「道」についてあれこれ
今週も先週(↓)に引き続き『狩人日記』(安野光雅)から、「道」の章を読んであれこれ書きました。
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書くうちにどんどん長くなってしまいましたが、本記事はいわば「連想集」です。
散漫な内容に「脈絡がある」ことを保証するのは、ただ僕の頭と身体のみです。
+*+*+*
今は昔、はるか昔、道などというものはなかった。獣が歩き、人がそれを追いかけ、いつのまにか草をわけて、道ができた。
藤村の詩の、リンゴの木の下の、まだ上げそめし前髪の乙女は、くさむらの小みちをさして、
「誰が踏みそめしかたみぞ……」
と、問い給うのである。
はじめ、そのようなところに道はなかった。リンゴを差しだした乙女を訪ねてゆくうちに、自からなる細道がついてしまったのだ。
「道」p.123(安野光雅『狩人日記』)
けもの道とは動物が頻繁に行き来することで現れて見える道なき道のことだと思っていて、
それはそうなのですが、「追いかける人」も実はその生成に寄与しているのですね。
むしろ人が通ってこそ、人が通る道となり得る。
…いや、そこを人が通って、けもの道が道になるということでしょうか。
古い日本語は現在のそれの面影を残しているかと思えば全くかけ離れていることもあって、
現在の語感を基準にして古い日本語の意味を類推するのは正しさの意味では当てになりません。
ただ、現代人は現代的感覚を基盤として考えるしかないという実際的な面において、
その類推はひとつの、今と昔に「道をつける」方法となります。
というこれは言い訳にも聞こえる前段なのですが、
「かたみぞ」とは溝のことなのかなと読んで思い、
乙女にとって「くさむらの小みち」は道ではないのだろうかと思いました。
あるいは彼女は、道になる前のけもの道を見たのでしょうか。
格別に道が増減しなくとも、沖縄県のように交通規則があり、右側通行が左側通行になった、ただそれだけで、ガソリンスタンドの使い勝手やバス停の位置など、生活習慣に大変な影響があったことは記憶に新しい。
私の田舎でも、峠にトンネルを堀ったために、隣村との交通が非常に便利になったことがあったが、自動車が一般的になってから、峠を越さずに山を迂回する、つまり遠くても平坦な道を選ぶ方が早くなって、今ではそのトンネルを通る人はきわめて稀になってしまった。
道は、まるでいきもののように動いているのである。
p.124-125
ここでは道は、そこを行き来する人をも含んでいます。
私がリングワンダリングという言葉を知ったのは、この本[藤森栄一『かもしかみち』]によってである。
これは、まっすぐ歩いているつもりでも、ふたたび、もとのところに戻ってしまうことをいう。山道を行くとき、それが単純なわかりいい道でもリングワンダリングはおこるという。
当然、狐につままれたようなふしぎな幻惑感におそわれる。登山家や、山で暮らす人々は、しばしばこのリングワンダリングを経験するのだそうな。「原因は朝霧と、さらにつよい精神的幻惑によるものである」という。
p.125-126
「トマトソース」を「トーマス・マン」に幻視するのと比較にならないくらい、
このRing Wonderingのカタカナ表記のリズム感は容易に「ある歌」を想起させます。
少し考え、ワの横棒を2つに割ってそれぞれのグに配してやれば完成することに気付ければ、
これは拡張されたアナグラムの一例として申し分ないことに頷けるでしょう。
それはいいとして、いやそれを言うならどれもいいのですが…
もう一つこちらは嬉しい連想があって、
『蟲師』(漆原友紀)4巻の「籠のなか」には、竹林から出られない男が登場します。
蟲師のギンコは竹林で彼と出会い一緒に歩き始めますが、ほどなくもとの場所に戻ってきてしまう。
ギンコはその原因を調べ始め、あるものを持っていると、
気付かぬうちに「ある特定の竹」のまわりをぐるぐる回っていることを突き止めます。
まさに狐につままれたような話で、
けれども現実味を帯びているからこそ話は伝承として語り継がれ、
そして伝承的現実味は科学的思考によって現代の感覚に「翻訳」されるのです。
上で「嬉しい連想」と表現した理由ですが、
前にいちど中沢新一の本を読んでいた時にも『蟲師』の話を思い浮かべたことがあって、
そのことについて書いた時にこの理由も書いたかもしれませんが(下にリンクを張りました)、
連想によって現代の感覚と民話的世界の間に「道がついた」と思うからかもしれません。
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さて、私たちが、ちょうどホタルのように尻に光をつけていたとしよう。そして、それが感光板に焼きつけられるとか、ガイガーカウンターのようなもので検証されるとかすると、ちょうどなめくじの通ったあとのように痕跡が記されることになる。自分が生まれて以来今日までのその足どりを世界地図の上にかき記した場面を、グラフでも見るように想像してもらいたい。転勤が多くて日本中を引っ越しして歩いた人はそれなりに、また運転手を業としている人はそれなりに、あるいはまた入院されてじっとしている人は、そのようにグラフが描かれるはずである(ただし、同じ位置で動かずにいると、痕跡の点は次第に太くなり、長い距離を早く通りすぎると、痕跡は細い線になる、と考える)。
互いに別の地点から出発したA氏とB嬢の痕跡が、あるとき一つの地点でクロスすることがあることを思うのも楽しい。痕跡は各自が歩いてきた人生そのものということになる。
p.128-129
この部分を読んだ時は、真っ先に保坂氏の以下の文章を連想しました。
引用元がウェブだとついつい長くやってしまいますが、区切りのよい部分を載せることにします。
「また、そこにすわってる」綾子が言った。
「きのう見てたら、そこのニオイをクーが一所懸命嗅いでたのよ。きっと森中の汗が染み込んじゃってるんだよ」
「いいじゃないですか。そんなもの猫にしかわかりっこないんだから」
「いつか人間にもわかるよね」
と言いながら、綾子は綾子の定位置になっている北の窓のすぐ脇に脚を伸ばしてすわった。
「すごいですね」
と、ゆかりが何かを発見したときみたいな、パッと明かりがともったような顔になった。
「森中さんがいつもそこで、浩介さんがそこで、綾子さんもいつもそこで、あたしもだいたいいつもここでしょ。(ゆかりは部屋のほぼ真ん中に置いている折り畳み式テーブルの綾子の側にすわる。)
みんなのニオイが染みちゃうってことですよね。
サーモグラフィって言いましたっけ? 人の姿が温度の色つきでボオッと出るやつ。ニオイのああいう機械があって、みんなの姿が出てきちゃったりしたら、スゴイですよね。
浩介さんは一番長くいるから色が濃くて、森中さんと綾子さんが同じくらいで、あたしが一番薄いの。
ねえ、じゃあ、内田さんはどうなるんですか?」
「どうなるんですかって」私は言った。
「だって内田さんだけ椅子だから、足の裏しかついてないんだもん」
「臭いだけですよ」森中が笑い出した。
「バカだな。足の裏にはからだ全体のツボがあるんだから、同じなんだよ」
「ホントですか? それ」
黙って聞いていた浩介が笑い出したが、綾子はちょっと険しい顔で横で寝ているミケの前足の肉球をいじっていた。
保坂和志『カンバセイション・ピース』(初稿)A パターン(その4)
(エッセイ集のページの中にリンクがあります)
たしか保坂氏はこの作品で「家の記憶」をテーマにしているとどこかに書いていたはずで、
それはつまり「家が住人たちのことを記憶するのだとすればどういう形があり得るか」という、
科学が未だ記述しえない事柄を表現するという壮大にして実は等身大(「身の丈感覚」ということ)な話なのですが、
安野氏の話にも共通するところがあって、ではこちらは何の記憶なのかと考えると、
「道の記憶」となるでしょうか。
そういえば『刻まれない明日』(三崎亜記)には、
その地を歩くことで道に刻まれた記憶と交信する架空の公務員「歩行技師」が出てきます。
「ただ歩くことが技になり得るな」と思いながら、和歩の研究をしている僕は興味深く読みました。
『かもしかみち』では、むかし、「みちがすなわち住居であり、住居は同時に道であった」ことが力説され、そうした人間の生活の考古学的原型が、実は現代の生活をかえりみる一つの拠り所となると説いているように読みとられるのである。
私は東京に住んでいる。そして東京についてはくわしいと思っている。しかし私の歩みの痕跡が、たとえ東京にかなり複雑なジグザグの軌跡を描いていたとしても、とうてい面にはなり得ないことを思って初心にかえるのである。
こんど田舎へ帰ったら、青草をふみ固めた小みちを歩いてみることにしよう。
p.129
読んですぐには理解できませんでしたが、いや今も理解していませんが、
「面にはなり得ないことを思って初心にかえる」という言葉に、
わからないながら心の奥深くに届くものがありました。
これは何だろう? と思って、しばらく考えてみて、
やはり理解につながるわけではないのですが、
このことは思想(思考)についても言えないだろうかと思いつきました。
本に書いてあることをただ読む(=「読んだらおしまい」)のではなく、
(「全集を制覇した」みたいな言い方がありますが、あれは「ノルマ的発想」です)
あるいは定理や現象がいちど証明されたのなら追試する必要がないわけではなく、
(「人類が積み上げてきた知識」という表現の主体は個人ではなく「システム」です)
考え方や現象に対して、色んな理路を通じて接して、「みちをふみ固める」ことで、
それらは個人の頭や身体に刻み込まれていく。
その昔、いい思い付きだと自分で思いながら、
「既知(基地)からのびる未知(道)」
という表現をしたことがありました。
拠点を立てて未踏の地へ着実に歩を進める、というイメージです。
しかし実際のところ、未踏の地へのびる道なんてものはないのでした。
今これを言い直すとすれば、
「未知をふみ固めて道をつくる」
としたいと思います。
「みち」をふみ固めるのは、
ふみ固めたことに満足するためではなく、
その先へ進むためなのです。
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- 作者: 漆原友紀
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