「受動的に曲がる和歩」のこと
前回の続きを…と思っていたんですが、
興味深いことがあったのでこちらは延期です。
土曜日はルーティンながら週の中で一番動きのある日で、
一日中習慣通りな行動に対して脳内で何か閃く可能性が高いです。
書きたいなと思ったことが3つもあって、
うち1つが久しぶりに和歩の話なのでまずはこれからいきます。
でも中身が詰まってそうだから1つだけで終わるかな…
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まえおき
和歩に関してはここ数ヶ月は大きな閃きがなく、
いったんは完成形に達したかな、と「ゆくくる」に書きました。
この言葉も実感ではなく「山といえば川」みたいなもので(?)、
変化を呼び込む姿勢(←歩き方の話ですけどここは比喩的に使ってます)でいれば、
機が熟せば、もしくは縁があれば閃くようになっています。
(書き方が意思的でないのは、「機制」の話だからですね)
今回は、これまでの改変(改善か改悪かは謎です)とは異なる方向性の思い付きです。
というのも、ずっと「まっすぐ進む歩き方」を模索していたのですが、
今週半ば通勤時にふと「和歩で曲がる方法」も考えないといけないのではと気付きました。
前段(きっかけを呼び込んだ事後認識的な下準備)は甲野善紀氏のYoutubeの動画で、
たしか「ナンバ歩き」か何かのタイトルで、道場で氏がするする歩く動画を観たことでした。
半年以上も前の話で、今あらためて観るとこれから書こうとすることが変わる気がするので、
今日歩きながら感じたことを書き終えてから動画を見直して、その感想をまた書こうと思います。
ほんだい
歩き方を考えるとき、ふつうは「まっすぐどう歩くか」を考えます(僕はそうでした)。
まっすぐの歩き方をこれと決めれば、曲がる時はその歩き方で曲がればいい。
と書いて違和感がないほど、「曲がり方」には意識が向かないものです。
ただ今回僕が歩きながら「曲がり方」の検討を思いついたのは…
ではなくて、実際の順序通りに言えば、まずふと「ある曲がり方」をやってみたのが先で、
「あれ、何か面白い」と思い、この自分の動きから連想したのが、
甲野氏の動画を観た時の「(ナンバ歩きで)曲がる時の不思議な推進力」だったのでした。
「西洋歩き」とは、踏み出す足と反対側の腕を前に振る歩き方ですが、
この歩き方は腰をひねることで、踏み出す足の方向と振る腕の方向を平行にして進むことができます。
つまり腰のひねりが歩き方の根本的な要素なのですが、
実は曲がる時にも腰のひねりを使います。
僕自身の感覚ですが、西洋歩きで道を曲がる時に「どの身体部分が最初に曲がる動作を始めるか」を想像すると、
大体は目で進む方向を確認するのが最初で、
頭が動いて(首が回って)上半身がつられてひねるか、または頭はそのまま上半身ごとひねります。
その、まっすぐ歩く時のひねりに加算されるひねりによって、下半身も曲がる方向を向くことになる。
…という風に「想像する」と書いたのは僕がもはや西洋歩きからは縁遠くなったからで、
ではなぜこの想像を書いたかというと、僕が和歩で曲がる時に、
西洋歩きで歩いていた頃の癖(型?)が残っていたのでは、と今回気付いたからでした。
ゆるいカーブを和歩で歩きながら滑らかに曲がる時の身体の使われ方を観察してみると、
進行方向に対して、下半身より先に上半身が正対していました。
(でもこれは実は微妙な話で、あくまで腰はひねらないことを意識して、
足首をうまくひねって曲がっているような気もするのです。
つまり着地した足のつま先の指す向きよりも、足首より上の身体全体が曲がる先を向く形です。
ただこの足首のひねりも「どうなのか?」という議論があって、これは以下に書きます)
上の話(どこだ…)に戻りますが、歩きながら甲野氏の動きを頭に再現してみると、
身体のどこもねじれてないように思えたのです。
そして動画を観た時に感じた「不思議」の所以を考えてみると、
身体のどの部分で曲がる動作が行われているかが分からなかったからではないか、とこれは今思っています。
そして僕が上で書いた、曲がってみてから考えた曲がり方から甲野氏を連想した理由が、
まさに「身体をひねらずに曲がる方法」だったからです。
やっと具体的な内容に入ります。
簡単にいえば「身体の向きを変えるより先に地面を斜めに蹴る」です。
「斜め」とは、全身が正対する向きのまっすぐに対する斜めのことです。
地面を斜めに蹴れば、次に着地する足は曲がる方向に振り出されます。
そのつま先を曲がる方向に向ければ、左右のつま先は逆ハの字に向きます。
あとは先に斜めに蹴った足を進行方向に揃えればいい。
この過程で、両足(のつま先)の方向は以下の3ステップを踏みます(←比喩的に。しつこい?)。
(1)曲がる前の方向(=カーブの接線方向)に両足が揃う
(2)軸足は曲がる前の方向、振り出す足は進行方向(=曲がった後の方向)
(3)進行方向に両足が揃う
そしてこの3ステップの間、足首より上の全身は、連結部がひねることなく緩やかに回転します。
と、とりあえず今日自分が実験的に「曲がり歩いて」いた状態を想像しながら単純化して書いてみました。
(はたから見れば社交ダンスのステップを踏んで見えたことでしょう。当然誰もいない道でやりましたが)
単純化というのは、地面を蹴る足の「斜めに蹴る方法」について言及していないことを指していて、
実は僕はこの要素が重要だと考えていて、甲野氏のナンバ歩きの「不思議さ」もこの点にある気がしていますが、
言葉にできるほどまとまっていない以前に「まだ成功していない」のが正直なところです。
膝をバネに使えば推進力は出て、タイミングよくやれば「へえ!」と思える動きになるのですが、
バネ的な動きは「溜め」を要するもので、武道的な動きとは違うようなのですね。
いや、武道ではないんですが、まあ武道的ではあるような…
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力尽きました。
甲野氏の動画も、また次の機会に観直そうと思います。
もうちょっとヒントなしで実験をしてみたい気もするので。
そうだ、書き忘れてましたが、
この「ひねらずに曲がる実験」をやると足の疲労が濃くなって、
普段使わない部分を使ってるなあという感じがひしひしとあって、
さらには実験直後の(まっすぐ進む)和歩の推進力がアップしている気もして、
(もちろん実験前も実験中も実験後も「歩いている途中」の話です)
上で「方向性が前と違う閃き」と書いたことの実感はここにあって、
なんだか「和歩の型」が一皮むけそうな予感があります。
また発展があれば続報を書きます。
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もうひとつ書き忘れたことが。
この「ひねらない曲がり方」の思想的な意味について歩きながら考えていたんですが、
例えば「右に曲がる」という動きは以下の2つに分類することが可能です。
(1)「右に曲がろうとする」という能動型
(2)「まっすぐ(とか左)に進まない結果として右に曲がる」という受動型
で、視覚から(頭から、上半身から)曲がる先を向く曲がりを(1)と、
足が先に曲がってから全身がつられて曲がる曲がり方を(2)と考えることができます。
これが…
…何だったかな。
忘れちゃいました。
「受動性」はいつも僕の念頭にあるテーマの1つで、
(「受動性は能動性を包含する」の実例に遭遇すると「へえ」と思ったりします)
この話が何かと結びついた記憶があるんですが、
まあこれはまた思い出した時に。
抽象性の高い話なので、きっといろんなこととリンクして現れてくれることでしょう。