human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

身体基準の時間/大噴 - おおぶけ(湯治記3)

温泉皮膚炎はその実質的症状としてはほぼ消失しつつあります。

かゆみをおぼえる箇所はなくなり、発疹もとれて褐色の跡が残るのみです。
消えるまで一月をみていましたが、実際のところ1週間で済んだようです。
「首筋を撫でると爬虫類のようだ」という先々週末の表現は嘘ではなく、
それが今や人肌へと戻ったこともまた嘘ではありません。

湯治の経験が振り返れば遠い過去のように思えるのは、
時間感覚の基準が「変化」であるからのように思えます。

長い間、それは吹奏楽部でサックスを始めた中学時代を始点と考えると、
(スタンドなしのバリトンサックスは本当に「首がもげる」思いをしたものです)
積もり積もらせて首の不調と相成った15年以上の期間と、
温泉に浸かり続け身体が急激に変質した1週間と
その変質が通常状態として身体に馴染むまでの1週間強とを足した期間とが、
身体のある部位に及ぼした変化量という基準で釣り合うとすれば、
後者の時間の濃密さが相当なものであるということになります。

そして大事なことは、
温泉が身体を治療したのではなく、
身体が自己を治療する力を温泉が与えたという認識です。
もともと身体が持っている「活動への志向」(人はこれを抑圧してデスクワークに励みます)と、
不調を治したい、元気になりたいという思いが治療の主体です。

現代社会での生活は基本的に身体を抑圧して成り立っていることを、
それまでも頭では理解していましたが(内田樹氏や養老孟司氏の本に通底している認識です)、
この一連の「身体の変質」の経験を脳にしかと見せつけることで
(これはまさに今自分が本記事を書くことで実行しているわけですが)、
脳と身体の共通認識として維持していきたいと思います。

 × × ×

ちょうどよい機会なので初めて動画を投稿してみました。
動画そのものには何の面白みもありませんが…

この噴出地点にしばらく(10分くらい?)佇んでいたのですが、
そうなるはずはないのですが「これはいつ終わる(変わる)んだろう?」という思いが見ていた最初の頃に自分の中にあったことに、そこに居続けることで気付きました。
それに気付いた時点ではじめて、「"自然の恒常性"の都会的でない認識」に至ったように思います。

動画の説明に書いた「大噴(おおぶけ)」を遠くから撮った写真を最後に載せておきます。
(噴出地点のすぐそばの歩道は岩盤浴をされる方々が寝転んでいて撮れる雰囲気ではなかったので遠景です)
中央より少し左の蒸気が濃いところが噴出地点です。
そばで見ていて、晴れた日にはあたりを陰らせるほど噴き上がる蒸気が圧巻でした。
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