human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

9日目:日の出を拝む、砂浜蟻地獄、鯖大師 2017.3.9

朝に薬王寺でのお勤めがある。早起きして、白衣と数珠と、それから遍路者用の簡易的な袈裟である輪袈裟を装着し、宿坊を出る。宿坊は寺とは通りを隔てて別の区画にあり、寺も敷地に入ってから坂やら階段を登ってやっとたどり着く高台にある。多くの宿泊者が本堂内に集まり、住職に倣って経を唱える。

お勤めが終わって本堂を出ると、遠く東に見える海からちょうど日が顔を出している。清々しい空気のなかで神々しい朝日を眼前に、思わず階段の手前で立ち止まって手を合わせる。ふと横を見ると、昨日食堂で再会したおばさんも日の出に見入っている。不確かな記憶ながら、1日目に東屋いるところで黙礼を交わし、また3日目の焼山寺越えで石像のそばで休んでいた人かもしれない。少し話をして、今日もお互いに頑張りましょうと激励を交わす。

今日も引き続き海に近い道を歩く。次の24番最御崎寺までが遠く、ここから3日間は普通に行けばお勤めのない日が続くことになる。自分はそれもさみしいことだと思い、今日の宿泊先でもある鯖大師という寺に寄る予定を立てた。なにやらストイックな噂があり、遍路道沿いながら宿泊先に選ばない人も多いらしいが、寄れる寺はなるべく寄ってこその遍路だろうと思う。

交通量の多い国道をずっと歩いていると、右手に「接待所あります」と表示がある。見ると小屋の中におばあさんがいて、こちらを見て手招きをしている。地域でボランティアを募っているらしく、交代で日中小屋で待ち、歩き遍路が通りかかると声をかけているとのこと。裏には簡易トイレと手洗い場もあり、時にトイレ事情に苦しむ歩き遍路にはとてもありがたい場所である。コーヒーを淹れてもらい、器に盛られたお菓子を頂きながら話をする。話をするうちに歩き遍路が通りかかり、おばあさんに呼ばれて壮年の男性がこちらにやってくる。そろそろ発とうかと思っていたが、ついつい話を始めてしまう。薬王寺そばの宿から出発したが、足の具合が思わしくなくてゆっくり歩いてきたという。足の不調は以前に交通事故にあったせいらしいが、その状態で歩き遍路を思い立つのがすごいことだと思う。あるいは回復するために歩いているのかもしれない。男性と話すうち、2日前の鶴林寺手前の宿で一緒だったことが判明する。こちらはどうも記憶が曖昧である。身体をいたわってゆっくり歩いて下さい、と言い残して先に発つ。

目的地が近づいてきたところで、海辺の自然道に下りる旧遍路道なるものを見つける。その入口を見ただけで道の過酷さが伝わってきたが、国道を走る車に嫌気がさしていたので、時間の余裕を確認して一念発起、自然道を選ぶ。と、思った通りの荒れた道で、滑る枯れ葉に苦しみながら下りていくと、だんだん浜辺の砂が混じってくる。道も一見でわかる明快さが、浜辺に近くなると曖昧になってくる。枝に結ばれたピンク色のテープで誘導してくれるものの、浜辺に至ると道らしさがぷっつり途絶える。遠くを凝視するとテープらしきピンク色が滲んで見えるが、そこに至るまでは浜辺であり、砂浜であり、つまり砂である。嫌な予感しかしないが、一本歯のまま砂に踏み入れると、歯は勢いよく傾きながら埋もれていく。一歩ごとに歯が埋まり切って下駄の台座に砂が触れ、足の裏も砂まみれになる。話にならない。最悪の相性である。一体どこのバカが一本歯下駄で砂浜を歩くのか…と悪態をつく。金輪際砂の上は歩かない、と早々に決意しつつも、今回だけは距離も短いしと思い、徒労感と闘いながらちびちびと歩みを進める。国道に再び合流し、少し進んで鯖大師に至る道を曲がる。

鯖大師はたしか別格だったはずだが、納経所らしき場所が見当たらない。特にこだわりもないので、本堂と大師堂でお勤めを済ませ、宿坊へ向かう。お堂にサバの頭が祀られているわけではなく、大師様かどこそこの高僧かが「数年間鯖を食べないことで健康になった」といった由縁がどこかに書かれていたように思う。嫌って祀るのは逆のような気がするが、よくわからない。乱獲の戒めかもしれない。

宿坊の受付は用務員らしきおじいさんがやっている。「海陽町ははじめてですか?」記帳用の紙に記入していると、脈絡のないことを尋ねてくる。
「いいえ、初めてです。なにしろ歩き遍路も初めてですから」
「そうですか。いや、地元でやっている海陽町ラソン(大会)に毎年一本歯の下駄で走る方がいらっしゃるので、もしかしたらと思いまして」
「へえ!それはすごいですね。一本歯はこの辺りではメジャーなのですか?」
「いや、そんなことはないです。あの下駄を履くのはお祭りの時の天狗さんくらいでしょう。それに練習なしのぶっつけ本番なので、天狗さんは手すりにつかまりながら歩くのです」
話が意外な方向へ行くので、一本歯の情報が得られないかと聞いてみたのだった。というのも、下駄の歯がどんどんすり減っていることに今朝気付いたのだ。遍路の出発前から練習に使っていたのもあり、元々の半分の長さにまで削れて短くなっている。歯が短くなると台座の傾きが緩くても、台座の先端が地面に接触してしまう。実際問題としては歩幅が狭くなり、歩きにくくなると共に速度も出なくなる。大きな街に行けば履物屋があって、あわよくば一本歯も置いているかもしれないが、ここから一番近いのは高知市で、まだ1週間以上はかかる。それまでに歩けなくなったら、窮余の選択でスポーツサンダルで歩くしかない。そういう事態も念頭に置いておくことにする。

食事の時間になり、膳の並ぶ一間に宿泊者が集まる。自分のほかには、今日休憩所で会った足を悪くしていたおじさんと、ヨーロッパ系の体格のよい男性がいる。どこかで見たような、と思っていると、欧人男性もこちらを見て会釈をする。座敷のテーブルに食事が揃う間に考えていると、「なべいわ荘」、焼山寺越えの3日目に泊まった宿で一緒だったと思い出す。1週間近く前のことだ。それほど前に出会った人と再会するのは珍しい。ふつうの男性なら1日30キロは軽く歩いて自分を一度抜き去ると二度と会わないものだが、きっと歩くペースが同じくらいなのだろう。

膳が整い、住職が入ってくる。厳めしい顔をして、なぜか拍子木を手にしている。「それでは、これより食前の儀を執り行います。お手元にある紙の文言を復唱してください」紙を見ると、食事ができることを感謝する旨の言葉が箇条書きにされている。一粒の米が、云々。自分とおじさんはそりゃ言われればできるが、と斜め前を見ると、彼は日本語が分からないらしく、落ち着いてはいるが苦笑いと泳ぎ目をしている。住職は気にせず拍子木を打つ。食前儀のあとに、明日のお勤めと朝食の時間を知らされる。ここは住職は英語で言い直す。「あー、プレイング、ネクストモーニング、シックスオックロック」なるほど、お勤めはpraying、つまりお祈りか。

3人の中では自分があと2人を見知っているので、自然と自分から口を開くことになる。「日本語はわかりますか?」「…(首をかしげる)」"Can you speak English?" "Yes, yes. Are you?" "A little." なんとか片言の英語、Japlishで基本的な会話を成立させる。「私はJackです。フランス人で仏教徒です。昨年はコンポステーラまでの2000キロを歩きました。長い日には1日50キロ歩きました。日本のオヘンロは世界でも有名です」昨日はどこから来たか、明日はどこまで行くのか、といった簡単な会話が、通じているのかよくわからないような間と過剰な首肯とともに進む。込み入った会話ができないのがちょっと残念ではある。

風呂場の浴槽は広々としているが、入ろうとすると矢鱈に熱い。これだと広さが逆効果で、水で薄める気にもならない。これが噂のストイックかと眉を顰め、とりあえずシャワーを浴びるかと蛇口をひねると、こちらは待てどもお湯が出てこない。安定感抜群の冷水である。どういうことだろう。考えるのも面倒で、洗面器に湯船からお湯を汲んで、水で薄めて使うことにする。

部屋には壁に注意書きがいくつか貼り出されている。「布団の畳み方」というのがあり、敷き布団と掛け布団とでそれぞれ畳み方が違う。その畳み方も初めて目にするものである。それほど強迫的な要求でもないので、そういうものかと納得しておく。作法道場のようなところなのかもしれない。

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