human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

非消費者的に生きる(4−2)

4−1の続きです。

前回途中で「バナー広告」の話に逸れてしまいましたが、逸れたというよりこれが考えたい事柄だったような気が今していて、ちょっと掘り下げてみようと思います。
インターネットとは、端的に脳内的な出来事です。
画面上に現れる情報は、一度アナログ信号に変換されています。
脳の活動は「シナプスが発光するかしないか」というアナログ信号で制御されている…としておきます。
ネットと人間の脳とは、その原理からして相性が良い。
検索語の予測出力や閲覧履歴ベースの広告というのは、脳の連想と似ています。
異なるのは、前者はどちらも人知のアルゴリズムによって規定されている点です。
その出力の正確さ、あるいは意外な的中性(「これこそ自分が今欲しいと思っていたものだ!」)に驚くというかコンピュータの能力に感心することがありますが、驚く原因はコンピュータが扱うデータ量が身の丈を遥かに超えている点にあり、コンピュータに組み入れたプログラムは一から十まで人間が設計したものです。
脳の連想はそれとは違い、人が自分について把握している以上に複雑で無秩序で、制御ができません。
自分の中の「自分について分からない部分」に一度目を向けると、底なし沼のように暗くてドロドロした領域に際限なく沈んでいく感覚に思わず後ずさりしてしまう。
まともに向き合うと暗闇に引きずり込まれてしまうから、社会生活においては便宜上「ないこと」にしています。
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹)ではその「(東京地下の)底無しの地底世界」を主人公は探検することになります。

戻りますが、ネットと人間の脳とは「似て非なるもの」です。
が、ネットに没頭すると、両者の「似ている部分」がどんどん強調されていき、「非なる部分」に意識が向かなくなります。
その没頭の一例が前回に挙げた「バナー広告に自分の興味対象が突然現れても違和感を覚えなくなる」です。
そうして、個人の認識としてネットと脳が似てくると、その内実としては「ネットが脳に似てくる」のではなく「脳がネットに似てくる」。
人間の意識の方がフレキシブルだし、というかネットは組み込まれたアルゴリズムに従って機能しているだけなので当然のことです。
脳がネットに似てくると、大体次のようなことが起こります。
 ・(…)

という分類がしたかったわけではなく。


コンピュータのプログラムの話をします。
ある入力値を与えてプログラムを実行すると、ある出力値が得られます。
y=f(x)という関数は、右辺xに任意数を入力すれば、f(x)という式に従った計算値yが得られるのですが、プログラムの原型というか基本要素はこの関数だといってもよい。
人が手でこの計算をすれば、「y=x^2+2x-1にx=5を入れればy=25+10-1=34が答」と紙に書き下す時間がかかるわけですが、コンピュータに任せれば答は一瞬で出てきます。
プログラムが複雑になればそれだけ計算時間もかかります(googleで検索すると「約 186,000 件 (0.27 秒)」というように件数といっしょに検索時間が出てきます)が、時間がかかるのは計算機の能力(スペック)の都合によります。
つまり、原理的には、というか考え方として、プログラムというのは「入力と出力が同時に得られる」ものです。
言い方を変えれば、プログラムには時間の概念がない、ということです。
プログラムには時間がなく、そしてもともと空間を想定していないから、プログラムは「時空を超える」ことができるわけです。
そして、これは脳も同じです。

計算機としての脳には時間感覚がない。
脳は時間の概念を理解していても、その実感はありません。
人が時間感覚をもっているのは、人には身体があるからです。
もちろん身体は質量と体積を持ち一定の場所を占めるわけですから、身体は空間感覚(とはあまり言いませんね…建築か武道の用語ならありそうですが)ももっている。
脳と身体の趨向性の違いは根本的にはここに起因しています。


話が進みませんが…
言いたいことをさらりと言ってしまえば、
「商品を買う前後で自分は何も変わらない」という消費者性は時間感覚の無さの表れであって、それは「脳と身体のバランス」を脳に偏らせます。

「損をしない買い物」「賢い消費者になる」「費用対効果の大きい活動」といった惹句を信じてそれを真面目に追求し、成功してしまえば「脳化人間」になります。
もちろんそれは原理的な話で、実際は極端な脳化の過程で身体が許容限界となります。
その結果は法治国家の枠をはみ出る、こともあるでしょうがそれはほんの稀な例で、多くは追求の過程で主に身体の反発により挫折します。
その挫折は人間の動物的な面においては健康なことなのですが、意識を持つ人間の「挫折の認識」は、精神面において人間の健康を害することになります。
つまり消費者という役割を演ずるのは「進むも地獄、戻るも地獄」というわけです。
これが地獄ではなく、ふつうに人が消費者として生活できているのは、「必要を満たす消費」がまだ生きているからです。
必要とは、たとえば最低限としての衣食住です。
つまりこの必要は「身の丈に合った必要」です。
身の丈の消費とは、身体を考慮した消費でもあります。
そして、身の丈の消費では経済が回らなくなった時に「地獄」が現れます。
賃金格差の階層社会や生活水準の二極化が言われますが、「地獄」はどちらに現れるかといえば、常識的には下の階層だろうと思われるところ、実は下だけでなく上の階層にも、つまり二極化した社会の成員の全てに対して現れることになります。
身の丈の消費が満たせない下の階層と、身の丈の消費がわからなくなった上の階層。
「身体の必要」は有限ですが「脳の必要」は無限で、脳の欲望を追求できる立場(身分、財力、…)にあることとは、すなわち「際限のない脳の欲望の追求から逃れられない」ことです。

集団の成員全てが個人利益を追求すれば全員が(主に二通りのどちらかの)不幸になる、という話にもつながるのですが、いつの間にかへんな話になってしまいました。


身体性の賦活の一例として合気道の「他者との境界を薄めて(なくして)一体となるように動く」とか他者の境界の話では「啐啄之機」とかありますが、そういったことに対する関心と「非消費者的」との繋がりは確信していて、けれどそれを上手く文章にする力はまだないのでした。
文章力というよりは、経験不足ですね。想像だけでは限界があります。


まあそれも別によくて…後半ぐちゃぐちゃしましたが、次は5です。
1に書いたリスト(以下に番号を付けて再掲)をとりあえず消化しようという意気込みはまだ持続できていますが…
 (2)消費者的でない、「値段と価値が相関しない」買い物(済)
 (3)古本屋(図書館)と出版社の確執、あるいは個人と古本屋の立ち位置(済)
 (4)「欲しいものを欲しい時に手に入れる」をとりあえずカッコに入れる(済)
 (5)「境界」を扱う、あるいはテーマにする人々
 (6)「大きな物語」がなくなったあとの物語とその実践
5は読書の趣味の話なので気軽にできそうですが、6はなんだろう、なんでこんな項目を書いたのだろう…書き始めないと何が言いたいのか思い付きません。
さて、どうなりますか。