human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「あれは想像です」、TVピープル、道路地図

土曜日の昼過ぎに呼び鈴が鳴る。
戸を開けると佇む女性。
日蓮宗の分派の勧誘。
歴史の遺物だと思っていたが。

キリスト教の、あの…シト…」
「ああ、エホバのことですか?」
「そうです。あれに比べると、規模は小さいようですね」
あれは想像ですから

勧誘員の、まことに当を得た一言。
それでもこの分派は日本全国で二百万人も会員がいるという。
50人に1人。
地域差は大きいようだが、珍しいという比率ではない。

「人は死んでから2時間ほどは耳が聞こえているといいます」
「亡くなられた方の耳元で念仏を唱えると、血の気が戻って髪も黒くなるんです!」
「…そういうことも、あり得ると思います」
「(笑顔)」
日蓮宗って、他の宗派より身体を使いますもんね。踊り念仏でしたっけ?」
「いいえ、踊りません」
「ああ、いや、起源としては、ということですが」
「?」

正直なことが言えず、ひたすら相手の話を聞いていた。
端的に伝えても気を悪くするだけだろう、と思い。

宗教に興味はあるが、自分が信仰を持つことはない。
関心があるのは「人がどのように宗教を必要とするのか」、
あるいは、宗教を媒体として前面に押し出される人間性

科学も宗教的な性質をもつが、それはひた隠しにされている。
「迷信じみた宗教を否定する合理性」という表の顔のもとに。
ただ、人類の宗教との関わりは文明以前に遡る。
科学が宗教性を隠すほど、宗教が社会の中で大きくなっていくのだろう。

p.s.
この記事を書き終えた直後に、また件の女性が来た。
話を聞くうち年配の女性も加わり、宗教を軸に政治や歴史の話をする。
そのあいだの2時間、玄関の板間に正座していた。
足の痺れはそれほどなく、冷えたのでお湯シャワーで膝以下を温めた。

脚の忍耐力も大したものである。

 × × ×

とても、ものすごく、よくわかる。

 TVピープルが部屋に入ってきてから出ていくまで、僕は身動きひとつしなかった。一言も口をきかなかった。ずっとソファーに横になったまま、彼らの作業を眺めていた。不自然だとあなたは言うかもしれない。部屋の中に見知らぬ人間が突然、それも三人も入ってきて、勝手にテレビを置いていったというのに、何も言わずに黙ってそれをじっと眺めているなんて、ちょっと変な話じゃないか、と。
 でも僕は何も言わなかった。ただ黙って状況の進行を見守っていた。それはたぶん彼らが僕の存在を徹底的に無視していたからじゃないかと思う。(…)目の前にいる他人からそんな風にきっちりと存在を無視されると、自分でも自分がそこに存在しているかどうかだんだん確信が持てなくなってくるものなのだ。ふと自分の手を見ると、それが透けて見えるようにさえ感じられる。それはある種の無力感だ。呪縛だ。自分の体が、自分の存在がどんどん透けていく。そして僕は動けなくなる。何も言えなくなる。(…)うまく口が開けない。自分の声を聞くのが怖くなる。

村上春樹TVピープル

カフカの作品は寓話ではない、と保坂和志はいう。
ところでこれは寓話である。
でも話は簡単じゃない。

この話が寓話であるのは、テレビが寓話的であるという意味においてだ。
言い換えると、「現に(たとえばリビングに)テレビがある生活風景」としては現実的である。

三人のTVピープルは寓話的存在だが、彼らは現実の生活に登場する。出没する。
そして、現実に触れることで寓話的でなくなるTVピープルは、寓話以上の存在である。

だから怖い。恐ろしい。

TVピープルを見ることは、
自分もTVピープルになることだから。

 × × ×

ツタヤに行って「全日本道路地図」を買いました。3300円。
岩手で花粉が猛威を振るい始めたら、南へ逃げます。
「事のついで」に。
ふふふ。

身をやつす、苦労の「言い値買い」、Y.Kのこと

朝食時に『小説修業』(小島信夫保坂和志)を読み始める。
ハシモト氏の「貧乏は正しい!」シリーズはこの後になりそう。

週に一度の洗濯は朝起きて食器を洗う前に洗濯機のボタンを押す。
1時間の暖気なし乾燥「風乾燥」を含めて、朝食を終える前にブザーが鳴る。
朝食こもごもで2時間ほど経過している模様。

私はデビュー作の『プレーンソング』からしばらくのあいだ、私に似た語り手を設定するにあたって、<身をやつして>いました。<身をやつす>というのは、語り手が普段の私と同程度に考えたり感じたりするのではなくて、見ないようにする部分、考えないようにする部分、そういうところが語り手にあるということです。(…)私が身をやつさないように心がけるようになったのは、その一年後の『猫に時間の流れる』からだったのですが、『プレーンソング』や『草の上の朝食』の語り手が身をやつしていたのは、意図していたことではなくて、あの頃はそうしていないと書けなかったのです。「書く」というのは必ず何か枠組みを必要とすることで、はじめの頃の私は、<身をやつす>という枠組みを必要としていた、ということです。p.35-36

小説家が「書く」のと同様、勤労者が「働く」においても枠組みを必要とする。
会社の規則や人付き合いという外部の枠組みのことではない(無論それもある)。
個人の内側においてのこと。

次に働く時は<身をやつす>必要があるなと思う。
一度染まれば戻れないと、過去の自分は思っていた。
それは間違いであり、どうしようもなく正しい。
未来は見通せず、過去には戻れない。つねに。

仕事に<身をやつす>のは、余計なことを考えなくなることではない。
ひとまずは「考える土台」を疑わない、ということ。
土台とはすなわち、その仕事によって成り立っている生活。
思考と言葉にディテールが生まれるのはそれからのこと。
生まれざるを得ずして、生まれてくるもの。
評価分析以前の立ち位置。

 × × ×

 松柳、教室にて余に「君ほど幸福なる者、この学校にあらず」という。
「?」
 と、顔を見るに、「君ほど本をよく読んでいる人間はこの学校中になし。人間は精神的苦労をせねば立派なる人間になれず」という。
 余は真に苦笑せり。背に粟の生ずるを覚えたり。(…)
 余答えて曰く「君の言葉によれば、本を読むことと精神的苦労とは同一のごとく感ず。然るや?」
 松柳曰く「然り」而してふしぎそうな顔なり。余は微笑を禁ずるを得ざりき。
(…)
 而して余心中思えらく、松柳若し余の、口から出まかせの諧謔と、刺すがごとき皮肉と、冷たさと虚無と憂鬱と投げやりの外観に魅せられたるならば、その光栄は書にあらずして、余の過去の担うところなり。
”精神的苦労”は、人間と人間とのきしりより生まる。おのれと、それにひとしく卑小なる周囲との、おそらく愚劣極まる小事をめぐる魂のたたかいより生ず。而して夢それを羨むことなかれ!
 松柳、愛にみてる父母と優しき妹を有し、靄々の故郷を有す。かくして苦も知らず悩みも知らずすくすくと杉の木のごとく、素直なる、鷹揚なる、明朗なる品性に育てあげらる。これにまさる幸福、人生の価値いずこにあらん。余の”精神的苦労”こそ文学的片影、小説的魅力など毫もあらざる惨めなる、滑稽なる、悲惨なる魂の地獄なりしを。

「五月」p.183-184(山田風太郎『戦中不戦派日記』)

そうかもしれない。
去年春に会った小学校の元担任は、自分のことを「温室育ち」と言っていた。
そうかもしれない。

温室にしろ路傍にしろ、育ちに応じて向き不向きは生じよう。
ただ、適性に従うのが苦労を回避するためというのなら、御免こうむりたい。

苦労の値段は日に日に上がり、とどまるところを知らず。
稀少価値に阿る市場の、何ぞこれのみ避けたるか。
金の使い途に困らば、苦労をこそ買うべし。

 × × ×

「温室育ち」のコンテクストを思い出す。
先生は「Kさんもそうだったわね」と言ったのだった。

子どもの頃の記憶として、中学時よりも小学時に、より濃い彩りがある。
記憶が脈絡を欠いた断片しかなく、その個々は視覚的に曖昧であるにもかかわらず。
そのせいか、旧友として会ってみたい人は小学校の方が多い。

Kもその一人で、教え子の消息を多く知る先生に尋ねると、先生は首を振った。
そのかわり、当時の彼女の印象と、あるエピソードを教えてくれたのだった。
その印象とエピソードは、僕にはかなり意外なものであった。


生徒会で僕が副会長をやっていた時に、同じく副会長をやっていた。
生徒会は、会長、副会長男子、副会長女子、書記で構成されていた*1
小学四年から六年の高学年クラスの中から、各役職に対して数名ずつ立候補者が出る。
その生徒会役員が全て1つのクラスから選出された、異例の年(半期)だった。

彼女について、「テレサ・テン」という言葉がまず浮かぶ。
だがこれは実際のところ、「テレサ・テン」ではなく「テレサ」である。
「だるまさん」の要領でふわふわと追いかけてくる、マリオに出てくるお化けのこと。
パッと言葉が出るところからして、当時すでにもっていた印象に違いない。
今それを解釈すれば、髪型(を含む頭の形)と、大きく開けた口。
彼女は明朗闊達で、とてもよく喋る子だった。
その奥に繊細ななにかがあるとは、つゆとも思わなかった。


「あの頃からどう変わったか」
その興味は、小学時代を共にした多くの友人に共通してある。
ただ、彼女に会ってみたい理由はそれだけではない。
「ほんとうはどういう人間であったか」
隠れていた、あるいは隠していた一面は成長を通じて形を成し、やがて顕在化する。
もしそうなら、長じての再会は過去の記憶に新たな彩りを添えるものになるだろう。
そして何より、それは僕自身と近しい一面であるかもしれないのだ。

僕が心配する義理はどこにもないが、
地元であれどこであれ、元気にやっていればいいのだけれど、と思う。

*1:書記は1人だったと思うが、2人だったかもしれない。

原発神話と小商い、精神の貧乏性

『小商いのすすめ』(平川克美)を読む。
SIMは村松健「北帰行、ついておいで」。
汎用性の高い一曲。小説以外の、思考を巡らせる本でよく流す。

「経済成長から縮小均衡へ」の章で、橋本治氏の本の引用がある。
自分も全巻持っている『貧乏は正しい!』の初巻。
 若者は本質的に貧乏である。
 若者の力は貧乏に発する。
 社会が力の無さを富で隠蔽する時、衰退は始まっている。
平川氏はこの内容を「貧乏とは野生の別名である」と読む。
 戦後から東京オリンピックまでの復興期の、日本の大人にあったもの。
 貧乏は金の無さ、住まいの貧しさとは関係がない。
 進歩発展の余地があり、それに取り組める環境があるということ。
 復興期の世間の明るさは「貧乏なれど」ではなく「貧乏がゆえ」であった。
この貧乏=野生論が東日本大震災原発人災に結びつけられる。
 震災で崩れた原発神話の擬制は「富による隠蔽」の典型であった。
 原発の、万一の災害コスト、核燃料の処理コストの転嫁。
 一、立地自治体への迷惑料。一、原子力系技術者の抱え込み。
 擬制の欺瞞に対抗するための「野生の復権」。
続きも気になるが、自分は違うことを考え始めた。

小商いは上記の貧乏と深い関係がある。
復興期は「生活上の必要物資の需要拡大」があったが、今はない。
平川氏の「野生の復権」の展開はもちろん小商いベースになされる。
 消費者と生産者が共同でつくりあげる商いの場。
 その場になくてはならないのは、生産者の丹精が込められた商品。
つまりモノベースの商売における貧乏=野生性の復活について語られるはずだ。

 × × ×

一方で、自分は精神面の貧乏性について考えてみたくなった。
ハングリー精神、という言葉があるが、これとは違う。
精神に進歩発展の余地があること。
これはどういうことか。

モノの充実とはあまり関係がない。
むしろその充実は「余地」の感覚を鈍らせるだろう。
いや、そうとも限らない(森博嗣の例がある)。
清貧は生活における精神の活動をシンプルにしうる。
シンプル、つまり単調、単純。
経済の均衡は望まれても、精神の均衡は、おそらく進歩発展とは別方向にある。

生命活動のリソースを脳へ多めに振り向けること。
逆からいえば、身体性にあまり配慮しないこと。
文学者、昔の文豪などはこういうイメージがある。
これは、自分が好まないとは別に、これも違うと感じる。
なぜだろうか。

「人間は必ず自分の意思とは異なることを実現してしまう」
平川氏が本書で引用していたアダム・スミスの言葉(『国富論』)。
この人間の本性を表す言葉は、いろんな位相において解釈できる。
が、ここでは解釈よりは言及を優先する。

ものが豊かになった社会は、この人間理解から遠のいてしまう。
自分の意思を実現できる機会に恵まれている、と思うために。
「将来への不安」が漠然とするのは、このせいではないか。
想像通りの、不都合の特にない、勝ち組*1的な生活が私達にはできている。
できているはずなのに、どこか満足せず、なにがしかの不安が消えない。
そしてこの不安の元をたどることを考えず、見なかったことにする。
これは精神に進歩発展の余地がある状態ではない。
精神の荒廃かといえば、そうでもない。
精神が不用であり、不要な状態なのだ。
…どうもこの手の思考は反知性主義に落着してしまうらしい。


精神の貧乏性について、否定表現を連ねようと書く前は思っていた。
精神の貧乏性とは、あれでもない、これでもない、という風に。
変化への意志である、などと言い切りたくはない。

進歩発展は、経過、プロセスである。
目指すもの、到達すべき目標があり、そこへ向かって歩みを進めている状態。
精神の貧乏性も、その維持は、プロセスである。
ただ戦後復興期と違うのは、定まった目標がないこと。
変化への意志という表現も、一つの目標を意味するものではない。
上述「言い切りたくない」のは、それが自己目的化してしまうからだ。


分からない。
行き詰まった。
なぜか分からないが、「精神の貧乏性」が自分には良い言葉に響く。
橋本治氏の『貧乏は正しい!』シリーズをもう一度読み返してみようかと思う。
広告時評の連載『ああでもなくこうでもなく』全6巻はつい最近読み返したところで、
多少食傷気味だと思っていたが、そうでもなくなったかもしれない。

そうだ、一度読んだ本を再読することへの抵抗がここ最近の自分に見られた。
「前へ進まねば」という意識がそうさせていた。
再読は、過去への安住を求める気弱さを助長する。
もちろんそういう面もある。
そしてもちろん、そうとは限らない。
新たな問題意識を獲得した時の再読は、新たな発見を導く。
たとえば、今のような。

新刊で本を買わない習慣が、この時々の弱気さを生み出しているのだろうと思う。

*1:どこで読んだか、「勝ち組」の語源は、ブラジルに入植していた日本人の中にいた、戦後に決して日本の敗北を認めなかった奇特な一集団を指すそうです。

10日目:護摩、地産地消、おにぎらず 2017.3.10

朝の6時10分前、宿坊のロビーに行くとフランス人Jack翁が待っている。"Good morning."「オハヨゴザイマス」お互いが気遣って言語がひっくり返る。5分前に住職が早足でやってきて、立ち止まりもせずに「ではお堂へ参ります」と案内を始める。「あの、まだ1人来ていませんが…呼びにいきましょうか?」「そのうち来るでしょう。では」まだ集合時刻になっていないのだが。

仏像が並ぶ板廊下を抜け、砂利石に浮いた飛び石が並ぶ廊下を抜けて、護摩堂へ至る。半球形の内部は薄暗くひっそりとしているが、なにかよくわからない気配をものものしく感じる。薄闇に目が慣れてくると、堂の周囲をぐるりと、数え切れないほどの仏像が幾段にもわたってぎっしりと立ち、こちらを見下ろしている。数百はゆうに超える。一つひとつは小さい。これらは全国から集まった不動明王像である、と説明を受ける。
堂の中心に住職が座ったところで、護摩の儀式が始まる。金物の皿や仏具が所狭しと台座に並べられていく。結界が張られた台座の前には薪が積まれている。あれやこれやの宣言、聞いたことのある経、初めて耳にするいくつもの真言などが淀みなく唱えられていく。光明真言や般若心経など参拝時に遍路が毎度唱えるものは、宿坊に泊まった翌朝のお勤めでも住職に促されて一緒に唱えるものだ。三度の経験上そう認識していたが、鯖大師では違っていた。言ってみれば、こちらが参入する隙がない。「では、光明真言を二度、ご一緒に」などという声かけもない。淡々と儀式が進むうち、これは遍路がお勤めに参加しているのではなく、住職の日々のお勤めをたまたまの宿泊客である遍路が見学しているのだと気付く。どうやらそうに違いない。
薪に放たれた護摩の火が、経が進むにつれ大きくなっていく。炎の上端が正座する住職の丈を超え、さらに上昇する。屋内でする焚き火の規模ではないな、と心配になってくる。中天には煙を逃がすのであろう穴があり、薄明の空が覗けるが、煙のいくらかは堂内に留まり、靄のように視界を曖昧にしている。頭では心配ないと分かっていても、火の大きさと住職の鬼気迫る肉声に、心臓はどきどきしている。
家内安全、学業成就、等々。鯖大師に寄せられた祈願の内容、祈願対象者と依頼主(たとえば高校受験をひかえる息子とその母親)が読み上げられ、祈りの言葉が告げられ、祈願用紙なのか紙片が勢いよく火中に投じられる。大きな輪っかがいくつか付いた杖が大仰に振られ、硬い音が重なってあたりに響く。住職の紙片の投じ方は、儀式よりもスポーツのそれに近く見える。雰囲気に呑まれてただ住職の背中を見つめている。時々、紙片が火から外れて地面にぽとりと落ちるが、住職には全く意に介したそぶりがない。剛胆である。こちらもそれを見て「しまった」とも思わない。完全に呑まれている。
やがて住職は立ち上がり、杖を持ってこちらに歩み寄ってくる。「……を」自分に向かって声がかかるが、何を言っているのか分からない。会話に聞こえない。呪文かもしれない。頭が回らず身体は硬直したままだ。住職は顔色を変えず言葉を繰り返す。「じゅずを」ジュズ? ああ、今手にもっている、これか。お勤めの際に二重にして左右の指にかける長めの数珠。この黒い数珠とともに右手を住職に差し出す。住職は道中安全を祈願して杖を振り、香を振りかけてくれる。おお、これでこの先は大丈夫だ、という力強い安心感がこみ上げてくる。

「6時前にロビーに行ったんですけど、誰もいませんでした」朝食の時に足の調子の悪いおじさんがこぼす。あの護摩が見られなかったのは非常に残念だと思わざるを得ないが、苦笑いで返すしかない。道理が通らないことも、またある。


昨日に引き続いて、海に近い国道を歩く。途中で車通りの多い主要道を逸れて、小さな町に入る。橋を渡る時に下をのぞくと、川がきれいである。透き通った水面のすぐ下で藻が漂っている。行程に余裕があるのでしばらく川を眺める。近くの民家からおばさんが出てきて、こちらに手招きをする。話をしていると「ちょっと待ってね」と行って家に引っ込む。しばらくすると袋を手にして戻ってくる。「これ、うすあおのりよ。すぐそこの川で取れるの。乾かせば食べられる。ご飯と一緒に食べるといいわ」ビニール袋にははち切れんばかりの乾燥のりが詰まっている。つい今しがた見ていた藻が食用だったことに驚く。「ありがとうございます!これなんて名前の海苔ですか?」「? うすあおのりよ」家のすぐ前に食べられる自然があるというのはのは素敵なことだと思う。

ふたたび主要道に戻り、歩き続ける。町を出る前に自然公園のそばの東屋で一度休憩をしていたが、それからはずっと休憩場所がない。左手には海があり、そのまま見えたり、民家や林で遮られたりする。しばらくすると、疎らな林の中に左への曲がり道があり、その先に海への突端といくつかのテトラポットが見える。車通りから離れて休憩するのに丁度良いと思い、遍路道から左に折れる。船着き場なのか釣り場なのか、何もない細いコンクリートの足場に腰を下ろす。海に浮かぶヨットや遠くを走るボートをぼーっと眺める。ふと思いついてザックから篠笛を取り出す。ぴーひゃら、とデタラメに吹く。気持がいい。何の気兼ねもいらない。山の中で吹くのとは違った感興がある。山では響き渡るというか、音がある方向へ進んでいく感覚がよくわかるが、海のそばで吹くと、音は辺りに吸い込まれていくようである。自分のちっぽけさが身に染みるようでもある。奏でる曲と関係なく、ある種の哀しさが音に込もっている。あるいは演奏者が自分の音の中に哀しさを聴きとる。これは山育ちの人間だからそう感じるのかもしれない。

港町に入り、町の外れ近く、少し行けばトンネルのある、宿に到着する。昼過ぎで、まだ宿は開いていない。玄関そばに木のベンチがあったので、ザックと下駄を置いて、サンダルと手荷物だけ持って町の散策に出かけることにする。入り江に留められたいくつかの小さな漁船。錆の浮いた社宅らしき2階建てのアパート。道幅のわりに頑強な橋。地図に載った大師ゆかりのお堂があったが、町工場の隣にあり、そばで若者が立ち話をしていたので通り過ぎる。緑のこんもりした小山に真新しい階段の登り口があり、好奇心で登ってみる。上がった先には倉庫があり、看板がある。津波の際の避難場所で、倉庫には非常時の備蓄品が入っているらしい。階段からそれて倉庫とは別の方向に進むと崖になっており、木々は視界を遮らず見晴らしがよい。再び篠笛を吹く。

宿の夕食は、歩き遍路は2回目だというおじいさんと二人。福井に住んでいて、京都から来たというと「京都の道はよく歩きましたよ」という。ためになる経験談をいろいろと聞く。
「明日のお弁当用のおにぎりは作ってもらえますか?」「おにぎりは…保健所の関係でちょっと…でも、はい、承知しました」宿のお姉さんが謎めいた返答をする。翌朝受け取ったお弁当は、ラップに包まれた白ご飯と、6枚入りのパッケージ海苔。「きっと、おにぎりは手で握るから保健所の許可が下りてないと出せないってことなんだろうね」歩き遍路の要望に応えようという宿側の苦肉の策なのだ。ありがたいことである。

 × × ×

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9日目:日の出を拝む、砂浜蟻地獄、鯖大師 2017.3.9 - human in book bouquet

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小指関節と肩の痛み、責任回避推奨社会

登壁と身体の話。

・ブランクがあいてから身体が重い
筋肉云々より体重のせいで、以前登れたコースに歯が立たない。
無理せずやさしめの課題を多くこなしてまずは減量をめざす。

・右小指の関節が痛い
登る課題が難しくなってくると故障の質も変わってくる。
これは一般論で、たぶんこの痛みはこれと関係がない。
小指は実は大切とはいえ、基本的に掴み動作で力が入るのは中の三本指。
なので原因は他にあって、思うに「飛びつき」を無闇にやっていたせい。
やさしめ課題をアレンジしようとしてホールドをとばして飛びつく。
おそらくそのとき手の外側(小指側)からとりつく形になったのだと思う。
上記「無理せず」の言の由、ここにあり。

・左肩が痛い
肩凝りの時に揉む、首との境目のあたり。
凝っているのではなく痛い。
これは日がな読書のせいではなく、これもムーブのせい。
ルーフ3級課題で左手から飛びついた時に、右手が剥がれて左肩に負荷が集中した。
元々飛びつけるガバホールドなので左手指は支障なし。
この痛みは仕方がない。
まだ「飛びつき片手ブラ」に耐えうる肩力が不足しているのかもしれない。
回復を待つ。

 × × ×

『さようなら、ゴジラたち』(加藤典洋)読中。
(SIMは"Moonshadow"(村松健「Blue」)に変更)

「戦後を、戦後以後考える」という章の中。
若者が戦争責任をどう引き受けるかという話題。
加藤氏は「"戦争責任はない"という発言から責任を負っていくべき」という。
子どもは自己のイノセントを承認されて初めて、自分で責任を引き受けていく。
理由などなくとも。
発達障害の子どもの回復例やラカン鏡像段階の説がでてくる。
また、子どもの「人が死ぬ夢」で誰が最も多く夢の中で死ぬか、という話。
なるほどと思い、今の無責任社会との関連を考える。


戦地へ向かう日本人への、「自己責任」発言の嵐。
その嵐に政府の役人すら加担する。
あるいは、責任は負わないに限る、という常識に登録されたかの風潮。
責任を負ったら損だ。
企業の謝罪会見、不祥事を水に流すための役員辞職、議員辞職。
 あるいは「事態の改善を進めていく責任がある」と宣う長の辞職拒否。
 これは責任の意味の散逸(個人的解釈の横行)の例。
責任を負わないことに利得があり、効果があり、すなわち意味がある。
責任を負うことにも、また違った、あるいは同じような、意味がある。

「責任は人からどうこう言われるより先、自分で背負うものである」
ハリボテに堕ちたこの建前はそういえば、上の加藤氏の論と通ずる。


自分には、現代日本は「責任回避を社会が推奨している」ように見える。
その原動力としては本音主義がある。
本音が建前の背中を抜け出て跳梁跋扈するのは高度情報社会の成り行きである。
ツイッターなど。

加藤氏の「個人が自分から責任を引き受けていくプロセス」論を虫食いで取り上げる。
社会に生きる自己と、その内側に胚胎する原・自己。
子どもが見る「人が死ぬ夢」で、最も多く死ぬのは自分自身だという。
 夢で死ぬ自分は自己であり、殺すのは原・自己である。
 原・自己は、社会に適応しようとする自己に反発している。
 起きて「ああ、夢でよかった」と言うのは自己である。
 イノセンスを表白する原・自己を、自己が承認することで解体し、馴致していく。
原・自己が取り残されたまま成長したのが、上で触れた養子の発達障害児の例である。
 生まれて数年で養子となり、新しい親からは別の名前が与えられた男の子。
 彼は精神科医が「原・自己に届くように」元の名前で呼びかけることで回復する。

イノセンスな原・自己を承認されないと、社会性の獲得に支障が生じる。
この社会性とはもちろん、個人が自分から責任を引き受けていくこと、である。
しかしそれは現代「責任回避推奨社会」の社会性とは逆向きである。
これはどう考えればいいのだろう?

原・自己の承認がないまま社会に放り出された若者たちの回帰願望に基づく主張。
その主張は「責任回避推奨社会」の本音側の意に沿い、承認される。
自己は原・自己の安定という土台を得て社会性を身につける、はずが、
その自己が社会で直面するのは、社会が原・自己の欲望で回っている事実。
自分の外に、秘すべきはずの個人の内奥があらわに曝されている社会。
(※「本音の横溢」現象は、それによって承認となるわけではないかもしれない)

生後の原理的なイノセンスが承認されない点に、現代社会の人間に対する無理解がある。
承認されないと思ってしまう、思わざるを得ない、状況がある。
たとえば環境問題。
 自分の生存が地球環境を汚染する。
 人を殺すことがエコになる。自殺然り、望ましくは大量虐殺。
 量的議論なしに建前だけが蔓延すると、論理が、正義が暴走する。
 これは科学の発達途上や限界のせいではなく、科学に対する価値観のせい。
『ハーモニー』(伊藤計劃)では核戦争後に人体が公共物となる健康至上社会が描かれる。
自分の身体に対する「リソース意識」。
これも「イノセンスの非承認」の一形態。

ただ、思うのは、
では昔の社会が人間を理解していたかといえば、そうではないだろうと。
それはたぶん、たまたまなのだ。
道具が発達してしまったから、人間理解に基づいた社会運用が必要になった。
道具、すなわち科学技術。
この「必要」とはしかし、社会が決めることではあるが…

思考ノート、グラスルーツと仕事、ヒカリゴケ

10年前の自分の記録帳。
ロルバーンの黒のA5リングノート。
新しいことを始めたり考えるたびにページをあらためてきた。
今日もなにか書こうとして、ふと最初から読み返してみる。

同じようなことを院生の頃から考えていたことを知った。
とりたててやりたいことのないこと。
流され主義、日和見主義の受動的行動指針。
集団から距離をおく、孤独を好む。
厭世観
ただ、変わったものもいくつかある。

一つ、語り口。
マスコミを目指していた時期があった。
その時期の記録に、高みから見下ろす優越意識を感じる。
「大衆」「善導」「無知への哀れみ」等々。
抱えていた無常には色がついていた。
それは人として当たり前だが、それに自分で気付いていなかった。
無知の知」を思考停止の合言葉にしていたようなものだ。
その点、立派な「大衆」の一員ではあった。

一つ、生活感。
同じ院生の頃の記録には生活の臭いが全くしない。
思考が日常とかけ離れたところで増殖している。
言い換えれば、非現実な思考が日常を回している。
これについては今、思うところがある。これは次の段落に書く。

一つ、鍵となる言葉。
グラスルーツ。
当時から内田樹を読んでいながら、この言葉が一度も出てこない。

今は、その鍵が手の平にのせられている。
ドアはいくつもある。無数にある。
そしてあらゆるドアを、その鍵は開けることができる。
信じるも信じないもない。
鍵はただドアを開けるためのものでしかない。
ドアはただ通路を隔てるものでしかない。
そして鍵は決して、朽ちることも錆びることもない。
その鍵はメタファーなのだから。

 × × ×

現実は、非現実も含めての現実である。
非現実と対立させる際の"現実"は「目の前のこと」のような意味である。
非現実は、目の前のことではない。
ただ、その非現実を問題意識とするいまは実際に、現実の一部を構成する。

「生活」という言葉は、それを言葉にすることで、非現実を現実から遠ざけてしまう。
そのようなニュアンスを持ってしまう。
それは「言葉」という言葉も同じ。
言葉の問題に頭を悩ませる時間は、"非現実"の仲間入りをさせられる。
言葉には実質がないとみなされているから。

言葉を要しない社会。
面倒な問題が起きた時にだけ、言葉に「振り回される」。
ありていに言えば、反知性主義
知性がシステム化されると、個人に宿る知性はその居場所を失う。

そのような認識を抱えたまま、
前向きに生きていくことは可能か?
社会を変えようという意志なしに、それはあり得ないように思える。
そしてその意志を発揮するにおいて、
希望のない職業というものはない。
少なくとも今の自分には、そう判断するしかない。

鍵は手の中で、傍目には気付かぬほどの、かすかな光を放ち続けている。
ヒカリゴケのように。

 光というものには、こんなかすかな、ひかえ目な、ひとりでに結晶するような性質があったのかと感動するほどの淡い光でした。苔が金緑色に光るというよりは、金緑色の苔がいつのまにか光そのものになったと言った方がよいでしょう。光りかがやくのではなく、光りしずまる。光を外へ撒きちらすのではなく、光を内部に吸いこもうとしているようです。

武田泰淳ひかりごけ

SIM、不戦派日記、徒党社会の多様性

脳内BGMという表現がごわごわしているので略語を考える。
Back Ground Musicの目的をそのまま持つが、性質をその略語に取り入れる。
たとえばSynaptic Imaginative Music、SIM。
実体すなわち波動性を有さず、頭中を走る電気信号によって奏でられる。
虚数は実数空間に存在しないが、仮想的な数として数学に大きな実りを与える。
実体を持たない数、Imaginary Number。

 × × ×

『戦中派不戦日記』(山田風太郎)を読み始める。
橋本治氏が時評でとりあげていた。文庫版の解説も氏による。

SIMは村松健「Blue」から"Komorebi"。
音数が少ないのでSIMとしての再生難度は高い。
無秩序の常で、他の曲が混ざってくるからだ。
SIMの無秩序はIではなくSに起因する。
Sの無秩序性はその大元の秩序性をカオス化する量的膨大性に起因する。
量が質に転化する一例。元は量だと言っても始まらない。
科学はそれを始めたのだが。

昭和20年1月分を読む。
B29の来襲時間が日課のように記される。そういう日常。
文語体のリズムがよく、ときどき一節を朗読する。

アダムとイブ、創世記の状景が挿入されている。
生む、産むことをもって生物の目的は達成される、が。
挿話の末尾に、一度全てゼロにすべし、とある。
戦中の、24歳にして老い医学生

 ○すべてを破壊すること、習慣、教育等有形無形のものを醸し出す幻の衣をいちどひっぺがして、「ほんとうのもの」を眺めること。
 何だかルソーみたいなれど、一ぺん全部洗い落したい。 p.36

 而してこのごろ他と情に於て交渉するが煩わしければ、ことさらにとぼけ、飄然とす。たいていのこと、見ざるまね、聞かざるまね、知らざるまねして通すに、習い性となり、偽次第に真となりて、ようやく老耄の気をおぼゆ。二十四歳にして耄碌せりといわば、人大いに笑うべし。 p.39

空に轟く航空機の音に、これまでにない空白を抱えて、耳を澄ます。

 × × ×

同じく『さようなら、ゴジラたち』(加藤典洋)を読み始める。
SIMは村松健の"The Tennessee Waltz"。

「己の振る舞いが、他人がみな自分のように振る舞って支障のないものかどうか」
行動指針のひとつとして、利己主義を戒めるためのこの考え方を採っている。
世界への影響がその現状も含めて知りうる情報横溢時代には自己破綻を免れない思想。
読んでいて、日本の平和主義と、この考え方との関係に頭が混乱する。

 平和主義は多様性を認めるものである。
 憲法9条は平和主義には足りず、反軍国主義である。
 平和主義は武力を用いず、たとえば文化、教育、経済面で紛争を解決すべく介入する。
 反軍国主義は武力を用いない意思のみ掲げて、紛争解決への積極性を含まない。
加藤氏の主張を自分はそのように読んだ。
また別のところにはこうある。
 日本には徒党があって社会がない。
 ルソーのいう社会内社会の特殊意志のみがあり、一般意志がない。
自分の中で論理が錯綜している。
よじれて絡み合いダマになった思考をここでほどこうと試みてみる。


日本の平和主義は、それが徒党社会であることによって多様性を認めない。
成員のみなが「争いのない平和な社会を望む」と願う。
世界中の人々がそう願えば世界平和が実現すると思う。
おなじその成員は、そう願わないものを仲間とみなさない。消極的に排除する。
これはどういうことか。
一つ、日本の外にも平和は実現してほしいが、あくまで他人事である。
穿って考えれば、実現してほしいのは、それが情報として日本に入ってくるが由。

憲法9条が日本の徒党性を反映しているかは分からない。
それでも、今の日本が「憲法9条を世界遺産に」と思うのは筋違いだと感じる。
相手はきっと、世界中が日本人のように振る舞えば世界は平和だ、という押しつけと見る。


利己主義の戒めと多様性の容認は、どう関係するのか。
双方を十分には満たせない、トレードオフなのか。
スケールが大き過ぎて、同列に考えられるものかの判断がつかない。
日本人にとって、多様性という言葉から日本文化の外部を連想するのが難しい。
それだけ日常から遠いということ。情報としてはいくらでも入ってくるにしても。

上記「不戦派日記」の引用と共鳴した部分を引用しておく。
この引用文の全体は2009年に書かれたもの。

 いま、われわれは何をどのように考えるべきか。ここで冒頭の第一の問いに接続するのですが、非「文学」的に事柄に処し、また、根本的に、ゼロの地点から、物事を考え直す。そういうことだけが、いまある閉塞した状況から、われわれの思考と語り口を「再生」させると、僕は考えています。 p.x(はじめに)

政治的にはそう。
僕は個人レベルでは"「文学」的に事柄に処す"ことが大事に思う。
想像力の尊重という面で。
そしてこれは個人からしか始まらない。


タイトルをつけてから思う。
「徒党社会の多様性」の容認は現状、無関心によってしか実現されていない。
そこに徒党性を変える意志は微塵もない。
では積極的に多様性を認めるとはどうすることか。ことに日本において。
難しい。

ながら書き、< harmony / >、1Q84読中

「片手間に文章を書く技術」を身につけたいと思う。
時間が惜しいからではない。
書く時間によってほかの時間を分断させたくない時がある。
それでも書いておきたいことがある時がある。
日常的な思考の継続のバリエーションをいくつか想定してみる。
思うともなく、過ぎ去る時間とともに形をとるかとらないかという思考。
ふと意識に浮かび上がる時に「前の続き」だったり「展開」だったりする。
あるいは、経過点を一つひとつ確認して着実に前進していく思考。
足跡が消えてしまわないように、一歩を踏み固めながら前進していく。
足跡の間隔、向き、リズムが、「一歩その時」を物語る、その声を聞くために。
もしかしたら、同じと思っていた足跡の形も、一定ではないかもしれない。
どこかで靴を履き替えたのかもしれない。
ことによっては、同じ足跡は一つとしてないのかもしれない。
足跡はメタファーであり、ほんとうは目で見るものではないから。

もう一つ、「片手間」と書いた意味。
PCの、ネット空間の、引きずり込まれる力をすり抜けるために。
ただし、想像力の抑制、可能性の無視からではなく。
偶然を排さず、かつ必然を見失わず。

「走り書き」というほど慌てるわけではなく、しかし勢いはそのように。
ぽつぽつとやってくる客に料理を出すその合間に、立ったままカウンターで言葉を紡ぐ寡黙なウェイターのように。料理長は特に気に留めない。
仮に「ながら書き」と名付けておく。


 × × ×

昨日、紫波図書館で月例の貸出、5冊。
そのうち『ハーモニー』(伊藤計劃)を読み始め、高いシンクロを感じる。

「さっき見てたのは、本だったの……」
 わたしはびっくりして訊ねた。実際、それはわたしが生まれて初めて本というものを目撃した瞬間だったろうから。
「そうだよ、霧慧トァンさん。わたしが持ってたのは、本。いつも持ち歩いているし、教室で休み時間には大体これを読んでるよ」
 そう言ってミァハがカバンから取り出してみせてくれた本の表紙には、「特性のない男」という文字が書いてあった。
「なんだか、つまらなそうなタイトルだね」

< harmony / > Project Itoh p.26-27 ; 2010 printed ; Hayakawa Mystery

『特性のない男』(ムージル)の主人公ウルリヒは、「私がなにか本を書きたいと考えたら自殺しようと思っています」と義兄に淡々と告げる。世間話のついでに。
「特性のない男」を完膚なきまでにリスクヘッジされた児童公園で読み耽る御冷ミァハは、自作した拒食症を発症する薬を飲み、近未来健康至上社会で「公共物」となった子供の身体を毀損するべく自殺を遂げる。ミァハの2人の友人のうち一人である『ハーモニー』の主人公霧慧トァンは同じ薬を飲むが生き残る。
『特性のない男』を読み終え、『ハーモニー』を読み始めた男は、

 × × ×

今日、『心臓を貫かれて』(M・ギルモア、村上春樹訳)を読み始める。
脳内BGMはうみぬこPの「アンドロメダの哀しみ」
「家族の虐殺の話」であり、どう展開するかわからないが、プロローグから静けさが感じられたため。
違和感があればまた変わるだろうと思う。

 × × ×

寝しなに読み始めて幾月、昨晩ようやくbook3に入る。
語り手がいきなり「牛河」になって少々面食らう。
その前、天吾が意識のない病床の父を前に回想を語る。

もともと中心のない人生ではあったけれど、それまでは他人が彼に対して何かを期待し、要求してくれた。それに応えることで彼の人生はそれなりに忙しく回っていた。しかしその要求や期待がいったん消えてしまうと、あとには語るに足るものは何ひとつ残らなかった。人生の目的もない。親友の一人もいない。彼は凪のような静謐の中に取り残され、何ごとに対しても神経をうまく集中することができなくなった。

村上春樹1Q84 book2』

そうかもしれない。

『コンヴィヴィアリティのための道具』を最後まで読むための覚え書き

返却期限までに読み終えることができませんでした。
もう一度借りるか、買うか、どちらかをしたい。
という思いを形にするべく印象をメモしておきます。
(後記:やはりいくらか書評調になってしまいました)

 × × ×

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

行き過ぎた産業主義を政治的に抑制する。
社会主義」という言葉が本書中にあります。
(よく知りませんが、イリイチがそういう人なのかもしれません)
民衆が自立的な工夫や努力でもって、仕事を、生活を成り立たせる。
コンヴィヴィアリティは「自立共生」と訳されています。
共生、の意味は、自立が「他者の自立を阻害しなくてもできる自立」であること。

本書は理想的な社会の構想が語られたものではない。
民衆が自ら望むあり方の社会をつくりだすための概念的道具が述べられている。
上に書いた「政治的に抑制する」ことが眼目で、政治を担うのは民衆である。
庶民一人ひとりが自立共生について考え、自己に基づく指標を打ち立てることが前提となる。
政略に堕した政治を「あるべき社会を成員が参画して決める場」に変えるツールが本書にある。

それゆえ、効率至上主義や言葉の貧困化などの過度の産業主義を批判するだけでは終わらない。
「過度」がどの程度のものか、どういう種類(波及的影響)があるか、も語られる。
読み手は、批判に同調して溜飲を下げるだけで満足することはできない。
その目的で読むにしては内容の抽象性が高く、そして説得的ではないからだ。
説得的ではないとはつまり、書かれているのが説明ではない。
道具の提案があり、歴史や由来が紹介され、使用法が例示される。
だがその使用法は、単独の目的を持たない、自立共生的な使用法である。
読み手は考えて、自ら導き出さねばならない。
この道具を、いかに活かすことができるのか。

本書に書かれた政治的構想が、読み手の自発性を刺激する。
意外にも、政治を身近に感じることができる一冊として推薦できるかもしれない。
あるいは、政治は身近な問題意識からしか生まれないことを示唆する一冊として。

 × × ×

最後まで、あるいはもう一度読もうと思った理由を追記しておきます。

上記の通り、本書は読んだ内容をそのまま糧にするものではない。
考えるツールが提示されているが、哲学書ではない。
自分がいま、どういう時代に生きているのか。
あるいはこの先、時代がどう限界を迎え、破綻しうるのか。
それを読んで理解するというより、読めばそれを考えることができる気がする。
自分の頭で、自分の経験をもとにして。

一つ前の記事と関わることだけど、
これも一つの(生産性と関わりのない)創造性の発揮で、
それが嬉しく、
同時にそれが政治と結びつくことに驚いているのだと思います。

以前『新リア王』(高村薫)を読んだ時に、政治についての充実さを覚えた記憶があります。
その時の感じと今がどう違うのか、今少し興味がわきました。

新リア王 上

新リア王 上

それともう一つ。
抽象性の高い思考が、人を動かす力を持っていること。
僕は文章を書くのは好きですが、小説を書けるとは思いません。
(ディテールを読むのは好きで、けれど小説的なそれを想像して文章化する能力はない)
僕が好んで書ける文章は、抽象性の高いものです。

コロコロ話が変わりますが、言葉(思考)の動性は、抽象化と具体化の往還にあります。
小説は細部が肝心ですが、その縁の下では教訓が土台を担っています。
小説を読むことはこの意味で、教訓をディテールの形で吸収する具体化作用です。
一方で抽象的な文章を書くことは、文字通り日々の経験や思考の抽象化作用です

もしかして、僕の中でこのように読むことと書くことが循環しているのかもしれません。

free dialogue in vivo 4

「そういものが、あるとしての話です」


現実とは何か?
畑を耕したり、車の部品を組み立てたり、そういうことだけではない。
本を読むことも、一人でご飯を食べることも、そういったことも含む。
現実は、生活と言い換えてもよい。

生産性という観点に立てば、現実や生活はなにかしら生産に貢献しているかもしれない。
ものを生み出すことに直接携わる仕事。
ものを生み出すための道具や身体を維持する間接的な行為。

形の有無を問わないとして、生産の対象を広げて考えてもよい。
その場合に問題となるのは、生産の成果を捉えにくくなること。
形のないものは、一人の従事によって、いつ、どれだけ生まれるのか?
この問題の看過を許さないのは、生産性を評価分析する目があるからだ。

評価分析は個人の営みではない。
自分以外の人のための仕事を媒介するためにそれはある。
それゆえ自己分析は他者を挟んで評価分析が二重になったものだ。

仕事の評価は、その円滑な遂行が目的である。
社会生活における遅滞なき仕事の進行は、個人生活を豊かにする。
よって個人生活の内側で閉じる評価分析はその本来の役割を見失う。

「前に進むことがそのまま、あの頃に戻ることだったらいいのに」


有機物はすべて変化の機能を自らの奥深くに秘めている。
機能は、原理であり、必然であり、宿命であり、消尽である。

人間の脳における変化は、人間の身体を含めて他のあらゆる有機物と異なる特徴をもつ。
脳内の複雑怪奇な神経ネットワークに宿る変化は、創造性と直に結びつく。

意識は時間経過における同一性を認識のベースに置いている。
自己を一定とみなし、地位や関係に固執し、過去の記憶に撞着する。
不変の志向とも思われるこの意識作用はしかし、創造性の発揮には不可欠の基盤である。
変化現象を了解する前提は、以前と以後の両状態の把握およびその差異の認識である。

ところで、ここで了解される変化は、創造性の過程で認識しうる側面に限られる。
意識は可知対象を拠り所にせざるを得ないが、その深い底に充満する靄を無視できない。
靄の中をうつろう影の本体を見定めようと、手を突き入れて掻き回す。
創造性は、無秩序な影遊びと、勝敗の決まらぬ影縫いの、時空を超えた戯れである。

「もう、終わりにしましょう」


始めるために、終わらせる。
終わってほしくない思いは、始まりの予祝である。
始まりの期待は、終わりの未知に同期する。

現実は、いつも始まっていて、いつも終わっている。

 × × ×

パロール・ジュレと紙屑の都

パロール・ジュレと紙屑の都