human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ふたたび "Keeping Things Whole" について

『犬の人生』(マーク・ストランド)を数年前に単行本で購入して読みましたが、近所の図書館に新書判(「村上春樹 翻訳ライブラリー」)で見つけたので、あらためて借りて読みました。

この本でいちばん記憶に残っているのはハルキ氏のあとがきに引用されている著者の詩("Keeping Things Whole"「物事を崩さぬために」)です。
今回また読んで、しみじみと思うところがあって、過去に自分がこの詩に対してなにを考えたかを知りたくなって、読みかえしてみました。

cheechoff.hatenadiary.jp
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過去の自分が書いたことは、読み返せば「自分が書いたな」という記憶はよみがえりますが、どこか他人風なところもあって、言わずもがなではなく「なるほどな」と思えるところが、当時と今とでなにかしら変わったことを物語っています。

詩の受け取り方、向き合い方も昔と今とで違っているなと思い、それは具体的には「今の自分はこんな論理的には書けないな」という思いです。

そこは掘り下げませんが、二年と半年ほど前に書いた中で言葉になっていない部分が目に留まったので、これを足がかりにしてなにか書いてみようと思います。

そこに価値判断はなくて、だから何だということもない。
ないのだけど、何もなく通り過ぎるのではなく、「……」。
何か、頭を空っぽにさせる魔力のようなものがある。
思索が深まるでもなく、他に意識がそれるでもなく、「……?」。

「野原の不在」について - human in book bouquet

野原に立つ自分は、その身体のぶんだけ、野原の不在である。
今こう書いて、このことを想像していると、
「宇宙カンヅメ」(@赤瀬川原平)のような、空間が裏返る感覚になりました。

 × × ×

自分が野原の不在だと感じている今、彼(自分)の時の感覚はどうなっているのだろう?

感じる、と今書いたが、これは頭のことだろうか、それとも身体のことだろうか?

野原の不在は、悲しむべきことなのだろうか?
もしそうだとして、それでは、自分の存在も悲しむべきだろうか?
あるいは、もともとすべてが、悲しいのかもしれない。
生の基調が悲しみにあるからこそ、死は安らかに到来する。

野原の不在は、死者の不在と、どんな関係があるだろうか?
野原の不在の回復は、ひとりの死者の存在を生む。
死者の不在とは彼がもはや野原にはいないことを言うのであって、
死者の存在とは彼が野原ではないところにいることを言う。

どうして死者の不在と死者の存在が同じなのだろう?