human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

新しい仕事(0):本と自覚

仕事についてちゃんと考えておかなくてはと思い、その一方で直近にやる必要のあること(引っ越し準備など)が確定されてそちらに意識がとられていました。
やることが具体的なほど動きやすいけれど、抱えるタスクが具体的であるほど、それと同時に対面している抽象的な問題にはとっつきにくくなる

ここ何日か、引っ越し準備を少しずつ進めながら、それ以外の時間が「息抜き」というか、気が抜けた感じになっていました。
そんな時にturumuraさんの記事を読んで、頭が緊張状態を要求しているように思われたので、これを機会に考えるべきことを考えておこうと思いました。
タイトルの「イリイチ」に惹かれて読んでみて、自分がこれからしていきたいことに深く関わることが書いてありました。

kurahate22.hatenablog.com

新しい仕事の当面の主体は「機械設計」です。
大学時代の友人の助力を得ながら、個人事業として食べていけるようになることが第一目標。
このことについては別途詳しく書きます。
ここで考えたいのは、直接的にはその主体(設計業)と関わりのないこと。

自分がこれまでしてきた、あるいは考えてきたことを、自分の中で仕事に活かすだけでなく、可能ならばそのこと自体を仕事として取り組みたいという思いが、個人事業をする決意に伴ってはじめて生まれてきました。
それはたぶん、仕事の依頼者と「一人の人」として関わることになるから。
もちろん、人から依頼された仕事の内容をこなす、満たすことが求められる第一のことです。
でも、まだ想像の段階ではあれ明らかに思えるのは、組織の中で整然と分担された仕事を行う場合よりも、個人事業では人間性が問われる


「自分が好きなことを仕事にするな」とはよく言われます。
相手の依頼や要求があって始めて成立する仕事では、自分の好みを押し通すことが難しい。
自分の意に沿わない妥協が、自分の中で曲げられないこだわりと重なってしまうと、他者の期待に応える充実以上の苦しみが、時に生まれることになる。
僕が今書こうとしていることは、この格言に抵触するのかもしれません。
でも、しないのかもしれない。
…前置きばかりでは話が進みませんね。

「自分がこれまでしてきた、考えてきたこと」。
単語で言えば、それは本と、それから身体性。
どちらもかなり漠然としているのですが、まだましな方だと思える前者について書きます。


本は、自覚を目覚めさせます。
自覚することを知り、「スタート地点」に立つことができます。

物事の判断に際して、自分の頭で考え、納得したうえで行う。
いつもそういう進め方ができれば、理想的でしょう。
でももちろん、そうはいかない。
人一人の頭では到底追いつかないシステムが、現代社会を回しています。
自分の身の回りのことですら、そうです。
自覚とは、それを知ることです。

「自分の知らないことがたくさんあること」を知ること。
「自分の知らない多くのことによって自分の生活が成り立っていること」を知ること。
「自分の知らない多くのことのうちどれが自分が知るべきことか分からないこと」を知ること。
「知るべきことを知らないまま生活が回っている状態が好ましいかどうかも分からないこと」を知ること。

「自分の知らないこと」には果てがありません。
でも、それを知っていく。
物事を知り、考え方を知ることで、知っていく。
分かることが増えると、それ以上に、分からないことが増えていく。
これは、自覚に果てがないことと同じです。
自覚は安定状態を保ち得ない。
これでは十分ではない、という不安と渇望が、自覚を活性化させます。

上に張ったturumuraさんの記事、そしてその中から抜粋した以下は「人と人との出会い」について書かれていますが、僕は「人と本との出会い」についても同じことが言えるだろうと思います。

人が人たりうる状態が保たれるには、出来上がってしまったらまた過程の状態にもどすことを自分で気づいて自分で繰り返せることが必要だ。そうしないと腐る。

既知のもの(=利用対象になってしまったもの)になってしまった世界や他人との関係性が一新される事態が「出会い」であり、この「出会い」を繰り返すことによって人が人たる状態をもつことができる。

「本のことを仕事にする」。
正直言って、なにも具体的なことは想像していません。

司書講座の同期の人(卒業後、大阪の小学校で半年間臨時の学校司書をしていた)が、「一定予算で、依頼者の人となりに基づいて本を選定する」という書店員が実際に行っているビジネスがあることを教えてくれました。
おそらく、仕事や趣味やこれまで読んできた本など、読書に関係しそうなパーソナルな情報をアンケートに書いてもらったものをベースにして選書を行うのでしょう。
依頼者に、その人が読みたいと思うかもしれない、かつ選者が読んでほしいと思う本を渡すことができる、そしてそのことによって報酬が得られる。
うまく回れば、本好きな書店員には大きなやり甲斐が伴う仕事だと思います。
ただ同期の彼は、現実的なことも言っていました。
「自分(彼自身)の狭い趣味の範疇での選書だととてもビジネスにはならない。そもそも自分が読んだことのない本を薦めるわけにはいかないから、多様な依頼者の期待に応えるためには、自分が普段読みたいとは思わないような本を読まなくてはならない。そうは言っても、イヤイヤ読んだ本をオススメするのもあり得ない。単に本好きだからといって誰にでもできるビジネスではない」
これは、その通りだと思います。


自覚の話に戻ります。
人に自覚が芽生えることは、僕には希望になります。
ひとつは「非連帯的仲間意識」ともいえるものです。
そして、主体的に生きていく活力の源でもあります。

自分には何が足りないのか、何が必要なのか。
それを独自に探る人には、独特の生命力が宿ります

そういう人のそばにいると、自分の中の創造力が刺激されます。
あるいはそういう人がいると知っただけで、自分ももっと頑張りたいと思う。

これは、逆にもいえることです。
いや、むしろ「逆の経験の濃さ」が、僕に自覚への希望をつのらせた。
自覚を悉く喪失した人の傍らにいる、これは紛れもない「絶望」です


ちょうどさっき『三月のライオン(2)』(羽海野チカ)を読みましたが、
21話、安井六段との対局のあとの桐山零の叫びにグッときました。

零のように、何か(将棋)に「全てを懸けている」わけではない。
でも、こうも思う。
何もないからこそ、それに、その時に「全てが懸かって」いる。


 「生きたい」と強く願う人のそばにいれば、自分も「生きたい」と思う。
 「死にたい」と強く願う人のそばにいれば、自分も「死にたい」と思う。

前者はそう、でも後者はよくない、なんて言われそうだけれど、本来これは表裏一体のもの。
人として当たり前のこの感覚を、僕は殺さずに生きていければ、と思う。

今考えてみて、個人事業を始めることは僕自身、この点でとても前向きなことだと思えます。

 しかし、或いは遂に終りないかも知れぬ人類の前史にあっては、小さきものは常にこのような残酷を甘受せねばならぬ運命にさらされている。バラ色の歴史法則が何ら彼らが陥らねばならぬ残酷の運命を救うものではない以上、彼らにもし救いがあるのなら、それはただ彼らの主体における自覚のうちになければならぬ。願わくは、われわれがいかなる理不尽な抹殺の運命に襲われても、それの徹底的な否認、それとの休みの無い戦いによってその理不尽さを超えたいものだ。あの冬の夜の母娘のように死にたくはない。その思いは、今私が怠惰な自己を鞭うって何がしかの文章を書き連ねることの底にもつながっている。

「小さきものの死」p.13(渡辺京二『民衆という幻像』)

 × × ×

3月のライオン 2 (ジェッツコミックス)

3月のライオン 2 (ジェッツコミックス)

愚かさと愛、ねじれ、ちいさな問題

『戦中派不戦日記』(山田風太郎)を読了。
橋本治氏の解説から2つ抜粋しておく。
太字は本文中傍点部。

 昭和十七年の春は、こうして軍需工場で働きながら医学校進学を目指すことになる。受験勉強は全くしていない。医者になるということは、一人で飛び出して来てしまった、自分自身の面子、プライドの問題であるという側面が強い。孤児である自分。愛情に飢えている自分。しかしそれを素直に言い出せない自分。そして、言い出したとてそれは決して理解されないのだということを知っている自分──深い認識の裏には必ず、それに見合うだけの、そしてその認識を役立たずにしてしまうだけの孤独がある

”日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべてを信ぜず”──そう終えられるこの四十年前の記録は、”いまだ”の一語で四十年後の現在[昭和六十年]に直結しているように思われる。四十年の時間を超えて、暗い空から真っ白な雪が吹きこんで来るような気がする。愛せると思えたものが、実は同時に愚かでしかないものであるということが分かってしまった──そのことが今も続いているのなら。
 分りうるということを知ってしまった人間は、それ故にこそ分ろうとしない愚かしさを憎むものだ
(…)
『戦中派不戦日記』の読み取り方は色々あるだろう、しかし私にとってそれは一つである。山田誠也青年はただただ、愚かしさだけを呪っている、と。愛しうるものが、何故こんなにも愚かでなければならないのか、と。

 × × ×

『さようなら、ゴジラたち』(加藤典洋)も少し前に読了。
同じく抜粋。
返却日が今日で思考する時間足りず。

 ずいぶん昔のこと、カナダに三年ほどいた頃、親しくなったアメリカ人の友だちから、こんな話を聞いた。たとえば、待ち合わせをすることになって、渋谷のハチ公前で会おう、という時、先に来たほうが、そのハチ公前には立たないで、そのハチ公前が見える別の場所に位置して、相手がハチ公前にくるのを待つ、ということがある。ハチ公前で待っていると、いつどの方向から相手がくるだろう、いまいかいまか、というので疲れる。そんなところから、こういう待ち方が生まれたのだろうが、そのもう一つの待ち場所のことを、英語では”shooting spot”というのである。つまり、シューティング・スポット(狙撃地点)とは、自分からは相手が見えて、相手からは自分が見えない場所のことを言う。これと同じことが思想についても言える。ものを考える上で大切なのは、むしろ自分を狙撃される位置、ハチ公の位置に立たせることだ。そうでないと、その「考えること」は、結局その人自身の身にならないだろう──

p.47-48 「戦後を戦後以後、考える」

これは前に抜粋した「思想のオーソドクシー」と関係が深い。
いや、同じ話だと思う。

「ねじれ」を生きるとは、面倒なことではない。「ねじれ」をいかなる意味でも回避しないこと、つまりふつうの場所から、そこだけを信じるべき思想研磨の場所として考えていくことをそれは意味している。そのふつうの場所が「ねじれ」ている場合、それは、その「ねじれ」を映すにすぎない。その背景にあるのはつねに思想のオーソドクシーに従うという原理なのである。

p.143 「戦後から遠く離れて」

この太字は引用者。
そこは「ふつうの場所」。
それは、「思想」もしくは思想(が見出される)状態だと思われる。

今の自分に「ふつうの場所」はありません。
今いる場所は「仮の場所」とでもいうべきところ。
明日、この「ふつうの場所」を定めに出掛けてきます。
これについてはおいおい書くはずです。

 一九七九年、村上春樹という若い小説家がある文芸雑誌の新人賞を受賞する。そこで彼は戦後の左翼文化に一つのさよならの挨拶をする。その小説『風の歌を聴け』で、村上は、『気分が良くて何が悪い?』という好きな小説家のエッセイ集を愛読する主人公が、「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」という比較的金持ちの家に育った、いわば六〇年代(左翼)風の感性を持つ友人が没落していくのを、深い哀惜のまなざしで見送る物語を書いた。「気分が良くて何が悪い?」しかし飢えた子供たちがいる世界の中で「気分が良い」ことは、それまでなら、「悪い」とはいわないまでも、「後ろめたい」ことだった。それはまともな人間なら、ほんの少しは、良心の呵責をおぼえろよ、といわれるようなことだったのだ。
 しかし、ムイシュキン公爵がイッポリートに「私たちの幸福を見逃してください」といったように、私たちは、よその世界に飢えた子供たちがいることを知ってはいるが、「気分が良い」ことを恥じないようにしないと、ものごとをもっと堅固には考えられないのではないだろうか。私たちのすぐ隣りで、「気分が良い」ことをしている人々を、私たちは、そのもっと遠いところでは人々が飢えているのを知っているとしても、その「気分の良さ」に対しては、祝福したほうがよいのではないだろうか
 なぜなら、そのように「気分が良いこと」、幸せであることを、求め、めざして、いま飢えている人を含め、広くすべての人は、生きているのだからである
 私にこの村上の直観は、左翼性から離れても、人が他人のことを思いやり、社会のことを考え、まともに生きられる、そんな考え方のみちすじを作らなければ、これからやってくる社会には対応できない、という予言として受けとられる。

p.230-231 「六文銭のゆくえ」

この一節に自分は強く心を動かされました。
また時間のある時にゆっくり考えて書きたいと思います。
ちなみにこの「左翼性」については『貧乏は正しい!』(橋本治)に分かりやすく書かれています。
これも関連させて、また。

 × × ×

『小商いのすすめ』(平川克美)から。
上の加藤氏の引用と、同時に読んでいたからか共鳴する部分を引いておきます。
引用中「大きい問題」と「ちいさい問題」が何度も出てきます。
「大きい」方は、経済問題やら社会問題など。
「ちいさい」方は、ヒューマン・スケールの小商い、日常生活など。
とりあえずそうとらえておいて差し支えありません。
本旨は引用部だけでは分りませんが、僕の意図はその紹介ではありません。

 何度も繰り返しているように、問題のスケールが「大きい」か「ちいさい」かということは、どちらがより重要かということを意味しません。では、何が違うのかといえば、語り手である「わたし」の位置取りが違うということなのです。
「大きい」問題では、「わたし」はただ背景のひとつとして視野のどこかに現れるにすぎません。そこでは「わたし」の願望や、意思というものはほとんど問題にはなりません。いや、「大きい」問題を処理する場合には「わたし」は、問題を考える思考にバイアスをあたえてしまうだけの躓きの石なのです。「大きい」問題では、個々人の意思や願望がなぜ、そのまま実現されずに、思わぬ結果となって招来するのかという理路を理解することが重要なことだとわたしは考えています。
 しかし、「ちいさい」問題を取り扱う場合には、必ず「わたし」がその問題を引き受け、どのように行動し、どこまで責任を負うのかということが重要になります。
大きい問題」と「ちいさな問題」では、その中に含まれる不合理性の処理の仕方が違うのです

p.131 「第四章 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ──東日本大震災以後」

平川氏のいう「不合理性」と、加藤氏の「ねじれ」とが、僕の中で共鳴したのでした。

思想は、「大きい問題」か、「ちいさな問題」か?
僕は「ちいさな問題」だと思っています。
そう思わなければ、それを常識に登録しなければと思います。

あるいは本を通じてその実践が仕事としてできれば、喜ばしいことかもしれません。

『14歳のバベル』(暖あやこ)を読む

ちょっとした縁があり、『14歳のバベル』(暖あやこ)を読んだ。
SIMは途中からSF度が増してきたので魔法都市ゴドランド
原曲はごちゃごちゃしているが、頭の中でBGMを流すので「実際」はシンプル。
以下、思ったことをちょっと書いてみます。
(SIM : Synaptic Imaginative Music、脳内BGM。造語です)

キーワードはとりあえず(1)「一気読み」と(2)「親切な小説」。

(1)
一つ目はAmazonか何かのレビューでちらりと見た言葉。
なるほど仰る通り、先へ先へと導かれるように読んだ。
これは自分が普段読む小説とは違う性質で、疲労があった。
現象的には逆なはずなのだけど、不慣れという意味で疲れたということ。

基本的に「一気読み」は読み物におけるポジティブな特徴とは思っていない。
 一つ、立ち止まって考えさせるところがあってほしい。
 意味の不明瞭(不思議な比喩とか)にせよ、行間に漂う存在感にせよ。
 二つ、いったん読むのを止めて間を(読者に)おかせる性質も好ましいと思う。
 内容が時間をかけて身に染み込む、あるいは形を変える過程も読書の醍醐味である。
これらがあまり起こらないのが「一気読み」できる本だ。

先にネガティブな言い方をしたが、これはもちろん一面である。
逆に言えば、話の展開にスピード感があり、それを臨場感として味わうことができる。
些細な(本筋と関係ない)表現にいちいち立ち止まって気を散らされることが少ない。
どちらがよいかは読者の趣味で、自分は前者というだけである。

両者は、フィクションの現実(生活)への影響度の差として比較できる。
「一気読み」を好む読者は、小説を読む間はフィクションにどっぷり浸かっていたいと思う。
そうでない人(たとえば自分)は、フィクションの生活に対する何らかの影響を期待する。
フィクションに限らず、自分は読書とはそういうものであるという認識がある。

(2)
「親切な小説」とは何か。
ここでいう親切とは、作者の読者に対する配慮を指す。
上に書いたことも関係するが、それ以外にもある。
 たとえば、伏線に対する配慮。
 伏線にそれとわかるマーカーをつける、後で必ず回収する、回収時にも目印がある、等。
 たとえば、物語進行の理解に対する配慮。
 登場人物の発言に心情描写を足す、登場人物の行為に「神の視点」の説明を加える、等。
これらの配慮は、必要性の程度が読者によって変わってくる。
多くの読者に読んでほしいと思えば、作者は配慮を念入りに施すかもしれない。
ただ一方で、(様々な理由で)説明過剰を嫌う読者がいることも確かだ。
自分もその一人である、が、個人的な理由はさておく。
かわりに、今書きながら内田樹メディアリテラシー論を連想したのでそのことに触れる。

 新聞の読者減少傾向はずっと続いている。
 制作側の対策の一つとして「より読みやすい紙面構成への切り替え」がある。
 その具体例としては「大きな活字」「表現の平易化」「難読漢字の不使用」など。
 後ろの二つは、活字離れが言われる若い読者に向けられている。

 読解力が低下した若者にも読めるように、紙面の文章も簡単にする。
 それで読者が増えないとも限らないが、問題は別のところにある。

 読者の文章理解力に新聞が同調すると、その理解力の低下は止められなくなる。
 読解力のつく文章とは、そもそも読み手の能力をいくらか上回る文章ではないのか?
 そして活字に興味を持ち、向上心を刺激する文章も、それと同じなのではなかろうか?

書きながら別のことを思いついた。
物語のストーリー把握は、読解力とは別の問題ではないのか、と言われそうだ。
小説は読解力を鍛えるためではなく、物語を楽しむために読むものだ、と。
大筋はその通りだが、自分についていえば、全面的にイエスとはいえない。
なぜなら、読書の幅を広げたいと思っているから。
「今は手が届かずともそのうち読めるようになる本」も読みたいから。
これは「物事を知るとは”分からないことが増えていく”ことである」のと関係している。

…と当てずっぽうに書いたが、どう関係しているか?
すぐに整理できなさそうなので、保留にしておきます。


小説の内容にほとんど(というか全く)触れませんでしたが、以下少しだけ。

 × × ×

物語の現在時から8年前に、日本で「大きな事件」が起こったという。
主人公の14歳の少年は、その「事件」がきっかけで精神に深い傷を負う。
 「事件」によって、日本のあちこちに居住不可能地域が出現した。
 居住不可能地域では「メーター」が振り切れ、緑地や農作物が汚染された。
 また「事件」は「サイバーテロ」でもあったという。
 「事件」が起こって日本ではネットが使えなくなり、海外との通商が激減した。
 携帯電話がなくなり、脱「ペーパーレス化」が進行し、ハンコ屋が繁盛する。
ハンコ屋というのが面白いんですが、それはさておき。
「事件」について、物語の中で何度もその断片的情報が開示されます。
が、実際にどういうことが起きたのかは具体的に書かれないまま結末を迎えます。
「メーターが振り切れ」と言われれば、なんとなく原発が関係していそうです。

日本が半鎖国状態になる、という展開はいいなと思いました。
養老孟司氏が「参勤交代のすすめ」と併せて鎖国を提唱していたのを思い出しました。
物語内では「鎖国によって日本国内で均質化が進んだ」とありますが、
江戸時代の幕藩体制を思い浮かべると必ずしもそうなるわけではない気がします。
(地方の特産物という概念が生まれたのがたしかこの時代だったはずです)

ポジティブな「鎖国小説」を読んでみたいなとふと思いました。

 × × ×

14歳のバベル

14歳のバベル

九条と自衛隊、思想のオーソドクシー、手続きのまっとうさ

『さようなら、ゴジラたち』の「戦後から遠く離れて」の章を読む。
憲法改正手続き法案が衆議院を通った頃の、憲法九条論。

『九条どうでしょう』(内田樹ほか)は前に読んだ。
加藤氏はこの本所収の内田樹の主張にほぼ賛成している。
(以下、いろいろ混ざった私的要約)

 現実と矛盾する九条をどうするか。
 矛盾、九条一項と、実質的に軍隊たる自衛隊の存在。
 ソリューションは三つ。
  一、憲法を改正して現実に合わせる。軍隊合憲、疾しさのない集団的自衛権の行使。
  二、現実を憲法に合わせる。自衛隊の縮小解体。
  三、現状維持。九条もそのまま、自衛隊もそのまま。
 最も正しい選択肢は三、現状維持である。
 
 平和憲法自衛隊は、戦勝国アメリカにとって矛盾のない解であった。
  一億玉砕の危険な国に、もう戦争をさせてはならない。
  一方で、アジア圏の秩序や対ソ連にとって衛星的な軍隊駐留地が必要である。
 アメリカの論理明快な政策を「矛盾」とみなしたのは敗戦国日本の側の事情である。
 
 「敵国に攻撃されるのはイヤだが、もう他国を侵略する過ちは繰り返したくない」
 九条と自衛隊の相補的な存在が、戦後の国民のまっとうな思いに応えてきた。
 戦後七〇年、自衛隊が外国で一人も殺さなかったのはその功績である。
 今すべきは「矛盾」に正当な位置を与えること。
 「矛盾」による役得の認識、とその経緯、たとえば軍事的属国の認識。
 アメリカからの押しつけ憲法というなら、国民投票で選び直しをする。改憲せずに。
 北朝鮮からの侵略に対しても、改憲がその解ではないことの認識。
 実際の軍事攻撃の「誰得」、東アジアのパワーバランス、日米安保条約

加藤氏は九条の本質は理念にあるという。
この点は「矛盾」そのものを本質とする内田樹の論と異なる、と氏はいう。
理念、世界平和という現実からかけ離れている理想。
高邁な理想は、空想であり現実とかけ離れているかもしれない。
それでも理想が大事なのは、それが意識され続けることで現実に影響を与える点にある
あるいは、理想そのものの偉大さや美しさよりも。


この理念の力に関して、吉本隆明の発言が紹介されている。
この中の「思想のオーソドクシー」というキーワードに、惹かれるものがあった。
 思想は一般人の考え方にくっついていくものであるべきである。
 追従という意味ではなく、庶民の考えとつねに火花を散らす位置にいること。
 人々の日常に寄り添い、影響を与え合って、形を変えていく思想。
 そのような思想が、まっとうさとリアリティを獲得していく。
自分がつねづね考えている「グラスルーツ」と、これは同じ基盤をもつ。

思想のオーソドクシーから、ふとハイゼンベルクの自伝の一節を思い浮かべた。
量子力学者の彼の対話的自伝は『部分と全体』という。
その中にあった「手続きのまっとうさ」という判断方法に関することである。
記憶を頼りに書いてみる。

 第二次大戦期のドイツで、ハイゼンベルクは研究のかたわら大学の教壇に立っている。
 ある時ナチス親衛隊に心酔する若者が研究室に彼を訪ねてくる。
 若者はナチスの理念、前大戦で屈辱を受けたドイツをいかに甦らせるかを滔々と語る。
 そしてハイゼンベルクがなぜナチスに賛同しないのかと彼を責める。
 彼は静かに答える。
  ナチスは正しいことを目指しているのかもしれない。
  彼らに従うことでドイツはよくなるかもしれない。そうならないかもしれない。
  そのどちらになるかは自分には分からない。
  しかし、暴力によって、反対者に対する粛清によってそれを目指す手続きは正しくない。
  自分は「まっとうでない手続き」が数多くの災厄を引き起した歴史に学ぶべきだと思う。
 若者は納得した顔を見せないが、彼は自室のピアノを弾き、彼らは和解して別れる。

主張の内容よりも、その主張のされ方を重視するという判断。
未曾有の混乱期、未来に何が起きるか誰にも分からない状況では、数少ない解となる。
けれどこの見識は、平常時でも変わらぬ効果を備えているはずである。

独裁者が大きな改革を断行するのではなく、成員の一人ひとりがその判断にたずさわる。
そのためには、個々人に理解が行き届くような長い議論も辞さない。
また、習慣の別名である現状維持が倣いの庶民の生活感情も無視しない。
劇的に変わるべきことも、段階を経て、あるいは迂回しながら、少しずつ変えていく。
民主主義のまっとうな発現の、これは一つの形かもしれないと思う。

「思想のオーソドクシー」は、民主主義が機能することを助ける。
「手続きのまっとうさ」は、民主主義が機能していることの一つの指標となる。

連想のつながりは、こういうものであったかもしれない。

 × × ×

 思想のオーソドクシーというのは、鶴見俊輔とともに筆者にとってかけがえのない意味をもつ、吉本隆明の用語である。思想の科学研究会編になる『共同研究 転向』所収のある座談会で、吉本は、こう述べている。
 

僕がどこに正当(ママ)性を認めるかということになるのですけれども、大衆の大多数が向いていく方向にどこまでもくっついていくのがオーソドックスだとかんがえます。大衆の動向に追従していくのではなくて、それと緊張関係にあって対決しながら、どこまでもくっついていくべきだというのが、僕が大よそ考えているオーソドックスであるわけです。

 思想はあくまでも世のマジョリティーの人々を相手にするのでないといけない。どんなに右寄りに保守化しつつあると見えても、彼らを否定せず、どこまでも彼らの動向に寄り添いつつ、「それと緊張関係にあって対決しながら、どこまでもくっついていく」。その働きかけを通じ、かつそのことを試練とすることで、思想は自ら深まり、生き生きと、人々にとって意味あるものであり続ける。筆者が考えるに、吉本の思想のオーソドクシーを、そう考えている。

「戦後から遠く離れて」p.105-106(加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』)

「あれは想像です」、TVピープル、道路地図

土曜日の昼過ぎに呼び鈴が鳴る。
戸を開けると佇む女性。
日蓮宗の分派の勧誘。
歴史の遺物だと思っていたが。

キリスト教の、あの…シト…」
「ああ、エホバのことですか?」
「そうです。あれに比べると、規模は小さいようですね」
あれは想像ですから

勧誘員の、まことに当を得た一言。
それでもこの分派は日本全国で二百万人も会員がいるという。
50人に1人。
地域差は大きいようだが、珍しいという比率ではない。

「人は死んでから2時間ほどは耳が聞こえているといいます」
「亡くなられた方の耳元で念仏を唱えると、血の気が戻って髪も黒くなるんです!」
「…そういうことも、あり得ると思います」
「(笑顔)」
日蓮宗って、他の宗派より身体を使いますもんね。踊り念仏でしたっけ?」
「いいえ、踊りません」
「ああ、いや、起源としては、ということですが」
「?」

正直なことが言えず、ひたすら相手の話を聞いていた。
端的に伝えても気を悪くするだけだろう、と思い。

宗教に興味はあるが、自分が信仰を持つことはない。
関心があるのは「人がどのように宗教を必要とするのか」、
あるいは、宗教を媒体として前面に押し出される人間性

科学も宗教的な性質をもつが、それはひた隠しにされている。
「迷信じみた宗教を否定する合理性」という表の顔のもとに。
ただ、人類の宗教との関わりは文明以前に遡る。
科学が宗教性を隠すほど、宗教が社会の中で大きくなっていくのだろう。

p.s.
この記事を書き終えた直後に、また件の女性が来た。
話を聞くうち年配の女性も加わり、宗教を軸に政治や歴史の話をする。
そのあいだの2時間、玄関の板間に正座していた。
足の痺れはそれほどなく、冷えたのでお湯シャワーで膝以下を温めた。

脚の忍耐力も大したものである。

 × × ×

とても、ものすごく、よくわかる。

 TVピープルが部屋に入ってきてから出ていくまで、僕は身動きひとつしなかった。一言も口をきかなかった。ずっとソファーに横になったまま、彼らの作業を眺めていた。不自然だとあなたは言うかもしれない。部屋の中に見知らぬ人間が突然、それも三人も入ってきて、勝手にテレビを置いていったというのに、何も言わずに黙ってそれをじっと眺めているなんて、ちょっと変な話じゃないか、と。
 でも僕は何も言わなかった。ただ黙って状況の進行を見守っていた。それはたぶん彼らが僕の存在を徹底的に無視していたからじゃないかと思う。(…)目の前にいる他人からそんな風にきっちりと存在を無視されると、自分でも自分がそこに存在しているかどうかだんだん確信が持てなくなってくるものなのだ。ふと自分の手を見ると、それが透けて見えるようにさえ感じられる。それはある種の無力感だ。呪縛だ。自分の体が、自分の存在がどんどん透けていく。そして僕は動けなくなる。何も言えなくなる。(…)うまく口が開けない。自分の声を聞くのが怖くなる。

村上春樹TVピープル

カフカの作品は寓話ではない、と保坂和志はいう。
ところでこれは寓話である。
でも話は簡単じゃない。

この話が寓話であるのは、テレビが寓話的であるという意味においてだ。
言い換えると、「現に(たとえばリビングに)テレビがある生活風景」としては現実的である。

三人のTVピープルは寓話的存在だが、彼らは現実の生活に登場する。出没する。
そして、現実に触れることで寓話的でなくなるTVピープルは、寓話以上の存在である。

だから怖い。恐ろしい。

TVピープルを見ることは、
自分もTVピープルになることだから。

 × × ×

ツタヤに行って「全日本道路地図」を買いました。3300円。
岩手で花粉が猛威を振るい始めたら、南へ逃げます。
「事のついで」に。
ふふふ。

身をやつす、苦労の「言い値買い」、Y.Kのこと

朝食時に『小説修業』(小島信夫保坂和志)を読み始める。
ハシモト氏の「貧乏は正しい!」シリーズはこの後になりそう。

週に一度の洗濯は朝起きて食器を洗う前に洗濯機のボタンを押す。
1時間の暖気なし乾燥「風乾燥」を含めて、朝食を終える前にブザーが鳴る。
朝食こもごもで2時間ほど経過している模様。

私はデビュー作の『プレーンソング』からしばらくのあいだ、私に似た語り手を設定するにあたって、<身をやつして>いました。<身をやつす>というのは、語り手が普段の私と同程度に考えたり感じたりするのではなくて、見ないようにする部分、考えないようにする部分、そういうところが語り手にあるということです。(…)私が身をやつさないように心がけるようになったのは、その一年後の『猫に時間の流れる』からだったのですが、『プレーンソング』や『草の上の朝食』の語り手が身をやつしていたのは、意図していたことではなくて、あの頃はそうしていないと書けなかったのです。「書く」というのは必ず何か枠組みを必要とすることで、はじめの頃の私は、<身をやつす>という枠組みを必要としていた、ということです。p.35-36

小説家が「書く」のと同様、勤労者が「働く」においても枠組みを必要とする。
会社の規則や人付き合いという外部の枠組みのことではない(無論それもある)。
個人の内側においてのこと。

次に働く時は<身をやつす>必要があるなと思う。
一度染まれば戻れないと、過去の自分は思っていた。
それは間違いであり、どうしようもなく正しい。
未来は見通せず、過去には戻れない。つねに。

仕事に<身をやつす>のは、余計なことを考えなくなることではない。
ひとまずは「考える土台」を疑わない、ということ。
土台とはすなわち、その仕事によって成り立っている生活。
思考と言葉にディテールが生まれるのはそれからのこと。
生まれざるを得ずして、生まれてくるもの。
評価分析以前の立ち位置。

 × × ×

 松柳、教室にて余に「君ほど幸福なる者、この学校にあらず」という。
「?」
 と、顔を見るに、「君ほど本をよく読んでいる人間はこの学校中になし。人間は精神的苦労をせねば立派なる人間になれず」という。
 余は真に苦笑せり。背に粟の生ずるを覚えたり。(…)
 余答えて曰く「君の言葉によれば、本を読むことと精神的苦労とは同一のごとく感ず。然るや?」
 松柳曰く「然り」而してふしぎそうな顔なり。余は微笑を禁ずるを得ざりき。
(…)
 而して余心中思えらく、松柳若し余の、口から出まかせの諧謔と、刺すがごとき皮肉と、冷たさと虚無と憂鬱と投げやりの外観に魅せられたるならば、その光栄は書にあらずして、余の過去の担うところなり。
”精神的苦労”は、人間と人間とのきしりより生まる。おのれと、それにひとしく卑小なる周囲との、おそらく愚劣極まる小事をめぐる魂のたたかいより生ず。而して夢それを羨むことなかれ!
 松柳、愛にみてる父母と優しき妹を有し、靄々の故郷を有す。かくして苦も知らず悩みも知らずすくすくと杉の木のごとく、素直なる、鷹揚なる、明朗なる品性に育てあげらる。これにまさる幸福、人生の価値いずこにあらん。余の”精神的苦労”こそ文学的片影、小説的魅力など毫もあらざる惨めなる、滑稽なる、悲惨なる魂の地獄なりしを。

「五月」p.183-184(山田風太郎『戦中不戦派日記』)

そうかもしれない。
去年春に会った小学校の元担任は、自分のことを「温室育ち」と言っていた。
そうかもしれない。

温室にしろ路傍にしろ、育ちに応じて向き不向きは生じよう。
ただ、適性に従うのが苦労を回避するためというのなら、御免こうむりたい。

苦労の値段は日に日に上がり、とどまるところを知らず。
稀少価値に阿る市場の、何ぞこれのみ避けたるか。
金の使い途に困らば、苦労をこそ買うべし。

 × × ×

「温室育ち」のコンテクストを思い出す。
先生は「Kさんもそうだったわね」と言ったのだった。

子どもの頃の記憶として、中学時よりも小学時に、より濃い彩りがある。
記憶が脈絡を欠いた断片しかなく、その個々は視覚的に曖昧であるにもかかわらず。
そのせいか、旧友として会ってみたい人は小学校の方が多い。

Kもその一人で、教え子の消息を多く知る先生に尋ねると、先生は首を振った。
そのかわり、当時の彼女の印象と、あるエピソードを教えてくれたのだった。
その印象とエピソードは、僕にはかなり意外なものであった。


生徒会で僕が副会長をやっていた時に、同じく副会長をやっていた。
生徒会は、会長、副会長男子、副会長女子、書記で構成されていた*1
小学四年から六年の高学年クラスの中から、各役職に対して数名ずつ立候補者が出る。
その生徒会役員が全て1つのクラスから選出された、異例の年(半期)だった。

彼女について、「テレサ・テン」という言葉がまず浮かぶ。
だがこれは実際のところ、「テレサ・テン」ではなく「テレサ」である。
「だるまさん」の要領でふわふわと追いかけてくる、マリオに出てくるお化けのこと。
パッと言葉が出るところからして、当時すでにもっていた印象に違いない。
今それを解釈すれば、髪型(を含む頭の形)と、大きく開けた口。
彼女は明朗闊達で、とてもよく喋る子だった。
その奥に繊細ななにかがあるとは、つゆとも思わなかった。


「あの頃からどう変わったか」
その興味は、小学時代を共にした多くの友人に共通してある。
ただ、彼女に会ってみたい理由はそれだけではない。
「ほんとうはどういう人間であったか」
隠れていた、あるいは隠していた一面は成長を通じて形を成し、やがて顕在化する。
もしそうなら、長じての再会は過去の記憶に新たな彩りを添えるものになるだろう。
そして何より、それは僕自身と近しい一面であるかもしれないのだ。

僕が心配する義理はどこにもないが、
地元であれどこであれ、元気にやっていればいいのだけれど、と思う。

*1:書記は1人だったと思うが、2人だったかもしれない。

原発神話と小商い、精神の貧乏性

『小商いのすすめ』(平川克美)を読む。
SIMは村松健「北帰行、ついておいで」。
汎用性の高い一曲。小説以外の、思考を巡らせる本でよく流す。

「経済成長から縮小均衡へ」の章で、橋本治氏の本の引用がある。
自分も全巻持っている『貧乏は正しい!』の初巻。
 若者は本質的に貧乏である。
 若者の力は貧乏に発する。
 社会が力の無さを富で隠蔽する時、衰退は始まっている。
平川氏はこの内容を「貧乏とは野生の別名である」と読む。
 戦後から東京オリンピックまでの復興期の、日本の大人にあったもの。
 貧乏は金の無さ、住まいの貧しさとは関係がない。
 進歩発展の余地があり、それに取り組める環境があるということ。
 復興期の世間の明るさは「貧乏なれど」ではなく「貧乏がゆえ」であった。
この貧乏=野生論が東日本大震災原発人災に結びつけられる。
 震災で崩れた原発神話の擬制は「富による隠蔽」の典型であった。
 原発の、万一の災害コスト、核燃料の処理コストの転嫁。
 一、立地自治体への迷惑料。一、原子力系技術者の抱え込み。
 擬制の欺瞞に対抗するための「野生の復権」。
続きも気になるが、自分は違うことを考え始めた。

小商いは上記の貧乏と深い関係がある。
復興期は「生活上の必要物資の需要拡大」があったが、今はない。
平川氏の「野生の復権」の展開はもちろん小商いベースになされる。
 消費者と生産者が共同でつくりあげる商いの場。
 その場になくてはならないのは、生産者の丹精が込められた商品。
つまりモノベースの商売における貧乏=野生性の復活について語られるはずだ。

 × × ×

一方で、自分は精神面の貧乏性について考えてみたくなった。
ハングリー精神、という言葉があるが、これとは違う。
精神に進歩発展の余地があること。
これはどういうことか。

モノの充実とはあまり関係がない。
むしろその充実は「余地」の感覚を鈍らせるだろう。
いや、そうとも限らない(森博嗣の例がある)。
清貧は生活における精神の活動をシンプルにしうる。
シンプル、つまり単調、単純。
経済の均衡は望まれても、精神の均衡は、おそらく進歩発展とは別方向にある。

生命活動のリソースを脳へ多めに振り向けること。
逆からいえば、身体性にあまり配慮しないこと。
文学者、昔の文豪などはこういうイメージがある。
これは、自分が好まないとは別に、これも違うと感じる。
なぜだろうか。

「人間は必ず自分の意思とは異なることを実現してしまう」
平川氏が本書で引用していたアダム・スミスの言葉(『国富論』)。
この人間の本性を表す言葉は、いろんな位相において解釈できる。
が、ここでは解釈よりは言及を優先する。

ものが豊かになった社会は、この人間理解から遠のいてしまう。
自分の意思を実現できる機会に恵まれている、と思うために。
「将来への不安」が漠然とするのは、このせいではないか。
想像通りの、不都合の特にない、勝ち組*1的な生活が私達にはできている。
できているはずなのに、どこか満足せず、なにがしかの不安が消えない。
そしてこの不安の元をたどることを考えず、見なかったことにする。
これは精神に進歩発展の余地がある状態ではない。
精神の荒廃かといえば、そうでもない。
精神が不用であり、不要な状態なのだ。
…どうもこの手の思考は反知性主義に落着してしまうらしい。


精神の貧乏性について、否定表現を連ねようと書く前は思っていた。
精神の貧乏性とは、あれでもない、これでもない、という風に。
変化への意志である、などと言い切りたくはない。

進歩発展は、経過、プロセスである。
目指すもの、到達すべき目標があり、そこへ向かって歩みを進めている状態。
精神の貧乏性も、その維持は、プロセスである。
ただ戦後復興期と違うのは、定まった目標がないこと。
変化への意志という表現も、一つの目標を意味するものではない。
上述「言い切りたくない」のは、それが自己目的化してしまうからだ。


分からない。
行き詰まった。
なぜか分からないが、「精神の貧乏性」が自分には良い言葉に響く。
橋本治氏の『貧乏は正しい!』シリーズをもう一度読み返してみようかと思う。
広告時評の連載『ああでもなくこうでもなく』全6巻はつい最近読み返したところで、
多少食傷気味だと思っていたが、そうでもなくなったかもしれない。

そうだ、一度読んだ本を再読することへの抵抗がここ最近の自分に見られた。
「前へ進まねば」という意識がそうさせていた。
再読は、過去への安住を求める気弱さを助長する。
もちろんそういう面もある。
そしてもちろん、そうとは限らない。
新たな問題意識を獲得した時の再読は、新たな発見を導く。
たとえば、今のような。

新刊で本を買わない習慣が、この時々の弱気さを生み出しているのだろうと思う。

*1:どこで読んだか、「勝ち組」の語源は、ブラジルに入植していた日本人の中にいた、戦後に決して日本の敗北を認めなかった奇特な一集団を指すそうです。

SIM、不戦派日記、徒党社会の多様性

脳内BGMという表現がごわごわしているので略語を考える。
Back Ground Musicの目的をそのまま持つが、性質をその略語に取り入れる。
たとえばSynaptic Imaginative Music、SIM。
実体すなわち波動性を有さず、頭中を走る電気信号によって奏でられる。
虚数は実数空間に存在しないが、仮想的な数として数学に大きな実りを与える。
実体を持たない数、Imaginary Number。

 × × ×

『戦中派不戦日記』(山田風太郎)を読み始める。
橋本治氏が時評でとりあげていた。文庫版の解説も氏による。

SIMは村松健「Blue」から"Komorebi"。
音数が少ないのでSIMとしての再生難度は高い。
無秩序の常で、他の曲が混ざってくるからだ。
SIMの無秩序はIではなくSに起因する。
Sの無秩序性はその大元の秩序性をカオス化する量的膨大性に起因する。
量が質に転化する一例。元は量だと言っても始まらない。
科学はそれを始めたのだが。

昭和20年1月分を読む。
B29の来襲時間が日課のように記される。そういう日常。
文語体のリズムがよく、ときどき一節を朗読する。

アダムとイブ、創世記の状景が挿入されている。
生む、産むことをもって生物の目的は達成される、が。
挿話の末尾に、一度全てゼロにすべし、とある。
戦中の、24歳にして老い医学生

 ○すべてを破壊すること、習慣、教育等有形無形のものを醸し出す幻の衣をいちどひっぺがして、「ほんとうのもの」を眺めること。
 何だかルソーみたいなれど、一ぺん全部洗い落したい。 p.36

 而してこのごろ他と情に於て交渉するが煩わしければ、ことさらにとぼけ、飄然とす。たいていのこと、見ざるまね、聞かざるまね、知らざるまねして通すに、習い性となり、偽次第に真となりて、ようやく老耄の気をおぼゆ。二十四歳にして耄碌せりといわば、人大いに笑うべし。 p.39

空に轟く航空機の音に、これまでにない空白を抱えて、耳を澄ます。

 × × ×

同じく『さようなら、ゴジラたち』(加藤典洋)を読み始める。
SIMは村松健の"The Tennessee Waltz"。

「己の振る舞いが、他人がみな自分のように振る舞って支障のないものかどうか」
行動指針のひとつとして、利己主義を戒めるためのこの考え方を採っている。
世界への影響がその現状も含めて知りうる情報横溢時代には自己破綻を免れない思想。
読んでいて、日本の平和主義と、この考え方との関係に頭が混乱する。

 平和主義は多様性を認めるものである。
 憲法9条は平和主義には足りず、反軍国主義である。
 平和主義は武力を用いず、たとえば文化、教育、経済面で紛争を解決すべく介入する。
 反軍国主義は武力を用いない意思のみ掲げて、紛争解決への積極性を含まない。
加藤氏の主張を自分はそのように読んだ。
また別のところにはこうある。
 日本には徒党があって社会がない。
 ルソーのいう社会内社会の特殊意志のみがあり、一般意志がない。
自分の中で論理が錯綜している。
よじれて絡み合いダマになった思考をここでほどこうと試みてみる。


日本の平和主義は、それが徒党社会であることによって多様性を認めない。
成員のみなが「争いのない平和な社会を望む」と願う。
世界中の人々がそう願えば世界平和が実現すると思う。
おなじその成員は、そう願わないものを仲間とみなさない。消極的に排除する。
これはどういうことか。
一つ、日本の外にも平和は実現してほしいが、あくまで他人事である。
穿って考えれば、実現してほしいのは、それが情報として日本に入ってくるが由。

憲法9条が日本の徒党性を反映しているかは分からない。
それでも、今の日本が「憲法9条を世界遺産に」と思うのは筋違いだと感じる。
相手はきっと、世界中が日本人のように振る舞えば世界は平和だ、という押しつけと見る。


利己主義の戒めと多様性の容認は、どう関係するのか。
双方を十分には満たせない、トレードオフなのか。
スケールが大き過ぎて、同列に考えられるものかの判断がつかない。
日本人にとって、多様性という言葉から日本文化の外部を連想するのが難しい。
それだけ日常から遠いということ。情報としてはいくらでも入ってくるにしても。

上記「不戦派日記」の引用と共鳴した部分を引用しておく。
この引用文の全体は2009年に書かれたもの。

 いま、われわれは何をどのように考えるべきか。ここで冒頭の第一の問いに接続するのですが、非「文学」的に事柄に処し、また、根本的に、ゼロの地点から、物事を考え直す。そういうことだけが、いまある閉塞した状況から、われわれの思考と語り口を「再生」させると、僕は考えています。 p.x(はじめに)

政治的にはそう。
僕は個人レベルでは"「文学」的に事柄に処す"ことが大事に思う。
想像力の尊重という面で。
そしてこれは個人からしか始まらない。


タイトルをつけてから思う。
「徒党社会の多様性」の容認は現状、無関心によってしか実現されていない。
そこに徒党性を変える意志は微塵もない。
では積極的に多様性を認めるとはどうすることか。ことに日本において。
難しい。

ながら書き、< harmony / >、1Q84読中

「片手間に文章を書く技術」を身につけたいと思う。
時間が惜しいからではない。
書く時間によってほかの時間を分断させたくない時がある。
それでも書いておきたいことがある時がある。
日常的な思考の継続のバリエーションをいくつか想定してみる。
思うともなく、過ぎ去る時間とともに形をとるかとらないかという思考。
ふと意識に浮かび上がる時に「前の続き」だったり「展開」だったりする。
あるいは、経過点を一つひとつ確認して着実に前進していく思考。
足跡が消えてしまわないように、一歩を踏み固めながら前進していく。
足跡の間隔、向き、リズムが、「一歩その時」を物語る、その声を聞くために。
もしかしたら、同じと思っていた足跡の形も、一定ではないかもしれない。
どこかで靴を履き替えたのかもしれない。
ことによっては、同じ足跡は一つとしてないのかもしれない。
足跡はメタファーであり、ほんとうは目で見るものではないから。

もう一つ、「片手間」と書いた意味。
PCの、ネット空間の、引きずり込まれる力をすり抜けるために。
ただし、想像力の抑制、可能性の無視からではなく。
偶然を排さず、かつ必然を見失わず。

「走り書き」というほど慌てるわけではなく、しかし勢いはそのように。
ぽつぽつとやってくる客に料理を出すその合間に、立ったままカウンターで言葉を紡ぐ寡黙なウェイターのように。料理長は特に気に留めない。
仮に「ながら書き」と名付けておく。


 × × ×

昨日、紫波図書館で月例の貸出、5冊。
そのうち『ハーモニー』(伊藤計劃)を読み始め、高いシンクロを感じる。

「さっき見てたのは、本だったの……」
 わたしはびっくりして訊ねた。実際、それはわたしが生まれて初めて本というものを目撃した瞬間だったろうから。
「そうだよ、霧慧トァンさん。わたしが持ってたのは、本。いつも持ち歩いているし、教室で休み時間には大体これを読んでるよ」
 そう言ってミァハがカバンから取り出してみせてくれた本の表紙には、「特性のない男」という文字が書いてあった。
「なんだか、つまらなそうなタイトルだね」

< harmony / > Project Itoh p.26-27 ; 2010 printed ; Hayakawa Mystery

『特性のない男』(ムージル)の主人公ウルリヒは、「私がなにか本を書きたいと考えたら自殺しようと思っています」と義兄に淡々と告げる。世間話のついでに。
「特性のない男」を完膚なきまでにリスクヘッジされた児童公園で読み耽る御冷ミァハは、自作した拒食症を発症する薬を飲み、近未来健康至上社会で「公共物」となった子供の身体を毀損するべく自殺を遂げる。ミァハの2人の友人のうち一人である『ハーモニー』の主人公霧慧トァンは同じ薬を飲むが生き残る。
『特性のない男』を読み終え、『ハーモニー』を読み始めた男は、

 × × ×

今日、『心臓を貫かれて』(M・ギルモア、村上春樹訳)を読み始める。
脳内BGMはうみぬこPの「アンドロメダの哀しみ」
「家族の虐殺の話」であり、どう展開するかわからないが、プロローグから静けさが感じられたため。
違和感があればまた変わるだろうと思う。

 × × ×

寝しなに読み始めて幾月、昨晩ようやくbook3に入る。
語り手がいきなり「牛河」になって少々面食らう。
その前、天吾が意識のない病床の父を前に回想を語る。

もともと中心のない人生ではあったけれど、それまでは他人が彼に対して何かを期待し、要求してくれた。それに応えることで彼の人生はそれなりに忙しく回っていた。しかしその要求や期待がいったん消えてしまうと、あとには語るに足るものは何ひとつ残らなかった。人生の目的もない。親友の一人もいない。彼は凪のような静謐の中に取り残され、何ごとに対しても神経をうまく集中することができなくなった。

村上春樹1Q84 book2』

そうかもしれない。

『コンヴィヴィアリティのための道具』を最後まで読むための覚え書き

返却期限までに読み終えることができませんでした。
もう一度借りるか、買うか、どちらかをしたい。
という思いを形にするべく印象をメモしておきます。
(後記:やはりいくらか書評調になってしまいました)

 × × ×

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

行き過ぎた産業主義を政治的に抑制する。
社会主義」という言葉が本書中にあります。
(よく知りませんが、イリイチがそういう人なのかもしれません)
民衆が自立的な工夫や努力でもって、仕事を、生活を成り立たせる。
コンヴィヴィアリティは「自立共生」と訳されています。
共生、の意味は、自立が「他者の自立を阻害しなくてもできる自立」であること。

本書は理想的な社会の構想が語られたものではない。
民衆が自ら望むあり方の社会をつくりだすための概念的道具が述べられている。
上に書いた「政治的に抑制する」ことが眼目で、政治を担うのは民衆である。
庶民一人ひとりが自立共生について考え、自己に基づく指標を打ち立てることが前提となる。
政略に堕した政治を「あるべき社会を成員が参画して決める場」に変えるツールが本書にある。

それゆえ、効率至上主義や言葉の貧困化などの過度の産業主義を批判するだけでは終わらない。
「過度」がどの程度のものか、どういう種類(波及的影響)があるか、も語られる。
読み手は、批判に同調して溜飲を下げるだけで満足することはできない。
その目的で読むにしては内容の抽象性が高く、そして説得的ではないからだ。
説得的ではないとはつまり、書かれているのが説明ではない。
道具の提案があり、歴史や由来が紹介され、使用法が例示される。
だがその使用法は、単独の目的を持たない、自立共生的な使用法である。
読み手は考えて、自ら導き出さねばならない。
この道具を、いかに活かすことができるのか。

本書に書かれた政治的構想が、読み手の自発性を刺激する。
意外にも、政治を身近に感じることができる一冊として推薦できるかもしれない。
あるいは、政治は身近な問題意識からしか生まれないことを示唆する一冊として。

 × × ×

最後まで、あるいはもう一度読もうと思った理由を追記しておきます。

上記の通り、本書は読んだ内容をそのまま糧にするものではない。
考えるツールが提示されているが、哲学書ではない。
自分がいま、どういう時代に生きているのか。
あるいはこの先、時代がどう限界を迎え、破綻しうるのか。
それを読んで理解するというより、読めばそれを考えることができる気がする。
自分の頭で、自分の経験をもとにして。

一つ前の記事と関わることだけど、
これも一つの(生産性と関わりのない)創造性の発揮で、
それが嬉しく、
同時にそれが政治と結びつくことに驚いているのだと思います。

以前『新リア王』(高村薫)を読んだ時に、政治についての充実さを覚えた記憶があります。
その時の感じと今がどう違うのか、今少し興味がわきました。

新リア王 上

新リア王 上

それともう一つ。
抽象性の高い思考が、人を動かす力を持っていること。
僕は文章を書くのは好きですが、小説を書けるとは思いません。
(ディテールを読むのは好きで、けれど小説的なそれを想像して文章化する能力はない)
僕が好んで書ける文章は、抽象性の高いものです。

コロコロ話が変わりますが、言葉(思考)の動性は、抽象化と具体化の往還にあります。
小説は細部が肝心ですが、その縁の下では教訓が土台を担っています。
小説を読むことはこの意味で、教訓をディテールの形で吸収する具体化作用です。
一方で抽象的な文章を書くことは、文字通り日々の経験や思考の抽象化作用です

もしかして、僕の中でこのように読むことと書くことが循環しているのかもしれません。