human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

肩を凝らない夢ばかり見る人の現実について

「カロリー計算をして食べ物に気をつけて、毎晩一時間ずつ歩いてたんだ。でも全然体重が変わらなくて変だなーと思ったけど、そのまましばらく続けてたら、三ヵ月を過ぎたあたりで急にするすると落ち始めて、一週間位で学生時代の体重に戻ったよ」
 それを聞いて私はとても驚いた。体重が突然落ち始めたことにではない。まったく効果が現れないことを三ヵ月も淡々と続けたセンスに驚いたのだ。(…)こいつがダイエットを続けられたのは「努力」や「根性」のせいではない、と思う。進んでいる方向が概ね正しいこと、そして成果はある日突然現れることを感じ取る「センス」の問題なんだ
「みえないスタンプ」p.33-34(穂村弘『本当はちがうんだ日記』)

これだ、と思う。
進んでいる方向が概ね正しいことを感じ取る。
成果はある日突然現れることを感じ取る。
センス。

センス!
あおげば唐突!(謎)

恐らく穂村氏の友人氏はいろいろな省略をしている。
「進んでいる方向が正しい」というのは、「正しい方向に進んでいる」ということではなく、「進んでいる方向が正しくなる」ということだ。
そして「成果がある日突然現れる」のは「成果がある日突然現れたように思われる」ということで、「成果を期待していたことなんてさっぱり忘れていたけど、そういえばそんな期待をしていたこともあったな。あれ、達成してるや、こりゃまた突然だな」ということだ。

目的意識が薄い、ということもある。
ある目的をもって始めたつもりが、習慣になるとその目的を忘れてしまう。
ただその目的は「思いつき」程度のものだったかもしれず、何か別のきっかけがあって気分で始めたことかもしれない。
そして歩くことそのことが体に馴染んでしまう、するとこれはもう生活の一部となっている。

生活とは「目的意識の薄い行為の集積」で成り立っているのかもしれない。
ご飯を食べるのはお腹が減ったからだけど、腹を満たすのは目的ではない。
夜に寝るのは眠くなるからだけど、眠気を解消するのは目的ではない。
それらは身体が要求しているだけで、目的と呼ぶのは脳の後付けなのだ。
もし現代人の生活から脳の介入を取っ払ったら、何が残るだろうか。
ほとんど何も残らないかもしれないが、実はそれが人の基礎、基盤である。

現代は意味で溢れていて、それはどうしようもなくて、でも生活への意味の介入を少なくすれば、「進んでいる方向が概ね正し」く、「成果はある日突然現れる」ことにもなる。
逆に言えば、仕事にしろ生活にしろ意味と取っ組み合っていく覚悟とは、進む方向に迷いが生じるのも、期待した成果がなかなか現れないのも、当然ありうると割り切ることだ。
進む方向が正しければ考えることがなくなるから横道に逸れることになり、成果が出てしまえばやることがなくなるから新たな課題を設定する。

最初に言おうとしたのは「首凝りが治ったら、つまんない」という自分の身体の話だった。
たぶんそう思っている間は治らなくて、次の課題が見えたらいきなりすこーんと肩が軽くなり首がぐるんぐるん回せるようになる。
そして確かにそのような徴候がある。
逆立ちを首凝り対策に毎朝毎晩やっているとは何度も書いていて、最近「指立ち」(掌を浮かせて、付け根を含む指だけで逆立ちをする)のコツが掴めてきたとも書いたが、そのコツとは「両手とも親指、人差し指、中指の三本に体重がかかるように意識する」ことで、こうすることで小指の付け根のもげそうな痛みがなくなったのだけどなぜこれがコツになるかといえば、毎日家でも会社でも暇があればこの三本の指で肩を揉んでいるからで、つまりこの指達は自分史上ついぞなかった筋肉質な時代を謳歌しつつあって、こうなれば到達点は「指立ちで歩けるようになる」ことで、指立ち中の足が壁から離れた時に首と肩の凝りは一瞬にして消え去るのであろう。

そういえば夢の中で肩凝ってるなって思ったことないけど、そうかそうかそういうことか。