human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

人心に魚心あり/イルカイック・ヴォイス

一昨日(↓)のそれからですが、風邪は引きませんでした。
以前の感覚からすれば間違いなく引いていたはずなので、身体が丈夫になってきている証だと思います。

cheechoff.hatenadiary.jp

そして一昨日に「明日は一日部屋で静養せいよう」と思ったその昨日ですが、朝はぐったりしていたはずが昼前に手足が意外と平気に動くことに気付き、卵投入レトルトカレー(煮沸する時にパウチの封を開けて生卵を投入したもの。お湯の温度によっては半熟卵にもなるのでしょうが、煮沸と言っている時点でまず成功しません。実際したことがありません)をかき込んでからふれあいプラザへ「午後出勤」してきました。
(ちなみにバス2本乗り継いで行ったら30分で着きました…)

で、2時間半くらい泳いで、帰りは「うん、いける」と思ったので前日と同じく徒歩。

夕食前でエネルギー切れだったので途中ローソンで照り焼き串(鶏唐)を買って行動食としました(コンビニに入ったのが実は久しぶりで買い食いなんてもっと久しぶりで、学生時のチャリ旅を思い出しました。1日100km走る中で腹減ったと思えば道中のコンビニで肉をがっついたものです)。

そんな無理をしながら帰宅後にキッチンに立って晩飯を自炊できたのは根性ではなく習慣の力です。


という2日間の体の酷使があって、さすがに今日は部屋でゆっくりしていました。

 × × ×

しかし水の中の感覚とは不思議なものです。

まず、プールの外にいる時に水中の抵抗感を頭の中で再現することができません。
それに、自分が平泳ぎをどうやっているか(特に脚の動き)がよくわからず、言葉で説明できません。
今までしようとしたことがなかったのは事実ですが、水の中の感覚が地上にいる時とは遠いこともその原因のような気がします。

また、泳ぎながら落ち着いて呼吸できるようになってからは、「水は抵抗ではない」と(まだ時々ですが)感じられるようになってきました。
自分の平泳ぎは相当遅くて、隣のコースでウォーキングしている人とどっこいおむすび君(違う)なくらいで、後方のスイマーが近くにいる時なんかは速く泳ごうと頑張ったりするのですが、そういう力みがある時は水を抵抗と感じるようで、一方でどんなに遅くても力がうまく抜けている時は「流れに乗る」感覚があったりします。
泳ぐ速さに関係なく、たぶん「入力」(泳ぐのにどれだけ力を入れるか)に対する「出力」(あるスピードで身体が進んでいる状態)の比が大きければ、水をあまり抵抗と感じないのではないか。
つまり水中での体の各部の動きを全て前方への推進力に変換できれば気持ちよく泳げる。
…当たり前な話をしているようですが、息継ぎが死活問題だった昔の自分には生まれたことのない発想なのでした。

まあ泳ぎ方は改善の余地が大いにあるとしても、そこは一緒に泳いでいる人々を観察しながらじっくり研究していこうと思います(その方が面白いので)。


僕のプール通いにおける主要な関心は「水に親しむ」ことにあるわけですが、やり始めから水にだんだん慣れてくるにつれて、「違う環境に慣れる」というよりも「元の環境に戻る」という感覚の方が近いのではないかと考えるようになりました。
羊水の話でも、あるいは人類の祖先の話でもいいわけですが、泳ぐと身体が健康になっていくというのも、単純に体を鍛えるという文脈では捉え切れない、というか発想が貧困ですよね。
上の「水に親しむ」は、身体性の向上(賦活)の一環として進めたいと思っていて、しかし体を鍛えることは必ずしも身体性の向上には繋がりません(ムキムキのボディビルダがセンシティブだとはどうしても思えません)。

身体感覚を養いつつ、身体についての思考も活性化できるように、泳ぐことを習慣づけていきたいです。

 × × ×

「泳ぐこと」タグの記事はmia子氏のこの曲(↓)を聴きながら書いているのですが、リピート再生しているうちに、水ととても相性の良い曲に思えてきました。
歌詞のない歌の部分(スキャット?)がイルカみたいです。