human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

非消費者的に生きる(4−1)

「無時間モデルの欲望」の話です。

広告溢れる消費社会では、なんやかやと散財を勧めてきます。
それが当たり前で、なんというか「この常識のもとにまっとうに生きる」と自然に消費者になるようになっています。
「モノを金で買うなら消費者だろう」という認識はほんの上っ面のことで、お金が回ることと社会が回ることがほぼイコールになっている現代で「モノを金で買わない」という選択肢は半農半猟とかやらない限り不可能です。
だからといって、世の中に消費するだけの人間しかいなければ「その消費されるものはどこから生まれるのだろう?」と当然思うわけで、すると「消費するためのモノを作る人」がいると分かり、しかしモノを作る人は(それが食べ物でなければ)モノを作るだけでは生きていけず、つまりモノを作る人は同時にお金でモノを買う消費者でもある(物々交換、というのもあります。原始時代だけでなく現代にもあります)。
ということは、消費者とは「そういう人間がいる」ではなく「(同じ一人の中で)そういう場合がある」という意味をもっていて、つまり役割や性質を指しているのです。
消費者という役割、あるいは「消費者性」といえるようなその人の性質。
この「消費者性」を深く考えていくと、モノを買うことと「消費者性」は、必ずしも結びついて離れないものではないと分かります。
(消費者についての考え方として、僕の念頭にはウチダ氏の思考があります。「消費する前後で主体が変化しない」「商品を買う前からその機能効果を完全に把握していて、購入後に予想通りの効果を挙げられることが理想」といった話なのですが、氏は教育者(元大学教授で、今は「凱風館」という寺子屋道場かの運営(というより「場の提供」でしょうか)をしているはずです)なので「教育を商品として扱い、生徒や学生やその親が消費者として振る舞うようになってどんどん教育が劣化している」というテーマで随分前から著作や講演で主張し続けていて、僕がその思考に最初に触れたのは『下流志向』だったかと思います。最近読んだ氏のブログ記事でこの話題に関連するリンクを貼っておきます。これは事ある毎に言いたいくらいですが、このような思考に無料で触れられる事実は「非消費者的な生き方」を考える、もしくは実践するうえで大きな希望であります)
ということは、日々の生活に必要なものはお金を払って手に入れながら、○○としては非消費者的に生きることは可能だということです。

○○には「思想」を入れたいですが、この言葉の通常のニュアンスよりももっと日常的な意味を込めたい。
「ポリシー」とか「スタンス」でもよいでしょう。
「哲学」でも、よいのでしょう。
けれど、理性的なものに留まらず、というよりむしろ「身体的な傾向や趨勢」としてそうありたいのです。
このシリーズの冒頭にとりあげたブルデューの本(『実践感覚(上)』)の序盤にも、あとはなだいなだ氏の本(たしか『神、この人間的なもの』です)にもありましたが、信仰は信念を基盤にはできません。
信念から信仰を持ち始めても、その最初(信念から信仰を始めたこと)を忘れない限り、信仰は身につかない。
理性とはルール(法則)のことであり、信仰はルールを超えたところにあるからです。
これと同じことです。
といって、「非消費者的な生き方信仰」をもつという話ではありません。
生き方というからには、それは思考以前の身体の在り方だということです。
健康な時と病気の時とで、思考はポジティブにもネガティブにもなる。
内容的に同じことを考えてもそのニュアンス(価値付け)が変わるのだから、身体は脳の前提なのです。
というより、脳は身体だから当然の話ですが。
ただもちろん、「脳か身体どちらかを選べ」という話でもありません。
身体だけを選べば動物だし(それはそれで主体にとっては幸福な事だと思いますが)、それでは文化もなにもありません。
脳が暴走しないように、また静かに着実に機能するように身体を維持する、あるいは身体性を賦活する。
脳と身体は逆の方向を目指すというか基本的に対立しているのですが、お互いが相手に良い示唆を与え合うような、時間がかかるにしてもお互いが相手が進みたい方向へ進むのを手助けするような、そんな(脳と身体の)関係性をつくりあげたい。
「非消費者的に生きる」という言葉には、そのような意味も込められているはずです。

ええと…本記事の最初に提示したテーマを無視してたなと今気付きました。
ということでやはり一回では終わらず、次は4−2ですね。