human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

非消費者的に生きる(3−3)

3−2の続きです。

本に関する認識を変えてくれた話についての話でした。
さて、ハシモト氏なのですが…当初に何を書こうとしたのか、思い出せない。
また長くなりそうな話だったはずですが、忘れてしまったので今思い付いたすぐ終わりそうな話をします。

出版業、というか執筆業はもともと「一発当ててがっぽり儲ける」みたいな認識はなかった。一冊書くのに何年もかかり、取材費もバカにならず、そしていざ出版できてもそんなに売れない。時給換算なんかするととんでもない最低賃金なんて目じゃない…と書こうと思って、「最低賃金って言葉で合ってたかな」とググろうとして、「さいてい」と入力したら予測変換で最初に「最低賃金」って出てきて、最低だな、と思いました。いや目的は瞬時に達せられたんですが、やっぱりちょっとイヤな気になって、それから「これをイヤと思わなくなるのはイヤだな」と構造主義的思考をすぐ始めてしまうのは僕の癖なのですが、それは「暗黒の大学院時代」に精神的命脈を繫ぐために止むなく体得した習性であって「もう自分はそういう人間なのだ」と自分の中では諦観しています。それはさておき…予測変換というのは個人のブラウザ閲覧履歴を収集してその人の趣味に合った「オススメ」を表示するバナー広告と同じ種類の薄気味悪さを備えているはずで、原理を理解していても、その理性の活動時間を与えない瞬時の提示があるわけで、でも予測変換にしてもバナー広告にしても普通にネットを使う以上避けられようがなくて、とはいえそれらをイヤと感じるのがイヤだからといって「イヤなものをイヤと感じないようにする」のは自分の内のなにかしらの生理的反応を鈍麻させるのは脳化社会への適応といっても「生命力の減衰」に直結するのでそういう適応はしたくないです。関係ない話おわり)ことになる。ということを氏は体を張って経験していて、しかも「あんまり儲からないなら数をこなせばいい」と言ってとんでもない量の本を書いていた時期もある(バブル崩壊前後から世紀が変わるまで、だったと思います)。「儲かるような本を書く」という発想が氏にないのは、「本を書けば金を稼げる」という認識がないからです。そして本を書く人の中に「儲けるために自らその道に進んだ人」なんてのはいなくて、「本を書く以外のことができず、やむなく執筆業を生活の糧にする」のが本来の執筆家だ…といったことを何かに書いていたような…自信はあまりありません。が、執筆業が儲からないこと(と今はしておきます)と、それでも本が世の中に溢れていることは、「読書にお金をかけなければいけない」(要するに「新本を定価で買いなさい」)という強迫を和らげてくれるように思うのです。


まあハシモト氏の本ばかり読んでいると現実認識が世の中とどんどんズレていくのですが、もちろん「世の中はあまりマトモではない」という認識がそのズレを後押しするのだし、そこには「論理を身体で理解する」という推進力があるので、決して安定ではない(=変化がよく起こる、の意)ですが「まあ、なんとかなるだろう」と他人事のように落ち着けるところもあって、徹底的で強靭に構築された氏の論理の基盤にある身体性は村上春樹保坂和志の小説と相性が良い(と自信を持って言える根拠は、それらを難なく、というか気持ち良く併読している自分自身です)のですがそれはさておき、最後に森博嗣氏の話を少しします。


森氏も執筆に関しては多作で、しかしハシモト氏と対極なのは、純粋にビジネスとして書いている所にあります。小説だけでなく日々の日記(ブログが流行る前から、というかインターネットが普及する前からウェブ日記を公開していて、それをビジネスとしてやる先駆者でもありました)も「これは商品である」という認識を崩さずに書く姿勢はどこか狂人的です。氏の著作からは身体性がほとんど感じられず、脳化の権化(「ノウカのゴンゲ」です。並べて書くと面白い)、電脳世界の住人かと思えた時期もあったのですが、たぶん客観的思考(純粋な客観などない、と氏は言うでしょうが)というか現象を記述する言語力に優れているのと、身体を意に介さない集中力を有している(身体が極めて丈夫だからできる、のかもしれません)のでしょう。それはいいのですが…

あれ、ど忘れしました。
つい一昨日に思い付いたばっかりのはずですが。

まあいいか。次に進めということでしょう。


最後に、縁なので本筋と関係ないをします。
ハシモト氏と森氏は正反対の性質を持っている、と上で書きました。そんな氏らの本をどちらも面白く読めて、そして身に染みるように読めるのは、もちろんそれぞれに僕自身と相性の良い(別の)性質を備えているからです。それはそうなのですが、一人の作家が書く本を、その作家が書いているからという理由で、ジャンルに関係なく濫読するということをしていると、(恐らく最初にその人の本を手に取る理由だったであろう)自分との相性の良い性質に留まらず、その一人の作家の全体が僕の中に入り込んできます。たとえば上の両氏をそのように深く読んでいくと、この節の最初に書いた「正反対の(2つの)性質」も、自分の中にしかるべき根拠をもって入ってくることになります。それは最初「いいコト言ってるんだけど、どこか反発したくもなるなあ」といった認識を起こし、しかしその親和性と違和感の両方が付随する認識を繰り返しているうちに、論理よりも先に身体が納得します。

たぶん、いろんな本を読むだけでクリエイティブなことは起こっていて、その創造性は「世間的に新しい」とかではなく「ほかならぬ自分の中で未知が発生している」ということで、それは自分が解きほぐすしかないわけで、それを「無償の使命感」と呼んでよいかもしれません。