある」

と。

 × × ×

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

Walking Margarine

Wシリーズ一作目、読了しました。


 × × ×

「逆に言えば、先生の研究は、両者の差を明らかにすることですから、その差をなくすためにも必要な知見なのでは?」
 ウグイの口から、それが出たことに僕は驚いた。グラスの液体を全部喉に流し込んでから、椅子の背にもたれて上を見た。

森博嗣『彼女は一人で歩くのか?』

差異の認識が、同一化への足がかりとなる。
この逆説的なメカニズムの汎通性をふと考えてみたくなる。

学力テストの点数。
80点で満足していた学生が、友人の100点答案を見せつけられ、奮起する。

地方の名水の成分解析
独特と思われた味が、ある元素の含有率に起因すると分かり、人工的に製作される。


差異の認識というキーワードから、すぐ連想する事柄が2つある。
 一つ、仕事の細分化、研究分野の蛸壺化。
 一つ、知の発展が未知を生む、インタレクチャル・ネスティング・エンジン。
これらの事象に、当てはまるか否か。
あるいはその関係は。


専門分野がどんどん枝分かれしていき、同業者すらまともに議論できないほどマニアックな、重箱の隅の米粒を有難がる研究志向の本質は、知の無機化である。
自分が扱う対象に対して、随意に既知と未知をラベリングできるという傲慢。

「未知の知」の発動は、知性的活動のルールに忠実な、堅実さが前提される。
着実な一歩を積み重ね、固めたはずの足元が発見や偶然で崩れ落ちるのにめげず、自分が生きている間にゴールに辿り着く目算が立たない不安を抱え、人類知の夢と同輩の共感という願望に支えられながら、粛々と日々を送る。
ゴールがプロセスの礎であるという、ニヒリズム紙一重の自覚。


関係はもはや明らかだ。

差異は現象である以前に認識である。
差異が認識である以上、それは手段である。
手段の運用は、主体の意志に任される。


僕は「それ」と、同じでいたいのか、違っていたいのか?
なぜそう思うのか、その先に何を見ているのか?

 鏡に目があり、
 もう一つの鏡に自分を映して、
 その目が捉えるのは、
 自分か、相手か?

 光速は、ウサギとカメの、どちらだろうか?

 結局のところ、すべては、人の心がどう捉えるのか、という問題に帰着する。子供が生まれるとはどういうことか、生きているとはどういうことか、人間とは何なのか、そして、この社会は誰のものなのか……。
 きっと、それらをこれから長い時間をかけて考え、話し合い、少しずつ新しい思想を受け入れていくしかないのだろう。
 科学者の僕たちでさえ、まだしっかりと決められないのだ。一般の人たちが議論をするには、少し早いかもしれない。時間がかかるだろう、きっと。

同上