human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

子どもに「かまう」人の視線と秩序

「でも子供を可愛がるというのとは、ちょっと違うんです。なんと言えばいいんだろう? 子供にかまう、という方が近いかな」
 かまう?
「うちにも子供がいるんですが、犬伏はとにかくかまうんです。子供が好きなことはたしかなんだけど、可愛がるというのとはちょっと違うな。かまうんです」
(…)
 犬伏は炎天下、三キロの周回コースを黙々と走り続ける。二時間二十五分の自己ベストしか持たないときにも、自分はシドニーに行けると信じていた男。それが犬伏というランナーであり、人間である。(…)そしておそらくはクールなアティチュードの奥に隠されている手つかずの少年の心、長い夢を見続けることのできる力。ポイントの尖った神経。ある部分では、ある意味では、彼自身がまだ子供(infant)なのだ。だからこそ、ほかの子供たちをかまわずにはいられないのだ。

「2000年6月18日 広島」p.43-44(村上春樹『Sydney!』文藝春秋)太字は本文傍点部

誰かに言われたか、自分で言い始めたのか、最初がどうだったか覚えていませんが、僕は子どもに好かれるとよく言われます。
最初のうちは、「僕自身は子どもがあまり好きじゃないけどね」と半ば本気で返していたんですが、それがあまりよくない印象になるらしく、いつからか「そうかもしれない」と曖昧に答えるようになりました。

子どもがあまり好きではない、というか得意ではないのは本当です。
なぜかというと、実際にそういう状況に陥ったことはないはずですが(だから小説を読んだ影響でしょうか)、自分がその子どもの責任を負っている状況でその子どもが手に負えなくなること(特に衆人環視の場において)を恐れているからです。
だから、自分と血の繋がった子どもをもつことに対しては、少なくとも一つ、想像上の恐怖がある。
もちろん、そんな些細なことは、本当に子の親になってしまえば当事者的プラグマティズムで簡単に乗り越えられるだろう、という楽観も同時にあります。

その一方で、子どもを観察するのは好きなのです。
自分と一緒にいる子どもに対して、あるいは街中で(ある一定の時間、固定的に)視界に入る子どもに対して、自分の心に余裕があれば、その子どもをじっと見る。
注意力を以って集中して見るというよりは、こちらの頭を空っぽにして視界の中心にその子どもを置く、という感じ。
いや、正確にいえば、そうやって視界に置くことで、こちらの頭が空っぽになる。

たぶん、子どもからすれば、そのような視線を受け止めることで、嬉しくなるのだと思います。
「ボクが何をしても怒られない、しかも黙って見過ごすというのではなく、興味を持ってこちらに注目してくれる」
親は四六時中いっしょにいて、彼にかけられる言葉や視線の大半が、注意や制止といった躾になりがちになる。
彼の生活における日常的な経験、そしてそれに含まれる教育効果によって、彼は街で出会うほとんどの大人たちの視線も同じように感じるようになる。
そういった彼の身の回りの大人たちからは滅多にもらえない、純粋な興味を含んだ視線を受け止めれば、彼の気持ちは浮き立ってくる。

目を合わせているうちに、彼の心をすっぽり覆っていたリミッターが、少しずつ解けていく。
果たしてどちらが先なのか、子どもの頭も、次第に空っぽになってゆく。


犬伏選手についての、監督の人物評価、そしてハルキ氏のコメントにある「かまう」、「かまわずにはいられない」という表現に出会って、僕は自分もそういう人間かもしれない、と思いました。
「可愛がるというのとはちょっと違う」、これも当を得ている。
そういう人間が親に向いているかどうかはここでは問題ではありません(ハルキ氏のエッセイの中ではこの点、ポジティブに書かれています)。
僕は抜粋部を読んで自分のことを連想した時に、「かまう」とはどういうことだろうか、と興味が湧きました。
ハルキ氏の筆致は言い足りないわけではなく、言い過ぎでないと同時に、行間に込められた意味がある。
その意味を、言葉にしてみようと思ったのでした。
(言うまでもなく、行間とは「読んだもの勝ち」の代物なのです)

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子どもとは自然である、とは養老孟司氏によって膾炙するに至った名言です。

躾、つまり教育は、自然たる子どもを社会に適応させるために社会集団が採用したシステムです。
「自然」というのは性質の名であって、一般的には子どもが成長するにつれ、この性質は薄れていく。
しかしその程度差はケースバイケースであって、妙に大人びた子どももいれば、子供心を持ち続ける大人もいる。
ちなみに、消費社会が興隆を極めて増加の一途にあるのが前者ですが、幼児的な振る舞いで政治を混乱させその価値を地に貶める壮老年、あるいは一億総ガキ化と呼ばれるものが指す対象は後者ではありません。
日本社会の現状を表す「幼児的」というキーワードは、子どもの持つ「自然」という性質ではなく、躾による社会化を要する子どもの「自然と規範の混交物」を指している。
自然を制御するための規範が、自然の気まぐれによってコロコロ変わる、これは「螺旋」のプロセスの範疇か、それともコースアウトの兆候か。

閑話休題

自然とは、別の言い方をすれば無秩序、カオスです。
自然という性質が、いや自然そのものでもいいのですが、猛威を振るえば社会は壊滅する。
それに対する本質的な恐れが、社会における教育というシステムの駆動源です。
でも自然は、それが完璧に制御されると、死んでしまう。
秩序の実現は、カオスの一掃ではなく、カオスとの共存という針路に可能性をみる。
すなわち自然は、秩序のなかでときに、賦活されねばならない。

…たぶん、そういう視線があるのだと思います(超飛躍)。
学校や家庭に縛られた子どもが歓喜するような、同時に、平和な生活を守らんとする大人が恐怖(疑惑)を抱くような。

僕は、時にそういう目で人を(というか視界に入る全てを)見られる人間でありたいし、(今の自分がどうだという話は別にして)年を経ても変わらずにいたいと思います。
そのような人間がいるとすれば、彼は、秩序破壊者であると共に、秩序維持者でもあるのです。
彼がそのどちらであるかは、彼自身にとってあまり意味はなく、彼が決めるわけでもない。
螺旋を描く秩序のプロセスのみが決定者であり、彼はそれに粛々と従うのみです。

 × × ×

シドニー!

シドニー!