human in book bouquet

司書資格を活かせる仕事を探していきます。

システムに回収される関心について

 無関心とはただ相手を認知しないということだけではない。相手の体験を恣意的に改竄し自分たちにとってのカタルシスの物語のひとつとして「回収」していくという形の無関心と同時にある
「一日目 岬から始める」p.67(新原道信『境界領域への旅 岬からの社会学的探求』)

読み返していて連想が働いたのですが、この部分は以前に抜粋したことがあります。

「関心に対する関心」は、自分と周囲の関心対象が異なる限り尽きることがない。
自分の関心を他人と共有しようと思わないのも、ひとつの無関心の表れでしょう。
が、僕は別の見方をしていて、関心が無関心と接して取り込まれる恐れを感じています。
この関心と無関心の背中合わせというか二律背反が際立つことは、不思議ではあります。

前に抜粋した時と違う連想ですが、偶然かリンクしたのは前回同様に森博嗣氏でした。

 こんなシンポジウムをしたい。これを成功させるためには、誰を呼んでくれば良いのか。あるいは、新しい雑誌を創刊したい、これを成功させるために内容を考える。新しいショッピングモールを建設したい、そこにどんな店を入れるのか、などと考える。ごく普通に行なわれているプロセスである。
 そういう仕事をしている人、させられている人は実に多い。あまりに多いから、ときどき忘れてしまうだろう。それは、そもそも発想が逆なのだ。魅力のあるコンテンツがさきになければならない。そのうえで、どのようなメディアにそれをのせていくのか、という発想を持つのが自然だ。
(…)
 メディアとは、コンテンツのニーズに応えるのが本来であって、メディアのニーズとしてコンテンツが存在するのではない。メディアが先行すると、必ずそこに無理が生じる。どんどん歪みが大きくなって、ヤラセになり、虚構を築くことになる。そういう馬鹿馬鹿しい「張りぼて」が世の中には非常に多い
 張りぼてだとわかっているうちは、まだ救いがある。張りぼてを築いて、なにものかを創り上げた、なにものかを成し遂げた、と感じるようになると危ない。
「2006年9月24日(日)メディアの先行」p.227-228(森博嗣『MORI LOG ACADEMY 4 投げたらあかん!』*1) 

新原氏のいう「無関心」は、相手に対する全くの無関心という意味ではない。
無関心であれば、そもそも相手を認識し、言及することすらないからです。
抜粋にある「無関心」は、"自分たち"の主観的な関心を指しています。
その主観には相手の経験や感覚、思いが範疇になく、独善的である、と。

関心はあるが、その関心は相手とコミュニケーションが成立する要素にならない。
相手を人とも思わない、ではないが、「"自分たち"が思う通りの人」だと思っている。
平たく言えば、関心を向ける対象を「ネタ」として見ている。
自分の中で働いた連想を言葉にすると、このようになるかと思います。

森氏が書く通り、メディアではこれは当たり前の姿勢となっています。
最初に(紙面の)枠があって、それを埋めるニュースを探す、あるいは選ぶ。
メディア会社の立場があり、取材先との関係があり、苦情対策としてのPCがある。
メディアのシステムが、「コンテンツから始まる」ことを許可していない。

といっても、これはマスメディアだけの価値観ではありません。
生産主義、分業体制が確立した産業構造(専門家の乱立)、要素還元主義、…。
集団の中で職業が成立するあらゆる場面で程度の差はあれ基本的な認識のはずで、
これは現代(先進)社会の複数の仕組みが絡まって「なるべくしてそうなった」。

話が大きくてまとめきれませんが、思いついたところを並べてみます。
産業というのは規模が大きいもので、個人ではなく集団を相手にします。
一人ひとりの個性を視野に入れる非効率なやり方では利益が出ない。
集団を消費者として標準化することで、個人もその効率化の恩恵(安さ)を受ける。

あるいは専門家は、総合的な知への関心を犠牲にして得意分野を掘り下げます。
専門家の特定分野の業績を繋げる専門家というのもまた、別に存在します。
逆に言えば、個人がみな「浅く広く」の関心を持てば、科学や技術は進歩しない。
科学や技術の進歩を前提としてこそ、視野の狭い専門家が当たり前に存在できる。


一人ひとりが関心を持っていても、それは他者の総体には向かわない。
個人が他者に関心を持つ時、その関心は主観的であることが当然とされる。
これは「自分の内実を問われることのない」消費者的な価値観とも似ています。
消費者は商品に関心を持つが、商品は消費者個人には何の関心もありません。


本記事を書こうと思った最初に思いついた言葉にやっと辿り着きました。
現代社会では個人はシステムに生かされている部分があります。
人と人が直接関わるのではなく、仲介する場やモノがいくつもあり、
それらを人が制御できるようにする(あるいは自律させる)のがシステムです。

この中で、人が人に関心を持つという時に、
実は人が直接関心を示している対象はシステムなのではないか、と思いました。
構造としては、人が言葉で他者とコミュニケーションをとる場合の、
「言葉」も、このシステムと同型です(言葉がシステムを含む?)。

ただ、もとはシンプルだった言葉が、複雑になり、形を持ち、遠くなった。

(結論が…)

MORI LOG ACADEMY (4) 投げたらあかん!

MORI LOG ACADEMY (4) 投げたらあかん!

*1:本記事のテーマと関係ない話ですが、前にこの本を抜粋した時に書かなかったサブタイトルを打ち込んだ時に気付いたのですが、このMLAシリーズは各巻とも羽海野チカ氏が表紙絵を描いていて、森氏はその絵を見てからサブタイトルを決めるらしい。貼っつけたリンク写真がそれで、最初見た時は「ピッチャーやのに投げへんのかい!」としか思わなかったのですが、今さっき、そうか、「(匙を)投げたらあかん!」と森氏自身を叱咤しているのか、と気付きました。森氏はもう何年も(今も書いてれば10年以上ですかね)ずっと、毎日日記を書き続けています。