human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

常識について

常識があまり好きではない。
と思っていましたが、常識そのものはないと困る。
好きでないと言いながら自分も一応わきまえてはいる。
きっと、好きな常識と苦手な常識があるはずだ。

常識を分類しようとして、けれどそれは難しいと知る。
常識は常識として機能する限りどれも常識なのだ。
とお茶を濁したくなるのは、常識は分析を嫌うからかもしれない。
それでもう少し考えて、常識に対する人の接し方が問題かなと思いました。

常識とは暗黙の了解ともいえます。
あるいは所属集団という場への信頼ひいては忠誠ともいえます。
もちつもたれつの相互扶助を、長期的視点でそれとなくこなす。
この相互的な、互恵関係を円滑に築くのが常識の上位の機能と思えます。

相互性」に対する意識の有無、といってよいかもしれません。
私的利益追求のために常識を利用する態度は傍目から見て良くないと分かる。
ただ、それは個々の行為をしか説明できていないように思います。
どうもそれは言いたいことではないような気がします。

本当に常に私利私欲に走る人は、遠からず相互扶助の輪から弾かれます。
傍目に自分勝手に見えても、大体の人は別のところで帳尻を合わせることができる。
集団に属せている人は、理解できない域も含めて、何かしら集団に貢献している。
集団が維持されている限りで、集団内の常識は互恵関係の基盤となっている。

だから、僕が常識を「使う」人が苦手なのは事実としても、
そういう人の皆が苦手なわけではなく、というより個々の他人が問題なのではない。
とすると、僕が考えているのは「常識に対する人の接し方」とは違う。
属人的な性質でなければ、「集団における常識の機能の仕方」だろうか。

人の日常的な振る舞いに溜めというか、躊躇いがないことが気がかりなのだと思う。
ない、とは言い過ぎだけれど、躊躇うのが良くないこととされている。
それはもう当たり前で、相手の躊躇いに対して何を感じることもない。
きっと、公私問わず人の価値観の全域を、合理性が覆っているのだろう。

常識とは、意味を問われぬまま、状況の変化に応じて暗黙のうちに変質する。
言葉にされない、という意味で、もともとそれは論理を越えたところにあった。
それが、世の中が言葉(比喩でいえば「脳」)で覆われた時、突然変異を遂げる。
「合理的な常識」は、かつて存在したことのないものではないか。

それを気持ち悪いと思うのが正気だと、僕はまだ信じています。