human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

陸のない地球の話(序)

 
「陸のない地球の話をしよう」
「面白そうね。どんな話なのかしら?」
「僕らは海で生活をしている。海の中で、または海の上で。生活の具体的な描写は後々考えることにしよう」
「あら、私はそこが知りたいのだけれど。お父さんは船の上で釣りをして、今夜のおかずを仕留めるのね。『もうすぐ日が暮れちゃうわよ、まだ一匹も釣れてないじゃない』なんて言いながら、お母さんはゴロンと横になって本を読んでたりするの」
「のどかな家族だね。僕は親父の横でじっと水面を見つめる息子がいいな。いや、申し訳ないけれど、そういう現実に沿った話ではないんだ。科学的でないというのか、要するにファンタジーの一種だね」
「いいわよ。続きをどうぞ」

「陸がないってことは、宇宙から地球を眺めたら、青と白の2色の斑模様に見える。ふつう陸があると、海岸の形状やら山脈の高低があって、大気の循環はそういった地形のバリエーションによって生まれるらしいから、もしかしたら青一色かもしれない。海の深さが均一だと仮定すれば、海流も生まれないだろうし」
「なんか妙なところで具体的ね。SFの世界設定場面のようだわ」
「いや、これは余談だった。本筋じゃない。最初に地球と言ったからスケールが大きくなりすぎちゃったけど、考えてみたいのは、海にぽつんといる一人の人間についてなんだ」
「ふうん。じゃあ家族とか、生活とかはメインじゃないわけね。あなたの好きな、抽象的な話ってやつかしら」
「そうだ。現実にある海の性質をいくらか借りながら、想像してみたい内容のためにそこに非現実な性質を盛り込んで、そのような”海”にいる人間が何を感じるかを、考えてみたいんだ」
「あら、伊藤計劃の本にそんな感じのこと、書いてあったわよ。たしか、なんとかポーションって」
「エクストラポレーション、だね。SF的な命題を一つ立てて、そこから連鎖的にいくつかの命題を導いていく。SFがSFたりうるのは、そこで語られる物語が、その世界に不動のものとして擁立された命題と必然の関係にある場合だ、と彼は言っていた。つまり、現実にありふれた人間ドラマを未来世界で描いてもしょうがないということだね」
「でも、どんな世界でも恋愛とか友情のドラマがあって、それが私たち人間なのよ、ってことなんじゃない?」
「そう言って間違いではない。でもその価値観に従えば、SFの物語を、現実に軸足を固定したまま消費することになる。たとえば未来の車をパロディにした保険会社のCMを茶の間で眺めるようなもので、ただ通り過ぎていくだけ。彼が言いたいのは、ある命題を掲げたSFが、読者がその世界にのめり込むことで現実の価値観が揺さぶられるような、そういう骨太な物語をSFと呼びたいってことだと思う」
「それはわかったけど、なんか私、余計なこと言ったわね」
「いやいや、全然余計なことじゃないよ。だって…あ、話が逸れたってことね」
「そう」
「なんだっけな。ああ、海の話だった」

「まずね、人は海の中でも息ができるんだ」
「じゃあ溺れる心配はないのね」
「うん、でも顔を海から出した状態と、海中に潜っている状態は、同じではないんだ。疲れ具合も違う、安定感も違う、何より意識の状態が違う」
「あなたが問題にしたいのは、その意識の状態ってやつでしょ」
「その通り。ただひとっ飛びでそこまでは行けなくて、まずはいろいろ設定することがあるんだ。面倒だけど」
「そうねえ、面倒だわねえ」
「さっき横道に逸れた時に言った、SFの命題を導く過程にいると思えばいい。物語というよりは、その切れ端のような思考実験に過ぎないけれど」
「あなたも折れないわね。一度喋りだしたら止まらないんだから」
「君が嫌そうな顔してれば、すぐやめるつもりではあるんだけど」
「別に嫌じゃないわ。お店で落ち着いてコーヒーが飲めれば、それで私は幸せ」
「同感だね。願わくば、客の出入りが少ない、静かなカフェがいいけれど。あと、隠れ家みたいな雰囲気は好きだけど、窓から外が見えた方が開放感があっていいよね」
「文句が多いわね、同感なんて言っておきながら。だいたいあなたがこの店にしようって言ったんじゃない」
「ごめんごめん、言葉の綾だ。この店にもコーヒーにも、そして君にも不足はない。でも不足がないことは満足とイコールではない」
「…あら、なんで突然そんなこと言うのかしら。そういえばこの前『ケンカできる仲っていいよね、一度してみたいな』とか言ってたわね。そういうこと?」
「えっと、どうして君が怒っているのか、いまいち理解が追いつかないんだけど…いや嘘だ。そうじゃなくて、うーんと、人は常に向上心を抱いてこそ、前向きに生きていけるってことさ。君に満足していないと言ったのは、君じゃない人がいいのではなくて、君と一緒にこれからも変わっていきたい、という意味だ」

「…ふーん。いいけど、あなたいつも、一言多いわよね。説明が長くて、その中の余計な一言に弁解しなくちゃならなくて、その弁解にまた言い訳がくっついて、って。つくづく忙しい人ね」
「女性はお喋りが好きだよね。僕には論理も目的もなくてすぐ発散するタンジェントのような会話に思えるんだけど、実際のところ、会話の内容ではなくて、会話そのものが目的なんだよね。お喋りしていて幸せだというなら、会話は純粋な手段ってことになるけど、僕もそれに倣ってるつもりなんだけどなあ」
「言ってるそばからこれだわ。あのねえ、喋ってればなんでもいい、なんてわけないでしょ。気遣いって言葉、知らないの? あれだけ論理が科学がどうこう言いながら、肝心なところでどうしてこんな大雑把なのかしら。あなたね、ザルよ、ザル。網目はものすごく細かいのに、いちばん底に大きな穴がぽっかり開いてるんだわ」
「それを言うなら、割れ鍋じゃないかな。割れ鍋になんとかって。ええと、ああ、君がそのなんとかの方なんだけど、つまり相性いいんだよ、僕ら」
「知らないわよ、もう」
「まあまあ、機嫌直して。コーヒーのおかわりと、そうだね、ケーキ食べようか」
「あ、私チーズケーキがいいわ」