human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

保坂-森リンク、予感が賭けるもの

『血か、死か、無か?』(森博嗣)を図書館へ返却する直前に、剥がしてなかった付箋箇所を読み返すと、つい今しがた読んでいた『小説の自由』(保坂和志)へと連想が繋がる。

シンクロニシティは客観と意味の結合だとか、図書館で借りる本は自分で購入する本とはまた違った緊張感がある(出版界の各方面の事情はどうあれ、読者自身は「どちらの方がいい」というものではない)とか、そういえばこのWシリーズ第8作は待たずに借りれたけど次作は予約が30人待ちで一方大阪市内の図書館所蔵は3冊でベストセラー本の複本問題はなかなか複雑だなと司書講習で他人事のように習ったことの実際を目の当たりにして思ったりとか、いろいろあるんですがとりあえず本返すんで抜粋メモだけしておきます。
太字にした部分は、文脈とは別の興味です。

 この[柴崎友香『青空感傷ツアー』の主人公の]わたしは、『金閣寺』[(三島由紀夫)]の私のようにバザールに火をつけたりはしない。このわたしが視線に先行してはまったく存在せず、視線によってもたらされた私に完全になっているとまでは言いがたいし、この場面が『子どもたち』[{チェーホフ)]ほどに拡散的な視線の運動を作り出しているとも言いがたいけれど、方向としてはそういうものと言えると思う。
 この視線の運動と私の主体性なり私の意志なりとは、同じ場所を占めることが難しい現象なのではないか
「現象」という言葉は、それ自身が原因とはなりえない言葉で、私というものを指すときには不適当と感じる人もいるかもしれないけれど、私も私の主体性も私の意志も、すべて現象であり、小説には、本当の意味でそれに先行するもの(原因)はない、という認識が視線の運動の基盤にあるのではないか

保坂和志『小説の自由』

 頭の中の発想というのは、逆戻しができない。これは、理屈がない、時間がない、前後関係、因果関係がないからだ。元を辿れないというよりも、元がない。つながらない、ばらばらの離散イメージだから、一瞬だけリンクらしいものを予感しても、実は、なんの関係もない。

森博嗣『血か、死か、無か?』

小説の自由

小説の自由

 × × ×

ついでに、『血死無』から抜粋をあと2つ。「考えたい欲求」がむくむくとわいてくる箇所。

不思議なもので、以下2つと上の1つ、計3つが「残していた付箋箇所」なのですが、上の1つがいちばん「考えたい欲求」の強度が低かったはずで、けれどそれは強度云々よりも、きっかけ待ちというか、欲求を起動するための入力が不足していたのだと後付けですが推測できます。

予感とは、それは予知とか予測とは違って、「思った通りのことが未来に起こる」ではなく「この先何かが起こる」という、それらよりもっと漠然とした感覚で、内容が曖昧なら当たり外れも曖昧であって、未来への投資でありながらすぐれて現在的な現象である、のだと思います。

なぜなら、予感の当たり外れに賭けられているのは「自分自身」だからです。

つまり、仮説が正しければ、結果は順当なものになる。意外な発見がない方が良い。それでも、なんとなく、イレギュラなものを求めてしまう感覚はたしかにある。そういうものを人間は、面白い、と評価する傾向にある。意外なものに出会ったとき、人は笑うし、興奮するものだ。
 多くのエンタテインメントが、これをやり尽くして、人々は面白いものが目の前に現れる日常を楽しみすぎた。だから、意外なものが展開するのが日常になっている。きっとそんなところだろう。僕が特別なのだ。そういうものを極力見ない生活をしているし、いわゆる「遊び」のような行為からすっかり遠ざかってしまった。
 遊びって、何だろう、とふと考えてしまうほどだ。


 電子は光速で走る。それが宇宙の限界を決めている。あらゆるものは、この物理法則に従っているのだ。もしも、ミクロ化しないコンピュータ、つまり思考形態が成り立つとしたら、それは……、おそらく、高速ではないものになる。それは、我々から見て、高速ではない時間を持っていることになる。
 ゆっくりと思考するのか……、と僕はそこで息を止めた。
 スローライフとでも呼べそうな生体なのか。
 たしかに、それは永遠の存在に近づける一つの道かもしれない。
 だが、残念ながら、手が届かない。人間の時間、思考時間では、そこへ行き着けないのではないか、と予感した。
 もしかして、我々が、速すぎるのか?
 これまでに考えたことのない方向性だった。
 ただ、それ以上に、発想を絞り出すことができなかった。

同上

鏡としての人工知能(森博嗣『血か、死か、無か?』を読んで)

『血か、死か、無か?』(森博嗣)を読了しました。
Wシリーズ第8作。

ここへ来て、森博嗣の過去のいくつかの著作との関連が一気に見えてきました。
それに応じて、その関連著作の続編的作品との関連があるかもしれないという予感が生まれました。
よくわかりませんが、『赤目姫の潮解*1』を再読してみたい気になっています。

それはさておき、久しぶりにやりたくなったので、以下に抜粋&思考。

「大学で教官をされていたときのことでしょうか?」
「そんな感じで、いろいろとね。どうして、彼女を、僕に質問するように仕向けたのかな?」
「教育的指導です」デボラは答えた。
「それは、誰に対する?」
「もちろん、キガタ・サリノに対してですが、博士の今の発想は素晴らしいと思います」
「僕に対する指導かと誤解したことが?」
「はい、そうです」
素晴らしくもなんともないね。人間っていうのは、うーん、まあ、全員ではないにしても、基本的に自分を責める、被害妄想的な指向性を持っているように思う
「それは、危機回避能力に結びつく重要な要因になります」
「そういう目的ではなくてもね」
 そうではない。まずは、自分の足許を見る。前進するにも、後退するにも、その場に踏みとどまるにしても、自分が立っている地面が確かな強度を持っているのかを最初に確かめる。それが知性というものの基本だろう

森博嗣『血か、死か、無か?』講談社タイガ

「知性というものの基本」、これは言語意識の機能のことだと思います。

自分が変われば世界が変わる、という認識の仕方があります。
自分がいなくても世界は何も変わらずそのまま存在するという、唯物観の対局に位置するもの、唯心論。
この観測の違いは「世界」とは何か、に因るのですが、知性あるいは言語意識とは、唯心論的な存在です。

その知性の「被害妄想的な指向性」、これは端的には「なんでも自分と結びつける発想の仕方」ですが、これが被害妄想、誇大妄想とされる判断の根拠は、客観の側にあります。
判断の可否とは別に、この傾向自体が知性の本来的な発揮である。


先に、知性と並べて言語意識などと書いたのは、言葉がそもそもそういう機能を持っているのではないかと考えたからです。

言葉は、あらゆる存在に名前をつける。
物に、状態に、形のあるもの、ないものを問わず、すべからく。
名前で呼ばれて、それは初めて身近なものになる。
名前を持ったものは、他の言葉たちと関係をもつようになる。

そして言葉は、言葉を発するものと関係をもっている。
まさに自分がそれを言った、というその理由によって。
だから本来は、本人の発言内容に依存せず、本人とその発言内容とは関係をもっている
言葉とは、そういうものだから。

そして社会のシステムは、言葉の本来性を抑制するように構築される。
システムにおいては、言葉はツールとして、集団生活の安定した運営という目的のために用いられるから。
だから、人間関係の構築が促進するほど、言葉の自由な関係構築機能が抑制される、というパラドクスに見えることが起こる。
いや、別にパラドクスでもなくて、単に「変化が落ち着けば安定である」と言っているだけかもしれない。


その、知性、あるいは言葉の問題が、ここ最近、念頭に留まり続けています。
知性の劣化、知性への信頼性の低下、言葉の形骸化、といったことについて。

本で生計を営もうとする人間にとって、これは避けて通れないテーマです。

 × × ×

「(…)メモリィの状態をはじめ、人工知能には、自己診断の機能が備わっている。自分の一部が、別の意思を持つことは許さないようにデザインされているはずだ。つまり、統合が基本だということ。統合することが、自律という意味でもある。意見を一つに絞ることが、演算の主たる目的なのだからね」

同上

人工知能の研究は、産業や社会の維持・発展に寄与するという実利的な目的をもつ一方、人間とはなにかという哲学的な問題を追求する一面もあります。
石黒浩・阪大教授の研究は後者の一面が強く出ている好例で、石黒氏はアンドロイドを扱っていますが、アンドロイドは人工知能以上に「鏡で自分を見ている」ようなものだと思います。

とふと思ったんですがそれは派生の話で、最初に抜粋して思ったのは、人間にもし身体がなければ「こう」なのではないかということ。

世界に人間が一人しか(残って)いない場合を想像したとき、彼の判断に他人の事情が介在する余地はないわけですが、それでも「自分の一部が別の意思を持つこと」はありうると思います。
腹が減ったが、獣を狩ろうか、木の実を探そうか、とか。

いや、そんな極限状態でなくとも、身体の状態、たとえば健康状態や運動状態などが、個人の意思や判断をダブらせることはあります。
あるいは、個人以外の身体との接触状態も、身体の状態に含まれるでしょう。
こういった、演算不可能に思える(モデル化・数値化はできても論理に移すと膨大な情報量が欠損する)ことを人工知能がどう扱うのか…いや、人間自身が扱うにしても、既に欠損があるのでしょう。

この小説の中では、身体(性)の有無は人間の定義に含まれていないようです。

 × × ×

「作戦や戦略について助言をしたことは?」
「ありません。そのような具体的な話をするには、状況を把握するデータが必要です。ここに来てから、その後の入力は一切ありません」
「宝の持ち腐れですね」僕は呟いた。日本語だった。
「ハギリ先生のおっしゃったことは理解できます」イマンはすぐに反応した。
「その境遇に対する、君の考えは?」僕は尋ねた。
境遇に対する評価は行いません。目的が設定されて初めて、それを実現するための環境を評価することができます

同上

「宝の持ち腐れ」とは、イマンと呼ばれた人工知能がオフライン化で長い間使用され、イマンが持つ機能が十分に発揮できる状態でなかったことを指しています。
この状態に置かれていたことに対する人工知能の自己評価が抜粋の最後の発言です。
これが僕には、とても人間的に思えました。
人工知能の発言として違和感のない表現でありながら、人間だってまさにそうじゃないか、と思ったのです。

確固とした目的がブレずに長期に渡って持続するものであれば、境遇に対する評価は、実際の変化に追随した、安定したものとなるでしょう。
逆に、目的がコロコロと不断に変わるようであれば、境遇自体に大きな変化がなくとも、それに対する評価が大きく変動することがあり得ます。


ところで、「目的の設定」と「境遇に対する評価」の関係について。

ふつう、時系列では前者が先に来ます。
が、その逆を考えると、”評価が目的を生む”というようなことになりますが、これは前回の記事に書いた「発明は必要の母である」という逆転した諺と同じ構造に見えます。
と気付いた瞬間に予感したことですが、この「評価が目的を生む」事態も、同じく現代でありふれて存在するようになったことです。

情報技術の発達、増殖を続ける無尽蔵のウェブリンク、クラウドコンピューティングによる身の丈を遥かに超えたデータベースの参照可能性、これはある視点をとれば「評価の坩堝」の巨大化でもあります。

ある目的に対して、なんらかの行動・実験・思考を行った結果として、一定の評価が定まる。
目的は前提であり、評価は、それを導く行動・実験・思考を含めればプロセスです。
ところが、データベースとして存在する「評価の坩堝」とは、それを参照する者にとってはプロセスではありません。
物語を読むように、プロセスの追体験として読み取ることもできますが、結論の既に定まったそれらの臨場感は、既に失われている。
いや、データベースを物語と解釈すればできないことはないが、それは情報技術の利用としては例外的な方法でしょう。
話を戻しますが、情報技術の発達は、「プロセスの前提化」といえる現象を促進しているのではないか、と書いていて思いつきました。
この現象は、技術の最先端や高度な利用状況においてよりも、情報技術を単純に利用する、技術の仕組みに触れずにただアウトプットを享受する環境、つまり一般人の日常生活においてより顕著に観察されるはずです。


「評価が目的を生む」、この事態が意味するのは、目的の流動化です
それは例えば、一人の人間に対して、立つべきと思えるスタート地点が無数にあるようなもの。
そしてスタートを切り、走っている間もずっと、自分が選ばなかった多くのスタート地点が視野に入り続けている。
スピードを緩めないために、頭が混乱しないために、目を瞑りたくなるのは自然なことです。
でも、目を瞑って全速力で走ることはまた、極めて不自然なことでもあります。

なんの話をしているのだと思われそうですが(僕も同感です)、人工化が、それ自体を自然と見做せるようになろうともある「不自然」を否応なく背負わせてくるものだとすれば、僕は、「不自然」に絡め取られて見失うのではなく、自ら「不自然」に光を当ててそれを直視しながら生きていきたいです。

きっとそうすることが、知性を信頼することだからです。

*1:googleでタイトルの検索一覧だけ見たんですが、どうやらコミック化されているようです。読んでいてかなりイメージしづらい作品だったので興味はあります。いずれまた巡り会えるでしょう。

トラックのダッシュボードにイリイチがある世界(1)

 
『街場の現代思想』(内田樹)を、学生の頃に好んで読み返していました。
こういう仕事がしたい、という明確な像を持っていなかったし、そもそも仕事に対する強い意志もなかった時期、大学院生の頃でした。

こんな極端なニュアンスではなかったと思いますが「思想は暇人が紡ぐものである」みたいなテーマの断章があり、その中で長く覚えているフレーズが「トラック運転手は現代思想なんて絶対読まない」というものです。
運転手の仕事と、その仕事を成立させるための日常生活、それはきっと、「かなり即物的な生活」と言えると思いますが、現代思想の営みはその真逆に位置するわけです。

現代思想形而上学の一種で、と言って僕は形而上学に詳しいわけではなく、せいぜい形而下でないあらゆる事象を扱う学問のことだろうと思うくらいで、まあこれでは何も分かりません。
もっと砕けた言い方をすれば、日常生活と何らかの関係はあるのだろうが直接的に関係することはまずありえない事柄のこと。
直接、これがほぼ即物的と同じ意味を指す。

そのフレーズは、読んだ時はまあそうだろうという程度の感想を抱き、しかしどこか引っかかるところがあり、時々思い出すことがあるごとに、「忘れていた」ではなく「覚えていた」という印象を持つくらいに、僕の中に留まり続けていました。
暇人が新しい思想を生み出すのなら自分が創造してやろう、という思いもありました。
それは今だってあまり変わらないというか同じ強度の興味を持ち続けていますが、その野心と呼べるようなものは、関心のエネルギーを一定度備給しつつも、先を見据える方向に変化が見られる。

その関心事に前向きな状態の自分は、腕をいっぱい伸ばして斜め上方を指差す、それは夜で、過去も今も肘の角度は等しく、指の先ではなく「指の先にあるもの」を見ているのも同じ(いや、その腕は自分ではなく、師のものである。)、けれど過去に見ていたのは一つの星、対して今は無数の星を含む夜空全体である。

 × × ×

唐突ですが、共通思考の話をします。

森博嗣講談社タイガという文庫で出している未来小説、W(ウォーカロン)シリーズに出てきます。
善悪の齟齬、思想の対立、国同士の戦争、人や集団が敵対し、多くの人間を巻き込み、傷つけ合い殺し合う、繁栄を目指す人類においてはそのような事件は問題であり失敗である。
共通思考は、そのような間違いを繰り返さないための、多様な異文化集団が平和にコミュニケートするためのデータベース、それは現代人がその呼称から想像するよりもずっと動的でフレキシブルなもの。
人工知能が国の政治決定に携わり、また各地で起こる事件をリアルタイムに把握して複数の未来情勢を重み付け計算できるほどに高度化した世界の、その人工知能たち(なのかな?)が構築を目指すのがその共通思考です。


人工知能がそれだけ発達して、人間は物事に対して深く考える必要がなくなった。

些事に煩わされなくなれば、もっと大切なこと、もっと本質的なことに関心を向け、エネルギーを割くことができる。
便利さの追求とは、もともとそういう発想が動機の、手段の一つだった。
それが、利便性追求の独り歩きになると、手段が目的になる。
「もっと大切なこと」「もっと本質的なこと」と、かつて呼んでいたもの、それらは姿を変えて見失う、あるいは明確な一つに統一されて目前に現れる、「便利さの追求」という姿で。

共通思考によって安定化された世界は、ユートピアであり、ディストピアでもある。
それは矛盾ではなくて二極化である、つまり本人の認識次第でどちらでもありうる。
なぜか、それは安定化が、正確には安定の定常化が、極端であり異常だからである。
極端を目指す意識の志向性、かつて身体が抑制し得たそれを科学技術が解き放った。

 × × ×

共通思考の話にどうしてなったのか、ここまで書いて少し見えてきました。

と言いながらまた話が変わりますが、『パンプキン・シザーズ』(岩永亮太郎)の20巻か21巻で、正義の話が出てきます。

 人の数だけ正義がある。
 人々に共有される意味を持つように思われるが、人はそれに寄り掛って、あるいは利用して、自分の正義を語ることができる。
 そして一つの正義は、別の正義と対立し、また批判することができる。
 定まった形がなく、それでいて永遠に対立を生み出し続けるもの。
 正義とは、人の制御の敵わない、魔物のような概念である。
 ただ、そのように生まれ続ける対立や批判は、蓄積することができる。
 知識や知恵は、そのような蓄積のことである。
 蓄積の営みを怠らず、整理分類すれば、新たな対立の解消に活かすことができる。
 情報技術の発展は、この「正義の効果的な蓄積」の可能性を高めることができる。

無線通信が一般化されていない世界が物語の舞台で、技術革新と正義の追求が一つの文脈で繋がる展開を読んだ時は、それまで「戦争もの」だと思って読んできたのが途中いろいろテーマが増えていくなと感じていたわだかまりが氷解したようで「へえ!」と思いました。

いや、そんな感想は今はいいんですが、この「正義の蓄積」は、上に書いた共通思考と同じ方向性の思想といえます。

 × × ×

共通思考、あるいは正義の蓄積、これは恐らく現実的には完成、完遂されるものではありません。
おそらく、確実に。
では無駄な営為なのか、といえばそうではない。
到達する見込みのない目標へ、分かっていながら突き進む。
広く捉えれば、そのように人間は生きています。
それを生きがいだとすら感じて。
プロセスが大事なのだ、という言い方もできます。
その通り。

共通思考を構築する努力、研究かもしれませんが、それはとてもやりがいのあることだろうと思います。
ただ、それを利用するだけ、享受するだけの人は、どうか。
自覚があればいい、選択ができるのだから、イヤなら使わなければいいという。
でも、もし本当に共通思考というシステムが完成したのならば、その機能は「人々の無自覚的従順」という形で発揮される。


それを推進し、導入を目指すのは、統治の思想です。
集団を制御できる個人の発想。
そして情報技術の高度化は、集団を制御できる可能性を、統治者から一般人に広げた

支配欲、なんてもの本当にあるのだろうか、とふと思います。
人間が人間を支配することに対する欲望。
もしかしてそれは、文明の産物かもしれない。
支配できる手段が、ツールがあるから、支配しようと思う。

環境が欲求を生み出すのは、ありふれた事象です。
三大欲求はさておき、生活における「やりたいこと」や、将来の夢などが、何も外部の影響を受けずに生じることはまずありません。


「必要は発明の母である」、これは技術水準や生活水準が低い、発明家(これは生活者とイコールでした)にとって幸福な時代の諺で、いつからか現代社会を端的に表すようになったのは「発明は必要の母である」、こちらの方です。

この逆関係の2つの諺、これらを比べて眺めていて、先の文脈からふと疑問に思うことがあります。
前者の「発明」、これはプロセスを指します。
「必要」は前提状態ですね、何か解決すべき問題がある、改善したい不都合がある、そういう初期状態に対して発明というプロセスが営まれる。
では、後者はどうなのでしょう。
「発明は必要の母である」、この中の「発明」は、前提でしょうか? また「必要」は、プロセスでしょうか?

何か、言葉の意味が、ひどくおかしくなっているような気がします。
あるいは僕の日本語がひどくおかしいのかもしれませんが……次回はこの割り切れない感覚を言葉にするところから続けたいと思います。

(続く)

 × × ×

街場の現代思想 (文春文庫)

街場の現代思想 (文春文庫)

Pumpkin Scissors(21) (KCデラックス)

Pumpkin Scissors(21) (KCデラックス)

 

エンパワーメントサラダとパウリング

昨日歯医者へ行って、虫歯の治療跡に金属の詰め物をしてきました。
予定では1週間で済むはずが、一度目は衛生士の型取りが失敗して(とはあちらは言いませんでしたが)歯と金属が合わず、けっきょく仮のゴムゴムした詰め物で昨日までの2週間を過ごしました。

仮物の間はガムや餅など、くっつくものを食べないようにと言われて、その通りにしたつもりだったんですが、朝食のミューズリーに入れているドライフルーツ(レーズンはまだしも、キューブ状のマンゴー系のものが強敵)がよくなかったらしく、仮詰めした翌朝に変形し、その次の日にはとれてしまいました。
とれたやつは鏡を見ながら入れ直しましたが、結局朝食メニューを考え直し、オートミールのベースを臨時でミューズリーからグラノーラに変えました。

グラノーラは味が付いていて、口に入れた最初から甘味が広がるので美味しいといえばそうなんですが、普段「ストイックミューズリー」と呼びたくなる代物(←ベースのアララミューズリーに生の押麦もち麦をトッピングしたもの)を執拗に噛み砕いて唾液分泌で味を出していた習慣からすると、味気ないというか、(素材が)軟弱だなあとつい思ってしまいました。
それが昨日に歯が元通りに、というか元通り以上になって(虫歯を治療した箇所はそもそもミューズリーの繊維が毎日のように詰まるほどの隙間があって、今回金属でそこを埋めてもらいました)、昨晩の食事もいつも以上に美味しかったんですが、今朝メニューを戻したミューズリーを食べて、心置きなく噛めるのはいいなあと改めて思いました。

ボルダリングもそうですが、食事なり運動なり、身体を使うという時にどこか不調があって、仮留めが外れないかとか悪化しないかとか気を遣いながら動かすのは、不完全燃焼というのか、常にわだかまりを感じているようなものです。
その不調が当たり前になるとか、慣れざるを得ないような場合は、そういう適合をするしかないし、適合した場合にそれがデフォルトになってわだかまりも解消されるのでしょうが、そうではなく不調の回復が見込める場合は、どうしても上向き(のはず)の将来のためにブレーキをかけてしまう。
考えようによってこれは、未来のために今現在の充実を犠牲にしているとも言える。
計画とか予定とか、ありふれて人間らしい行為には、この一面がある程度は必ず含まれるもので、「脳と身体は真逆の志向性をもつ」と言われるのはこういうことかもしれません。


サラダの話になりませんね…しちゃいましょう。

その、仮留めの間の話で、今週半ばだったと思うんですが、夜に外食しようと思って、事前にネットで見つけていた近所の中華料理屋に行くと閉店になっていて、あれれどうしようと思いながら同じ道をそのまま進んでいると入ったことのないスーパーを見つけて(天六周辺は本当に多いですね、徒歩圏内で5,6店はあります)、入ってみたらサラダ菜がかつて見たことのない安さで売られていて(あの、袋を手に取った時の軽さでいつも購入をためらっていたんですが、ふつうなら100円以上はする一袋が30円台でした)、思わず籠に入れてしまい、周りを見渡せばサラダ素材がいくつか安かったので折角だし久しぶりにサラダを作ることにしました。
ヘルシオを使い始めて2年は経っていますが、そのオーブンで焼き野菜ができるようになってからサラダを作る頻度がぐんと落ちて、今週作ったサラダは、思い出せませんが1年近くぶりくらいだと思われます。

サラダ菜、サニーレタス、水菜、キャベツと買って、ドレッシングはないからオリーブオイル使って手作りするとして、味が足りなさそうだから上に肉を乗っけるかと思って、鶏皮が安かった(100g60円くらい)ので買って、あとはミューズリーのトッピングに使ってるナッツを砕いて入れるか、などとスーパーで算段を立てました。

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上がサラダ一日目、下が一日おいての二日目です。

何が書きたかったかというと、久しぶりに作ったからというわけでもないですが、サラダはどうも作ると分量が多くなってしまって、というのも刻んでザルに入れる時には少ないかなあと思ってちょこちょこ量を増やすことになって、でも洗って水を切って盛り付けるとアラ不思議、膨れ上がって体積が増えている。
まあ不思議でもなんでもありませんが、それを見越してのことだったか、サラダ用に巨大な器を岩手にいた時に古道具屋で買っていて、写真ではよく分からないかと思うんですが、うーん、草の量でいえば、キャベツ1/4玉で器が半分満たされるくらいです。ご飯もパンも、完全に「おかず化」しています。
それで器に入るもんだから調子に乗ってどんどん切って、なんだか量が恐ろしいことになって、一日目は食べる前からゲップが出てお腹も痛み始めたんですが、いざ食べ出すと、どんどん身体が熱くなっていって(途中でウィスキーの力を借りたせいもありますが)、後半は腹痛も止んで、満腹で箸が止まるようなこともなく食べ切れました。

何が書きたかったかというと(二度目)、二日目は慣れもあって、あと惣菜の唐揚げを足したりしてスムーズに食べられたんですが、身体が熱くなったというのは、もっと言えば興奮状態になって、サラダを食べてこんな身体状態になったのは初めて…いや、学生の頃サラダバイキングで似たような経験をした気もしますが、こう、「普段の姿勢じゃマズイな、ここはひとつ奮起するか」と身体の方が火事場の自覚というか勝手に危機感のようなものを覚えたようで、わりと最近のことだと思うんですがスーパーの惣菜エリアで唐揚げなどの肉をのっけたサラダが「パワーサラダ」なる名称で売られているのを目にするようになって、でもそのトッピング肉の「ちんまりさ」につい原価計算をしてため息をついていたんですが(だってそれだけで普通のサラダ100円増しですよ)、パワーサラダと言うからにはこれくらいじゃないとな、いや待てよ、これは食べて元気になるサラダというより「食べるために元気になるサラダ」だな、と思って、自分のサラダにタイトルのような名前をつけたのでした。


しかし思えば、養護施設などで、流動食でも栄養は摂れるけど素材の形を留めた料理を食べて元気になるという話は、もちろん食感が大いに影響しているんですが、料理の形態をきっかけとして鼓舞される食事者の姿勢が重要なのですね。

食事によってエネルギーを獲得するが、食事行為そのことでエネルギーは消費もされる。
睡眠もそうで、いや寝てもカロリー摂取はできませんが、消費と回復の両面を担う活動であるという意味で同じです。
そういう身体活動の複雑さを数値化することはできない、とは思いませんが(たとえばカロリーとは別の指標と思われる食感の効果については、唾液の分泌量が関係しているのでしょう)、数値化が単純化になるようではいけないなと思います。


そういえば、最近読み始めた本↓で、序論でユングとパウリの交友のことが書かれていて「へえ!」と思ったんですが(前に読んだ↓↓ハイゼンベルクの自伝にもパウリのことが書かれていて、骨の髄から理論屋の彼が近づくと実験装置が故障するという「パウリ効果*1」は相当有名なようで、このことはどちらの本にも書かれています)、心理学と物理学の協調とか、客観に意味が与える効果とか、すごく面白そうな話が書かれているようです。
パウリはかなり壮絶な人生を歩んだようですが、僕はパウリの生涯を通した姿勢こそが科学的な考え方だと思います。

シンクロニシティ

シンクロニシティ

cheechoff.hatenadiary.jp

*1:ハウリングに託つけて「パウリング」でどうでしょう。

しずか【静か】、連想と鍛造

 
 草の芽の伸びる音さえ聞き取れそうにあたりは静か。

 湖面が小波一つないほど静か。

 生気に満ちた音がすっかり掃き清められたように静か。

 冬眠中のリスのように静か。

 休日の病院が墓場のように静か。

 風鈴のかすかな音さえ騒がしすぎるほど静か。

 耳がなくなってしまったのかと勘違いするくらい静か。


 居るのか居ないのか分からぬくらいにいつも静かな男。

 海老が髭を動かすさえも聞こえそうなほど静かな店。

 真空地帯みたいに静かな路地。

 湯呑みに茶を注ぐ静かな音が茶の間に広がる。

 ひっそりとして人の出入りも稀なほど静かな暮らし。

 家の中を静かに夕暮れが満たす。

 影のように静かに歩く。

 雲ただ静かに屯する。

 呼吸しているとは信じられないほど静かにしている。


 ロビーが一瞬冷蔵庫と化し、そこにいる人たちを沈黙させる。

 霧が微かな音を立てる。

 新聞紙を細かく引き裂いて厚いカーペットの上にまいたほどの音。


(以上、小内一 編『てにをは連想表現辞典』p.482-483「しずか【静か】」の項から抜粋)

てにをは連想表現辞典

てにをは連想表現辞典

 × × ×

ブックアソシエータに関連して、連想について勉強したほうがいいかとふと思いついて、大阪市の図書館で「連想」のタイトルを含む蔵書を検索していくつか本を借りました。
上がその一つです。
さっき初めて開いてぱらぱらとページをめくってみました。

これは辞典で、索引語に対して、その語を含む文学表現(編者が20年かけて集めたとされる作家400名の各々1〜3作品中の文章表現)が列挙してあります。
考えればなるほどですが、索引語としては凝った表現よりは凡庸というか汎用性の高い表現の方が、それを含む文学表現が多く引用されています。
例えば上に引いた「静か」は、これと同じ意味(あるいは下位概念?)の「静謐」よりも、圧倒的に列挙数が多い。
そして、表現が多いほど、面白い。
この表現の雑多さ、多様さこそがその語(=索引語)からの連想の豊かさということで辞書のタイトルに「連想」とあるのだと思いますが、それだけではない。

「静か」という一語が、これだけ多くの「別の意味をもった言葉たち」とくっついて、違和感がない。
言い方を変えれば、「別の意味をもった言葉たち」のそれぞれが、それら各文章の中で「静か」の一語に収斂されている。
「〜のように静か」と書いてあり、それを読者が先頭からつらつらと文字を追って読み、「静か」までたどり着いた時、その手前までの「〜のように」の内容はすべて、「静か」の一部になっている。
そのようにして、「静か」はどんどん、内に含むニュアンスの多様さを広げていく。
言葉が、意味を獲得する。

「その主語は?」と気になるかもしれません、「その言葉を扱う主体は誰?」と。
出版書籍の本文データベースか、Googleブックスか…という話ではありません。
主語は僕です、そしてあなたです。


連想というのは、その活動が現れた時に、脳に特殊な躍動感をもたらすものですが(たとえば、思い出せそうでなかなか出てこなくてずっと気にかかってた昔の有名人の名前がある時ひょっと分かった時の感覚です)、これは比喩かもしれませんが、自分の頭の中に息づく言葉が新たな意味を獲得してその言葉とリンクしている言葉群ともどもが生気を吹き込まれ、活性化することでもある。

「鉄は熱いうちに打て」。
鍛造工程は金属を高温に熱し、冷める前に叩いて整形するとともに強度の獲得を目指します。
上で「躍動感」とか「活性化」と言ったのは、冷めた金属が再び熱を得るようなものです。
変化し得る状態になること、過渡期への遷移。

単純に強さを目指すなら、熱い間に鍛えるだけ鍛えて、冷やして終わりにすればいい。
でも僕らは、強くなるために生きているわけじゃない。
強くならなくちゃ乗り切れない、苦しい時期もある。
でも、強くなったばかりに、いちばんそばにいたい人の弱さが理解できなくなることもある。

弱さを獲得するために、もう一度自分の内に火を灯す。
弱くなるために、熱を得る。

そういうこともある。

 × × ×

p.s.
最初に引用した「静か」の表現の中で、村上春樹の作品からのものが2つあります。
その文体が好きで、ハルキ小説をたくさん読んでいる人には簡単な問題だと思います。

小川洋子のものも2つあるんですが、これは、言われてなるほどとは思っても、知らずに当てるのはちょっと難しいなと僕は感じます。

この差には僕は、作者の文章表現の特異度よりも、読者が作者の文体に親しむ程度の方が効いてくると思っています。

ラヴロフとシュレディンガ

 
 スーパーで同じアパートに住むご近所さんを見かける。

「あ、セイちゃんだ。わっほーい。買い物かのー?」
 サキさんがこちらに気付いて、手を大袈裟なほどに振ってくれる。彼女は多動症かと思うほど元気一杯で、ふわりとしたスカートがいつも空気を巻き込んでひらひらと踊っている。一方のアキさんは、こちらもいつも通りデニムジーンズとTシャツという簡素な格好で、脇目も振らず一心に売り場の棚を睨んでいる。眉間に寄ったシワは永久に定着しそうな力強さだ。彼女の華奢な腕はフラットな胸の前で頑丈に組まれていて、白い肌には血管が浮き出ている。あのまま殴られると痛そうだ、と思うと体が震えてくる。サキさんには全く堪えていないようだけど。
「そうなんです。アキさんサキさん、お悩み中ですか」
「うーんとね、ご飯何にしようかなって」
「あーわかります。眼の前に食材がたくさんあると迷いますよね。来る前にメニュー決めてきても、いざ野菜売り場に立つと特売に目が行っちゃって…あれ?」
 私は野菜コーナーから歩いてきたのだけれど、気付けば二人が立っているのは調味料売り場だ。
「うーん、今週は何味のそうめんでいくか。この前は塩だったし、ここらでちょっと趣向を変えて、食卓に彩りを添えるには…」
「カレー粉にしようよ、アキ! 瓶になんかたくさんカタカナ書いてあるし、これ使えばきっと複雑でビュウテッホーな味になるよ! サッとひとふり魔法の粉!! これで料理ダメっ子も失敗知らずだわさ」
「なんだとー! こらサキ、自分が料理できるからって調子に乗んなよ!」

 そうめんカレーかぁ。いや、カレーそうめんなのか。どちらでもいいけど。というか、そうめんは固定? おかずがあるかが心配だなぁ。というかこの二人の「料理できる」基準ってなんなのだろう。「ごちそうするからウチ来なよ!」なんて突然言われた時に、驚かない心の準備をしておかなくちゃ。あ、でも、だから二人とも細くてスタイルいいのかなぁ。お呼ばれしたらダイエットの秘訣なんか分かっちゃったりして。サキさんなんて「そんなの、そうめん効果に決まってるわさ! ツルッと食べればお肌つるつる! 体のラインは唇に吸い込まれる細麺のシナりのごとし!!」とか演説始めて、やっぱそうなんだー! って。いや、いやいや。そんな馬鹿な…いや、馬鹿なのは私か。うーん、なんか馬鹿にしてるなぁ。サキさんごめんなさい。

「あー、セイちゃん何こそこそ笑ってるのぉ。怪しいなぁ。また変な妄想して一人で楽しんでるんでしょう? ちょっと、サキ姉さんにこっそり教えなさいよ。アキには秘密で!」
「え、いや別になにも、…っぎゃー!!」
 不意打ちで腰を両側から掴まれて、つい叫んでしまう。
「あーあー、あんたはもうっ!」
 げしこっ。きゅう。
 アキさんの血管ウキウキ握りこぶしが、サキさんの頭の分け目を狙い澄まして炸裂する。女子の髪ってけっこうクッションになるから、痛いんだよなぁ、これ。殴られる方も、殴る方も。しかし本当、この二人はいつ見てもコントだな。アキさんって男性的だから、二人で恋人同士に見えないこともないけれど、実際近くにいるとどうしても、カップルというよりはコンビなんだよな。羨ましいなぁ…いや、そうでもないか。いやいや、どうだろう。実は案外、なんて。うふふ。

 × × ×

ふら・ふろ (3) (まんがタイムKRコミックス)

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香辛寮の人々 2-1 「脳の中の博物館」

 
 時が離散的に流れている。自分の周りを現れては消える事物が、移動ではなく、点滅しているようだ。日の光が、雨の細やかな粒が、チャンネルを切り替えるように明滅する。昼と夜の違いが、左右の違いでしかない。左右とはつまり、決まりごとのことだ。一方でなければ他方であるという、それらの対の名。
 抽象の思考が、抽象への志向へ進化しているのかもしれない。有機体の抽象志向、それは無機への還元と相似するだろうか。思考機械がある種の複雑化を極めると有機体へ近接するが、これも右と左の違いに過ぎないということか。左は右を目指し、右は左へ向かう。そうして何かが起きたようにも見えるし、何も起きていないようにも見える。

 二次元世界に生きるスクエア氏には、螺旋運動は回転運動として認識される。二次元世界をその外から眺めるスフィア嬢は、スクエア氏の動作や視点、思考も含めたあらゆる平板さを目下に、あたかも神のような心地に陥る。スクエア氏の視線の先を追うスフィア嬢の存在をスクエア氏は全く感知できない、全能感に満たされたスフィア嬢はそれを事実として疑わない。しかし二次元世界に神がいるなら、それは事実ではない。しかしスフィア嬢の神性は否定されない、神は時に間違いを犯すからだ。


「博物館というものに興味はあるかい?」
「えらく漠然とした聞き方だな。僕にとって興味のあるものがそこに展示されていれば、もちろんその博物館に興味があるといって間違いではない」
「いや、漠然としたまま考えてほしいんだが。つまり、何らかの方針に従って収集したものの展示を見ること、あるいは収集や展示をすることに対する興味なんだけど」
「ふむ。博物行為に対する関心、ということかな。考えてみると面白そうだね」

「博物館をやる側からすれば、一般的には訪れる者の興味をかきたてる構成を考えるだろう。来訪者がなければ、それは私的なディスプレイ趣味に過ぎない」
「そうだね。公共施設なら、運営方針もきちんとしたものになるだろうし、個人的な趣味から始まった収集が私設の博物館に発展するのだとしても、それは自分の情熱とか、展示テーマの知られざる奥深さなんかをアピールしたいと思うからだろうしね」
「ところが、誰も来るあてのない博物館の館長というのがいるんだ」
「どこに?」
「それは今はいいんだ。とにかくそういう孤独な館長の存在を僕は知っている」
「ああ、なるほど。自分の住処でぬくぬくとしながら警備員だと名乗る話と同じだろう」
「…そうだね、確かに、客観的にはその認識が成立するといえる」
「やけに素直だな、なにか悪いものでも食べたか。それで、君がその館長なのかな?」
「いや、そうではないんだが、僕の知るその館長に、僕は共感を持ちつつあるんだ」
「うーん、どうも話がわからないな。その孤立した博物館とは、一体どういうものなんだい?」

「そこには館長個人にまつわる品々が展示されている。個人的に意味のあるものも、意味のないものもある。もっと広く、一般性に照らして有用なものもあれば、全くゴミ同然のものもある。目にするだけで気分が悪くなり、真っ先に焼却炉に放り込んで炭化させたい衝動に駆られるものだってある。とにかくそれらは選り好みされることなく、あるリストに従って遺漏なく、システマチックに収集される。
 それらは日に連れて数を増やしていく。彼はその一つひとつを手に取り、ほこりを払い、から拭きをして、然るべき位置に並べる。スペースの心配は彼の関心を微塵も刺激しない。館内にいると奥が霞んで見え、あたかも博物館の壁が水平線に吸収されたかのように視線を遮るものがなく、白いシーツが被せられて上には何も乗っていない展示台は、墓碑銘の彫刻を行儀よく待ち続ける墓石のように、リノリウムの床に溶け込んで規則正しく整列している。
 展示された品々はもちろん同じ形を保ち続ける。時の経過に対してなんの反応もない。彼自身は年を取り、体は老いていき、また関心や思考の内容という意味での彼の精神も日々変化する。展示品たちはそんな彼自身の変化に頓着せず、薄暗い空間で日々ほこりをうっすらと被り続けるだけだ」

「それで、君は彼のどこに共感するというんだ?」
「彼にはどこか、時間を超越したところがあるんだ。僕らの寿命のスケールを遥かに超えた、途方もないものを見ているというか、それに取り込まれているというか。自分の博物行為になにか意味を求めているのではなく、自分が館長であることによってその途方もないものと繋がろうとしているように思える。意味を超えたものと繋がるためには、自分も意味を超えなくちゃいけないんだ」
「ふうむ。君はあれか、その謎めいた途方もなさに憧れていると言いたいのか?」
「そうかもしれない。いや、わからない。これはわかるような話じゃないんだ」

「おいおい、そんな話を僕にしていたのかい。いつものことだが、今日は特に横暴が過ぎるぜ」
「ごめん。どうも感覚が漠然とし過ぎていたから、とにかく言葉にしてみないといけないと思ったんだ」
「冗談だよ。もちろん、どんな話でも君がしたければいつでもすればいい。語りえないことは沈黙すべきではない。なにかが語りえないのならば、それを語りえない状況について、位相を繰り上げて語るべきだからね」
「その通りだ、僕もそう思うよ。言葉は本源的に有為であり、無為な言葉は存在しない。言葉を無為にするのはいつでも語り手か聞き手の怠慢だ」
「まあそうはいっても、実際には限度があるけれどな。で、わからないなりに喋ってみて、何かわかったかい?」

「うーん、えっとね、時間の流れ方について考えればいいのかな、って今思った」
「ほう。まず孤独な博物館の時間は止まっている、と考えるんだな」
「いや、多分そうじゃない。時間は相対的に流れる。博物館の時間は、外界とは異なる流れ方をしているだけなんだ」
「それは表現の問題に思えるけれど」
「そして、異なる時間の流れ方をする空間にまたがって存在する者は、複線的な時の経過を経験する」
「…どういうことだ?」
「そうか、それが物語の効果なんだ」
「ちょっと待て、一人で会話するなよ」

「では博物館とは一体何か。自分に関係するものが展示されているというのは…。それが自分の物語、自分が触れた物語だというなら、形を変えないのはなぜか。物語の進展に従って当然それは変化する。それが変化しないと言うのは…変化を待っている、待機状態のものが展示されている? いや、展示する意味が分からない。観客は自分自身で、自分に対して変化したいというアピールのためか。もしそうなら、変化したものは展示台から消滅する。消えてくれることを願うものたちを体よく並べるというのも妙だ。ひょっとして博物館というのは……」
「…まあ、なにかわかったのならいいけれども。少しは脈絡不明の迷走話に真面目に付き合うこっちの身にもなってほしいものだな。ぶつぶつ」

 ひょっとして博物館とは、思考の場に与えられた名の一つであるのかもしれない。自分だけの、他から隔絶された、静謐な空間。しかし、思考の俎上に置く対象は、その空間の外部のものだ。思考対象が行き来することで、その空気は純粋さを失う、不純物が混ざる。圧力の異なる空間が触れあえば、各々の気体は混合される、この比喩は物理現象以上にシビアだろう。
 管理人は精神のエントロピィに反抗すべく奮闘する。博物館に持ち込んだ展示物、すなわち思考対象の鮮度を維持しながら、思考空間である館内の静けさと落ち着きを保つ。日の目を見ない館長の業務は、まさに「雪かき仕事」だ。頭の中の小人の、誰にも知られず、頭の持ち主にさえ気付かれない、全く報われることのないシシュフォス的役務。
 ホムンクルスはいなかった。しかし我々の中に存在しないというだけで、その存在そのものを否定することはできない。白いカラスが世界中の陸地に存在しないことが証明されたその時、彼らは太平洋上を悠々と周遊しているかもしれないのだ。
 

電車の中で小説を読むと起こること

村上春樹の作品はいつも何かしらを読んでいます。
併読書がたくさんあって、それらの読むスピードはまちまちですが、その中でちまちま読むものの中にハルキ小説が混ざっている、という感じです。
一つ前が『1Q84』だったか(完読できませんでした)、その後になにか読んだかちょっと忘れてしまいましたが、今は『ノルウェイの森』を読んでいます。
実は再読ではなく、初読です。
いまさらですが。

村上春樹に限らないのですが、ある小説を読んでいる間は、その世界観が日常生活に染み込んできます。
電車の行き帰りで少しずつ読んでいたりするとなおさら、です。
単に文章やそれから自分で描いたイメージの記憶が鮮明に残っているから、なにかの機会にとか、なんの理由もなくふとある場面を思い出すとか、いうこともあります。
でも僕が、小説世界が「日常生活に染み込む」と言う時、それはもう少し「濃度の高い」影響があります。

本を読む時、頭の中には常に音楽が流れています(それを脳内BGMと呼んだり、過去にSIM=Synaptic Imaginative Musicなどと命名したもともあります。現実に音楽を聴きながら読むのと、音波に頼らず頭で仮想的に再生するのとでは、その影響が全く違ってくるとと経験的に確信していて、ぜひそのあたりを掘り下げてみたいのですが話が長くなるので別の機会にします)。
物語以外では、だいたいジャンルごとに流す曲の傾向が決まっていて、ある特定の本だけの曲、という割り振り方はしません。
小説だと、いや小説も本単位ではないのですが、ほとんど作家ごとに特定の曲を決めています。
(小さな例外はいくつもありそうですが、大きな例外は森博嗣で、シリーズがいくつもありそれぞれ雰囲気が違うので、シリーズごとに相性の良い曲を流すことにしています。覚えているだけでも6、7曲はあります)

村上春樹の小説もほぼ1つの曲に決まっているのですが(この曲になった経緯について、2012年に書いた文章がありました)、長いあいだハルキ小説を読み続ける間にずっとこの曲を頭で流し続けたおかげで、僕にとってはということですが、音楽の方が小説の記憶を獲得した、というような塩梅になりました。

だから例えば、小説を読んでいない時、ふつうに街中をぶらぶら歩いている時に、頭の中でこの曲を再生すると、ハルキ小説の「感覚」が自分の中に流れ込んでくるわけです。
その「感覚」は、今読中のハルキ小説があるのならその小説の具体的なイメージだったりしますが、そうでない時は、もっと漠然としたそれこそ「感覚」と呼んでふさわしいものが、歩いている僕のまわりを淡く包み込みます。
まるで自分がハルキ小説の主人公で、初めて上四(「上京」っていいますよね)していかにもよそよそしい高松(『海辺のカフカ』)や、月が2つあり些細な違和感がすべて凶兆として現れる平行世界の1984年東京(『1Q84』)を歩いているような。

そのようなことで、環状線や地下鉄堺筋線-中央線に乗りながら『ノルウェイの森』を読んでいる僕は、終電近くで酔客が大声を上げ、ひきつり笑いが響き渡る地下鉄ホームを歩いていて、「一度足を踏み入れたらどう足掻いても抜け出せない泥沼のような1969年*1」にいるような気分になってくる。

これも大概なんですが、もっとひどいというか影響がありすぎると思ってやめたのがあって、『ノルウェイの森』の前に通勤時に読んでいた小説があって、それがジョージ・オーウェルの『一九八四年』で、読んでしばらくするまで気づかなかったんですが、これが並々ならぬ暗鬱なディストピア小説で、これを読む時の脳内BGMが『harmony/』(伊藤計劃)と同じという輻輳効果も不幸を奏して、地下鉄の駅内を歩く自分の顔つきがたぶんひきつっていたことだろうと思うんですが、通行人と肩がぶつかった時の自分の態度の悪さに愕然として初めて今ここに書いてきたことに気付いて「これはやばいな」と思ったのでした。

ハルキ小説はそこまでの影響はなくて、ただ哀愁というのか、それも乾いた、ある種の哀しさが通奏低音としてあって、ただそれが憐憫に浸るというのでなく、混乱を含みつつもそれをも見据える「無色の自覚」が伴っているところが、今の自分には読みやすいところだなと感じています。
(「無色」で思い出したけれど、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を持っていますがまだ読んでいませんね。ノルウェイを読了したら次に読もうかな)

というわけで、そんな一節を最後に引用しておきます。
永沢さんという人は救いようのない人で、そんな救いようのない人に救われる「僕」は、やはり哀しさを覚えずにはいられない。

「冗談じゃないですよ」と僕は唖然として言った。
「冗談だよ」と永沢さんは言った。「ま、幸せになれよ。いろいろとありそうだけれど、お前も相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。ひとつ忠告していいかな、俺から」
「いいですよ」
「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
「覚えておきましょう」と僕は言った。そして我々は握手をして別れた。彼は新しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていった。

村上春樹ノルウェイの森(下)』*2

*1:これは引用ではないです。泥沼、ぬかるみ、といった言葉が出てきたことだけ覚えています。

*2:単行本は1987年刊

引っ越し後処理完了、ロフトとコーヒー、教訓と繰り返す失敗

引っ越しに伴う移行状態が、今日でひとまず収束しました。
旧居の退去立会いは荷物を引き上げてから間があいて、新居の廊下に積んでいた段ボールは少しずつ数を減らしながらも今日まで残っていました。

廊下は狭いので、段ボールがある間はトイレも洗面所もドアが半開きにも至らず、体を滑り込ませて入っていました。
料理する時に鍋が要る、水切り(スピナー)が要る、と必要に迫られるたびに段ボールを一つ開封し、これを機にと食後に開いた箱を空にする。
そうしたその場しのぎの積み重ねで、今夜ようやく引っ越し荷物をすべて収納することができました。

部屋の大きさが半分以下になり、もともと退蔵していたものは処分しましたが、家電や家具を含めて生活品はほとんど残したまま、なんとか新居内に配置できました。
余分はスペースが皆無ですが(客人は呼べて一人だろうと思います)、旧居よりは身の丈に合っているなと感じています。
ロフトがあって、収納が衣服吊りのついたクロゼットしかないので本来は荷物置き用なのでしょうが、ベッドを置くであろうスペースはまるまる一人用ソファとスツールが専有しているので、ロフトの奥に普段遣いでない荷物を置いて(その上に布をかけて)、手前に布団を敷いて寝ています(そのさらに手前、梯子を上った眼の前には文机と座布団があります。天井が屋根に沿って斜めで、壁に体を寄せても正座すると頭が天井に触れる、ギリギリの高さです)。
悪い夢かなにかを見て布団から跳ね起きたら、確実に頭を打ちます。
幸い、起床時に目を開ける前に体を起こした経験は(たぶん)ありません。

新居に住み始めて1週間前後経った頃、寝付きの悪い日が数日続いて、いつもなら気を失うように入眠する壁登りの日もあまり眠れず、「ロフトで寝るのは隠れ家みたいで面白いと思っていたが、天井が低いと圧迫感があるのかな」と不安になりました。
あるいは新生活にまだ慣れていないからか、でも引っ越し直後はふつうに寝られたはずだが、などと頭を悩ませていましたが、なにかのきっかけで(理由は忘れました)解決したようでした。
というのも、そのつい数日前に買った(初めて選んだ銘柄の)コーヒー(粉)の酸味がすごく強くて、一口飲んで「これは身体に悪いわ」と確信するような味がしました。
それでも800gの袋で買って、一杯だけ飲んであとは捨ててしまうのは勿体無いという貧乏性がはたらいて、何度か飲むうちに慣れるだろうと我慢して飲んでいました。
「コーヒーのせいかも」とどこかで気付いて、とりあえず別のコーヒーに代えてみたら、寝付きの悪さは改善されました。
この経験から、コーヒーが睡眠に影響を与えるのは、一日に飲む量とか飲む時間というより、飲むコーヒーの質なんじゃないかと思いました。
いや、大学生の頃からこのかた10年以上さんざっぱら飲んできて今さらか、という感じしますが、そういう「身の染みなさ」が問題なような気もするし、経験やそこから得た教訓などのまとまり(の全部なのか一部なのか)を忘れているだけのような気もします。
そして、どうしたことか、後者はとくに問題でもないのではないか、とすら思います。


たとえば、有名人の金言集だとか、偉人の格言集だとか、ああいうきちっとまとめられていながら一つひとつに納得させられてしまうようなものは、読めばなるほどと思いますが、あまり身に染みない。
数ある中で心に刺さる一節があるとすれば、自分が過去(とくに近い過去)に経験したことを言い当てている一つでしょう。

教訓には人を動かす力があって、合理的な根拠がなくとも、他人に同意されなくとも、時に頑なに守り通させる偉大さを発揮する。
そのような教訓に衝き動かされる人は、その教訓の生成過程に携わった経験があるのだと思います。
その教訓、一般に還元できるような抽象命題が導かれるような失敗(あるいは成功)を経験したのだと。
その経験こそが根拠で、だからこそ非合理な確信を帯びることになり、だからこそ(この先が言いたかったことなんですが)、その経験が色褪せると、後ろ盾を失った教訓の効力も衰える。

過去の失敗、その事実を忘れたわけではない。
ただ、事実が人ごとの過去として埋没している。
これが、「忘れたわけではないが色褪せた経験」。

だから、その再活性化を行うにあたって、失敗を繰り返すという手続きをとることになる。


同じ失敗は繰り返したくはないが、
ある失敗が過去の類似の経験と同じかどうかは、
その失敗の内容そのものにあるのではない。
たとえば、過去と同じような反省しかできなければ、
それによって「同じ失敗の繰り返し」の認定となる。

あるいは、
「同じ失敗は繰り返したくない」
という普遍的に(例外のないように)見える反省に頼る姿勢そのものが、
「同じ失敗」なのかもしれない。

身辺雑記のはずが面倒な話

ずいぶん間があきました。

忙しいのは理由の一つですが、「文章を書かずにはいられない」という状況が訪れなかった、ということもあります。
これはストレス、精神的な負荷があまりかかっていないと肯定的にとらえることもできます。
ただ、それだけでもありません。


頭がかなりとっちらかっていて、生活の変化や思考の変化、新しい発想など、言葉にすることで思考の流れができるような事柄、言葉以前の予感のようなものが錯綜しています。

このような機会をとらえるには落ち着いた精神が前提で、そのために落ち着いた環境が必要で、しかしまだ引っ越しが完全には済んでいないためか、腰を落ち着けるにまで至っていない。

未だ移行過程であることが一番の原因なのでしょう。


あとは、以前と同じことをするにも、環境が変わったためにすんなりと再開できないという感覚的な問題もある気がします。
環境変化に適応するための、厳密にいえば環境変化によらず習慣を維持するための、一時的な負荷をあえてかける必要がある

紙面上で(という言い方は古いですね)今まさにそれをやっている、のだと思います。

 × × ×

引越し時にネット契約業者を指定の会社に変えれば、工事費のサービスや切り替えによる違約金のキャッシュバックがあるという。
後者のキャッシュバックは、違約金がかからない場合(ちょうど引越し時に契約会社の定期更新月をむかえた場合など)にも受けることができる。

…という説明を賃貸業者から紹介されたサービス会社の担当者から受け、しかし後日同じサービス会社の別の担当者は「そんな説明をしていない」と言う。
言った言わないに関心はなくて、そう言うならそうだろうと二人目の担当者の話をそのまま進めたのですが、どうも電話で手続きをしているうちに話が見えてくる。

一人目は「うまくやれば(つまり違約金が発生しない場合でも「発生したテイで」話を進めれば)違約金分の商品券をゲットできる」というキャッシュバックサービスの仕組みの穴について、そういうニュアンスを全く込めずに「結果の可能性」のみをシンプルに提示したようだ。
そして二人目は、こちらが営業担当の当然の対応ではあるが、そういった可能性を否定した。


そういえば京都の家電量販店で洗濯機を購入した時も、クレジットカード機能つきの会員カード作成を勧められた際に「クレジットカードいらないなら、後日登録用紙が郵送されてきますけど無視したらいいです。そうすれば勝手に仮契約は消滅します。今店頭で手続きだけすれば値引きできておトクですから」みたいな説明を、こういう対応をいつも当たり前にやってますみたいな顔でされたことがあった。
その時は店員の押しが強くて、登録する気のないカードの申請書を書きました。
洗濯機が少し安く変えたメリットはありましたが、なにか心にわだかまりが残りました。


京都にいた時のそのわだかまり、精神的にいやな感じと同じ感覚を、今日電話でネット回線の手続きをしていて持ったようでした。
そして「お金は何のためにあるのか」という、何度も考えたことのあるテーマがふと頭に浮かびました。

 × × ×

表現を足せば「余剰のお金は何のためにあるか」です。

お金はあればあるだけ、消費生活のグレードを上げることができる。
上を見れば際限はないから、収入は多い方がいいし、余計な支出は少ないほうがいい。
…という「賢い消費者」の一般的(と僕が思っている)な発想を、僕はしません。

お金には必要な分量があって、その量は個人の生活が、身の丈の感覚が決めると思っている。
際限のない欲望(ここではその一種である「消費欲」が問題になっています)に限定を付せるのは、脳ではなく身体だからです。
そのようにして生活に必要なお金が(なんとなくであれ)はじき出されて、それ以上に持っている(あるいは稼いでいる)お金が、上で書いた「余剰のお金」が指すものです。


僕は「余剰のお金」は、お金のことに頭を悩ませる機会を減らすためにあると思っています

お金の心配、例えばそれは上で例に挙げたような、「得はするが心に違和を感じる(自分の倫理観に抵触する、あるいは合法的な不正に関わってしまう、といった感覚を催す)選択」をするかしないか、といったことです。
もっと日常的な例では、スーパーで日用品や食料を買う時に、沢山買えば(あるいは他の商品とセットにすれば)安くなる特売サービスを、利用するかしないか。
必要量を超えている、またはそれほど必要でないものも買うことになるから、利用しないでよいと思うが、利用しなければどこか損をした気になる、間違った選択をしたように思ってしまう。

つい安いから余計なものをいくつも買ってしまう。
消費生活においてあまりに日常的な出来事で、これに伴うマイナスの感情は、その頻度の高さによって簡単に擦り切れる(無害化される)ことになります。
でもこれは僕は、感度が鈍った結果だと考えます。
身の丈が要請する必要量が曖昧になった結果だ、と。

このことに良いも悪いもなくて、
個人がどういう思想に基づいて生活をしたいかによるのですが、
「感度を鈍らせたくない」という意志を持っている場合、賢い消費者でないことによる痛みをなくしたいと思った時に、「余剰のお金」が活きてきます。


お金はあればあるほどいい、のではない。
お金は必要最低限よりいくらか多めにあればよくて、その余剰分は必要最低限の「必要のものさし」を揺さぶられないためにある

「いやなことをしたくないがために余計に支払うお金」と、簡単にいえばこうなりますね。

社会のシステムが高度化して、自分の振る舞いが自分と関係のないところで自分の意に沿わない影響を及ぼすことも当たり前になって(たとえば日常生活の消費が回り回って軍事産業を潤すとか、捨てられる残飯でアフリカの子供が何人救えるだとか…後者は観点が違いますが)、でもそれはそれとして、自分が判断できる範囲内で自分の良心に従いたいと感じる。

自分の良心の、発揮によって想定される結果と実際に起こる結末の食い違いが、社会の複雑なシステムによって生じる。
別な言い方をすれば、ある状況に対して自分が望む結果を、自分の良心に反した行動を選択することでより効果的に実現できる、という選択肢が存在し得る
そしてそういう時、自分の良心に従った結果、自分が損をすることがある。

その損を、苦にせず引き受けるための余剰、余裕



…ややこしい記事になりましたが、「複雑な状況でシンプルに振る舞うためには複雑な思考を要する」という話かもしれません。