human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

妄想について

ある小説を読み終えて、とても悪い後味をひきずっている。
それは多分その小説に入り込めたからで、主人公に感情移入できたからで、
けどだからこそこの余韻が残ったまま生活に戻れない気がしている。
小説を一日で読んだのは久しぶりだけど、その選択で良かった気がします。

あまり浸りたくない余韻は言語化するに限ります。
逆に余韻を残したいとは、その残響を日常生活に響かせたいということ。
余韻とは意味以前のものなので、言語化すると消えてしまいます。
物事から教訓を引き出すべき時の、これが一例になるでしょう。


自分は妄想家だと自負していますが、地に足の着かない妄想は嫌いです。
それは想像と呼ぶべきものかもしれませんが、自分は妄想と呼びます。
別の話かもしれませんが、想像と妄想の違いは例えば次のようなものです。
文章内容を思い浮かべるのが想像、それを発端にどんどん外れていくのが妄想。

妄想は想像と同じように、きっかけとなるものが実生活の中にあります。
それは個人の脳内で培養育成され、どんどん実生活を離れていくこともあります。
けれど、そうして膨張した妄想は外界に晒されないわけではありません。
僕は、その時に、妄想が(再び)実生活と接点を持つべきだと思っています。

つまり、ある妄想と実生活のある要素がテーマとして関連を持っていた場合、
その妄想が実生活のその要素と触れた時に何かしら影響を受けるはずなのです。
この状況で全く影響を受けない妄想は、暴走して制御不能な状態にあると考える。
その妄想は明らかに、実生活において個人の感受性を制限しているからです。

例えば、フリーメーソンのような秘密結社の陰謀説があります。
決して人目に触れない水面下で人々は操られている、というような。
その説を肯定するような出来事はたしかに、日常にあるかもしれません。
けれど、それが事実無根である証拠も、探せばいくらでもでてきます。

というより、実生活の感覚から遊離しないとそれを肯定できないと思います。
そのような頭の人間が集まれば、その中には「実生活の感覚」はあるかもしれない。
いや、それは別に悪い事ではなく、むしろ当たり前ではないか。
インターネットがその「当たり前」を可能にできる技術なのは確かです。

話を戻しますと、五感を鈍らせるような妄想は正常ではないと書きました。
これはあまりしっくりこない話ですが、僕自身がそれを理想としたいだけのことです。
一般的には、妄想が膨らむほど周りが見えなくなると言います。
けれど僕は、周りを見ながらそれを妄想の糧としたいと言っているのです。

二律背反のような気もしますが、考えようによってはそうではない。
スポーツに打ち込んでいる時は、頭が空っぽになるのもよくある話です。
けれど、言葉を媒介してこそ身体の動きが緻密になることもあります。
この二つは矛盾ではなく、前者は共時的な、後者は経時的な状況を表しています。

恐らく僕は妄想についても、この後者のような状況を良いと考えています。
例えば、一人でいる時に妄想がいくら暴走しても、外にいればそれは外に適応する。
これを適応と言えば大袈裟で、外の影響を受けて歩み寄る、くらいでしょうか。
都市が脳の出力であるのなら、妄想が実生活と結びついて何ら不思議はありません。

唯脳論』の養老先生なら「それは当然です」と言ってくれると思います。