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九条と自衛隊、思想のオーソドクシー、手続きのまっとうさ

『さようなら、ゴジラたち』の「戦後から遠く離れて」の章を読む。
憲法改正手続き法案が衆議院を通った頃の、憲法九条論。

『九条どうでしょう』(内田樹ほか)は前に読んだ。
加藤氏はこの本所収の内田樹の主張にほぼ賛成している。
(以下、いろいろ混ざった私的要約)

 現実と矛盾する九条をどうするか。
 矛盾、九条一項と、実質的に軍隊たる自衛隊の存在。
 ソリューションは三つ。
  一、憲法を改正して現実に合わせる。軍隊合憲、疾しさのない集団的自衛権の行使。
  二、現実を憲法に合わせる。自衛隊の縮小解体。
  三、現状維持。九条もそのまま、自衛隊もそのまま。
 最も正しい選択肢は三、現状維持である。
 
 平和憲法自衛隊は、戦勝国アメリカにとって矛盾のない解であった。
  一億玉砕の危険な国に、もう戦争をさせてはならない。
  一方で、アジア圏の秩序や対ソ連にとって衛星的な軍隊駐留地が必要である。
 アメリカの論理明快な政策を「矛盾」とみなしたのは敗戦国日本の側の事情である。
 
 「敵国に攻撃されるのはイヤだが、もう他国を侵略する過ちは繰り返したくない」
 九条と自衛隊の相補的な存在が、戦後の国民のまっとうな思いに応えてきた。
 戦後七〇年、自衛隊が外国で一人も殺さなかったのはその功績である。
 今すべきは「矛盾」に正当な位置を与えること。
 「矛盾」による役得の認識、とその経緯、たとえば軍事的属国の認識。
 アメリカからの押しつけ憲法というなら、国民投票で選び直しをする。改憲せずに。
 北朝鮮からの侵略に対しても、改憲がその解ではないことの認識。
 実際の軍事攻撃の「誰得」、東アジアのパワーバランス、日米安保条約

加藤氏は九条の本質は理念にあるという。
この点は「矛盾」そのものを本質とする内田樹の論と異なる、と氏はいう。
理念、世界平和という現実からかけ離れている理想。
高邁な理想は、空想であり現実とかけ離れているかもしれない。
それでも理想が大事なのは、それが意識され続けることで現実に影響を与える点にある
あるいは、理想そのものの偉大さや美しさよりも。


この理念の力に関して、吉本隆明の発言が紹介されている。
この中の「思想のオーソドクシー」というキーワードに、惹かれるものがあった。
 思想は一般人の考え方にくっついていくものであるべきである。
 追従という意味ではなく、庶民の考えとつねに火花を散らす位置にいること。
 人々の日常に寄り添い、影響を与え合って、形を変えていく思想。
 そのような思想が、まっとうさとリアリティを獲得していく。
自分がつねづね考えている「グラスルーツ」と、これは同じ基盤をもつ。

思想のオーソドクシーから、ふとハイゼンベルクの自伝の一節を思い浮かべた。
量子力学者の彼の対話的自伝は『部分と全体』という。
その中にあった「手続きのまっとうさ」という判断方法に関することである。
記憶を頼りに書いてみる。

 第二次大戦期のドイツで、ハイゼンベルクは研究のかたわら大学の教壇に立っている。
 ある時ナチス親衛隊に心酔する若者が研究室に彼を訪ねてくる。
 若者はナチスの理念、前大戦で屈辱を受けたドイツをいかに甦らせるかを滔々と語る。
 そしてハイゼンベルクがなぜナチスに賛同しないのかと彼を責める。
 彼は静かに答える。
  ナチスは正しいことを目指しているのかもしれない。
  彼らに従うことでドイツはよくなるかもしれない。そうならないかもしれない。
  そのどちらになるかは自分には分からない。
  しかし、暴力によって、反対者に対する粛清によってそれを目指す手続きは正しくない。
  自分は「まっとうでない手続き」が数多くの災厄を引き起した歴史に学ぶべきだと思う。
 若者は納得した顔を見せないが、彼は自室のピアノを弾き、彼らは和解して別れる。

主張の内容よりも、その主張のされ方を重視するという判断。
未曾有の混乱期、未来に何が起きるか誰にも分からない状況では、数少ない解となる。
けれどこの見識は、平常時でも変わらぬ効果を備えているはずである。

独裁者が大きな改革を断行するのではなく、成員の一人ひとりがその判断にたずさわる。
そのためには、個々人に理解が行き届くような長い議論も辞さない。
また、習慣の別名である現状維持が倣いの庶民の生活感情も無視しない。
劇的に変わるべきことも、段階を経て、あるいは迂回しながら、少しずつ変えていく。
民主主義のまっとうな発現の、これは一つの形かもしれないと思う。

「思想のオーソドクシー」は、民主主義が機能することを助ける。
「手続きのまっとうさ」は、民主主義が機能していることの一つの指標となる。

連想のつながりは、こういうものであったかもしれない。

 × × ×

 思想のオーソドクシーというのは、鶴見俊輔とともに筆者にとってかけがえのない意味をもつ、吉本隆明の用語である。思想の科学研究会編になる『共同研究 転向』所収のある座談会で、吉本は、こう述べている。
 

僕がどこに正当(ママ)性を認めるかということになるのですけれども、大衆の大多数が向いていく方向にどこまでもくっついていくのがオーソドックスだとかんがえます。大衆の動向に追従していくのではなくて、それと緊張関係にあって対決しながら、どこまでもくっついていくべきだというのが、僕が大よそ考えているオーソドックスであるわけです。

 思想はあくまでも世のマジョリティーの人々を相手にするのでないといけない。どんなに右寄りに保守化しつつあると見えても、彼らを否定せず、どこまでも彼らの動向に寄り添いつつ、「それと緊張関係にあって対決しながら、どこまでもくっついていく」。その働きかけを通じ、かつそのことを試練とすることで、思想は自ら深まり、生き生きと、人々にとって意味あるものであり続ける。筆者が考えるに、吉本の思想のオーソドクシーを、そう考えている。

「戦後から遠く離れて」p.105-106(加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』)