human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

はじまりのジェイムズ

そういうことか。

「ひとつの経験が果たしうる唯一の機能は別の経験を導くということであり、われわれが論じうる唯一の充足とは、ある経験される終着点への到達ということである。ひとつの経験が別の経験と同じ終着点に導くとき(あるいは、導きうるとき)、これらの経験はその機能においては同一である*1
(…)
そして伝統的には、認識作用には対象の直接的知覚と、その「代用」となる間接的、概念的認識という二種類の作用があるとされているが、このモデルにおいては、そのいずれもが終着点を目指した経験の連続的推移として理解できる点で、それらは同一の働きであるとされる
「Ⅱ-1 純粋経験の世界」p.156(伊藤邦武『ジェイムズの多元的宇宙論』)


北極のオーロラも観たかったけれど、それよりも、その現象について書かれた専門書を熟読する方がずっとオーロラを体験できるだろう。僕は「体験」とはそういうことだと思っている
森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』)

ただ夢を見た人の中で、全然、第五*1が弛んでいない人がおりました。その人の夢は、いつも、現実にあるのです。(…)家内は上下型ですから、本当のことより、夢の方が真実なのです。ご馳走を食べるより、ご馳走すると言われた方が、ご馳走を食べたような感じになるのです。現実の旨い、まずいの味は判らないのです。そういう特殊体癖ですから、夢が本当なのです
「第四章 夢見の体」p.238(永沢哲『野生の哲学 野口晴哉の生命宇宙』)

cheechoff.hatenadiary.jp


色んな所に行って、色んなものを見たい。
旅行記を読めばあの国がどんな所なのか分かるけれど、
でも(挿し絵付きであれ)読むのと実際に見るのとでは全然違うよ。
誰しもそう思う。
僕も、そう思う。
でも僕は、そこから少し変なことを考える。
ある国へ行って、歴史的建造物を見たり伝統芸能を見たりする。
あるいは、そのことについて書かれた本を読む。
どちらもそれ相応に得られるものがあり、自分に染み込んでくるものがある。
得られるものは、前者の方が圧倒的に多いのかもしれない。
しかし、その染み込んでくるもののうち、今の自分に大事なものは、
見る対象、想像する対象よりも、受け取る自分の状態に深く対応するのではないか。

つい最近更新したmixiのプロフィール文章にはこう書いた。
 「動いて得られるもののうち大事なものが、動かないでも得られたら楽よね」
これも同じこと。

心躍る経験をしたい。
深く感動したい。
その躍動・感動は、「主体の目の前で起きる現象」と、「受け手たる主体」の相互作用による。
躍動・感動を得るには、その両方あるいはどちらかを充実させねばならない。

器用な、あるいは自覚的な人はその両方を充実させるだろう。
「個性」や「自分探し」を切実に感じる人は前者を充実させるだろう。
僕は軽度な身体的不自由を抱えており、その不自由は進行しており、
その不自由にある極端な解釈を施し、後者を充実させる方に自分を仕向けている。

「ゆきふるゆくくる」(深爪エリマキトカゲ 2010年12月31日)

最初に抜粋した伊藤氏のジェイムズ解説書を今読んでいますが、
学生時代に何冊か読んだきりだったジェイムズの著書を、
未読or挫折した分を含め、あらためて全部読み直そうという気になっています。

読書を生活にまで押し上げたきっかけとなった『プラグマティズム』の著者が、
僕に与えた影響に計り知れないものを、
最初の抜粋を読んで3つの連想が広がった瞬間に感じました。

岩波文庫のどれを、いつ手に取るかは、縁を待ちます。

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*1:The Varieties of Religious Experience, 1985, 382, 400.