human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

必然の必然性について

必然についてよく考えていました。

いや、今も考えていますが、
つい最近そのことについて別の側面が見えたので、
ちょっとメモしておきます。

+*+*+*

必然が見えにくくなった、
あるいは確証が持てなくなったのは、
情報が手軽に大量に、かつ否応なく入ってくるから、
そしてそれにより選択肢が増えたように思われるからです。

必然は宛先構わずばらまかれる情報には含まれていません。
だから自分自身が必然を導くための独自の手続きを要します。
こうでしかありえなかった一歩を、自分の意志で踏み出すのです。
必然の神秘はこの、導くことで導かれるところにあります。

つまり、「必然を導く手続きに必然性はない」のです。

が、こうでしかありえない未来が自分の意志に関わらずあったとしたら?
運命という言葉はこういう状況を表す場合に用いられますが、
ふつう実際は、ここでいう運命も事後的な認識に過ぎません。
そうではなく、「必然が必然的に導かれる」としたら?

+*+*+*

未来の予測が全く立たないことの不安と、
未来の予測があまりにも確証的に立ってしまう恐怖は、
表裏の関係にあります。

この表裏の関係というのが…「コインを投げてどっちが出ても凶」みたいな連想を、
ついしてしまいましたがそうではなく、共通の原理をもっているということですね。

この表裏の、「表の不安」を解消すべく必然を導く努力をするわけですが、
その中で、ふと「裏の恐怖」を垣間見るという経験を最近したのでした。


一つ前の記事でしきりに恐れていましたが、
もしかしてその恐れとこのことが関係しているのかもしれません。

が、書かねば始まらぬと言いますか、
形にしなければ抑圧されるしかない思考のような気がするので、
不健全な健康よりは健全な不健康を選ぶ僕は書く気満々です。

少し言えば、私的な過去の経験(今度こそ誤解なき「女性遍歴」です)に対する解釈なのですが…
テーマ的には「きおくをことほぐ」タグに該当するんですが…
内容からして言祝げないでしょうねえ…

はあ、ホントこんなんばっかですね。
(あ、でも書きかけのが1つあって、それ「たんぬ」の話なんです。これは明るそうでしょう?)

既に途中まで書いています。
他に面白いことが起こらなければ、この次の記事になるでしょう。