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引っ越して落ち着いたらタイトル考えます(仮)

本格的に本と関わっていきます。

直感と連想、個の中の普遍について

今日から『直感力』(羽生善治)を読み始めました。

 つまり、直感とは、論理的思考が瞬時に行われるようなものだというのだ
 勝負の場面では、時間的な猶予があまりない。論理的な思考を構築していたのでは時間がかかりすぎる。そこで思考の過程を事細かく緻密に理論づけることなく、流れの中で「これしかない」という判断をする。そのためには、堆[うずたか]く積まれた思考の束から、最善手を導き出すことが必要となる。直感は、この導き出しを日常的に行うことによって、脳の回路が鍛えられ、修練されていった結果であろう。
(…)
 直感は、本当に何もないところから湧き出てくるわけではない。考えて考えて、あれこれ模索した経験を前提として蓄積させておかねばならない。また、経験から直感を導き出す訓練を、日常生活の中でも行う必要がある。
 もがき、努力したすべての経験をいわば土壌として、そこからある瞬間、生み出されるものが直感なのだ。それがほとんど無意識の中で行われるようになり、どこまでそれを意図的に行っているのか本人にも分からないようになれば、直感が板についてきたといえるだろう。
 さらに、湧き出たそれを信じることで、直感は初めて有効なものとなる
「直感とは何か」p.22-24(羽生善治『直感力』)

 直感は、ほんの一瞬、一秒にも満たないような短い時間の中での取捨選択だとしても、なぜそれを選んでいるのか、きちんと説明することができるものだ。適当、やみくもに選んだものではなく、やはり自分自身が今まで築いてきたものの中から生まれてくるものだ。
「約八〇通りの可能性から、瞬時に急所を絞る」p.33(同上)


直感において論理的思考が行われている(可能性がある)こと(1つ目の抜粋)と、
直感的な選択の理由を説明できること(2つ目の抜粋)、
これらは直感の説明の中でリンクしていますが、僕はこのことに興味が湧きました。


僕は本書の「直感」を、「連想」に置き換えて読めないかと考えながら読んでいます。

連想も、「繋がる」のにかかる時間は一瞬で、その過程の把握はその一瞬に含まれていません。
抜粋部が僕の日常的思考の興味の網に引っかかったのは、
連想は論理的思考とは関係のないものだと思っていたからです。

文章を読んでいて別のある文章を連想するといった時、
それぞれの文章に対応するイメージや機能・性質に何らかの共通点を見出しているわけですが、
それを「論理的導出(一方から他方を導き出す)以前のリンク」だと思っていました。
後から理由をつけることはできても、それは原理の解明ではなく意味を新たに与えるものだ、と。

でも、連想過程の説明は、純粋に意味を与えるだけのものではないかもしれない。


直感が、あるいは連想が論理的思考によるかどうかは実感もないしよく分かりませんが、
その働きを「きちんと説明できる」という羽生氏の言葉に、ステキな可能性を感じました。

なにがステキかというと、自分の突飛な連想の性質、例えば大枠の傾向や、
個々の連想において事象を繋げた「綱」の性質・起源などを説明する努力が、
「連想力」の向上に繋がるかもしれないということ、
そしてその連想力を自分が信頼することにも貢献する可能性があること
です。


連想が一瞬で閃くのは、意識できない脳の高速回転によるもので、
それは連想したというだけでは自覚できない「すごいこと」で、
その「すごいこと」を意識できるように自分に説明してあげることで、
「自分の無意識も大したもんだ」と感心できる、というようなことです。

そしてその無意識的活動の源泉が意識的活動に(も)あるとすれば、
無意識を説明する努力それ自体が無意識的活動の幅を広げることになる。

なぜなら、無意識は意識にとって「未知なる現象」だからです。


 × × ×


上ではとっても内向きな話をしているんですが、
これは実は内へ内へと掘り下げていくと、
あるところで「次元がめくれて」外になる

という話でもあります。

私的なことをひたすら書いていていつの間にか社会批評になっている、
という「個から普遍に至る」荒業が持ち味の橋本治氏のことを思い出して、
でもこれが荒業でもなんでもなく当たり前のことだと氏はきっと言うはずで、
なぜかといえば「僕もあなたも同じ"意識をもった動物である人間"だから」で、
言い方を変えれば氏は社会の全てを自分(の身体)を通して感得できる人で

今の僕は「そこ」に興味があるような気がしています。

岡 (…)昔の国家主義軍国主義は、それ自体は、間違っていても教育としては自我を抑止していました。だから今の個人主義が間違っている。自己中心に考えるということを個人の尊厳だなどと教えないで、そこを直してほしい。まず日本人が小我*1は自分ではないと悟ってもらわないと。なぜ日本人にそういうことを言うかと言いますと、イギリス人の歴史家が沖縄*2へ行ってみて「神風*3」の恐しさは見たものでなければわからないと言っているのです。ものすごい死に方をしている。善悪は別にして、ああいう死にかたは小我を自分だと思っていてはできないのです。だから小我が自分だと思わない状態に至れる民族だと思うのです。自分の肉体というものは人類全体の肉体であるべきである。理論ではなく、感情的にそう思えるようになるということが大事で、それが最もできる民族としては日本人だと思います。
「はじめに言葉」p.119

小林 あなた、そんなに日本主義ですか。
岡 純粋の日本人です。いま日本がすべきことは、からだを動かさず、じっと坐りこんで、目を開いて何もしないことだと思うのです。日本人がその役割をやらなければだれもやれない。これのできるのは、いざとなったら神風特攻隊のごとく死ねる民族だけです。そのために日本の民族が用意されている。そう思っているのですが、あまり反対の方へ進むので、これはもういっぺんやり直せということかと思わざるをえない。
「批評の極意」p.140
小林秀雄岡潔『人間の建設』)

なぜかこの抜粋をしたくなって、
この抜粋部を打ち込んで、ちょっと考えてみて気付きました。

これはハシモト氏のことではないのか、と。

*1:*小我 我執にとらわれた自我。(註 p.148)

*2:第二次世界大戦末期の昭和二〇年(一九四五)四月一日沖縄本島で日米両軍の戦闘が始まり、六月二三日まで続いた。当時の島民約五〇万人、そのうち一〇万〜一五万人が犠牲となった。(註 p.166)

*3:第二次世界大戦末期に、日本の海軍航空隊が編成した特別舞台「神風特別攻撃隊」のこと。片道分の燃料を積み、敵艦隊に体当たり攻撃を敢行した。(註 p.169)