human in book bouquet

司書資格を活かせる仕事を探していきます。

梨木香歩と橋本治と「物語」

以前に「併読リンク*1」というタグを作って、
そういうタグを作ったからこのテーマが書きにくくなった、
ということについて書きましたが、
その理由を「"併読リンク"という現象が自然発火的でなくなる」と書いて、
それはそうかもしれないがそれは根本原因ではない、と今は思います。

ではその根本原因はというと、
書きにくくなった理由は、もうシンプルに、
「書きたいという衝動もなく書こうとしている」からですね。

たとえば、連想でつながった2つの文章(内容)が、
それらだけで「言い尽くされている」時には、
その連想主体の僕が言い足すことは何もない。
「言い足す」とは、もちろん、自分にとって。

言葉を換える、というか別の話になるけれど、
「連想」とは、思いついてハイおしまい、ではなく、
「そこからさらに続くなにものか」へのきっかけなのですね


最近このテーマでよく投稿しているので、
あらためて少し考えて、以上のように書いてみました。
だからといって、タグを作る気になったわけでもありませんが。
タグは後々の整理のためで、そういう動機が今はない。

以下、本題です。

 × × ×

三原のいうこともまた、真実ではあった。が、しかし、その括り方は違うと思う。起こった事態を掬い取れるだけの「つくり」になっていない、と棚は感じた。けれど、では、「起こった事態を掬い取れるつくり」とはどういうものなのか。

 片山海里の言っていたという、死者の「物語」こそがそれなのだろう、と思う。人の世の現実的な営みなど、誰がどう生きたか、ということを直感的に語ろうとするとき、たいして重要なことではない。物語が真実なのだ。死者の納得できる物語こそが、きっと。その人の人生に降った雨滴や吹いた風を受け止めるだけの、深い襞を持った物語が。──そういうものが、けれど可能なのだろうか。

梨木香歩『ピスタチオ』、筑摩書房

江戸時代の日本人にとって、重要なのは、「赤の他人がしでかした事件の真相」なんかではなかった。ただ「あ、知ってる」と思うだけの事件の断片が、舞台の上で、「自分も同化出来る、自分も関係があると思われる人間のドラマ」になって行くことだった。
 "事件の真相"というものは、実は、知ってもあまり救いにはならない。真相というものは、結局のところ、"事件"という破綻に至って終わるだけのものだからだ。だからこそ、"真相"を突つき回しても、得るところはなんにもなくて、"ただ一時の騒ぎ"で終わる。それに対して、"事件の真相"なんてものに知らん顔して進められるドラマとは、「人間社会に起こりがちな、この厄介な"ドラマ"というもつれは、一体どのような方向に導かれることによって救いを得るのであろうか?」という、模索なんですね

「第二十四回 ドラマ論」p.411(橋本治『ああでもなく こうでもなく』、マドラ出版)

後者の本は、『広告時評』という雑誌にかつて連載されていた橋本治氏の時評集です。
院生の時に「人生のバイブル」のように読み込んで、それから10年弱、何度かの引っ越しに耐えて本棚に居続けたこの時評集を、最近また読み始めました(毎朝読んでいます)。
朝食時に読んでいた一つ前の本が、読了が一日遅れたら(その次の日が図書館に行く日曜だったので)次に宇沢弘文*2の本を読むつもりだったんですが、前日に読了してしまい、図書館に行く日の朝に読む本がないなと自分の本棚を眺めていてふと手に取ったのがハシモト氏のこの本でした。

時評と言いながら話は古代とつながったりして(たとえば「持統天皇野村沙知代みたいだったらどーすんだ?」みたいな。実際こういう調子=口調で書いてあるのです)、それは当時の氏が(新編?)平家物語を書いていたかららしいのですが(この理由も相当おかしいですが)、そういう時空を超えていろいろとつながる時評は当然これを読む自分にもつながってきて、併読リンクなどと言って処理し切れない事態にもなるんですが、それはそういうものとしてもう一度目に読んだ時に納得はしていて、二度目の今回は線は引かず、前の自分が書き込んだ後を眺めつつ「へえ」と思うだけにしています。

が、まあ前段に書いたとおり書きたくなったので書いているわけです。


梨木氏の本の物語は終盤へ向かっていて、そんな中で前者の抜粋を読んでいる時にハタと「ドラマ論」(=後者の抜粋)が連想されて、並べて引用してみました。
並べてみると、下線部は最初に結びついたところだったんですが、その中での太字部も、共鳴しているように思われます。

後者の抜粋の「事件の真相」とは、それを扱うワイドショーのことを指しています。
この時評の執筆時期には「貴乃花宮沢りえの離婚騒動」があったらしい。


そしてこの時評では「再現ドラマ」についても書かれています。
この論も本記事に関係してきそうなので少し抜粋します。

 再現ドラマのある番組で重要なのは、ドラマではない。ある人間の問題を「ああだ、こうだ」と討論することに主題はある。討論のための参考資料が再現ドラマで、だから、再現ドラマによって語られるものは、ドラマのあらすじであり、骨組みでしかない。だからこそ、役者の顔はいらない。(…)「"事実"こそがすさまじいのだから、余分な演技力はいらない」ということで、テロップに名前の載らない無名の役者達による再現ドラマが登場する。
(…)
普通のドラマに"真実"はなくて、あらすじだけの再現ドラマの"事実"ばっかりが有名になると、そこに生きてる人間のあり方ってのは、きっとどっかに行っちゃうな──というのは、再現ドラマの語るものは、「私の人生とは、演技力のいらない役者によって演じられるものである」ということだからだ。自分の人生から"問題=あらすじ"だけ拾って、"表情=演技力"を捨てちゃうっていうのは、かなり空しくないかなーと、「貴乃花宮沢りえのだんまり」に興奮する私は思うのでした。

p.413-414 同上

梨木氏小説の抜粋にある「人の世の現実的な営み」は、直上の抜粋の"事実"(あるいはその一つ前の抜粋の「事件の真相」)と対応して見えます。


このつながりから、またいろんな方向に連想が及ぶのですが、
(情報過多の現代人の欲求不満とか、「あらすじと分析の書評」の機能とか)
たぶんこれまで何度も考えてきたことが多いので、
そういうのはちょっとおいて、
別のことをちょっと書いておきます。


男は身体(性)の重要性について頭で理解するしかない(スタートはそこにしかない)、
内田樹氏の文章を数多く読む中で実感して、そのことを何度も書いてきました。
この実感と同じようなことが、今起こったのではないかと、書きながら思いました。

どういうことかというと、
梨木氏は架空の物語を書いていて(これは「物語についての物語」でもありますが)、
ハシモト氏は時評という現実寄りの文章を書いていて、
しかしハシモト氏のこの(抜粋の)文章も物語について書いている。
これらがつながることで、「現実よりの文章」が「架空の物語」を照射する。
照射されて、「架空の物語」はその生命性を増進させる。

でも、
というかどの接続詞を使えばいいかわかりませんが、
ハシモト氏は「徹底的に身体の人」なのです。
(若干余談ですが、内田樹氏の身体論の本『私の身体は頭がいい』のタイトルは
 ハシモト氏の言葉が由来なのだそうです。たしか時評にもそんな言葉があった)

 × × ×

物語は、現実と離れていることにその特徴と効果があって、
でも「離れている」は「関係がない」ではなくて、
つまり物語は現実と、ある面で「繫がっている」こともあって、
その、離れたり繫がったりすることによって、
物語はきっと、

 現実の中で離れたものを繋げたり、
 あるいは繫がったものを離したり、

することができるのだと思います。
 

*1:「併読リンク」とは造語で、いくつかの本を同時に読んでいて(=併読)、ある本の記述を読んで別の本の内容を連想すること。そのつながり(=リンク)を見つけること、あるいは連想によって見つけようという動機が生じること。

*2:内田樹氏がよくブログで「社会共通資本」について論じる時に引く経済学者で、そのブログで宇沢氏のことを知ってからずっと読みたいと思っていました。